第9章 継体天王の大和進撃(神武東征説話と類似する)
日本歴史の編纂がいつから始まったのかは定かではないのでしょう。
一応、推古天王二十八年【この歳、皇太子(聖徳太子)と嶋大臣(蘇我馬子)とは、協議して、
天皇記および国記を記録した。】というのが史上にみる初めての事です。
これらの記録類は蘇我邸に安置されていたが、蘇我氏滅亡時に焼かれたのを、国記のみは
船史恵尺(帰化人末)によつて取り出されたという。
次ぎには天武十年(681年)条に
−【天武天皇(天智天皇以後は天皇と表記します)十年三月丙戌(ひのえいぬ、十七日)に、天皇は
大極殿に川島皇子他十一人を召して詔し、帝紀および上古の諸事を記録・校定せしめた。
(編集委員の)中臣連大嶋と平群臣子首とがみずから筆をとつて記録した。】−と。
筆をとつて記録したとなつています。この記録は編纂に当たってどのような方針で臨むかの基本を
記録したものだろうと思われます。
日本書紀が筆によって最初から記録されておりながら、古事記が稗田阿礼に暗誦させたというのも、
不可思議でなりません。暗誦させるより、筆で記録させた方がより確かでしょうに。
それと古事記は太安万侶が和銅四年(711年)九月十八日元明天皇の詔で、阿礼の暗誦したところを
編集し、和銅五年正月廿八日献上したという。
数ヶ月で出来るものをなぜ長い年月の間、放置していたのだろう。
ところで日本書紀が完成したのは、元正天皇の養老四年五月癸酉(みずのととり、720年)であり、
天武天皇の着手から約40年後のことです。
−【是より先、一品舎人親王、勅を奉りて、日本紀を修めたまう。
是に至りて功成り、紀三十巻・系図一巻を奏上したまう】(続日本紀)−という。
この文章のなかの「日本紀」が正式な名前であるというのは、学者によつて言われている所です。
【(古事記よりも書紀のほうが)日本という国家の由来を語ろうとする面が強くでているのではなかろうか。】
(井上光貞、笹山晴生)という大家の意見ですが、「日本紀」であるところに問題があると感じています。
本当は「日本紀」の前に「倭国紀」がなくてはならない。
「倭国紀」がかつて存在したと感じるのは、古事記序文の中に「諸家で承け伝え持っている帝紀と旧辞
(いいつたえ)はすでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。
だから誤りを改めるのだ」という天武天皇のお言葉からでしょう。
つまり倭国紀を否定して、日本紀をその上に重ねる作業の開始だつたのではありませんか。
原日本という国が出雲に建国され、「日本小国、倭国を併せり」と中国史書に記載される五世紀後半から
約200年の歴史を古い方向に引き伸ばし、倭国紀の歴史の上に日本紀を合成したのです。
一番引き伸ばしたところは馮 弘・馮王仁の来朝から始まる説話で、五世紀中の出来事を神話の時代
までへと引き伸ばし、出雲神話として倭国の神話の時代に併せました。
素戔鳴尊と天照大御神との誓約説話、神武天皇と亊代主神(大物主神とする説もある)の娘・媛蹈鞴
五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の結婚、さらには風土記で大国主の子とされる火明命や
同じく大国主の妻とされるコノハナサクヤヒメ、出雲神話の大山祇命などはニニギノミコト説話と合体
しているのです。
出雲神話に大国主神の命を助けるため、出てくる神魂神の二人の娘・キサカイ姫、ウムカイ姫、少彦名命
(古事記、神魂神の子、書紀、高皇産霊神の子)なども以前から「その混同が謎だ」と指摘されていた
部分でした。
倭国と日本国の歴史を混ぜ合わせ作ったのが日本紀だつたのでしょう。
一方で、史実の時代を引き下げて新しい時代に移したものもありました。
「仏教を巡る争い」や「磐井の乱」・「武蔵国造の乱」の記載は、本当の時代から新しい時代に移されて
います。
さて、神武天皇はこの国を統一された大王とされている。
しかし、この国にあつた昔の倭国の大王ではなかつたのではないか。
神武紀には「日本は浦安の国…」とか「虚空(そら)見つ日本の国」という言葉がでてくる。
さきに挙げた出雲の娘との婚姻話の他にも、神武東征説話の中に日本紀の出来事が入っているのでは
ないかという主張をされる人達は多数いるのです。
勿論、元となった倭国紀の記述もあるのでしょう。九州から吉備を経て大和に至った卑弥呼の東遷、
宇佐に宮を作られた応神大王の東上などが神武東征説話の中に入っているように思います。
その上に日本紀が重ねられたのでした。つまり、五世紀末頃行われた出雲勢力の畿内進撃が、
神武東征の中に置き替えられているということです。
その割合は、卑弥呼の東遷が15%、応神大王の宇佐宮の記述に5%、残りの80%が出雲勢力の
大和侵攻記事であろうと考えます。
出雲勢力は、すなわち継体天王の率いる勢力です。
五世紀末に行われた継体の大和進撃が、紀の神武東征説話の中に入っているのではないか。
さらに神武朝の出雲閨閥の話が本当なのか。
そうした謎にどれくらい迫ることが出来るかも、この本の見所としてください。
これから、だんだんに話をすすめて行きましょう。
この章は最初に日本書紀がどのような作られ方をしたのか、ということを明らかにしました。
そのようなわけで、これから神武東征伝の中にちりばめられた「継体天王の戦い」を抽出して、
畿内での活動をみることにします。
日本歴史に見る三面相
神武は日本国の天王だつたのではないですか。
継体と大国主と神武は同一人物だつたのではないのですか。ということを提唱しました。
場所と時期を変えて出現してきますが、この三人の事跡は五世紀末の出来事なのではありませんか。
出雲神話と神武朝紀は、神話の時代と歴史時代の始めにもつていつた日本紀の先頭部分だつたのでしょう。
だから、三面相という言葉を使います。
一人の人物が場面を変え、名前を変えて出演していますが、全部同一人物なのでした。
恐らく継体天王が本体(実像)で、後のお二人が虚像なのです。
私はこれまで、出雲神話に出てくる大国主神が継体天王ではないかとして来ました。
それに追加して神武天皇の東征説話の大部分、(河内から紀州を経由して大和に至る戦闘場面)は
継体の大和侵攻だと考えるのでした。
とうぜん、神武大王とそれに引き続く八代の王やこれに結合する出雲閨閥の話が、倭国初期大王の
時代であるわけはないと考えてください。そして日本歴史の中には一人の人物が三面相をもつて
出現してくるかも知れないということを頭の中に入れておいてください。
ここでの三面相の思案はさまざまな謎を解くカギなるとなるので、重視していきたいと考えています。
神武東征に書き変えられた継体進撃路
出雲地方の地名が全国のどこにあるかを考証された佐賀 新氏は「出雲朝による日本征服」の中で、
紀伊半島の地名考証をした後につぎのように述べています。
−【(出雲の地名が紀伊半島にあることに)何となく、神武東征が思い出される。ひょつとすると出雲勢に
よる亊跡が、神武天皇に置き替えられたのかもしれない。何故ならば(日本神話に従うなら)「国譲り」で
統制権の移譲はスムースに行われた筈であり、(神武天皇が)改めて攻め込む必要はないものと考えら
れるからである。】−
ごもつともというしかないでしょう。出雲神話では大国主神はこの国を平定した人物であり、その後「国譲り」
が完全に実施されたならば、神武天皇が改めて畿内に攻め込むのはおかしいことなのです。
正しくいえば、神武天皇の時代は平定された時代ではなかつた。
「この国を平定した大国主」は「神武天皇より先だったのか」よりも、地名考証によって「置き換えられた」
との指摘がされている。 二面相です。
神武東征説話が継体天王の大和侵攻説話だという指摘は、別の複数の学者によっても行われている
ことはすでに周知されていることでしょう。合わせると三面相なのです。
ここでは「出雲勢力による事跡が神武天皇に置き換えられたのではないか」といわれていました。
それでは具体的にどの部分が出雲にかかわる部分かをみてみましょう。
1、五瀬命=五十猛命
神武天皇と行動を伴にした兄の五瀬命は河内国日下(現在の東大阪市日下町)から生駒越えを
目指しましたが、敵の頑強な阻止のため転戦を余儀なくされました。
この戦いでの負傷のため和歌山で崩御されたという。
この五瀬命は出雲族の五十猛命ではないでしょうか。
五十猛命が和歌山市に鎮まる理由は紀記になにも書かれていない上に、五十猛命の式内神社は、
すべて名神大の神社で、小社である五瀬命の竈山神社より位が高いのです。
● 国懸神社(和歌山市秋月、祭神国懸大神もともとは五十猛命)
● 伊太祁曽神社(和歌山市伊太祁曽、祭神五十猛命)
● 伊達神社(和歌山市園部、祭神五十猛命・神八井耳命(神武の長男・母は大物主の娘))
それに神武東征のモデルとなつたと考えられる卑弥呼、応神大王、継体天王(大国主)の三方の中で、
同じように行動した兄のある方は継体(大国主)しかいらつしゃらないことを思うとき、神武の兄・
五瀬命こそ継体の兄、馮王仁(五十猛命)であろうと考えるのでした。
2、日の子 ⇒ 三本脚のカラス
−【吾は日の神の御子として日にむかつて戦うことは良くない。このために傷を負ってしまった。
今からは迂回して、背中に日を受けて敵を討とう】−と五瀬命が言われた。(古事記)
太陽信仰はどの国にもあつたでしょう。日の光によつて植物が育ち、人間が生きていく環境が
もたらされているために太陽に対する感謝の気持は万国共通であったと思われます。
しかし、日の子伝承を持っている国は、基本人種扶余族の朱蒙伝説しかありません。
扶余族は高句麗・百済・沃租・穢など多くの国家を作りました。
それらの国々に始祖朱蒙伝説が伝えられたのです。
−【扶余国での出来事に、一人の娘が日の光を受けて妊娠し、男子を出産した。これが朱蒙で、
後に高句麗国を建て始祖となつた。】−(高句麗本紀)
続日本紀には光仁天皇の妃で、桓武天皇を生んだ高野新笠(のち皇大后)は百済・武寧王の子、
純陀太子の子孫で、−【百済の遠祖の都慕王は、河神の娘が太陽の精に感応して生まれた。
皇大后はその末裔である。それであめたかしる天高知日之子姫尊と諡を奉つたのである】−と。
(続日本紀延暦9年(790年))
ここでは高野新笠妃が高句麗と同祖の都慕王(朱蒙)の末裔だから、日の子姫と諡を奉まつたと
いうのです。
古代の列島においては、日の御子の国は朝鮮半島の北側の国だという認識があつたことが指摘
されるでしょう。
五瀬命の言葉にある「日の神の御子」は、半島北側の国から来た渡来人の子のことをいうのでは
ありませんか。それならばスサノオの子・五十猛命が当てはまります。
また、太陽信仰には、「日の鳥」とされるカラスがつき物でした。
日の出、日の入りとともに行動するカラスが、上古代の中国において太陽信仰の中に取り入れら
れたのです。
左の高句麗冠帽のデザインを見てください。
そこには中央に置かれた三本脚のカラスの周りにも、
何匹かのカラスが象徴されているのがわかるでしょう。
こうした三本脚のカラスは、出雲系の神社伝承に現れ
ています。
島根県美保関町・美保神社(祭神・亊代主神)
青柴垣神事には三本脚のカラスが登場するし、
熊野三山信仰の三本脚の先導烏(みさき)、熊野
誓紙に印刷された烏や熊野誓紙の誓約を破ると
「熊野のカラスが一羽死ぬ」とされたことなど。
この熊野三山は出雲の熊野神社(祭神・素戔鳴尊)
が本源です。
京都・下鴨神社の祭神・賀茂建角身命は八咫烏の化身と伝えられている。
この【八咫烏は神武天皇の先導神として仕え、のちに大和から山城の賀茂に移った】−(山城
国風土記逸文)とある。
鴨神社が出雲の神社であることは一度参拝すればすぐわかります。それに山城の大山咋命
(松尾大社・祭神)が丹塗り矢と化して瀬見の小川を流れ下り、建角身命の娘・玉依媛と婚姻し
賀茂別雷命を生んだと言う。上鴨神社の由来です。
大山咋命が出雲神であることは、ご存知の通りでした。
八咫烏(やたからす)というのは、高句麗氏族を中心とした出雲勢力の旗印だつたのではないでしょうか。
賀茂建角身命はその旗手だつたのでしょう。
兵庫県神戸市北区有馬町温泉神社には次ぎのような話が伝わります。
−「昔、大巳貴命と少彦名命がこの地にいらしたとき、傷ついた三羽の烏が水に浸かりそしてたちまち
傷が治るのを見て、温泉を発見された。」
傷ついた三羽の烏になつてしまつたが、これは三本脚の烏ではないのか。
出雲勢力の傷病者を、温泉を利用して治療したことが、その始まりだつたのでしょう。
また、山形県出羽三山の湯殿山神社には、開山に伴う次ぎの話が伝わる。
−「この地を開拓された蜂子皇子が三本脚の烏に導かれ、山頂に大巳貴命・少彦名命・大山祇命を
祭った。」と。 この神々は国土開拓・平定の神々であり、三本脚の烏に縁があるのでしょう。
まだまだ探せばあるでしょうが、ようするに神武東征に出てくる八咫烏説話は出雲と関係すると
いうことです。
説話の中にある太陽信仰は出雲勢力の精神構造だつたのでは。
出雲地方に有る地名・簸の川、日ノ御崎、出雲大社の別名・日栖宮(ひすみみや)、氏族名の
日置氏、日本(ひのもと)や日の鳥など「日」にあやかる名称は出雲に関係し、倭国の歴史とは
結び付きません。
3,高倉下命が神武東征に出てくる訳はなんですか。
高倉下命は尾張連や継体皇子を養育した丹比連と同様に、火明命の子とされています。
後に天香語山命と呼ばれ新潟県弥彦神社の祭神として鎮座される方がなぜ神武東征説話に出て
くるか不思議なことでしょう。
しかも、火明命の子がここでは熊野の高倉下という現地在住の人物になっている。
−【この人物のその夜の夢に武甕雷神が(現れて)「私の剣をフツノミタマというが、いまこれをおまえ
の庫のなかに置こう。この剣をもつて天孫に献上せよ。」と仰せられた。
高倉下は朝早く起きて庫をあけてみると、一振りの剣がさかさまに庫の底板に立っていた。
そこでこれを天皇に献上したという。】−
おそらく、出雲勢力の武力侵攻時にこれによく似た出来事があつたのだろう。それが神武紀に挿入され
たものでないか。剣の名前がフツノミタマとあるから火明命に随伴した物部氏に係る物語と思われる。
それにしても武甕雷神(古事記では建甕雷神)という名前は高天原にも、出雲側にもあつて同名異人
の姓名であり、誠にまぎらわしい。
出雲側には【出雲の大物主神の後裔・建甕槌命、その子が太田田根子】(紀・崇神紀)と読みが同じで
整理できていない感じがするのは、なんらかのヒントがまだ隠されているのかもしれません。
あるいは倭国と出雲の二つの神話が混同されていることの暗示ではないでしょうか。
以上3点ほど、神武説話に入り込んだ出雲族の話をとりあげてみましたが、これを見ていただいただけ
でも、出雲勢力の畿内進撃が、神武紀のなかに取り入れられているということが分るのでしょう。
日本紀の歴史が、倭国紀の上古の時代にまで引き伸ばされ挿入されていると考えてください。
五世紀末の戦闘が古い時代に移動していることが、より分っていただけるようにここで継体天王の話を
中断して、進撃路となつた和歌山県を初め畿内の氏族分布を示し、いままで話してきたことの検証をし
てみます。
検証・紀氏の滅亡とその領地を占拠した氏族
五世紀の豪族紀氏は、半島から帰来(半島倭国籍氏族の渡来をいう)した氏族で、半島倭国の
任那出身の豪族であり、応神大王の御帰還に随伴し、泉南・紀の地方に領地を賜っていたのは、
よく知られているのです。
五世紀末の宗教戦争では、倭国側の勢力として継体天王を阻止すべく戦ったのでした。
書紀雄略紀にはその戦闘状況を「場面を半島の出来事として」描いています。
その中には大伴談連の戦死、紀小弓宿禰の死、さらに紀大磐宿禰と蘇我韓子宿禰が弓矢で争い、
韓子を射殺する場面がありました。
この戦闘は、半島における闘いのように偽装されていますが、本当は五世紀末の列島における
宗教戦争の一部分を表現しています。
双方の大将クラスの戦死があるほどの激しい戦いが行われ、紀小弓は戦死、紀大磐は戦場から
脱出して半島に引き揚げました。
紀氏の領地は別の氏族に配分され、生き残りの部民は紀寺の奴婢や陶邑の袋担ぎの労働に駆使
されたのです。
戦死した紀小弓の死骸は大伴氏の特別な計らいがなければ墳墓に入れることができなかったのでした。
紀・記は小弓の死について嘘を書きました。
五世紀代にこの地にいた「武内宿禰系の紀氏」は日本列島から逃れ、半島へ退去しました。
紀ノ国の名前に基き同じ「紀氏」を使っていますが、その後の紀氏は別系統の方です。
それでは紀氏滅亡後、和歌山県にどんな氏族が入ってきたのか資料を見てみたいと思います。
紀氏の後に和歌山県に入った氏族
郡名 | 補任年 | 地位 | 氏名 | 資料名 |
那賀郡 | 天平神護元年 | 大領 | 日置弟弓 | 続日本紀 |
〃 | 承和十二年 | 大領 | 長我孫縄主 | 平安遺文 |
〃 | 承和十二年 | 擬大領 | 長公広雄 | 平安遺文 |
名草郡 | 神亀元年 | 大領 | 紀直摩祖 | 続日本紀 |
〃 | 〃 | 少領 | 大伴擽津連子人 | 〃 |
〃 | 〃 | 〃 | 海部直土形 | 〃 |
〃 | 天平神護元年 | 前少領 | 榎本連千嶋 | 〃 |
〃 | 〃 | 大領 | 紀直国栖 | 〃 |
基本的に変化がないので、その後の補任は略します。
それではページの表を見てください。
天平神護元年(765年)にみえる和歌山県那賀郡大領は、日置氏で本書にたびたび出てくる
高句麗氏族です。
次ぎの大領・擬大領は承和十二年(845年)長氏で我孫姓と公姓を持ち、
−【姓氏録「長公。大奈牟智神児積羽八重亊代主命之後也」和泉国神別】−
お分かりでしょうか。五世紀末、紀氏を倒して和歌山県に入ったのは、継体天王の軍勢としての
出雲勢力でした。それは疑いない事実でしょう。
「そして紀ノ国に配置したのは亊代主命」だつたのではありませんか。
つまり、大国主神の子である亊代主神を祖とする氏族がこの領地の主です。
継体天王が大国主だつたというのは、こんな史実があるからでした。
名草郡の神亀元年(724年)郡司には、大領・紀直氏が任命されています。
−【姓氏録「紀直。神魂命子御食持命之後也」和泉神別】−
出雲神話に大国主神を助ける天神として登場するのが、神魂神でした。
天神である、日本神話の神が出雲神話に登場するのは長い間謎とされて来たものです。
それも「宗教戦争」ということで謎が解けるでしょう。
天神というのは倭国豪族であり、仏教に帰依した豪族が出雲族を助けるのでした。
出雲族に味方した神の子孫が紀の国に大領として住んでいるのです。
同じく名草郡少領となったのは大伴擽津連で、次ぎの前少領とみえる榎本連とともに大伴一族です。
出雲族に協力した倭国豪族でした。
大伴氏と並んで少領となつた海部直は、恐らく出雲族に随伴した海部を統括した氏族で、丹後国
与謝郡籠神社に祝として奉仕する海部直の一族でしょう。
この一族は但馬にも分布し、姓氏録左京神別、天孫条に【但馬海直。火明命之後也】、
また「先代旧事本紀」天孫本紀に【(火明命の)六世孫建田背命。…海部直。・…但馬国造等祖】
(日本古代氏族辞典)としています。
火明命が大国主の子とするのは播磨風土記であり、継体朝閨閥として活躍する尾張連や継体
子弟の養育に当たる多治比連も火明命の子孫であるという。
こうして見ると、和歌山県に紀氏を滅ぼして入ったのは、大国主氏族と手足となつた高句麗氏族、
それに仏教に帰依し出雲勢力に荷担した大伴氏族とこれに随伴した氏族たちでした。
出雲系の人達、大伴氏、高句麗帰化氏族のメンバーが揃っています。
この顔ぶれが継体天王を支えた氏族だつたのでした。
別の資料(古代人名辞典)に出てくる和歌山県の人名は那賀郡の戸主に大伴連伯万呂や
那賀屯倉を司つた仲丸子連(大伴氏一族)などの大伴氏。
また名草郡の擬少領牟佐村主(「呉孫権男高之後也)左京諸蕃・高句麗系カ)などの名が見え
高句麗系をふくむ出雲族と大伴氏族が混在していたことが窺われます。
この地には、和歌山市伏虎城付近で出土したと伝える双竜環頭太刀と獅噛環頭太刀がありました。
市内丘陵地は古墳時代後期の大群集古墳が存在する。
(伝 岩橋千塚古墳群出土の革袋状須恵器)和歌山市立博物館
ついでに和歌山市の式内神社名を見ておきます。
(名草郡) 日前神社・ 国懸神社 二社一所の神、元来の神名は大国主神・少彦名命でないかと。
伊太祁會神社 大国主の兄、スサノオの子五十猛命を祭る。
大屋都比売神社 スサノオの子を祭る。
都麻都比売神社 スサノオの子を祭る。
伊達神社 出雲には韓国イタテ神社が多くあり、元来は中国東北部の神という説あり。
(有田郡)有田市 須佐神社 スサノオを祭る。
南部川村 須賀神社 スサノオを祭る。
(牟婁郡) 本宮町 熊野坐神社 スサノオを祭る。
ここには出雲の神様が集合しているでしょう。
それは渡来人たちと大伴氏が武内宿禰系の紀氏を滅ぼして、この地を占領したからです。
和歌山県を占拠した後、継体天王の大和主要攻撃路となつたのは紀の川沿いの道であったの
だろうと思われます。神武東征説話では太陽を背にするため、熊野村(現在の新宮市)に廻り込ん
で熊野川沿いに進んだという。
この道には新宮市に熊野速玉神社、本宮町に熊野本宮大社があつて、出雲の熊野神社を勧請した
神社があります。この神社の御使いは八咫烏で、これを印刷した午王宝印が最高の誓紙とされたのは
「スサノオがこの国を奪うことはしない」と誓い、それを守ったからでした。
そうしてみると神武東征の道ではなくて出雲族の進撃路の一つではなかつただろうか。
須賀神社のある和歌山県南部川村や渡来氏族名の日置川町・串本町の地名にある「出雲」や
「出雲崎」なども、それぞれ出雲族の上陸した場所と言えるのでしょう。
(御坊市付近の古墳・遺跡から出土した遺物。「紀南の古墳文化」より。御坊市には高城山がある。)
もちろん和歌山県側だけでなく、奈良県北部方面・三重県名張方面や河内側からの攻撃もありました。
畿内包囲網を作るため慎重な行動をとつたから、各方面から一斉に攻撃をかけたに違いない。
なんといつても、倭国の内情を熟知した大伴氏や久米氏が出雲軍を先導したのでしょうし、
八咫烏の旗印を掲げた鴨県主がその後に続いて行ったのでした。
検証・奈良県東南部での出雲勢力
神武東征説話では、吉野町から大宇陀町へと侵入していった様子が描かれていました。
これらの地は奈良県南東部の櫻井市や明日香村にほど近い場所です。ここには出雲系の神社や
大伴氏の神社がありました。代表的な式内社を挙げておきましょう。
大名持神社(奈良県吉野郡吉野町・祭神大名持御魂神、須勢理比売、少彦名命)
高桙神社(奈良県吉野郡吉野町・祭神高皇産霊神)
吉野町から櫻井市の方面には、
八咫烏神社(奈良県宇陀郡榛原町高塚・祭神建角身命)
高角神社(奈良県宇陀郡大宇陀町上守道・祭神高倉下命)
椋下神社(奈良県宇陀郡榛原町福地・祭神高倉下命)
と神武東征説話に出てくる神々のお社がこの地にありました。出雲の勢力が目指したところは、
最後に倭国大王が立てこもる奈良県の要害の地、櫻井市東部の山岳地帯であつたのでしょう。
書紀に倭国の諸豪族の滅亡記事が載るのは雄略紀で、この方は倭の武王に比定される人物ですが、
宮殿は「長谷の朝倉宮」(現在の桜井市岩坂付近カ、朝倉宮伝承地の標識がある)ですし、
大長谷若建命とも申し上げる方です。長谷がゆかりの方でした。
さらに書紀で描かれている王朝最後の大王は武烈大王だと思われますが、この方の宮も
「長谷の列城(なみき)宮」(:現在の櫻井市東部)といわれ、戦時体制下の城が宮となつていたと
想像されます。つまり奈良県東南の地は倭国大王の宮があつた場所なのです。
『東征記には宇陀の首長であつた兄猾(えうかし)の誅殺を終えた後に、宇陀の高倉山に登って
山頂から大和を展望したところ、国見丘(現在の経が塚山か)に敵軍が、さらに磐余邑(櫻井市)に
兄磯城(えしき)の軍が充満していたという。
磐余は後に継体天王の宮となった場所、弟磯城の説得に成功し、忍坂・墨坂から敵を挟み撃ちに
兄磯城を斬り殺した。
頑強に抵抗した大和勢力もとうとう最後の決戦になり、敵首長を倒したという。』
倭国大王の宮付近が最後の激戦地となりました。
神武東征説話に継体軍の進撃状況が入っているという指摘は、複数の方が述べていられます。
神武紀にみえる「倭国の磯城邑に磯城の八十たけるがいる」という言葉を問題視する学者もいる。
なぜここに倭国が出てくるのか、さきにあげたように神武紀には「日本の国」という書き方もしているので、
日本の勢力が倭国の勢力を滅亡させたのが、東征説話ではなかつたのだろうか。
また、この地は出雲族・高句麗氏族の居住地の一つに分類されるようです。
奈良県東部・桜井市から吉野町にいたる広い区域には出雲系神社の集合体がありますし、
近鉄長谷寺駅の南方には「狛」という地名があります。
狛の地を北へ流れる川の名は「狛川」といいますが、この川が初瀬川に合流する辺りの地名が
「櫻井市出雲」であり、榛原町には「高井」の地名があつて「上檜牧」、「高井関」が後に設けられた。
「高城」の地名もある。高城については後述。
神武天皇の歌「楯並めて伊那佐の山の木の間ゆも・・」にある「伊那佐山」も出雲の地名から
とられたのではないですか。
桜井市大字池の内、稚桜神社本殿右には「高麗神社」が鎮座していられのでした。
倭国時代が変わりこの付近は「狛」の居住する場所とかわつたのです。かつての倭国が大きく
変換したと考えるべきでしょう。
激戦地となつた忍坂には、忍坂連(火明命後裔)が入りました。播磨風土記に大国主の子と書か
れる方で、河内のタジヒや尾張連と同祖です。
『また東征記では、敵首長が討たれた後でも大和で頑強に抵抗する豪族たちがいたことを語っていた。
添県の波多丘さきに新城戸畔(にいきとべ)、和珥の坂下に居勢祝、長柄丘に猪祝、
葛城の土蜘蛛らを誅殺したという。』
添県は現在の奈良市から大和郡山市にかけての地域、和珥の坂下にいたという居勢の本拠地は
奈良県西南の高取町古瀬附近であつた。
つづく長柄は御所市名柄の豪族居館遺跡附近、葛城も同所であろう。
かれらに代わって和珥の地には、物部氏が入り石上神社の祭祀権を引き継いだし、継体天王は
随伴した青海首族が海上運送にはたした功績を称え、大和の地を与えられたのでしょう。
大和神社の所在地です。
書紀武烈紀には倭国豪族平群臣真鳥・鮪(しび)親子の滅亡記事をのせている。曰く「大臣の
平群真鳥臣は、もつぱら国政をほしいままにして,日本に王として臨もうとしていたと書く。
そして子の鮪とともに大伴金村によつて賊として殺されたという。」
ここにも「日本」ということばが使われているが、平群臣や葛城臣は倭国の豪族として大王の為に、
また滅びいく倭国の為に命を投げ出し、働いたのだろう。それを賊と書く書紀は許せないものがあります。
桜井市北側の三輪山山麓には、三世紀後半代この地に進出して来た倭国大王卑弥呼によって
新しい都が建設されたと考えます。
代々の大王の墳墓が付近に群集するこの地で、美しくそびえる三輪山が倭国の首長たちにとつて
信仰の対象となったのは想像できます。倭国の聖地だつたのです。
しかし、倭国は崩壊し日本国となつた。大王は天王と呼称を変えました。
象徴的なことは、中国山東省の戦闘の神といわれる兵主神社が山麓の穴師に建てられたことです。
倭国の聖地であつたこの地に中国・北燕国王朝ゆかりの神が祭られました。
穴師坐兵主神社(奈良県桜井市穴師町・兵主神、若御魂、大兵主神)
各地に建てられた兵主神社の最終目的地、倭国の首都である大和にこの神社が建てられたことは
平定が完了したということだつたのでしょう。
日本書紀にはつぎの言葉が記録されている。
−【もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することができただろうか。
私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功をあげることができたのだ】
【そこで大巳貴神は神宮を三諸(三輪)に造営して住まわせられた。これが大三輪の神である。】―と。
大物主神は大国主神と混同されることが多いようですが、もちろん別人であり、渡来人の王であつた
のです。そして平定が完了したのが、6世紀初頭ごろのことだつたのではないでしょうか。
半島の倭国構成国に動揺がはしつて、任那の一国であつた鶏林国が独立を宣言し、北方の
元山付近を都にしていた古・新羅の国号を襲名するのか503年ですから、列島の倭国が壊滅し
出雲勢力が大和に入ったのは六世紀初頭だつたのでした。
紀・記では倭国滅亡のことは何一つ書いていません。そして倭国大王の血統が続いているかの
ように装いました。
「倭国」から「日本」に国号がいつ変更したか、王の名称が「大王」から「天王(天皇)」にどのように
改称されたのか全く記録しなかったのです。
記録すれば、王朝の交代について言及する必要がありますし、なんらかの理由でそのようなことが
書けなかったのでした。
国号が変更されたことは、王朝の交代によつて起きた出来事です。
倭国という国号が消えたのは、出雲勢力によって大和が占領されたからだつたのです。
本書を読んで大体のことがお分りになりましたか。
念のため奈良県東南部の城上(しきのかみ)郡出雲系式内社を挙げておきましょう。
● 大神大物主神社(奈良県桜井市大字三輪・祭神大物主神、配大巳貴神、少彦名神)
● 巻向坐若御魂神社(奈良県桜井市穴師町・祭神若御魂、大兵主神)
● 志貴御県坐神社(奈良県桜井市三輪字金屋・祭神大巳貴神)
● 狭井神社(奈良県桜井市三輪字狭井・大物主神・亊代主神他)
● 忍坂坐生根神社(奈良県桜井市大字忍坂・祭神少彦名命)
● 素戔鳴神社 (奈良県桜井市大字初瀬・祭神素戔鳴尊)
● 宗像神社 (奈良県桜井市大字外山・祭神宗像三姉妹)
城下郡(しきしも)には
● 村屋坐弥富都比売神社(奈良県磯城郡田原本町蔵堂・祭神弥富都比売命、配・大物主神)
大伴氏の女で渡来人の妻となつた三穂津姫命と夫である大物主を祭る。
高市郡にも出雲系式内社がいっぱい。全部挙げられないので次の神社に代表してもらいます。
● 高市御県坐鴨亊代主神社(奈良県橿原市雲梯町・祭神亊代主神)
● 天高市神社(奈良県橿原市曽我町・祭神亊代主神)
● 大歳神社(奈良県橿原市石川町宮の本・祭神大歳神、大山咋命)
● 飛鳥坐神社(奈良県高市郡明日香村神南備・亊代主神,高皇産霊神他)
● 加夜奈留美命神社(奈良県高市郡明日香村栢森・祭神大穴持命)
継体天王の宮所在地は紀・記に「伊波礼の玉穂宮」と書かれていて、現在の奈良県桜井市池之内
付近だと言う。この宮殿を取り巻く地域に出雲神を祭る神社が多数あるのは意味があることでしょう。
倭国の都である大和でこんなに出雲神を祭る神社が存在することについて、古代史の専門家が
この疑問に明白の答えを出したことはないのです。
「古代史の旅奈良」を書いた直木孝次郎氏は次ぎのように語る。
−【三輪山の神がなぜとくに出雲の神と結びつけられたのか、天照大神とはなぜ結ばれなかった
のか。】【(その)疑問はますます深くなる。どのような事情が存するのか、日本古代史の重要問題が
そこに秘められているように思われる。】−(岩波新書)
神武東征説話が継体天王進撃説話でないかと語った方のひとりが直木氏であつた。
三輪山の神だけでなく、もつともつと数多くの大和における出雲神社のことを取り上げなくてはなら
ないでしょうし、そのことが日本古代史の謎を解く鍵でもあることはまったく同感なことです。
なぜ出雲の神社が大和にあるのですか。その謎の全面的な解明に本書がなり得るとは思いませんが、
いささかでも利するところがあればと思うのでした。
● 呉津孫神社(奈良県高市郡明日香村大字栗原・祭神呉津孫神、木花咲耶姫命他)
雄略紀に渡来した衣縫たち呉人を安置した場所である。この呉が句麗で高句麗国に残留していた
北燕国遺民を呼び寄せ住まわせたのか、それともに海上で別れて「南宗」に向かった北燕国遺民を
再度南中国から連れ戻したか迷うところである。
馮氏一族は南中国で一家をなし、後世日本仏教のため、「願真和上の日本渡航」に多大な貢献を
することになります。馮一族が日本人氏名を語り伝えていたことも注目点でしょう。
衣縫たちを連れてきた身狭村主青や檜隈民使博徳も当然北燕国から高句麗を経由して列島に来た
新漢人であつたに違いない。
付近に発見された壁画古墳「キトラ古墳」の天井に描かれている星座図は「北朝鮮の空」を示すと言う。
また、継体期に造寺されたと伝える鞍作部村主司馬達止の坂田原草堂も新漢人たちの安置した
とされる稲渕もこの付近です。
この神社祭神の木花咲耶姫命はもちろん大国主命の奥さんであつて、ニニギノミコトの妻ではない。
検証・奈良県西南の出雲勢力
奈良県西南の地は、かつて倭国大豪族葛城氏の占拠した場所でした。
葛城氏は継体天王出現とともに滅亡し、その郎党の四邑の民(秦氏)は戦いに敗れ、生き残りの者たちは
奴婢として分配され仕事に従亊する運命となりました。
代わってこの地に入ったのは、和名抄「葛上郡日置郷」に示される高句麗氏族たちと出雲勢力だつた
のです。この付近の出雲式内社を挙げましょう。
● 鴨都波神社(奈良県御所市大字御所・祭神亊代主神と妹下照姫命)
● 葛木御歳神社(奈良県御所市大字東持田・祭神大年神、高照姫命)
● 多太神社(奈良県御所市大字多田・祭神太田田根子)
● 長柄神社(奈良県御所市大字名柄・祭神下照姫命、高照姫命)]
● 高天彦神社(奈良県御所市大字高天・祭神高皇産霊神、市杵嶋姫命他)
● 大穴持神社(奈良県御所市大字朝町・祭神大巳貴神)
● 高鴨神社(奈良県御所市大字鳴神・味すき高彦根命、下照姫命他)
と葛城にあるのが出雲系の神社で、五世紀代の豪族葛城氏族を滅亡させたのが出雲を主体と
した人達であることは明白なことでしょう。
継体天王を支えて、この地に入ったのが出雲族です。大和を征服して継体天王は大国主となつたのでした
つまり大国主とは、日本国の主のことではありませんか。
少しこの付近の氏族名を挙げておきましょう。
賀茂君(高賀茂朝臣)は大国主神後裔、大和国葛上郡(現在の御所市一帯)に居住し高鴨神社を
奉祀する。
長柄首は「天乃八重亊代主神之後也」(姓氏録大和国神別)とみえ御所市名柄の地を本拠とし
長柄神社を奉祀し、また高市御県坐鴨亊代主神社の社家にも長柄首の名があります。
高田丘(大和高田市岡崎)の地を本拠とした高句麗氏族は姓氏録に、「高田首。出自高麗国人
多高子使主也」(右京諸蕃下)
氏人には白雉四年(653)の遣唐大使・高田首根麻呂、壬申の乱(672)で天武天皇(当時大海人
皇子)の吉野山脱出を鈴鹿に迎えた高田首新家らが有名である。
のちに新家の孫・足人は高田寺の僧を殺した罪を問われる。
葛上郡日置郷には、姓氏録大和諸蕃「日置造。高麗国人伊利須使主之後也」
同じく「日置倉人。伊利須使主兄許呂使主之後也」
同族には鳥井宿禰、栄井宿禰、吉井宿禰、和造など。
葛上郡桑原郷には、左京諸蕃「桑原村主,出自漢高祖七世孫万徳使主也」
万徳使主を祖とする氏族は攝津にいて、
姓氏録攝津諸蕃に「桑原史。桑原村主同祖。高麗国人万徳使主之後也」
また、同書山城国諸蕃「桑原史。出自狛国人漢I也」とあつて、桑原村主は高句麗人の可能性が
高いでしょう。
672年に起こった壬申の乱には、大伴吹負(ふけい)に助力して大和で活躍する三輪君高市麻呂・
鴨君蝦夷らの姿がありました。
彼らは「大国主神後裔」を名乗る氏族です。大和で近江側の部隊と戦闘を交えた大伴の軍には、
五世紀代に大和いた倭国豪族たちの姿はすでになく、出雲族の名前があげられていることに
注目して頂きたい。
畿内が出雲族によって占拠された時代があるという検証にもなりうる亊だろう。
御所市柏原には鞍作一族の居住も知られる。
もちろんこれらの地は五世紀最大の倭国豪族そして倭国大王に皇后を出す氏族である葛城氏の
基盤であつたことは言うまでもない。その豪族を打ち倒してこの地に入ったのが渡来氏族を主体と
した出雲勢力であったのだろうし、出雲勢力を支援した大伴氏であつた。
神武紀には「剣根という者を葛城国造に任ぜられた」と書いている。
葛城国造となつたのは高皇産霊神五世孫の剣根命という。
それでは神武紀からずーと葛城の地が大伴氏の領土だったのですか。
そうではないでしょう。五世紀には倭国の大豪族葛城氏の領地だつたのではありませんか。
神武紀にそれぞれ分配したのは、倭国豪族の土地だつたのでしょう。
三面相なのです。神武こそ継体なのでした。
剣根命の後裔氏族として大伴系の葛城直、葛城忌寸らの名が残つています。
蘇我氏も何らかの役割を果したのかも知れない。
「葛城県は私のもともとの居住地であり、その県にちなんで姓名を名乗っています。
そこで永久にこの県を賜つて、私の封県(よさせるあがた)としたいと思います。」と。
「推古天王は聞き入れにならなかった。」と書紀に書いている。この話がどこまで真実であるか
分からないのですが、葛城の土地に五世紀の豪族滅亡後、多くの部族が入ってきたことは確かな
ことでしょう。
書紀・欽明紀にみえる「大和高市郡に、韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉(今の奈良県橿原市
見瀬)を置く。」との記事は、雄略紀の身狭村主青の存在がありますが、それよりも継体王朝後の
「国譲り」に関連するのだろうと思われる。
531年継体王朝がクーデターによつて倒れた後に、「国譲り」が行われて高句麗氏族は欽明
天王に帰順することになる。
「長背王。高麗国王鄒牟(一名朱蒙)之後也。欽明天皇御世。衆を率い投化。顔美しく、軆大きい。
其の背が高いので名を長背王と賜った。」(姓氏録右京諸番下高麗)というのも欽明に降伏した
高句麗氏族の話だろう。
神話では、「国譲りの時帰順した首魁は大物主神と亊代主神である。この二はしらの神は
「やそよろずの神」を天高市に集めて、この神々をひきいて天にのぼり、その赤誠を披露された」
(書紀)というのが、この時の出雲族・高句麗氏族の投化であつた。
このことに関しては後に話が出てくるのでその時にお話しますが、奈良県橿原市曽我町には、
天高市神社(祭神亊代主神)がある。欽明天王によつて集められた高句麗氏族は再び日本列島に
再配置されて、日本人として帰化して行ったのでした。
検証・斑鳩の地域の出雲勢力
書紀では斑鳩の前面に広がる額田邑に高句麗氏族が入った時期を「仁賢天皇六年」(五世紀末ごろカ)
とし、次ぎのようにいう。
−【六年の秋九月に、日鷹吉士を遣わし高麗に行かせて巧手者(てひと)を召された。…・・
この歳、日鷹吉士が高麗より帰ってきて、工匠の須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。
いま大倭国の山辺郡の額田邑(今の大和郡山市額田部北町・寺町・南町付近)にいる熟皮高麗
(かわおしのこま)は、その子孫である。】
額田邑に高句麗氏族が居住していたは事実でしょうが、この天皇の時代に高句麗から技術者を
連れてくることが可能であつたとは思えません。
朝鮮半島で倭国と高句麗は激しく対立していましたから、人民の一人二人でも相手がわに渡す
ことなど考えられないでしょう。ましてや技術者を渡すなど、倭国大王とその国がそれほど友好関係
であつたとは思えないからです。
そうすると、やはり出雲からこの地に入ったのではないですか。
この氏族を統括したと考えられる額田部臣は神魂命後裔氏族で、鳥取部連・鴨県主・倭文宿禰
などと同祖。出雲の岡田山一号墳(島根県松江市大草町)出土刀剣銘にみえる出雲族でしょう。
とくにこの付近は河内との境に当たり、大和川を遡行した集団が住みついたことが考えられます。
北葛城郡上牧町の字名には現在も「高」があり、この付近から下牧にかけて、馬の飼育に従事した
狛人の存在が想定できるし、奈良時代の継体子孫・威奈真人大村の墓誌出土地、奈良県北葛城郡
香芝市穴虫山は墓誌に書かれている「慶雲四・十一大倭国葛木下郡山君里狛井山岡に葬られた。」
に相当するのでしょう。香芝市穴虫山は昔、狛井山と呼ばれていた。
香芝市は上牧町の西隣に当たるし、狛井は狛の居住を示す狛居です。
そうするとどうしても斑鳩の里にある「藤ノ木古墳」の被葬者の存在が気になります。
渡来氏族の居住地を見下ろす斑鳩の丘・「藤ノ木古墳」の被葬者が出土品から渡来系の人物
であることは、すでに衆知のことです。
そのことからこの土地に宮を建てた厩戸皇子・上宮家と「藤ノ木古墳の主」とどのような関係で
あつたか、が謎として残ります。
なぜ上宮家が滅亡しなければならなかったか納得のいく説明をする学者はいない。
もつとも六世紀から七世紀前葉にかけて信じられる歴史書や記録がなく、帝紀すら信用できない
から謎のままなのでした。
いつかは解明されるかもしれません。ただ仏教会から崇められている人物は「武塔天神・牛頭天王
のスサノオ」、「大黒天の大国主」、「聖徳太子の厩戸皇子」の三人だということを述べておきたい。
聖徳太子の事績が後世の作り物だとしても、書紀作成に従事した人達にとつては厩戸皇子や
上宮家一族は記憶に留めたい、惜別の人物であつたのではないか。という思いがします。
田原本町には神武子孫を自称する多氏がいました。
古事記編纂をした大朝臣安万呂はこの氏族の出身だから、神武の子神八井耳命の母方を大物主神
の娘とする古事記の記述をとりたいと思います。(書紀では事代主命の娘となつている)
出雲に遅れてやって来た渡来神が大物主神であることを思えば、この多氏の性質がわかるのでは
ないでしょうか。後に九州、東北と展開する氏族の話は後述したいと思いますが極めて渡来色の強い
氏族、本質は騎馬民族の高句麗氏族の血を受け継ぎ、渡来氏族を束ねたと推定される。
百済王子の豊璋の奥方となったのは、多臣蒋敷(こもしき)の妹であり、百済滅亡後、
「豊璋は数人とともに船に乗り、高句麗に逃げ去った。」と紀天智紀に書いている。
奥方の親戚筋を頼ったと考えるのですがいかが。
そうでなければ、百済王が高句麗に向かって逃亡するわけがないのです。
検証・出雲氏族の畿内制圧、河内の氏族・大和川右岸
上牧町にある「高」や香芝市穴虫山の旧名・狛井山という地名の連想で、この付近から下牧の
あたりまで、高句麗氏族が住んでいたのではないかという話をしました。
ついでに大和川を下って河内の国にどんな氏族がいたのでしょうか調べて見ましよう。
河内に入る川の右岸には高井田という地名があり、高井は高居(高句麗氏族居住地)であつたと
思われます。渡来氏族の群集古墳群でよく知られている。
また和名抄「河内国大県郡巨麻郷」(大阪府柏原市本堂付近)の郷名があつて
大狛神社(大阪府柏原市本堂・祭神大狛連、配大山咋命、木花開耶姫神)が鎮座する。
−【狛人。高麗国須牟祁王之後也不見】−
−【狛染部。同上 不見】−(未定雑姓河内国)などの高句麗族がみえる。
さらに北側には和名抄「河内国若江郡巨麻郷」(東大阪市西南部から八尾市北西部)があつて、
高井田という地名がここにも存在します。
● 鴨高田神社(大阪府東大阪市高井田・祭神速須佐之男命、大鴨積命)
● 許麻神社(大阪府八尾市久宝寺・祭神素戔鳴尊、配高麗王霊神、牛頭天王、許麻大神)
許麻は「こま」と呼び、高句麗氏族のことです。この氏族が出雲神を祭祀するのは日本列島どこも
同じなのです。
出雲に招かれ、出雲氏族を長としたのが、列島の高句麗氏族の特徴でした。
だから彼らと同じ時期に出現してくる継体天王も出雲と関係の深い人物だと思うのです。
八尾には刑部という地名があります。姓氏録・河内国諸蕃に
−【刑部造。呉国人季牟意瀰之後也。】−とあります。この場合の呉は句麗なのでしょう。
河内国高安郡(大阪府八尾市東部一帯)の地名にもとづく
−【高安漢人。出自高麗国人大鈴也】―(姓氏録、摂津国諸蕃)
−【高安下村主。出自高麗国人大鈴也。】−(姓氏録、右京諸蕃下)
と中河内は渡来氏族が蟠居していました。
高安山の麓、郡川には郡川西塚古墳があつて、この古墳出土鏡は関東の狛江市亀塚古墳出土
鏡と同笵品といわれます。
狛江市には刑部氏の蟠居が知られると同様に当地にも刑部の居住があり、同族と認識して良い
のではないでしょうか。
難波方面には
−【難波連。高麗国王好太王之後也。】−(姓氏録、右京諸蕃下)などと一諸に
火明命後裔の津守連が西成区から住吉区にかけて勢力を有していました。
大阪府の北側・茨田郡から讃良郡には茨田連(まんだ)が有名。
−【茨田宿禰。多朝臣同祖。彦八耳命之後也。…】(姓氏録河内国皇別)−
−【茨田連。多朝臣同祖。神八井耳命男。彦八耳命之後也】(右京皇別)−
と架空の神武天皇の子を始祖とする。母系は大物主神の女(一説に亊代主神の女)である皇后の
ヒメタタラですから、この始祖説は作られた系譜に基くもので氏族は渡来系の可能性が高い。
● 堤根神社(大阪府門真市宮野町・祭神大巳貴命)は茨田連の祖神を祭る。
河内の氏族・大和川左岸
大和川左岸には出雲族に味方した大伴氏、物部氏の一族や志貴県主など。
● 志貴縣主神社(大阪府藤井寺市国府・祭神神八井耳命)
前出した大物主神の女ヒメタタラ出生の子を祖とする多朝臣同祖の氏族。
河内国の国府は藤井寺市に置かれ、この神社は名神大の地位にある。
● 伴林氏神社(大阪府藤井寺市林・祭神高皇産霊神、配天押日命,道臣命)
志紀郡拝志郷を本拠とする大伴氏の一族・林連が祖神を祭祀した神社。
● 辛国神社(大阪府藤井寺市藤井寺・祭神ニギハヤヒ命)
物部の一族・辛国連が祖神を祭祀した神社。物部が半島の屯倉管理に派遣されていたので、
辛国連を名乗ったという(続日本紀)
本拠地は和泉国和泉郡唐国(大阪府和泉市北松尾町唐国)という説もあるので、
両方に領地を有していたのでしょう。
● 丹比神社(大阪府南河内郡美原町田治井・祭神火明命他)南河内丹比郡の郡名になつた氏族。
多治比連は大国主神の子火明命を祖(播磨風土記による)とし、出雲国郡領級氏族・蝮部臣(
たじひべおみ)を始め越中国、播磨国、相模国、常陸国など広い地域に分布していたことが知られています。
また、継体天王の子弟養育に当たった氏族でもありました。
多治比公(壬申の乱後真人姓を賜る)氏は紀・記に「(宣化天王皇子の)上殖葉皇子。また名椀子。
是丹比公。偉那公凡ニ姓之先也」と書かれる。
公、臣連、を頂点に部民にいたる氏族構成をする氏族で、広島県山地の三次市付近に地名を残して
いるのを本書でも紹介しましたが、そこを始めとして東北まで列島各地に分布していました。
この分布は継体天王の列島平定に無縁ではないことは、今まで読んでいただければよく分る事でしょう。
● 美原町の西隣、大阪府堺市日置荘原寺町にある萩原天神は、萩原日置天神ともいわれ、
旧日置西村の大庄屋日置氏の氏神「天櫛玉命」を合祀している。
櫛玉が奇魂であり、渡来神であることは既に述べています。
さらに、西隣は堺市土師町で土師氏が出雲から来た氏族であることは、ご存知の通りでしょう。
このように河内の国には、今まで述べてきた人達が豪族となり、それまでの倭国の豪族がいなく
なつていることにもご注目下さい。
継体天王が応神大王の五世孫でない証拠
五世紀大王級墳墓である誉田山古墳は、大和川左岸の大阪府羽曳野市誉田にあり一般的に
「応神天皇陵古墳」とされているものです。
墳丘全長415m,容積は1,433,960立方mで日本列島最大、倭国大王の墓であり、
倭国の聖域であつたことは確実でしょう。
時代は変わり、なんと聖域であつた天皇陵の正面前には渡来人の祖廟が建てられました。
聖域の否定です。三輪山に渡来神が祭られたことと同様のことが河内の聖域でも行われたのでした。
● 當宗神社(まさむね、大阪府羽曳野市誉田・祭神現在は素戔鳴尊)
現在の祭神は素戔鳴尊であるが、古くは當宗忌寸の祖、山陽公だつたという。
姓氏録に−【當宗忌寸。後漢献帝四世孫山陽公の後也】(左京諸番上)−
當宗忌寸はのちに宿禰姓を賜り、皇族(桓武天皇皇子仲野親王妃・班子女王の母)に繋がる家系
となつたが、楽浪郡(高句麗の都ピョンヤン)から渡来した氏族でした。渡来後、誉田付近の豪族
となったのでしょうが、
継体天王が応神大王の子孫であったならば、自分の祖先の廟前に渡来氏族の神社を建てさせる
はずがない。そんなことは絶対に許さなかったに違いない。
ここでは、逆な史実を示しています。倭国聖域を汚す行為がおこなわれた。
このことから継体天王は渡来氏族の王であつて、倭国大王の血を引いていないと断定できるでしょう。
継体天王の創った日本国はかつての倭国を継承したものではなかったのです。
継体天王が渡来人の子孫であることに懐疑的な人達はいるのですが、そんな人達は
「三輪山麓の大神神社」や「當宗神社」の存在をどのように説明するのでしょうか。一度聞きたい。
また天王の推進した倭国の聖域を否定する行為が、元倭国豪族の反感を誘い531年のクーデターの
発生に繋がったのではないかと想像しています。
さて、古事記には大国主神が出雲を出立して畿内に向う様子を次ぎのように表現していました。
−【出雲より倭国に上り坐さむとして、束装(よそお)ひ立たすとき、片御手は御馬の鞍にかけ、
片御足は其の御鐙に踏み入れて…・・】−と。
この表現は鞍や鐙などの馬具が出てくることから、大国主の時代が五世紀以後であるという
「乗馬姿の大国主神」として、すでに述べられています。
そこで、ここでは「出雲より倭国に上り坐さむ」という語句に注目して頂きたい。
一般的にこの倭国を「やまと」と読んでいるようですが、これは「倭国」で良いのでしょう。
大国主神が平定した相手はだれでもない。ここに書いているとおり「倭国」なのでした。
古事記は正直に「倭国を平定した」ことを書いています。
出雲から出発して、倭国豪族を打ち払い、そして大和に都入りした人物はこの国の主である「大国主」
でしょうし、継体天王だつたのです。
8世紀の和歌山県に住む豪族や7世紀後半・壬申の乱に大伴吹負(ふけい)に助力して大和で
活躍する三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷ら出雲勢力後裔たちの姿を紹介しました。
5世紀に畿内にいた倭国豪族たちは消えて、別の氏族に取って代わられたのです。
だから「大国主神=継体天王説」の考え方として、ここから逆に古い時代に遡るのも良いのかも
しれません。
大和や河内・京都府にいる出雲族が、いつ上京して来たのか。だれに率いられてきたのか。
どのように大和に入ったか。ということをです。
本書では時間を追って最初から書きましたが、大和から出雲方向に逆に考えていつても面白い
のではないですか。いちどお確かめ下さい。