第2話 九州から半島へ移動の波(半島倭国の形成)
まだ国が定まらない時代、地域によつて国家形成に伴う争いが起きたであろうことは
想像されるでしょう。
小さな国同士の争いやさらにその国が頼った大きな連合国同士の争いがありました。
それはいろいろな考古資料に現れています。
戦いに敗れた人々は土地を捨て新天地を求めて移動することになりました。
こうした波は倭人たちが最初に到着した九州から⇒列島を西から東へと伝播していったと
考えられ、日本列島の関東・東北へと移動する人たちもいたのでした。
同様に九州から至近な距離にある半島にも出かけていったことは専門家には分かっています。
しかし、その方達はなぜか寡黙ですから、一般の古代史愛好家の人々が「九州から半島への
波」を認識するまでに至っているわけではありません。
そのため一般の方は「半島から列島への道」しか頭の中になく、「その逆」の話しを聞いても
「え。本当ですか」と理解できない人が居るのです。・・・ いや、実際の話しです。
これは古代史の討論会などで・・・・実感することですよ。違いますか。
倭人たちが国を作り始める初期の時代には「列島から半島への波」があつたのが本当のこと
でした。
そんなことを一般の読者に向けて語った日本の学者がいましたか?
いままでの古代史を語る学者たちも「真実を語る事はない」、あるいは「知識がない」のか
彼らの著述された本を読んで古代史の「謎が解けた」と感じた事は
私には一度もないのです。いやほんと!!。
なにかを抜かして書いている!。 ・・・のでしょうね。
それはなにか。 「半島倭国の史実」ではないかと思います。
半島に倭国の構成国が存在したことを抜かして書いては「倭国の歴史」が分かるわけがない。
前項で私は「倭国とは半島南部の諸国と北九州の諸国が連合して作った国家」だとしました。
半島倭国の形成過程を鮮明にすることは、列島と半島の歴史書がそれぞれに「偽りの書」で
あるだけに困難な点があります。
だけど現代ではいろいろな考古学的資料や状況証拠が次第に現れてきていることも事実です。
そんな手ががりを使って、半島南部と列島の古代国家「倭国」の実態を探ってみたい。
どこまで迫れるか分かりませんが・・・・・。
★★ 半島には列島弥生土器の分布がある
まず、次の韓国考古学者の記述から見ていただきたい。
「韓国出土の弥生土器系土器について」(申敬徹氏、河仁秀氏)
【近年、韓半島内部で日本の弥生土器系土器(以下、弥生系土器という)が、
日本と地理的にもつとも近い釜山・金海地方を始め主に慶尚南道海岸地域で集中して
発見されている。
金海貝塚出土の甕棺をはじめ、金海池内洞、金海内洞、釜山朝島、釜山温泉洞、釜山福泉洞
慶南固城貝塚、慶南三千浦・勒島(サムチョンポ・ヌクト)の出土品がそれである。
このほかに多数の弥生系土器の出土が知られつつあるが、多少検討を要するものもあり、
時期的にも本項の対象外であるので割愛する。】
(以下本文(日韓交渉の考古学・小田富士夫・韓炳三氏編)では韓国南部における弥生土器の
考察が続きます)
ここでは、韓国第一線の考古学研究者(日本でも著名な若手の考古学者)たちが、半島南部に
多数の列島弥生時代土器出土があると言っているのです。
私も何年か前、日本のテレビカメラが釜山博物館の遺物収蔵庫を撮影した映像を見た事があり
ます。
収蔵庫は一般の方がみる展示とは異なり、特別の資格か・許可が無くては立ち入りが認めら
れない所、「良く撮影の許可がでたな」と時代の変化を感じましたが、収蔵棚の上に並べられて
いたのは日本の博物館で見られるものと同じ物がずらり!!
目を剥く思いがしたのでした。「こんなにあるのか。」という思いなんです。
その後に「日韓交渉の考古学」(六興出版)という本が日韓両国の考古学者によつて
発行されました。
一般の方でこんな専門書的な本を読んでいない方が「九州から半島への波」を理解してない
のは当然ですから、まず列島の土器が半島南部に存在している事を知つていただくことが
必要な事だと考えています。
半島南部には「多数の弥生土器の出土がある」ということは、九州から半島南部への
人々の移動があつたためです。
列島の縄文土器の出土も半島南部にあるのですから、古くから列島から半島への航路は
存在していたのでしょう。
九州の人々は北西の海の向こうには人口の希薄な新天地があることを知っていたのです。
列島から半島南部に移動した人々というのは、国家形成段階における争いによつて土地を
捨て移動を余儀なくされた人々かも知れません。
まだ、「何々国人」と国籍が定まっていない時代の「基本的人種・倭人」の時代の出来事です。
江南の地から直接半島南部に上陸した倭人とは別に、いったん北九州に上陸した倭人たちが
半島南部に再上陸した動きがあつたのでした。
また、こうした大勢の人々の移動には権力者も注目したでしょうし、その人々を統率しょうとする
貴人たちも半島へと移住したものと思われます。
新羅本紀には海を渡って初期国家建設にあたる倭人の王の始祖伝説(新羅本紀・脱解尼師今
条・尼師今は王号)がありますし、列島の「姓氏禄」にも新羅王になつた倭国王室の王族の記述
があります。
曰く―【新良貴。葺不合尊(ふきあえずのみこと)の息子稲飯命の後裔である。これ新良国に出
て国王となる。稲飯命は新羅国王の祖。日本紀に見えず】―(右京皇別)
この新羅は鶏林国から名称を新羅に変更した「南の新羅」で倭人国であり、半島倭国の
中心的役割を果たす国ということは前項で指摘しておきました。
それに海を渡った倭人の瓢公が大臣として活躍する姿が半島の歴史書に書かれている。
半島南部には倭人の系譜を持つ国家が存在していたのだと思います。
九州に何らかの縁を持つ人々が半島南部に移住をしたということが、おそらく半島南部諸国と
北九州諸国の連合国家・「倭国」形成の土台になつたのではないか。
連合国家を作る場合の基本的精神面での礎(いしづえ)になつたのだろう。
そして連合国家が誕生しました。
これから以後に出現する「倭人」と言われる人々は、それ以前の「基本的人種・倭人」とは
異なり、倭国籍を有する「倭国人」であることはいうまでもありません。
半島南部で三韓国に接する「倭」は「倭国連合国」、同様に中国史書に出てくる半島南部の
「倭人」は「倭国連合国人」であり、彼らが列島にくる場合は「渡来」ではなく「帰来」
なのです。
これらはすべて倭国時代の出来事です。
何度でも言いますが日本国と倭国とは違う国ですよ。
倭国とは「半島南部の諸国と北九州の国々が連合して作った国」だと考えています。
時が移り六世紀初頭、継体天王の時代になつて、列島の倭国が日本国に滅ぼされました。
中国史にも「日本小国、倭国を併せり」と書かれています。
列島倭国が滅んだとき、半島倭国ではどういう動きをしたでしょうか。
半島倭国の構成国であつた国々は、新羅という名称を襲名した鶏林国に合同して
倭国を滅ぼした日本国に対抗して独立するのです。
列島が日本国に制圧された後の半島南部の土地には
「継体天王以後の日本国勢力が拠点を構えた事は一度もない」と私は考えています。
そして、列島に倭人の血を引く王朝(持統王朝)が誕生すると両者は親密になり別の血
筋に変わると疎遠になるのでしょうね。
ここにはどうも倭人としての「結びつきがあつた」としか思えないのです。
続く
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