第3話 前漢鏡出土地からみた初期倭国の範囲

 倭国の人々は中国王権の権威を後ろ盾としていたことは想像できる。
漢代以前の燕王の時代から「倭は燕に属する」と書物に書かれていた。

それは、衛氏朝鮮政府(燕から移動して来た漢人衛満の政府)に引き継がれ
倭人たちは朝貢し、見返りとしていただいたのは銅鏡(細文鏡)と銅剣だつたのだろう。

前108年、前漢武帝が半島に進出して衛氏政権を倒し、漢の四郡を置いた時
倭国はいち早く朝貢して「倭人を代表する国」として漢に認めてもらった。

漢から頂いたのが前漢鏡です。権威の印として、倭人の好物として・・。
(漢の時代は鉄刀の時代で銅剣は頂けなかった。銅剣を自前で作成するのは
このためと考えられる。)
だから前漢鏡の出土する地域というのは初期倭国の領土範囲であると思う。

前漢鏡出土地はどこ!!??
 列島倭国の前漢鏡出土地は北九州を中心とする範囲
 半島倭国の前漢鏡出土地は洛東江東部が範囲

 倭国の都が畿内に東遷する時期が、卑弥呼の時かそれ以前かという問題
(邪馬台国畿内説)は後回しにして、前漢鏡の出土情況から初期倭国の成立が
北九州と半島南部の任那との連合であるということが見て取れるだろう。
 
列島では
 「前漢鏡は山口県地蔵堂遺跡を東限とする13遺跡で110面以上が出土しているが
 その96%は福岡県筑前部に、さらにその多くは玄海灘に沿う糸島・福岡両平野に
 集中している。」(高倉洋彰氏)のである。それ以外の地からは原則として出ていない
 (身につけたと見られる磨耗した小破片の例外はある。)
 畿内からは1面の出土も無い事実をはつきりと認識すべきであろう。
       

半島では
 「慶州市朝陽洞38号墓4面、慶州博物館所蔵1面、
  慶尚北道漁陰洞遺跡2面、大邱市坪里洞遺跡1面
  大邱市池山洞出土2面 、忠南大学所蔵1面、 慶尚南道義昌郡茶戸里遺跡1面。」
  (李栄勲氏)
 慶尚北道の慶州から大邱市に至る線とそこから南海岸の金海西部の茶戸里(タホリ)に
いたる線 で囲まれる洛東江東部の地。

【倭国初期領土を前漢鏡出土地から見た場合、一つの観方として上記のような
範囲が考えられる。

 
    ※「列島と半島南部には同じ品物が出土する。」
  銅矛であつたり、環濠であつたり、武具類なと゛・・・・・・。
 そうすると日本の学者たちの関心は「どちらが古いか、新しいか」という不毛の意見に
 持つていこうとする。なぜそんなことが必要なのか?そんなことが本質ではない。
 半島南部と北九州には同一の倭国文化が存在していることに目を開くべきではないのか。


 
倭国の発展は???歴史書に書いてあるのか。
 
 北九州と半島南部・洛東江東部地域を初期領土とした倭国連合国がその後どのように
領土を広げ発展していつたかについて歴史書は書いていないのか?

※ 実は書いていると思っている。ただ挿入場所が移動されているだけだ。
 日本書紀や古事記では有史以前から「日本国」が存在していたことにして「倭国」の歴史を
 改変してしまった。六世紀の日本史を先頭に持ってきてそこから書き始めている。

 そして「古い時代の倭国史」はばらばらにされて後世に移されている。
 「倭武命の熊襲征伐」や「景行天皇の九州行幸」などが倭国の九州時代・勢力発展の
 歴史であろう。

 さらに出雲振根の話が続く。吉備に進駐した「倭武命」は卑弥呼の将軍としての地位を
 代弁している。東西の対抗接点が出雲の争奪であつた。

 九州の倭政権に味方する出雲振根を討ち取り、出雲地方を占拠していた出雲武を
 討伐して振根の仇を取ったのが卑弥呼の将軍だろう。

 そんなことが何故分かるのか?

 神武紀よりも倭武命の記述の方が古い文面だから・・・なんたつて「倭武命は神と戦う」のだ。
 神武の相手は神ではない。歴史時代の話より神話時代の話が古いに決まっている。
 「人間同士の戦い(神武紀)より、神と戦うほう(景行紀)が古い時代の話ではないのか?」
 
 ※ 紀記の記述によれば倭武命は「(大和に)還り上ります時、山の神、河の神、また
   穴戸の神を皆言向け和して参上した」と書いている。
   神と戦うのは倭武命ご自身も神であろう。
   
   倭武命は足柄の坂の神が白鹿に化身して来るを打ち殺したし、
   伊吹の神が白猪に変身しているのを見過ごして、病を得る。
   最後に大きな白鳥となつて天に向かって飛んでいった。すべて歴史時代の話ではない。
  これは倭国時代史の神話なのではないか?

  景行天皇の九州行幸は古事記に書かれていない。書紀の景行紀の相手は「土蜘蛛」である。
  しかも倭武命の業績とと重複している。
  倭国が北九州にいたときの領土拡張の話ではないのですか。
  そしてさらに吉備の争奪、出雲の帰属が続いていったのだろう。

  倭武命は一人ではない。複数の倭国将軍を反映したものと言える。
  吉備に根拠地を築いた人物も倭武命の業績の一つとなつている。
 
 命の副将軍は吉備臣の祖である「御すき友耳建ひこ」(吉備武彦)だ。
 命が武彦の女(古事記では妹)吉備穴戸武媛を娶り武卵(たけかいご)王と十城別王を生む。
 讃岐綾君と伊予別君の祖である。
 吉備と四国ですよ。   この時代には倭国は九州から吉備へ・四国へと進出していつた。
 ばらばらにされて後世の歴史の中にはめ込まれているけれど
 このように列島倭国の勢力は九州から東に発展 していったのではないですか。

 卑弥呼の将軍・倭武命と書きましたが、私は卑弥呼が魏の後立てを得て東遷したと
 思っている。



半島倭国の発展

 初期・半島倭国連合国は前漢鏡出土地を囲む洛東江東部の地だろう。
 (この地域は倭国崩壊後の六世紀前半、任那から独立した鶏林新羅に無血統合する
 国々の区域でもある。)
 
 金海の甕棺や慶州の王墓から出土する弥生土器、倭製品の釧など九州と係わり合い
 の深い地域である。
  ここからどのようにして弁韓・馬韓に進出していつたか?
  なぜ倭に近いと言われた辰韓が倭国連合に加わらなかったのか?

半島の歴史書は三国時代からで、それ以前の歴史は謎でしかない。
ただ、中国史に現れる「辰韓の滅亡」は通訳の行き違いによつて魏と辰韓の争いによつて
韓が滅び、辰韓は中国政府の都尉(軍政官)の治世に入るとある。

倭国は魏に朝貢し、半島南部の争いにも協力して戦後の委託統治権を得たのか。
あるいは魏の後を継いだ晋の滅亡(313年)による半島勢力の再編成時に屯倉を形成
したのではなかろうか。

 半島歴史書では「新羅本紀」に若干の記述がある。 
「魏と争って真っ先に滅んだのが辰韓。続いて弁韓が馬韓から離れた」という場面の記述。
                 
 新羅は「瓠(こ)公」(倭人、瓢箪を腰に提げ海を渡ってきた人物)を馬韓に派遣した。
 馬韓王は瓠公をなじって次のように言う。
【辰韓と弁韓はわが属国である。近年貢物を送ってこない。大国に仕える礼儀として
このようなことでよかろうか 】

 瓠公はこれに答えて
【わが国では二聖(建国者)が建国してから人間社会の事柄が安定し、
天候が順調で穀物倉は充実しており、人々は互いに譲り合っています。

辰韓の遺民をはじめ弁韓・楽浪・倭人に至るまで恐れない物はりません。
それにもかかわらず、わが王は謙虚で私を遣わして国交を開こうとしています。
礼儀に過ぎたことと言うべきでしょう】

馬韓王は激しく怒り、刀を抜いて脅したという。
その後、馬韓王は死去した。

【西方の馬韓王は前にわが国の使者を辱めた。今その喪中に馬韓を征伐するならば
その国は平定するまでもなく従うでしょう。】と言う家臣に王は
【人の不幸に乗ずる事は人間のすることでない】と答えたという。

新羅本紀は以上の話を紀元前ころの話として歴史に残すが、「辰韓の遺民」とあるように
時代的には魏の時代の話であろう。

「人間のすることではない」と言っているが、倭国の先頭で馬韓に攻め入ったのであろう。
鶏林新羅が全羅北道に碧骨池の堤防(330年条)を作った状況は先に挙げた通り。
倭国構成国の各国も半島屯倉の経営に参加し、任那の調を倭国大王に届けていた。

魏から変わった晋は短命で313年には半島から勢力を消滅するから、この前後に
半島倭国の勢力図は全羅南道および全羅北道南部に及んだのだろう。

半島南西部の征服について日本書紀は神功皇后49年条に半島南西部の進攻記事を
載せている。が「百済に賜った」とも書いている。
つまり、時代に関係なく一つに纏めてここに記載したという感じである。
(百済に統冶をゆだねたのは533年ころの欽明紀の出来事)



半島南西部について
 半島の前方後円墳は主として前羅南道にある。
中で特徴的な円筒埴輪を出土する古墳を挙げておこう。

光州・明花洞(ミヨンハドン)古墳、  円筒埴輪 12本
    月桂洞(ウォルギュドン)古墳、円筒埴輪、朝顔型埴輪
    同2号墳              円筒埴輪
    新村里(シンソンニ)9号墳   円筒埴輪

物部氏について
半島南部の屯倉の管理者が派遣されることを「お使いをする」と表記し、「使主(おみ)」
いう姓(かばね)を有する。また物部の部姓は伴という半島由来の語である。

物部は半島南部で色々な氏族によつて編成された軍事組織で一氏族ではない。
その中でニギハヤヒ系の物部が大きな勢力であつた。
この物部たちは天神本紀に「船で列島に移動してくる様子が描かれている」応神大王の
ご帰還に随行して列島に帰来したのだ。

 勿論半島に残留した物部韓国連や最後の下たり国守は物部一族の穂積氏だ。
一大卒であつた大伴氏傘下の戦闘集団で半島南部の倭国防衛に当たったのであろう。


統一新羅時代の任那の調
 668年高句麗が唐によつて滅亡される後に、統一新羅は高句麗王家の血を
絶やすことなく社禝を祭らせるため王家の一員(安勝)を南方の全羅北道益山郡
金馬面に移し「後高句麗国」を造ります。

この国から日本国に「調」が届けられる。使者を日本に送り届けるのは新羅の船で
新羅の送使も付いて来た。

新羅は列島の天皇が「倭の血筋」のときは、あふれるばかりの親密感を示し半島任那の
調を送り届ける。

天皇が別の血筋(百済閨閥の血を引く天皇)に変わると「手のひらを返すように」
冷淡になる。この新羅は倭の血をひく鶏林新羅です。

  半島と列島の初期倭国の範囲と発展についてお話しました。

                             つづく。