「卑弥呼の東征」と「半島倭国豪族の関与」 中編

古事記神話の分析から、古代史が半島倭国豪族と出雲関係閨閥の2つの
観点から描かれたであろうと解釈した。
日本神話は五世紀〜六世紀で構成され、その中には古代倭国の話はない。

従って古代倭国の歴史を探るには、帝紀の中で「出雲系物語」を徹底的に
除去して行けば倭国関係が残るのではないか」ということだろう。

そういう目で紀・記を眺めていくと大物主や大国主、またその子孫の話は
一杯ある。出雲系物語を全部集めて分析するのも楽しみだが、それは別の機会に
して、ここでは一応すべてカツトしていこう。

   ※ 残すべき条文は青色で表示、私的見解だから別の意見がある方は
       掲示板にて理由を付してお示しください。

神武紀 「筑紫国から出発」 記:岡田宮、紀:岡の水門、福岡県遠賀川河口
      福岡市から東北の玄海灘にある芦屋町が九州の出発地という。
        
       ※関連資料
        中広形銅才鋳型  福岡県遠賀郡岡垣町・吉木遺跡
        芦屋町と至近距離、鋳型が出ることで有力豪族の存在。

      ◎「安芸国・多祁理(たけり)の宮七年、吉備の高島宮に八年」
      広島県安芸郡府中町と岡山県倉敷市(推定)
      
      魏書倭人条によれば景初2年(238年)の中国皇帝拝謁の後、正始6年
      (245年)になつて皇帝から黄憧授与(皇帝の認可した戦いの旗印)があつた。
      その間、吉備と出雲での戦闘が行われていたのであろう。
      銅鐸の出土西端は広島県世羅西町である。
       
       ※特殊器台と特殊壷は中国山地を超えて出雲に出現してくる。
      【(これは)吉備のある有力な首長集団が中国山地を超えて出雲西谷3号・4号
       の首長との間に一定の親族関係を成立させたことを示している。
       このことは吉備の「ある有力な首長」の権力が並々ならぬものであったことを
       想像させ、さらにその首長がおそらく楯築(倉敷)の大首長であつた可能性を
       強く感じさせる。】          近藤義郎氏(吉備の考古学的研究上)
 
神武紀は以後すべてカツト。

    ×「珍彦の水先案内」は五世紀末の継体軍の輸送に従事した「青海首(おうみのおびと)」
      の話と断定する。日本海海岸における青海と日置の地名が同一地域に存在すること。
      珍彦が運んだのは継体軍とくに日置氏(騎馬民族)の輸送である。
      継体紀の出来事が神武紀に置きかえられていることに注目。

考元紀 「建内宿禰の子孫」
     武内宿禰と言う人物は「大伴氏」を表わしていると考えている。半島に関わり
     を持つ点、特に「三韓を招き天下を支配しょうとする」と讒言される点(紀応神紀)である。
     大伴氏が古来から半島諸国と係わり合いを持つことから記に書かれている建内宿禰の
     子孫というのは列島に移住した半島倭国豪族名でないだろうか。
      卑弥呼とは関係ないが一応挙げておく。

崇神紀
    × 「初国知らしし御真木天皇」初代天皇としているのは崇神であるが、
     「ミマキイリヒコ」は応神の名ではないか。応神紀には「神と名前を取り替える」
     という説話がある。「辛国の城(キ)」に誕生し、列島入りするのは応神である。

    × 「四道将軍の派遣」
  少なくとも四道将軍の内、吉備津彦の説話は後世(継体紀)の記述がここに入ったもの
  と断定する。
  東征の道順として吉備を経由して大和に到った倭武命の副将軍吉備武彦(御すき友耳
  建日子)と吉備津彦を比較すれば、吉備津彦が後世の人物でしかも出雲勢力の継体の
  将軍であろう。

  ※ 吉備津彦神社は出雲神を祭祀している。
  ※ 兄弟の日子寝間命(ヒコサメマ)は播磨の牛鹿臣の祖、のちに笠臣を賜る。
     播磨の牛鹿屯倉は安閑紀に記載されている。つまり吉備津彦たちの実在年は
     六世紀初である。
  古事記考霊紀には「ハリマの氷河の前(サキ)で」戦勝を祈願し、ハリマから吉備国を
  攻めたとなつている。  氷川が出雲の代名詞であることは関東では一般的であり、
  ハリマの氷河は出雲の斐川からとられたものであろう。  
  従って、吉備津彦は継体(出雲政権)の将軍であつたのだろう。 

  ※ 吉備における弥生時代墳丘墓は特殊壷、特殊器台が出土するが代表的な
    宮山墓(惣社市三輪)の副葬品は、鏡1、ガラス小玉1、刀1、剣1、鉄鏃3、銅鏃1.
    矢籐冶山墓(岡山市)      は、鏡1、ヒスイ勾玉1、小形鉄斧
  で倭国文化的様相を示し、 銅鏃出土は大王から下賜されたものという見方がある。
 
  吉備を経由して大和に向かうという器物の流に逆行する崇神紀の吉備津彦派遣記述は
  信用できない。  


  景行紀に倭武命は大王から
  「東の方十二道の荒ぶる神、を言向け和せ」と命を受け吉備武彦と大伴武日連を副将軍
  とする。
  倭武命の伝承が各地に数多く存在する中、東方道将軍の武淳川別の具体的な記述は
  史にはない。
  父の大彦命は穂積臣(物部)系で半島南西部の下多リ国守が穂積氏であることを考えると
  この将軍派遣が列島内の出来事かどうか?輪韓河(ワカラカワ)で戦闘したとなつているが
  半島の地名ではないのか。半島南西部で倭は屯倉を形成したのだから当然将軍の派遣
  はあつただろう。  
  大彦命の後裔氏族には吉士(古代半島の首長を意味する)を名乗り、多く外交を担当する
  氏族がいる。
    吉士金子⇒新羅、 吉士木蓮子⇒任那、 吉士訳語彦⇒百済(敏達紀4年の派遣)
    吉士金 ⇒新羅、 吉士木蓮子⇒任那(崇峻紀4年)
    吉士磐金⇒新羅(推古5年)  以後遣隋、遣唐の大使、随員を勤める
    外国語の堪能な氏族であつた可能性が高い。(帰来氏族?)
  大彦命の娘の名が「御間城(ミマキ)姫」というのも「半島鬼国」を連想させるではないか。

  物部が出雲を出発点として北陸路を進攻したのは、各地の神社伝承にある。
  太田市物部神社〜新潟県二田物部神社それらには「物部が火明命に随伴し、先導した」
  とあり、火明命の子が高倉下命で「神武紀」に出てくる。
  古い時代のように装っているが、このときの物部は五世紀末の出来事だろう。
     北陸路を進攻したという物部の事柄と大彦命が合体したのではないか。
   卑弥呼時代の将軍はやはり大伴氏で物部(大彦命)ではない。

   ×「神宝の貢上」
  出雲振根物語は古事記景行紀に書かれている物語であるが、紀では崇神紀に入れた。
  理由は分からない。なぜなのだろうか。「大神(大国主神)」が古い時代の人物と強調
  したかつたのではないか。振根の説話は卑弥呼の東征原因となる話で大和王権成立前
  だからここに入る理由はない。

 「任那国が蘇那葛叱知を遣わして朝貢して来た。」
  崇神紀で卑弥呼に関係するのはこの一条だけである。
  この朝貢記事は正確ではないし、次の垂仁紀の記事に関連してここに入れたのであろう。
 

神話から崇神紀までの概観
紀記の三重構造
(第一の物語(史実・伝承)⇒第二の物語⇒第三の物語))


崇神紀には「初国知らしし天皇」という記事があるが、意外なことに卑弥呼関連の記述がない。
神武紀(日本国の王)と違って崇神は倭国の大王であると思うのだが、崇神紀も置きかえられた
天皇紀だつたのか。この崇神のイメージは応神大王だと思う。

半島倭国出身豪族(蘇我氏)が創造した物語は、半島から渡ってくる皇孫の応神を初代天皇視した。
したがって「ミマキイリヒコ」が初代天皇である。
応神に従って半島豪族たちは日本列島に移住して来た。
われわれのルーツという思いは、初代天皇に置きかえるという物語を発生させた。

応神紀でこの名前が二度出るのはおかしいから「神と名前を取り替えるという説話」を
挿入したのだろう。

古来からの「伝承による第一の物語(卑弥呼の話)」の次には、「天の岩屋戸物語⇒
天孫降臨⇒崇神紀」という第二の物語が造られた。
たぶん半島南部から列島に移動して来た物部伝承が下書きである。

国の名称についてここまでは「倭国」だつたはず、
「一時期、渡来人(継体)によつて国が奪われ倭国が衰退したが、敷島の宮に政を司る
偉大な欽明大王の働きで倭国が復活した。敷島の国すなわち、わが国」といつた歴史
もあつたかも知れない。敷島の国が倭国の代名詞という認識は古来から続く。
欽明は「蘇我朝の始祖王」だからそんな物語が作られた。

その構造上にさらに蘇我氏の倭国を否定し「日本国」と名前を変えた人物によって、
第三の物語が構想される。
そして、歴史の最初から「日本国」を強調したのが「日本書紀」である。
五世紀半〜六世紀代の出雲話を神話とし次に「神武天皇」なる人物を創作した。
日本国の初代王だ。

「出雲の国譲りが終わって皇孫が降臨してくる。そしてこの国が皇孫によって栄える。」
・・の話のはずだが、 突然神武天皇が大和に攻めこんで来る場面に早代わりした。

国譲りの後、この国は天子によつて統治されているはずだつたのに神武が大和に
攻めこむのは不可解。
日向という九州の片田舎(隼人と対峙する倭国の最前線地帯)の出身という設定からして
おかしい話だがここは「日」に拘ったのだと思う。

歴史の最初から「日本国」にするため、神武が大和に攻めこむ場面を作らねばならなかつた。
卑弥呼の東征記事を改ざんして、神武に置き換えた。

神話国譲り⇒神武進攻の間は連結があまり上手ではないがそれは仕方がない。
皇孫と神武とはなんの関係もないからだ。

皇孫は倭国人だが、神武が倭国人か?・・・・NOである。初めての日本国人なのであろう。
倭国の話の中に突然入りこんだ日本国の話がぎくしゃくするのは当然だ。

日本書紀編纂を企てた人物は百済閨閥で「自ら倭の血」を否定し、「渡来人が作った
日本国」に復帰した。「半島の北から来た」という共通意識を持ったのかもしれない。
日本国では「出雲がこの国の大本」だから・・・・・大国主神は国つ神になる。
渡来人の子でも「国っ神」になるのはこのためだ。

第三の物語に邪魔になる記述は、取り除かれたり別の場所に移されたりと
書紀編者はそれなりの苦労をしたのだろう。どうせなら全部新しく作ったほうが
自然だったのではないか。

三重に変節された倭国史を復元し第一の物語に戻そうとするのは容易ならざる
ことかも知れない。ということで今年もあと僅か。

2007年が良い年でありますように!!

                                   つづく

                           目次にもどる