第7話 卑弥呼の東征と半島豪族の関与後編
古事記に書いて書紀に書いてないものは、出雲神話の主要部分だろう。
スサノオから大国主神の業績が逐一記述されているし、大物主神の出現も
書かれている。系譜もある。
書紀にはないことが古事記にはある。
古事記を編纂した大安麻呂は、神武天皇の皇子・神八井耳命の子孫と称し
ているが母方は大物主命の娘「ひめたたらいすず姫」だ。
大(多)氏は出雲系の人物なのだ。
だから出雲系家伝に基づいて書いているのだろう。
一方、書紀に書いて古事記に書いてないものがある。
景行紀の九州熊襲討伐などは古事記には存在しない。
垂仁紀の半島豪族の帰来記事もない。
書紀は古事記と違って「倭国の資料」に沿って書いていたのかも知れない。
両方にない「国引き物語」やその後の「大国主神の宮建設」などは意図的に
削除されたものだろう。
有っては困るものだつた。現代ではそれらがどういうものであつたかという
解明は「仏教出雲に伝来」のなかでしたつもりである。
ここでは古事記よりも書紀に着目してみようと思う。倭国のことは書紀に書いて
いるからだ。
垂仁紀 この紀は注目すべき条文が多い。
◎ 纏向に都が作られた。(名称は纏向宮・99年条参照)
◎ 任那人、蘇那葛叱智 帰国 手厚い贈り物を賜った。
◎ 大伽羅国の王子、ツヌガアラヒト
◎ 新羅の王子、天日矛 来帰(書紀に「来帰」となっていることに注目)
卑弥呼の新しい都と目されるのは纏向の地であろう。
桜井市と天理市のほぼ中間、聖なる三輪山麓の扇状地に広がるこの地には
倭国に帰属する各地の土器が集中して出土する。
また今までの半地下住居集落と異なり、柱を立てた堀立柱建物群によつて占められ
内一棟は柵列を有し宮殿の可能性がある。
北側に景行天皇陵、南側に箸墓古墳が存在するこの遺跡群に対して
桜井市埋蔵文化財センター・清水真一氏は
「纏向遺跡は弥生時代後期の拠点集落と異なる扇状地形状に位置した
新しい立地環境の上に成立した村落遺跡である。
必然的にその盛期は、従来の遺跡(畿内の弥生村落)とは異なり、庄内〜布留
期に及んでいる。」
遺跡にある石塚古墳周壕内から弧文円板、弧文をモチーフに刻み込んだ
木器・石製品が出土して、「これらは吉備地方の特殊器台のモチーフをルーツ
としている」
「纏向遺跡とは邪馬台国より東の新興勢力によつて、3〜4世紀に成立した
古代国家の中心地の一つではないかと思っている」
箸墓古墳を始め、発生期古墳に吉備を経由した特殊器台が置かれていた。このことは
吉備を経由した新興勢力が畿内に入り、纏向を都としたに違いない。
帝紀でこの地を最初に都としたのは、垂仁大王なのだ。
次に見てもらいたいのが、この紀に集中している半島倭国豪族の帰来記事である。
私はこの人達を卑弥呼東征の軍に参加した半島倭国軍だと考えている。
金元龍氏の半島方言の中にも言及があつたが、三韓時代の半島南部には
瓦質土器文化圏があり、その土器は九州の対馬・壱岐・福岡県に、さらに
東進して岡山・大阪(加美遺跡)に進んでくる。これは半島倭国軍の使用した
土器じゃないのか。
残留を求められた天日矛のような例もありますが、
蘇那の葛叱智や大伽羅の王子・ツヌガアラシトは兵を率い、帰国をした。
その時に大王から手厚い贈り物を賜ったのは言うまでもない。
兵たちにも賜り品を頂いた。そんな品物を詰めて運んだのがこの時代の列島土器で
あつただろう。
【庄内式土器やそれと併行する西新式土器これら三世紀中ころ以降の土器が
朝鮮半島の東南海岸の貝塚ではほとんどの遺跡で見つかっています。
あるいは甕棺にも使われています。】(柳田康雄「倭と伽那の文物交流」)
半島の瓦質土器が列島に来て、列島の土器が半島に行つた。
そうした土器の往来は大勢の人たちの行き来である。
大王が感謝をしたのは半島倭国の兵たちの働きであったのだ。
卑弥呼はだれだ?
垂仁紀には蘇那の葛叱智が先皇の御世に来たという記事がある。
それに帰国記事もある。
また殉死の禁止記事があって垂仁が卑弥呼とは言えないだろう。
それよりも卑弥呼の後継者・壱与(とよ)ではないか。と思う。
彼の前の代について書いてはいないものと認めなくては成らないか。
う〜ん、残念、卑弥呼を紀記の中に探す作業はひとまず止めにしょう。
そんな一連の書き込みによって半島倭国の認識が皆さんの中に
入っていったことを収穫としたい。
さようなら。