第4話 「古墳時代の定点」と「半島倭国豪族の関与」

古墳時代の始期は大和において統一王権が成立した時以後で、それ以前は弥生
時代の範疇に入るのであろう。

弥生時代の高塚墓を「墳丘墓」と呼び、古墳時代の高塚墓を「古墳」とした。
・・・・・はずだつた。

最近は諸説出てくる中で、古墳時代の始期そのものが不明瞭になつているかも
知れない。 古墳の古さを競うなら前一世紀の墳丘を伴ったカメ棺墓も、弥生後期
前半から後期後半or末に掛けて造営される平原遺跡も北九州に存在する。

しかも、「鏡、玉(勾玉・管玉・小玉類)、剣・内反り大刀」の副葬は倭国文化である。
それに殉葬の習慣は畿内になかつた。それらは北九州と半島南部に存在している。

倭国王権の東進に伴い、吉備地方で発生した特殊壷、特殊器台奉納は出雲を経て
畿内の箸墓古墳など発生期古墳の墳丘を飾る。
九州⇒吉備⇒出雲⇒大和へ一つの流れを見て取れる。

畿内にはどのような文化があつたのか?銅鐸など土の中に埋めて隠されたものは
残るが、征服された国のお宝は何時の時代でも略奪されて消えていく。
対立していた時代は一方が他方に征服され、統一王権の発生となる。

それは中国史における卑弥呼の時代であつただろう。
そこからが古墳時代の幕開けである。


   ※ 平原遺跡は福岡県糸島半島の曽根遺跡群内にある。
     1号墓(弥生後期後半〜終末)から前漢鏡2,後漢鏡32,倭鏡5(列島最大鏡
     を含む)、勾玉・メノウ管玉12、多数の玉類、内ぞりの大刀が出土した。
      (付近の双円墳には16人を埋めた殉死溝がある。)

   ※ 鏡は伝世するものと考えられている、氏族の移動や配布元(王権)移動に伴い
      保管を担当する役所や銅器製造邑(奴国)までも畿内に移動したであろう。

    倭鏡の鋳型は福岡県春日市須玖・永田遺跡と須玖・坂本遺跡から出土。
             福岡県朝倉郡夜須町ヒルハタから出土。(転用鋳型、(鏡・勾玉・鏃他))
       畿内に移転する前はこのような所に倭鏡の鋳型がある。

    九州の青銅器生産は佐賀県吉野ヶ里遺跡の細型銅剣・銅矛や巴形銅器の鋳型
    から弥生後期後半〜終末期須玖・永田遺跡の銅矛鋳型まで出土する。
    当初、佐賀県と福岡県の各地で生産され、その後奴国に集約された。
    この奴国は半島南端の奴国の分国、 卑弥呼の官営工房と思われる。

   ※ 半島倭国では、列島同様の鏡・銅矛・巴形その他が出土するのは当然である。
     その中で同一鋳型の倭鏡(倭国で製造された鏡)は
     大邱市坪里洞遺跡=佐賀県神崎郡二塚山46号カメ棺
     永川郡漁隠洞遺跡(慶尚北道)=佐賀県神崎郡二塚山46号カメ棺
     慶州市博物館蔵         =佐賀県佐賀郡礫石遺跡

 

「統一王権の成立」

弥生時代末期における墳丘墓や鋳型・倭国文化から見て、倭国政治の中心は北九州に
あつたと思われる。

明治29年頃の八木論文によつて「古墳時代」が提唱された当時は、「神武天皇」の
東征による国家統一を画期として以後を古墳時代とした。
紀・記、神武天皇紀には「九州から吉備を経由して大和に至る軍事行動」が記載されている。
これを統一王権の成立とした。

しかし、近年これを軽視する風潮があるのは事実である。邪馬台国畿内説などもその一つ。
いわゆる「欠史八代」論によつて、神武朝は架空のものと考えられたのである。

紀・記が後世の施政者によって、歴史を改変していることは認めて良い。
倭国という国号がなく、「日本国」から歴史が始まっている。

神武東征紀も合成されている。卑弥呼の東征と継体(出雲勢力)の畿内進撃を合成した
のだろう。
倭国の統一王権の成立を日本国の統一に置き換えたのだ。
神武の「ハツシラス天皇」は日本国の初代王であつて、倭国の王ではない。

六世紀の日本国歴史が「倭国歴史」の中に入り混じっているがそれを選別する仕事は
まだ始まっていない。

その過程では神武紀全部を否定するのではなく、純粋の倭国歴史を残すことが必要だ。
「九州から吉備経由大和に至った経路」は卑弥呼のとつた行動と認識している。



古墳時代の定点と半島倭国豪族の関与

古墳時代の幕開け(3世紀後半)から始まって6世紀初頭の倭国滅亡までの間、
幾つかの定点が存在する。
そのすべてに半島倭国豪族が関与したことは当然と言って良い。

倭国連合国家として、半島倭国、列島倭国と区別するべきでないだろう。
しかし、半島倭国の意味を知らずに歴史を語る人が多い現実においては
私の説は耳新しいのだ。知っていただく意味においてあえて区別していることを
断っておく。

倭国が発展する過程において、半島で倭の勢力が高句麗や北の新羅(東沃沮新羅)と
対立したのは良く知られている。

★ 「倭人、しばしば侵入するので国境地帯に二城を築く」(三国史記)
北の国に攻めこむ倭国軍は、半島に定住している半島倭国の軍隊の姿である。

★ 新羅本紀・于老物語は「倭使と接待に当たった于老の冗談から始まった争いの話」
だが「倭使が国に帰って、数日後には倭軍が攻め込んで来た」
日数的に、この倭使の来た国は海の向こうの列島倭国ではなく、国境の南側にある
半島倭国の一国であつたと思われる。

半島には物部などの防衛組織があつたし、中国史に「わが国の刺史(軍事力をもつ地方
長官)の如くである」と書かれた一大率・大伴氏が目を光らせていた。
それでも強力な敵と対処する場合は、列島倭国の応援を得たことは想像される。
大王の親征は「海北平九十五国」と倭の武王の書に記されていた。

同様に列島において、軍事行動が必要な時に半島の倭勢力を列島内に誘致
したのは認識されているのだろうか。
古墳時代の定点とされる時期は大きく別けて次の3つだが、
いずれも半島倭国豪族の関与があつたのだ。

1 卑弥呼の東征(3世紀後半)
2 半島で誕生した応神大王と母親・神功皇后のご帰還(五世紀初頭)
3 継体の侵略による倭国の崩壊(五世紀末)


卑弥呼の東征と半島倭国軍の応援の項目は本物語のテーマであり、ゆっくりと後述したい。


古墳時代の定点2
  半島で誕生した応神大王と母親・神功皇后のご帰還(五世紀初頭

ここでお話することは2つ
★  応神大王が半島南部の倭国領地で誕生しただろうということ。
★  忍熊王の乱に応じて、物部達や半島倭国豪族たちが「ワケ」として
    列島に移住して来たこと。

【※神話「天の岩屋戸物語」は神功皇后の産屋】

4世紀末 高句麗・「北の新羅」連合軍と倭国・百済連合軍とは半島中部地域の覇権を
争い激突した。この戦いは半島歴史書に一言も書いてない。・・・・・かも。
書いていないことで戦いの結果が判明することだつてある。

北の新羅が人質を倭国に差し出したことや倭国に巨大な古墳がいくつも作られたこと・・・・
戦争で獲得した労働力がいかに多かったことか。

神功皇后の産み月を控えての親征であつた。皇子は半島内で生まれた。
ところで「神話天の岩屋戸物語」は「天」がつくので列島内の話ではない。
海を越えた半島の話である。これが神功皇后の産屋であつたのだろう。

応神大王を祭る宇佐八幡宮の託宣集の中に【辛国の城(キ)に始めて八流の幡を
天降して吾日本の神となれり。】とある。

この城(キ)は後述する半島倭国の国名の一つ「鬼国」ではないのか。
内倉武久氏は著書「謎の巨大氏族・紀氏」のなかで、紀氏の本国を洛東江中流域
大伽那の中心地・高霊付近に想定しているが、天の岩屋戸はここにあつたのか。
託宣集の意味は辛国のキで応神大王は誕生されたということだろう。

    ※高霊の池山洞古墳群 金冠、金装飾具、首飾りには勾玉(碧玉)がつく  
                    鏡の出土。

応神大王・神功皇后のご帰還に従って、半島に居た物部や半島倭国豪族も「ワケ」として
随行し忍熊王の乱に対処した。
彼らが列島に領地を賜ったことは「五世紀初頭」からの須恵器や韓式土器の出現によつて
証明される。
紀氏、葛城氏、蘇我氏、上道氏などの名が挙げられるだろう。
秦氏や倭漢直が大伴氏に従って宮殿の警備にあたる氏族となるのも、この忍熊王の乱
制圧以後である。

 ※天神本紀は五部の物部造に引率された二十五部の兵たちが兵杖(武器)をもつて、
  列島に渡る様子が書かれている。
  船長、舵取り、船子某々とある中で、面白いのは天の岩屋戸前でダンスを踊った天の
  ウズメ命、思案をめぐらした思兼命、八尺鏡を造った天津麻羅その他天の岩屋戸物語
  関係者が乗船していること。
  
  列島に「部制」が導入されるのは古事記によると「応神天皇の御世に海部・山部・
  山守部・伊勢部をお定めになった」とある。それ以前の「部」を名乗る氏族は半島にいた
  氏族だ。一つ一つでは分からないことでも、資料を合わせ読むと色々なことが見えて
  くるから古代史は面白い。



古墳時代定点3
  継体の侵略による倭国の崩壊(五世紀末)

継体の侵略が仏教による宗教戦争であつたため、倭国豪族を二分する戦いに
なつた。
仏教に帰依した氏族と古来の神道を守ろうとする氏族の争いは、騎馬民族による
仏教遠征軍の応援もあつて、倭国は崩壊し「日本国」に移行していつた。

戦死した者・奴婢とされた者も多数居たが、生き残った豪族・民達は半島倭国に
脱出して「独立した鶏林国(南の新羅)」に合流するのである。
洛東江東の各国が無血合併するのは、倭国を滅ぼした日本国に対して
抵抗と警戒の表れであった。

ここにも半島倭国豪族たちの姿が見えている。
独立しょうとした紀大磐、鶏林新羅に合流しょうとする上道臣田狭などである。

列島で親族を殺された半島倭国の人々がこの後、列島の日本国と再び合流したこと
はない。常に警戒を怠らず日本国と距離を置いたことはその後の歴史が物語る。

                                続く

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