古墳時代定点1
「卑弥呼の東征」と「半島倭国豪族の関与」前編
前項で「応神大王と神功皇后のご帰還」をお話した。五世紀初頭の話である。
この話と「スサノオが高天原経由日本列島に来ること、大国主神が渡来人
の子でありながらこの国を奪い征服すること」の話との2つのストーリーが、
古事記第一巻(神話)のメインである。後者は五世紀半〜六世紀初の話。
「天の岩屋戸物語」はスサノオのストーリーに入っているが、ここに出てくる人物群
は天孫降臨の関係者だ。おそらく皇孫と岩屋戸を結び付けたくないなにかが
あつたのだろう。だから変な所に入れてしまった。
皇孫という幼子を守って、「天岩屋戸物語」関係者が海を渡ってくることを考えれば
この皇孫は幼くして半島倭国豪族に守護され、日本列島に渡ってくる「応神大王」の
姿であり、「天の岩屋戸」は母王の神功皇后の産屋でなければならない。
また、そのように推理していけば応神大王の降臨の地は、大分県宇佐市である。
「豊前国大宝2年の戸籍」によれば大伴一族の宇佐公をはじめ、半島倭国豪族・
辛島勝(スグリ)・酒井勝・など大勢の随伴した氏族たちが宇佐を中心に展開している
ことが分かる。ここが応神大王の根拠地であつた。
日向の高千穂の峰というのは装飾であって、史実としては関係のない話である。
2大ストーリーで古事記神話が構成されていることを分析すると、
1、半島豪族出身人物の「ルーツ(自分たちの祖先がどのような理由で
列島にきたか」という文章の挿入。
この場合は幼い大王を守護して列島に来たというのがルーツになる。
2、出雲関係人物が「家伝」として創作した文章の存在。
六世紀前半の欽明朝には国譲りを成功させるために出雲系と結合し、
出雲閨閥が発生しただろう。
その家にはスサノオ・大国主神の系譜を含めた家伝があつた。
スサノオ以前のご先祖様の名前があつたかどうか・・・・渡来漢人系だから
あつたと思うのだがそれは不明である。
ところで1と2の人物が合同して歴史編纂をする時期というのがある。
推古紀で「蘇我馬子と厩戸皇子」のお二人である。蘇我氏は半島倭国豪族、
厩戸皇子は出雲閨閥だと思うし、この方達が古事記神話の元を作られたのであろう。
何が言いたいのか。
「日本神話の中には倭国が北九州と半島南部の諸国と合同して建国し
たことやその後の発展の歴史は入っていない。」
古事記は五世紀から六世紀の歴史を神話とし、神武紀(本質は継体紀)に
接続してしている。
倭国の古い時代の話は「ばらばらにされて後世の歴史の中に移されている」のだ。
倭武命や景行紀の「熊襲征伐」が倭国発展の歴史神話であることを以前にも
お話した。
倭国の発展が神話に存在せず、大和王権成立後の帝紀の中に移されているならば
卑弥呼の東征だつてそのようになつているはずだ。
九州や半島倭国豪族などの卑弥呼軍の行動も同様だろう。
「卑弥呼の大和王権成立は後世の大王紀のなかに探さねばならない。」
半島倭国の国名
【北九州の奴国が半島倭国南端の奴国の分国であり、銅器生産官営工房の国、
この工人たちが派遣されて来た本国を「御真奴(ミマナ)」と呼んだ。
御は美称、真は本国を意味する。】
これは誰が言い出したのか原典が分からない。昔から口コミで古代史に関心のある
人々の中に伝えられる。
最初は半島南端の奴国を指す言葉であつたが、後に「任那」は半島南部の伽耶の
地を指す言葉となる。(外地からの呼び名で、伽耶に任那という地名はない。)
同様なことが「御真紀(ミマキ)」について言えるだろう。
列島の紀の国に豪族とともに移り住んだ民達は、故郷の「紀(鬼)国」を「本国の紀の国」
を「ミマキ」と呼んだのではないか。
※ 半島南端の奴国は後の「金官伽耶国」」(金海)と推定され、532年鶏林新羅に
無血統合した。
同年は九州王朝が滅亡し、古から半島倭国豪族と縁のあつた大伴氏が勢力を
失った時である。また百済が伽那に介入してくる時期であつた。
※ 金海(キメ)の倭製品
金海貝塚・・・・・・弥生式カメ棺3個(弥生中期初)
良洞里古墳群・・・・・筒形銅器、後漢鏡、倭鏡、中広銅矛
明法洞・・・・・・・・・・広形銅矛
大成洞古墳群・・・・・筒形銅器、巴形銅器、短甲、紡錘車形石製品、鏡(中国鏡)
礼安里31号墓・・・・・布留式土師器カメ
府院洞貝塚・・・・・・・弥生土器(弥生中期前半)、土師器、滑石製摸造品
後漢書に「建武中元2年(57年)倭奴国、奉貢朝賀する。倭国の極南界也。
光武帝印綬を賜う。」
金印である。「奴国王」という高い地位を占めていた。「鶏林国」だつて国王を
称するのは503年だから倭国連合国の中で「奴国」がいかに権威をもつていたかが
分かる。「大夫」と称したのは倭国の大夫を勤めていたのが「奴」国王ではないか。
そのように考えれば、倭国の代表として朝賀(光武帝の封禅の儀にお祝いする)の
行動の意味が納得できる。
※ 封禅の儀: 天子の治世が良好に行われ万民健やかな生活を行っていることを
天帝に報告する儀式、泰山で行う。
五世紀初に帰来し、列島第4位の巨大古墳を持つ吉備の王系統、「上道臣田狭」が
子孫でないかとの印象を持っている。
統一新羅時代以後、半島では「姓名を唐風に3文字」としたから繋がりが分からない。
金海の王一族は「金」氏になり、統一新羅の達成に貢献する。
※ 吉備の枕詞には「新羅」が使われている。田狭が新羅に属したからだろう。
奴国や鬼国が半島南部の倭国名ではないか?!という話である。
三国志魏書の倭人条には「今使訳の通じる所三十国なり」とある。
その内、列島の国は@対馬国・A一大国・B末盧国・C伊都国・D奴国・E不彌国
F投馬国・G邪馬壱国(女王の都)
半島南部の倭国は1・狗邪韓国(その北岸)
2・斯馬国 3・巳百支国 4・伊邪国 5・都支国 6・彌奴国
7・好古都国 8・不呼国 9・姐奴国 10・対蘇国 11・蘇奴国
12・呼邑国 13・華奴蘇奴国 14・鬼国 15・為吾国 16・鬼奴国
17・邪馬国 18・躬臣国 19・巴利国 20・支惟国 21・烏奴国
22・奴国(女王境界)(後漢書「倭国の極南界」)
国名の呼び方は訳によつてさまざまであるが、一度原文で自分なりに解釈すると良い。
例えば13の華奴蘇奴国は「ゲナサナ国」と「ふりがな」がついている本がある。
馬鹿じゃないの!。
華奴は「伽耶」で「カナ」と呼ぶんだ。蘇奴国は「ソナ国」。「カナソナ国」だ。
日本書紀垂仁2年条には【この年、任那人、蘇那葛叱智(ソナカシチ)が「国に帰ります」と
申した。天皇は手厚い贈り物を賜った】と書いている。
手厚い贈り物を賜る理由については後述するが、この人物は任那の蘇奴国から来たのと
違うか。つまり蘇奴国は任那にあつたのだ。
※ 韓国歴史学者・李鐘恒氏は伽耶が倭人国であり、魏書の三十国内に
その北岸・狗邪韓国を含むという見解を示している。
著書「韓半島ぷとわつた倭国」の「ぷと」は「〜から」、一般的に「わつた」は
「来たの過去形」だが半島から見れば「行く」なのに「来た」となつている。
つまり、この原題は「韓半島に倭国の主体がある」という意味を
もつているのだろう。 半島・列島どちらが先に倭国を作ったかは将来の
論点だが、三国志の時代、女王国は列島にあつたことはハツキリしている。
南端が「奴国」ならば北端は「斯馬国」だろう。実は倭人条「次に斯馬国有り」の前は
断簡らしくどんな言葉が入っていたか分からない。
卓淳国や鶏林国の国名があつたかも知れないが、一応書き順は北からでないかと
想像する。
日本書紀神功皇后摂政46年条には「斯摩宿禰が卓淳国(大邱)の王と計らって、百済国王
近肖古王(在位346〜375)と外交交渉を行う」記事がある。
斯摩宿禰は半島倭国の北端の国、斯馬国の王そして後「しまの大臣」と称される蘇我氏の
祖先であろう。蘇我氏が百済と密接な関係を有するのはこの時からだ。
百済は後漢末公孫氏に従って半島に入り、4世紀始めに帯方郡の故地で国を興すとともに
4世紀中ごろに倭国に接近し以後、倭勢力の庇護を受ける。
※ 卓淳国(大邱)の倭製品
晩村洞遺跡 中広形銅矛、 細形銅剣3・つば金具1・把頭飾り1
飛山洞遺跡 中広形銅矛、中細形銅矛、銅才、小型銅才(現地製)
池山洞遺跡 鏡(前漢鏡)
女王国の所在地について
細部にわたつて語るつもりはない。過去さまざまな意見が出たがいまだこれだという
決定的意見はなく永遠のテーマである。興味をもつてご見解を出していただきたい。
私的には魏書倭人条 【郡より女王国に至るまで(距離)万二千余里なり】
後漢書 【楽浪郡の境界は邪馬台国から万二千里にして、その西北界の、
狗邪韓国を去ること七千里なり。】
と、両書とも合致している。時代を違えて書かれた文章が一致する点を無視できない
ではないか。
楽浪郡より九州・末盧国まで万余里、あと千何百里で邪馬台国に至る。
女王国は北九州圏内にあつたものだ。
宗史には献上された日本国年代記が記述されている。
曰く「初主、天御中主と号し・・・・・彦なぎさ尊まで凡そ二十三世まで筑紫日向宮に都す。
彦なぎさ第四子、神武天皇と号し筑紫宮から大和州橿原宮に入り居ませり・・・・。」と。
いずれにせよ、倭国が半島南部の倭国と北九州倭国の連合国であつたということは
だんだんと分かって来るだろう。
その時に邪馬台国畿内説は「何時の時点で畿内に移ったと思うのだろうか」
続く
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