第10章 継体天王の即位と鶏林国独立・新羅を襲名
五世紀末に行われた宗教戦争によって倭国豪族は二分して戦い、倭国は戦争に敗れ、解体して
日本国に移行しました。
かつての大王という王号は消え「天王」という宗教色の強い王号に変わりました。
この王号を名乗ったのは後に継体天王とされる方で、書紀継体紀によれば507年二月楠葉宮で
即位したという。
楠葉という地名を書紀は下品な表現で卑しめていますが、この地は先に挙げた河内国茨田連の
領地であり、さらに筒城付近は上狛、下狛、多賀、加茂など高句麗氏族や出雲関係氏族で固めた
地域であることはこれまでの記述で明らかニしています。
書紀は楠葉から筒城や弟国に遷都があつて、即位してからニ十年後にやつと大和入りを果したように
書きますが、継体紀以後7世紀前葉までの書紀記述は納得できるものではなく、年月も本来の位置
から移動されていて信用できないものです。宗教記事も移動されていますし、「九州磐井の乱」記事も
五世紀末のことが継体紀に入っている。
そういうことを考えると、継体天王の所在地・楠葉、筒城、弟国は出雲から出立して大和に上る過程の
五世紀後半から末にかけての宮所在地だつたのでしょう。それに継体天王の即位年507年という
のもまことに疑わしい。 本当は503年だつたのでは、東北アジアに激動が走ったのがこの歳ですし、
欽明天王の即位年のあやふやさに関連して各天王の即位年を構築し直すとどうしても503年という線を
考慮しないわけには行きません。
503年という歳・継体の即位年
和歌山県隅田八幡宮は奈良県県境に接する橋本市に所在しています。この神社所蔵の人物画像鏡
には次ぎのような四十八字の銘文がありました。
−【癸未年、八月日十大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿、遣開中費直、穢人今州利
二人等取白上銅二百旱作此鏡】−
いろいろな読み方がありましょうが、男弟王が後の継体天王。癸未(みずのとひつじ)年が503年という
のが定説であると考えます。
ところで、ここに出てくる斯麻という人物はなんの為にこの鏡を作ったのかというと、
それは「お祝い」のためであることは文面から察知されるでしょう。
503年は畿内においてお祝いすべき行事が行われる歳であつた。その月は八月です。
半島と列島の古代の暦は秦暦(せんぎょく暦・中国上古の伝説的帝王の作られた暦。春種を播き、
秋収穫する季語に合致する暦)を用いていましたから、現在用いられている太陽暦に換算すると、
春正月は四月にあたるし、夏四月は七月にあたるものです。
「せんぎょく暦」十月は年の最初の月・歳首で、月名称の「神無月」は、全国から神々が新年の
会合のため出雲に参集する「出雲・神あり月」なのです。
「せんぎょく暦」の春正月は、四月の立春で月名称の「むつき」は稲の実を水に浸す「実月」と
いわれています。
六世紀初頭の鏡銘の「金石文」は古い暦によらなくてはなりません。
ちなみに農業関係記事の多い百済本紀をのぞいてみると
【春三月、ひどい旱魃で、麦が実らなかった。】(巳婁王十四年)
【秋八月、霜がおりて、豆類が枯れた。】 (巳婁王二十三年)
【夏四月、ひどい旱魃になったが王が東明廟に祈ると、雨がふつた。】(仇首王十四年)
【夏、ひどい旱魃で麦が実らなかった。】(古尓王十三年)
こちらは現代の月で考えるとおかしい記述ですが、いずれも季節の春夏秋を表現しています。
つまり巳婁王十四年の春三月は麦の実る夏に近い太陽暦六月をしめしているのでした。
以下豆類の枯れた秋八月は、太陽暦の十一月、
夏四月は太陽暦の七月をいいます。
(現代の麦の取り入れは、芒種:6月6日から始まる夏至の前15日間をいい、
田植えと麦刈りをする時期(韓国ガイド)という。)
【春正月、ひどい旱魃で樹木がみな枯れた】(古尓王二十四年)
もちろん冬枯れして木の葉が散ったのではない。新芽の生える時期四月での話。
【秋七月、霜が降りて穀物を枯らした。】(辰斯王ニ年)
【秋七月、旱魃で穀物が実らず、国民が飢える】(B有王ニ十一年)
新羅本紀でも
【秋七月、大変穀物がよくとれた。】(奈勿王ニ十一年376年)
六世紀初頭の智證王十年(509年)に、
【秋七月、早霜がおりて豆類を枯らした】とあります。 七月は太陽暦の十月です。
これらの植物の生育状況と暦を下の表(概略)で照らし合わせてみてください。
そうすると上の記事もよく分るでしょう。
暦 | 冬 | 春 | 夏 | 秋 |
秦 | 十 十一 十二 | 正 二 三 | 四 五 六 | 七 八 九 |
太 | 1月 2月 3月 | 4月 5月 6月 | 7月 8月 9月 | 10月 11月 12月 |
※ 豆の収穫期は温度変化に応じ異なるが、現代の改良された品種で太陽暦の5月20日ごろ種播き、
10月4日完熟(s60年十勝農試キタムスメ作況報告)
穀物収穫期 寒露:太陽暦10月8日ころから始まる五穀百果を収穫する時期(韓国ガイド)
寄り道しましたが、和歌山県隅田八幡宮所蔵の鏡銘「癸未年の八月」は太陽暦の十一月にあたる
ことがわかります。暦を詳細に見ると秦暦十月立冬が1月7〜8日、秋の節季・立秋が10月6〜9日、
暦の八月は11月6〜9日から始まります。
さらに文面の「日十」は、「日は十」(宮崎市定氏の解釈)で良いのでしょう。
そうすると鏡銘の日付は11月16〜19日です。
11月中ごろ(卯の日)に行われるお祝いは大君が新穀を口にされるお祭りの日。
そこで、次ぎのことば「大王年」は「大王(おおきみ)が年(とし・穀物の意)せられる」で、王が始めて
穀物を口にされる大嘗祭を現すと思われます。
つまり即位された大王が初めて行う新嘗祭のお祝いだったのでした。
現代式に文面を作りますと【503年十一月中旬、大君として、大嘗祭を挙げられるオオド王が忍坂宮に
いらっしゃるとき】となります。
年が穀物を意味することばであることは、現代でも使われ「祈年祭」は立春に穀物の豊饒を祈る祭事。
年という甲骨文字は人が粟の束を担ぐ様で表現され、「みのり」という意味であつた。
「年を祈る」とは辞典に「豊年を祈る祭」とあります。
オオドがいられた忍坂は櫻井市忍坂であろうと思われます。さきに奈良県東南という題名で附近に
狛という地名や出雲という地名があることをお知らせしました。
倭国大豪族であつた大伴氏もこの地(跡見庄とみのしょう)に進出し、継体天王をお護りしている場所
だったのです。
地名を冠する忍坂氏は連を頂点に直・忌寸・無姓までピラミツトを作る氏族で、姓氏録未定雑姓左京
【忍坂連。火明命之後也】とみえる。
あの尾張連と同祖でありませんか。大国主神の子である火明命之後裔氏族なのでした。
もちろん継体天王をお守りしこの地に入ったことはいうまでもないことです。忍坂の宮を守護するため、
この辺りに展開した氏族はこれぐらいにしてさきに進みましょう。
つづく鏡銘の文章は、
【斯麻が長寿を祈念し、開中費直(河内直という説が一般的)、穢人今州利二人等を遣わし、銅二百旱を
取りこの鏡を作る。】
お祝いを申し上げたのは斯麻という人物で、「シマの大臣」と書紀に書いている蘇我氏であろうと
思われます。
−【蘇我邸の池に島があつたから、蘇我氏が別名「シマ」と呼ばれた】−
などと江戸時代の大昔に誰かが言つたことがありますが、あまりに子供だましではありませんか。
そんなことではないはずです。
三国志倭人条に書かれている倭国構成国の一国に「斯馬国」という国がありました。
斯馬国は半島南部にあつた倭の諸国の中で最北にあつた国であり、最南界の国が奴国でした。
これらの国はもちろん倭人国で、九州の倭人国とともに倭国連合国を形成していた。
(日本列島にあつた倭国と区別して半島南部の倭人国を半島倭国と呼ぶことにしています。)
奴国は北九州に分国があり、その人達がいう「本国の奴国」の意味の「ミマナ」は、後に半島南部の
国々を指す言葉になりました。
書紀には、四世紀中ごろの百済王近肖古王(在位346〜375)と倭国の「斯摩宿禰」が外交交渉を
行い、両国が国交をひらいたことが書かれている。
この斯摩宿禰は半島倭国最北の国「斯馬国」の王でしょうし、のちに列島に領地を賜った蘇我氏の
祖先でしょう。一大卒であつた大伴氏とともに、百済に関係していくようになります。
ところで、五世紀初頭、応神大王が母の神功女王に伴われ、半島から御帰還された時、半島倭国の
豪族は随伴しそれぞれ分家して列島に領土を賜り、帰来しました。
国籍倭国の人達が海を渡ってきても、これは渡来人ではありません。
蘇我氏も紀氏・吉備の氏族も倭国籍で帰来人なのです。
ただ、帰来した豪族達が列島にいた期間は、短いものでした。
宗教戦争が起きて運命は逆転してしまつた。その事情は本書に詳しく述べています。
五世紀末の宗教戦争が起こるまで列島に住んでいた紀大磐や上道臣田狭はこの戦いで出雲軍に敗れ、
逃れて半島に引き揚げましたが、蘇我氏はいち早く仏教に宗旨替えをして継体天王に忠誠を誓った
ものと思われます。
穢人今州利の故郷は上古代、太白山脈東部の海岸部にあつた国で、311年ごろ、中国・晋国の
衰退によつて半島に高句麗・百済が出現した際に、新羅国として独立しました。倭国と争った国です。
北の新羅または東沃沮新羅(四世紀〜五世紀中?)と呼んでいます。
−【新羅国は、高句麗の東南に在り。漢代の楽浪郡の土地に初め居り、斯羅とも称えた。
魏の将母丘倹、高句麗を討ち、追い払われた人々は沃沮に逃げ込んだ。
その後、故国にかえつた人もいたが、とどまった人たちが新羅を作った。だからその民には中国・
高句麗・百済の人が混ざり合い暮らしており、昔の沃沮・不耐・穢・韓(辰韓)の地を領土としている。】
(隋書新羅条)−
沃沮から辰韓の地まで、すなわち咸鏡道・江原道・慶尚北道の北部までの南北に繋がる地域を
領土とするこの国は、倭国とは敵対関係であつたり、またときには人質を差し出していた国で、
418年倭国から逃げ帰った新羅の人質・王子未斯欣はこの国から出されていました。
その後五世紀中頃?に、この国は高句麗に吸収され新羅と言う国名は一時消えていたと思われます。
−【冥州郡(現在の江原道)は高句麗の地名であったのを景徳王の時代に改名した。】(三国史記地理ニ)−と。
冥州郡は穢の古国(古今郡国志)ですから、この地が高句麗の地名であつたのは北の新羅国が
高句麗に吸収されてしまつた証拠です。
そうすると穢人今州利は新羅時代に列島に来たのではなく、国が吸収された後、高句麗氏族の渡来
時機に一諸に渡来して来たのでしょう。
誇り高く高句麗人を名乗らず、古名の穢人と名乗っていたものと思います。
こんな話をしたのは、実は半島には新羅という国が前後に二つあつたからでした。
北の新羅に対して南の新羅は、503年に任那から独立し慶州を都とする別の国です。
同じ国名を使っているので区別が必要です。 新羅という名称を持つた国は前後に二つあつたのでした。
穢人今州利のところで、東沃沮新羅(北の新羅)を出しておきました。南の新羅は次項に出てきます。
さて、503年の十一月中ころ大和で行われた大嘗祭が、継体天王の即位を広く内外に宣伝するもの
であつたのでしょう。それと同時に大嘗祭の意義が収穫儀礼説・先帝の遺体との共寝説・神に豊年を
感謝して共食説と多くある中に、配下の氏族に対する服属儀礼であるいう説もまた重要なポイントに
なつています。
九州に誕生していた大伴九州王朝とともに、協力体制を執る継体王朝の誕生がこの年だつたのでした。
また蘇我氏はこの機会に服属の意を表すとともに天王に接近して、地位の強化をはかつたのです。
彼は配下の開中費直と穢人今州利をして、この鏡を作らして献上したのでした。
この鏡が現存したことで、継体天王の即位年が503年ではないかということが知られているのです。
半島の503年・鶏林国独立、新羅を襲名
日本列島の倭国が出雲勢力によつて滅亡され、継体天王が即位した503年にはもう一つ特筆
すべきことが起きていました。
任那から鶏林国が独立(韓国歴史学者李鐘恒氏「韓半島から来た倭国」より)「新羅国」を襲名した
ことです。こちらの新羅を鶏林新羅(南の新羅、都は慶州)と呼びましょう。
慶尚北道南部の慶州を中心とした国で後に半島を統一することになります。
半島倭国の中心となつていた国で、新羅王子・天日矛命の出身国はこちらなのです。
南の新羅国の独立は503年冬十月に行なわれました。
冬十月立冬は「せんぎょく暦」の歳首で、年が改まる月。新年を迎えて独立を決意したことは、
すでに前年の502年中に列島の倭国崩壊が確実になつたという認識を任那がしたということなのです。
列島倭国の崩壊を受け、半島の倭国構成国の中にはさまざまな動きが発生しました。
紀 大磐(生磐)も任那西方で「三韓の王となろうとして官府を整え終わった」(紀顕宗紀)という。
任那の鶏林国の独立もそうした半島南部の動きの一つであつたのです。
「新羅本紀」第22代智證麻立干(麻立干は王の方言)の4年(503)冬10月条には、
−【群臣が上奏した。「始祖が国を始めて以来国名が未だ定つていません。あるときには、
斯羅(しら)と称し、あるときには斯盧(しろ)と称し、あるときには新羅(しんら)といいます。
私たちが思いますには、新とは「徳業が日々に新たになる」、羅とは「四方を網羅する」の意味ですから、
それこそ国号にふさわしいものではありませんか。
また、むかしから国家を支配するものは、みな帝とか王とか称しています。わが国では、始祖が国を
建てていらい今日にいたるまでニ十ニ世代にわたつて、ただ方言を称えており、まだ王の称号を正式に
採用しておりません。いま群臣の一致した意見で、つつしんで新羅国王の称号を奉りたい(と思います)」】
【王はこの意見にしたがつた。】と。(金富軾平凡社、井上秀雄訳)
北の新羅が五世紀中?ごろに高句麗に吸収され消滅した後、6世紀初頭に倭国崩壊が決定的となり
半島倭国は分解して、それぞれの道を選ばなくてはなりませんでした。
鶏林国は「倭国を滅ぼした日本国」に対抗するため、任那から独立し「新羅」を襲名したのです。
三国志東夷伝によれば、−【(北の新羅に所属する)辰韓の南は倭(倭国)に接する。】−と。
また、新羅本紀によれば、鶏林新羅の第四代脱解尼師今(尼師今も王の方言)は、
−【倭国の東北一千里にある多婆那国に卵として生まれた。そして海にすてられ半島に流れ着き、
やがて王となつた。(始祖伝説)】 このとき大輔になったのは倭人瓠公。
【むかし瓢(ひさご)を腰にさげ、海を渡って来た。それで瓠公と称えた】−と、
王と大臣が倭人出身となつていたのが鶏林国なのです。
この王の九年には国号を鶏林と定め、王家・昔氏の氏祖となりました。
これに類した話は列島にもあって、
−【新良貴。葺不合尊(ふきあえずのみこと)の息子稲飯命の後裔である。これ新良国に出て
国王となる。稲飯命は新羅国王の祖。日本紀に見えず】−(姓氏録右京皇別)−
古事記によると葺不合尊は海神玉依毘売命と結婚。五瀬命、稲飯命、御毛沼命、神倭伊波礼毘古命
(かみやまといはれびこのみこと)の四人をお生みになられています。
−【御毛沼命は浪の穂を踏みて、常世国に渡り坐し、稲飯命は母の国として海原に入り坐しき】−
とお二人が海の中を渡り、かの地に坐すとみえ、残りのお二人が東征を実行され、初代大王に
なられるのは、伊波礼毘古命(神武天皇)なのです。
これが事実ではないと思いますが、倭国の中で鶏林国が尊敬されていた理由はこの話のように、
大王家と縁続きであつたことなのかも知れません。
神功皇后も天日矛命の後裔ですし、五世紀の葛城氏も鶏林国と親族であつたと思われます。
倭国や親族の葛城氏を滅ぼし、生き残り部民の秦部を奴婢とした日本国に対抗して「共に天を戴かず」
と強い決意で独立をしたのが、この新羅であり、列島の倭国崩壊年503年だつたのです。
一般に歴史書は「経緯の書」といわれます。時代を超えた縦線と同時代の横線で織られた物語が、
ぴつたりと合致してこそ正しい歴史といえるのでしょう。
五世紀中から始まる日本国の歴史は六世紀・七世紀に一本の縦の線として続かなくてはなりません。
五世紀の豪族がなぜ消えたか、六世紀の氏族がどこから来たか、七世紀の大和になぜ大国主神後裔の
三輪君高市麻呂や鴨君蝦夷などの出雲族が住んでいたのか、連結がなくてはならない。
連結の糸が続いていないことはどこかに誤りがあるということです。
おなじように同時代の半島の情勢は横の線といえるのでした。
半島南部で動揺が発生し、新しい政権の模索に走ったのは日本列島に起きた宗教戦争の帰趨による
ものでした。
半島南部に独立した鶏林新羅が仏教を受け入れるのは、日本国よりも後の時代なのです。
仏教は半島を南下したのではなく、半島南部を飛び越えて日本国の出雲に伝来しました。
スサノオは「新羅の地にはいたくない」と出雲に来た。五十猛命は「多くの樹の種子をもつたが
「韓の地にはうえないで、全部日本に持参し、国全体にまきふやし、とうとう国全体を青山にされた」
と紀の一書は書く。
倭国崩壊、宗教戦争の影響は、われわれが考えるより広い範囲に半島諸国にも新しい秩序を達成を促し
影響を及ばしていきました。
継体治世
半島南部の国々とは、それまでの密接な関係から一転して鶏林国のように敵対関係になる国が
出始めました。 九州王朝と日本国の出方を窺う国もあつたのでしょうし、紀大磐のように半島で独立を
企てる人物もでたのだろうと想定されます。
一方で北方の高句麗国とは、それまでの争いが消えて友好国となつていきました。
継体紀9年条には−【百済は灼莫古将軍、日本の斯那奴阿比多を遣わし、高麗の使・安定らに
つきそわせ来朝し、修好した。】−(書紀)と。
倭の五王時代を通して、高句麗国とは常に戦闘状態であつたのに、急激に友好国となつたのは
なぜだろうか。
半島での争いも実は高句麗と倭国の宗教戦争だつたのではないかと考えられます。
仏教を受け入れた百済と日本は、高句麗にとつて敵視する必要のない国になりました。
使節も来朝しただろうし、外交関係も当然開かれて人の交流も行われたに違いない。
書紀欽明紀に書かれている「高句麗使節の来朝記事」は、【朕帝業を受けて若干年、高麗、路に
迷い始めて越の海岸に到る】という文章から始まり、敏達紀の【この高麗の上表文は、烏の羽根に
書かれており、羽根が黒いため文字が判読できなかった。
船史の祖王辰爾(おうじんに)が羽根を飯気(ご飯をたく時の湯気)で蒸し、絹布を羽根に押し当てて
すつかりその文字を写し読み取った。】という。
欽明紀の年代はすべて「若干年」となつている。このことから年代の決定がなされずに、
書紀が作られていることについては後に述べなくてはならないが、ここでは暗号文が送られて
来ていることに注目してみると、日本国は高句麗の敵ではなく味方となつたのだろうと思います。
敵に見られないように、あるいは敵に察知されることなく、味方に情報を送る必要があつた。
このときの敵は任那から独立した新しい新羅国(旧鶏林国)や任那に心を寄せる列島内の旧勢力
だつたのでしょう。
継体天王は高句麗の味方となり、また応援を得て列島内の諸制度を整えたのではないだろうか。
いろいろな制度の内の一つ、「十ニ階の位階」は推古紀に書かれているが、この位階が高句麗の
位階制度を踏襲したものであることに異論はないでしょう。
書紀は百済の工人の来朝を記すが、高句麗工人の来朝はなぜか記述していない。
しかし畿内における初期寺院の飛鳥寺の伽藍配置は一塔三金堂の高句麗様式だし、二番目に
建てられたというのは高麗寺(上狛)です。
この地は相楽郡大狛郷に属し、狛氏の大規模な館跡と考えられる上狛東遺跡や瓦を製作した
高麗寺瓦窯・高井手瓦窯の窯跡が存在する。
また、七世紀初頭の豊浦寺は高句麗系軒丸瓦を代表する瓦と言われている。
高句麗工人の来朝記事がないのは、すでに日本国内に居住していたと言えるかもしれない。
五世紀末に出雲に上陸した高句麗氏族の中には、いろいろな工人・製鉄、鍛冶、須恵器、絵描き、
仏像製作、建築また仏僧もいたのだろう。
高句麗僧の恵便は、播磨国に住んでいたという。妻の芳明とともに鞍作達止の女・嶋女(善信尼)、
漢人夜菩の女・豊女(禅蔵尼)、錦織壷の女・石女(恵善尼)ら新漢人出身尼たちの仏教の師となりました。
こうして新しい北方文化が列島に流入したのは、出雲勢力が畿内に進出したからです。
−【日本もと小国、倭国を併せり。】−と中国史書に書かれているように日本国が倭国という大国を
併合しました。
最初、日本の読み方は倭語の「ひのもと」だつたのでしょうが、新漢人の集団や大勢の高句麗系
渡来人たちが支援軍として渡海してくると、「にっぽん」ともいうようになりました。
語尾に「ng」のつく言葉が、列島の言葉として定着したのは、大勢の北方民族が継体天王に率いら
れて大和や畿内に居住するようになつたからと考えられます。
隣近所にそうした渡来人が住むことによつて庶民の中に言葉が広がったのだろう。
文字でなく、耳から聞いて覚えていったのだと思います。
そうして、継体王朝が長く続いたならば新来語に統一されただろうに、そうならず現在の日本語は
少なくても二つ以上のの言葉を日常的に使っている。
これは継体王朝が短命だつたからではないだろうか。
山が「やま」・「サン」、海が「うみ」・「カイ」・「わだつみ」の「わだ」。
半島では、ハングルの固有語(古い語)は倭語と共通する母音語だ。
例えば「わだ」=「パダ(海)」、「なら(奈良)」=「ナラ(国)」、(子を)「おぶう」=「オブタ」など。
その後に流通するハングルで漢字語といつている新来語は、倭語でなく日本語と共通する。
(正確には…双方の方言で変化する前は共通した。)
広島県中国山地の県境の地、三次市を流れる江の川(ごうのかわ)は別名可愛川という。
可愛は書紀に「え」とある言葉。これが本来の倭語であつた。
「ごう」は漢字語の「カン」でカン⇒コウに変化したものといえます。芸備線「たか」駅付近は騎馬
民族・高氏族の居住地、さらに高田郡・高宮郡にも部族は分布し、群集古墳の数3000基以上という
地域では新来語が当然話されていたと想像できます。
継体紀に新しい北方文化が入ってきて列島に広がっていつたのでした。
7世紀末の高松塚古墳に描かれている女官の衣裳について、
−【天寿国繍帳や高松塚(古墳)の壁画に見られる飛鳥美人の衣装が、まぎれもなく高句麗様式
であることはだれの眼にももはや明らかでないだろうか】−(上原和氏 成城大教授)
天寿国繍帳は厩戸皇子(聖徳太子)の菩提を願って、妃の橘 郎女が女官たちに作らしたとされる。
画者のひとりは高麗加西溢(こまのかせい)で帰化人であり、ほかにも雄略紀に鞍部たちとともに
来朝した新漢人の画部因斯羅我(えかきのいんしらが)や、推古紀の高句麗帰化人黄書(きぶみ)
画師・山背画師などが壁画や仏画の分野で活躍したでしょう。
ただ渡来時に携えてきた原画のデツサンによるとの指摘もある。
島根県上淀廃寺の壁画について
−【六世紀前後の高句麗の技法を持つた画工集団が渡来し、七世紀末にその(子孫)ニ・三世が
上淀廃寺の壁画を描く際、集団に伝わった技法を一部で使ったのではないか】−
(河原由雄氏奈良国博美術室長)と。
高句麗壁画は時代によつて技法が異なり、列島には五世紀末から六世紀初頭の技法がはいつて
きました。
だから高松塚古墳に描かれた衣装のデツサンが古墳建造当時のものとするには慎重でなくては
ならないが、少なくとも継体天王紀の六世紀代の服装はこれに似たものであつただろう。
埴輪のほうでは、埼玉県行田市酒巻十四号墳には筒袖・ズボン姿の
男性埴輪があつて高句麗男子服との類似を指摘できる。
群馬県観音山古墳の婦人像に赤白青(緑)の顔料で着色されたひだ付き
の裳(スカート)を着用した埴輪の出土がある。
高句麗壁画との共通が考えられるでしょう。
ところで寺の壁画などにみる絵画技術について、五世紀末に渡来した
一世やその後の二世が技術をどのように子孫に伝えたのだろうか。
それには仕事をしながら子に伝えたと考えるのが普通であり、
そう考えると六世紀代の残された遺物が土の中に埋もれて、
まだまだ発掘されていない、我々の目にまだ触れていないよう
に思えます。
(出土男子埴輪と高句麗服装 )
仏像にしても鞍作(鞍部)鳥がいきなり飛鳥寺の丈六の仏像を作成し、一回で成功させたのかという
疑問が残る。継体紀の司馬達止、用明紀の多須奈、推古紀の鳥の系譜を有する。
扶桑略記には「継体紀に鞍部村主司馬達止が大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して
帰依礼拝をしたが皆これを「大唐神」といつたという。」とある。
本尊である仏像を造る技術や仏教経典・仏舎利は本国から運び込まれていたに違いない。
そして寺を造ったからには、僧尼が必要でした。
13歳の司馬達止の女・善信尼の存在は継体紀であつたのではなかろうか。
年齢から考えて、年代を新しい方にもつていくのは無理があるし、書紀の六世紀代の記述は
本来の位置から移動され、時期は信用できないからです。
多須奈は用明紀に出家し、丈六の仏像を作り寺を建てたという。そうした技術は子の鳥に伝えられ、
飛鳥寺の丈六の仏像へと繋がりました。
仏教が飛鳥の地に私伝として伝わったのは、五世紀中から後半の馮氏一族の来朝に始まります。
宗教活動は倭国豪族達によつて排斥されて密かに宅内に祭られていたのでしょうが、継体天王が
即位した後において仏教は公然と宗教活動を行えるようになったものと思われます。
したがつて、仏教公伝は継体天王即位をもつて、公伝の時期としなくてはなりません。
いまの仏教公伝とされる538年は、真実の公伝年ではない。
内政で特筆されるのは、継体朝における屯倉の急増でしょう。
倭国豪族の滅亡後に生じた領地を直轄地として、役人を派遣する制度への転換でした。
継体朝が目指したのは、土着の豪族に土地を支配させる封建制ではなく、中央政府から任命した
官吏による土地の管理だつたのではと考えられます。
安閑紀・宣化紀には、北の上毛野国から九州まで設けられた40余りの屯倉の名前が挙げられて
いました。
倭国豪族の滅亡時の領地だつたところもあるでしょうし、生き残った豪族から贖罪のため献上させ
土地でもありました。
書紀には伊甚(いじみ・現在の千葉県夷隅郡・勝浦市)国造の奉った伊甚屯倉、大河内直味張の
奉った三嶋竹村屯倉(河内国)成立のいきさつを述べています。いずれも、土地の献上を申し渡されて
しぶしぶ応ずる豪族の姿がありました。
豪族から取り上げた土地は屯倉として、直接管理下において行ったと思われます。
安閑紀には【詔して国々の犬養部(犬を飼って屯倉の守衛などにあたる部民)を置いた。】
(元年秋八月条)
【櫻井田部連・県犬養連・難波吉士らに詔して、屯倉の税(稲を納める租税)のことを管掌させた。】
(同元年九月条)とあります。
倭国時代は、国の成立当時から豪族連合といつても良い政治体制でしたが、継体王朝は
近代的な国家を目指し、中央集権的政治体制に移行しょうとしたのでしょう。
避けては通れない道ではあつたのですが、旧勢力にとつては余りにも急激な変化でした。
政治体制、仏教の布教、各種制度の改革、服装の改革、三輪山や誉田古墳に建てられた渡来
氏族の神社は倭国聖域の否定でした。
いつの時代にも、革新には抵抗勢力がいたのです。
まして革新する側が中国から渡来した王族の子で、征服王朝であつた場合、
旧倭国の豪族の中から、倭の血統に未練を残し、期を窺ってみる氏族が現れたとしても不思議
ではなかつたのです。 次回は継体朝に起こったクーデターの実際とその後の国譲りについて
話しをする予定です。出雲神話に出てくる国ゆずりと現実の国譲りについての話しです。