第11章 531年クーデターと出雲族の国譲り物語

 継体天王の崩御年がいつなのか、日本の歴史書ははつきりしません。
古事記は次ぎのように述べています。
−【(継体)天皇の御年、四十三歳[丁未の年(ひのとひつじ・527年)の四月九日に崩りましき]
御陵は三島の藍陵なり。】−

これに対して、書紀は崩御の年を−【二十五年(531年)春二月七日に磐余玉穂宮にお崩れになつた。
時に御年八十ニ。】−とし、続いて
 【二十五年・歳次辛亥(531年)にお崩れになつたとするのは、「百済本記」によつて文をなしたもの
である。その文には、「大歳辛亥の三月に、百済の軍は進んで安羅(任那の一国)に至り、乞とく城
(こつとくのさし)を築いた。この月に高麗(高句麗)ではその王安(安蔵王)が殺された。
また聞くところによると、日本では天皇及び太子・皇子がそろつてなくなつたということである。】−と。
 書紀は独自の資料によらずに、百済本記の記事に従ったという。

ひどい話です。なぜなら百済本記531年の記事には日本の天皇とあるだけで、どの天皇とは書いて
いない。書紀執筆者はこの記事を継体天王崩御の記事と勘違いして書紀に載せたのだろうか。

いやいや裏があるに違いない。書紀編集時にはすでに古事記があつたはずです。当然527年崩御の
資料は存在していただろう。

推測して見ると、継体王朝の次ぎには欽明天王から始まる王朝があり,ここにも王朝の画期が存在する。
欽明天王はクーデターを起こし政権を奪取した天王でしょう。これを隠す必要があつたのです。

隠すため、どのように記事を変更したのでしょうか。
まず上の百済本記の記事を継体紀に入れました。そうして継体天王崩御記事とし、安閑天王・
宣化天王の二王紀をいれたのです。
実際は欽明天王即位直前の位置だつたのに、古い方向に移動してしまいました。

継体二十五年を531年にするには、継体即位年を後方に移動する必要がありましたから、
本当の継体天王即位年503年を変更して507年としたのではありませんか。
そうして、507年から二十五年後の531年に崩御されたように装つたのではないでしょうか。

書紀は古事記に書かれている継体天王崩御年を無視して、年数を繰り下げたのでした。
欽明天王がクーデターを起したことを隠すためだつたのです。

継体天王のときに倭国から日本へと国号が変わりましたが、再びこの時のクーデターで、倭国
復活が行われました。

欽明天王は継体の子と書かれていますが、本当のことではないでしょう。
旧倭国大王の血を引くとも思われません。

この間の事情を後世の人物に当てはめるとこんなことではないでしょうか。
倭国大王を織田信長とすると、これを討ち取って天下を取った継体朝は明智光秀に該当します。

羽柴秀吉は光秀を倒すことによって、政権を獲得しました。血は繋がっていなくとも、だれもが
前代の後継者として認めたのでした。この秀吉像こそ欽明にあてはまるのでしよう。

七世紀後半に再度日本国を襲名するまで旧国号の倭国が復活します。倭国から日本そして
再度倭国へと国号が変更になりました。

しかし紀・記はこの間の王朝の変遷を明らかにしなかつたのです。
倭国時代から引き続いて、万世一系の王朝が続いたように書いたのでした。

531年クーデターは宣化紀に起きた

 書紀の紀年は移動されている。本当はどうでしょう。
継体即位年は、前に隅田八幡宮所蔵の鏡銘を引用して話したとおり503年であつたと思います。

そして、継体二十五年は527年なのでした。この年は古事記の継体天王崩御年とぴったりと合うのです。
だから継体紀は503年〜527年の二十五年間在位とすると、次ぎの安閑天王は527年〜528年の
二年間の在位。
そして継体王朝最後の天王は宣化天王で、528年から531年の四年間の在位が本当の歳次なのでしょう。

次ぎの欽明天王の即位年が532年(実質的には531年)であることは、百済からの仏像などが到来した
時期を仏教公伝として「欽明七年の538年」としていることからも明らかです。

だから、百済本記のクーデター記事は宣化紀四年条に入っていなければならなかった。
それを継体紀に入れたのは、まやかしではないだろうか。

書紀には【(宣化)四年春二月十日天皇は檜隈盧入野宮(ひのくまのいおりのみや)にお崩れになつた。
時に御年七十三。】と書き、

【冬十一月十七日に(宣化)天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかうえ)陵(橿原市鳥屋町)に
葬りたてまつた。皇后橘皇女とその孺子(わくご・幼児)とをこの陵に合葬した。】と。

継体天王の陵と安閑天王の陵は実在するのでしょうが、宣化天王の陵ははつきりしないこともこの天王
時にクーデターが発生したという傍証になり得るように思われます。

さらに、皇后と幼児がいつ亡くなられたかは伝記に載せていない。と書紀はいう。

この孺子が宣化帝のもうひとりの妃・大河内雅子(わくご)媛を示すという説はより凄惨なクーデターの
場面を想像させられるでしょう。

「太子(ひつぎのみこ)および皇子がそろって亡くなった。」だけではなかつたのでしょう。
宮中の女性も犠牲になったのではないでしょうか。

 宣化天王の子孫といわれる丹比公、偉那公あるいは椎田君の所生について書紀と古事記は記載が
異なっています。書紀は橘皇女の所生である上殖葉皇子またの名椀子が丹比公、偉那公の先祖。
大河内雅子媛の所生である火焔皇子が椎田君の先祖であるとする。

これに対して古事記は川内之若子比売の所生、火穂王(志比陀君の祖)、
恵波王(韋那君、多治比君の祖)として紀・記は異なる。さらに古事記は「この天皇の御子たち、
併せて五王(男三人、女二人)」としていました。

男三人とは橘皇后の子、倉之若江王(皇子)を加え、先に挙げた火穂王・恵波王との三皇子のことだろう。
ところが書紀は倉之若江王を皇女とし、倉雅綾姫(くらのわかやひめ)の名で欽明天王の妃としたのでした。
片方は皇子に、片方は皇女にしたのです。

姓氏録や三代実録貞観5年(863年)の奏言では「為名真人は宣化天王皇子火焔王の後裔」という。
これまた違う伝承だ。 いつたいどうなつているのだろう。恥ずかしくなってしまうような話です。

大混乱といつてよいでしょう。「この系統の流れが違う」という書紀執筆者の後世に対するヒントが、
宣化帝の子孫をめぐる混乱の中に込められているように思われます。

 書紀を書いた人物は複数いてそれぞれ担当の時代を書いたのでしょう。同一人物が全編を書いたの
ではない。継体王朝時代を書いた書紀執筆者と欽明王朝時代を書いた書紀執筆者とはべつの人物だと
思われました。

なぜかというと「宣化天王のお崩れになつた月日が違う」からです。
宣化紀には【(宣化)四年春二月十日天皇は檜隈盧入野宮(ひのくまのいおりのみや)にお崩れになつた。

時に御年七十三。】とありましたが、欽明即位前紀には【宣化四年の冬十月に宣化天皇がお崩れになつた。
皇子(欽明天皇)は群臣に、「自分はまだ幼年で知識が浅く、政治にも熟達していない。

(安閑皇后の)山田皇后は政務に明るくあられるから、皇后に政務の決裁をお願いするように」といわれた。】
と書きました。
何行も隔てていない場所に書かれた天皇崩御記事の月日が違うことも、欽明天王が自分はまだ幼年といい
ながら、即位のお年・崩御のお年も「若干年」として明らかにしていないことも錯綜している。

この欽明紀は年代決定がされず、また一度も読み返しの行われなかった下書きの原稿のまま、
正史となつた可能性があります。
というより、雄略天皇紀から持統紀まではすでに編纂を終えた資料があって、その資料は「整合性を
とることが許されない」あるいは「触れることが許されない」部分であつたのではないか、

 いま想像してみると、欽明天王はクーデターを起こし、継体王朝を倒して日本から再び倭国復活を
成し遂げた人物。けつして幼年ではなかつたでしょうし、偉大な人物だつたのでした。

彼の都した磯城嶋(しきしま)金指宮の宮号は日本列島の代名詞「敷島の国」となり、栄光輝く敷島の
時代を築いたのです。

渡来人の王朝から政権を奪い取ることに成功するためには、前王朝の妻子を殺すだけではなく
前王朝の支持基盤である氏族を慰留し、服従させなくてはなりません。
これが「国譲り」であり、九州で戦いはあつたものの一応国譲りを完成させました。
だから偉大な人物であったと思うのです。

 国譲り物語は神話の重要な部分として書紀神話下巻に載っていますが、本当の場所は欽明紀
だつたと思うのです。

国譲りに応じた氏族は王朝の主を殺された渡来氏族、応じなかった氏族がもう一つの王朝である
九州大伴王朝で、国譲り戦争が起こりました。

書紀に書かれている「磐井の戦争」こそ、九州王朝と欽明天王との戦いだったのです。
この戦争に勝利したのは歴史の通り、欽明天王だつたのです。

 宣化帝の崩御で継体王朝は終焉しました。
馮氏の渡来から始まった物語は「この国を奪うことはしない」と誓約したスサノオの死後、母に連れ
られて実家のある出雲に帰ったオオドが大伴氏に擁立されて宗教戦争を起こし、継体王朝を樹立する
話へと発展しました。

オオドが父の誓約と違う行動にでたのは、仏教に帰依した大伴氏と倭国豪族との宗教を巡る争いに
まきこまれたためでしょう。

しかし、この王朝は三代で終わるともに大伴氏宗家も九州戦争で滅亡し、大伴磐も大伴狭手彦も
再び歴史に姿を現すことはありませんでした。

継体朝の終焉をもつて、この本の目的であつた「大国主神=継体天王説」の話は完結してしまいますが
内容についてご理解を頂けましたか。

一度、読んだだけでは理解できないという方もいらつしゃるでしょうし、歴史の謎はパズルの字解きのように
前後左右から解かなくてはなりません。

したがって、もう少し後の時代まで話を進めていきましょう。
そして時代を遡って継体王朝時代を考えて見てください。

「継体帝の即位前には、倭国の大王が列島と半島南部に勢力を維持していましたが、
倭国王統と関係のない首長が誕生した。そして日本とか天王という言葉が出現、同時に
半島南部の「任那」も分解する」
そうしたことを考えるために、この時代に出現して来た欽明天王を取り上げることにします。

欽明天王の謎
 欽明帝のお年が分らないことは先に書きました。
継体紀に「尾張連草香の女・目子媛の一人を勾大兄皇子といい、これを安閑天皇と申し上げる。
二人目を檜隈高田皇子といい、これを宣化天皇と申し上げる。」と書いているのですが、

嫡子(手白香皇后の生んだ子)である欽明天王の幼名は書いていません。
「○○といい、これを欽明天皇と申し上げる」の「○○」がないのです。

同じ継体紀の中で、二人の天王の幼名は書いて後の一人の幼名を書かない理由はなんでしょう。
謎の多い天王といえます。

この天王が後宮に入れた女性には皇后に宣化帝の女石姫、妃に雅綾姫皇女、妹の日影皇女
(皇后の妹とあるが、いずれの妃も御名がないか違っており問題の多い女性名)。
彼女らを産んだという橘仲媛は宣化帝の皇后で、仁賢天皇の女とされているが、皇統譜にないのです。

仁賢天皇の女とされる春日山田皇女は安閑天王の皇后ですが、
「欽明紀に仁賢紀の御子条文がそっくり載っている。」のはどうしたことでしょう。

つまり、−【(欽明天皇の妃は)次ぎに春日日抓臣の女を糠子(あらこ)といい春日山田皇女と
橘麻呂皇子とを生んだ。】−(欽明紀ニ年条)とある。

「自分は幼年だから春日山田皇后に政務の決済をお願いする。」と書いておきながらその山田皇女を
御子に加えている。

欽明紀が読み返しのない原稿のまま、書紀が出来上がっているといいましたが、その理由がお分かり
でしょうか。

混乱はこの紀だけではない。敏達紀では
−【敏達紀四年春正月 息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。皇后は一男二女をお生みになつた。
その第一を押坂彦人大兄皇子、第ニを逆登皇女、第三を菟道磯津貝(うじしつかい)皇女と申し上げる。】−

広姫は同年冬十一月お亡くなりになり、翌五年春三月に豊御食炊屋尊を皇后にした。と書き、つぎに
−【豊御食炊屋尊皇后はニ男五女を生まれた。その第一を菟道貝蛸皇女と申し上げる。
(またの名は菟道磯津貝皇女)。】−と皇女の名が重なっている。

古事記では【豊御食炊屋尊皇后の生まれた御子、静貝王またの名貝蛸王】とあるから、
菟道磯津貝皇女は後者の御子なのだろう。

この広姫の立后記事は押坂彦人大兄系の人物が祖先を敬う上で入れた記事でしょうが、
広姫の父・息長真手王の名は継体紀元年条にも出ている。

−【次ぎの妃、息長真手王の女を麻積娘子(おみのいらつめ)といい、ささげ皇女を生んだ。】−と。
息長真手王は、継体元年には推定四十歳ぐらいだろうか。すると継体紀ニ十五年で六十五歳、

安閑紀、宣化紀と過ぎ、幼年の欽明帝が何歳で御子を作られたか欽明紀以後、いつさい天王の
年齢をあきらかにしないので分らないが、超高齢の真手王が娘を皇后にできるほど権力をもち得た
というのは疑問であり、この真手王の名も信用できないように思います。

以上書紀の皇統譜は誤りの多いもので、ほんとうになにを書いているのだろうと思ってしまうのですが、
頭の良い書紀執筆者がこんな矛盾を見逃すはずがないと考えるとこれはまた皇統を考えるヒントなのでしょう。

 一方で書紀は別のヒントを書紀のなかに入れています。
−【この歳、蘇我蝦夷は、みずからの祖先の廟(神社)を葛城の高宮(御所市)に立て、八らの舞
(やつらのまい・八列六十四人の群舞、天子の特権とされる。)を行った。

また国中の民や豪族の私有民を徴発して自分の墓と入鹿の墓を造り、大陵(おおみささぎ)
小陵(こみささぎ)と呼んだ。】−(皇極紀元年)

−【(蘇我氏は)家を甘梼岡(うまかしのおか・明日香村)に並べて建て、上の宮門(みかど)、
谷(はざま)の宮門と呼び、またその男女を王子と呼んだ。
また、漢直たちが二つの門に侍した。】−(皇極紀三年)

五世紀以来、宮殿を守護したのは大伴・佐伯の両氏であり、実際にその配下として実務にあたつた
のは、漢直氏族でした。

応神大王の半島から御帰還に従った漢直の人々は、そのときから宮殿の守備に当たる氏族とされて
来ました。昔から宮殿を護る氏族の漢直たちが蘇我氏の門に侍したのです。

馬子のときにもこんな話がある。
−【物部守屋が阿都(河内国渋川郡跡部)に退いて軍勢を集めた時、大伴B毘羅夫連は弓矢と
楯を手にとって槻曲(つきくま・馬子の家)の家にかけつけ、昼も夜もつききりで馬子を守護した】−
(用明紀二年)

天王の宮殿には大伴門と佐伯門という二門があつた。大伴氏はその守備隊長なのです。
もつと分かり易いのは入鹿滅亡の次ぎの出来事でしょう。

入鹿が殺されたとき、漢直の中に高向臣国押がいて門を守備している一族の者にこのように言つたという。
−【「われわれは君太郎(入鹿)のことで死刑に処せられるだろう。大臣さま(蝦夷)も今日明日のうちに
きつと殺される。そのような人のためにむだないくさをし、みんな処刑されるなどとはばかばかしいこと
ではないか」と言い、言いおわると剣をはずし、弓を放りだして去ってしまった。
それにつれて、賊徒もまた散り散りに逃走してしまった。】−(皇極紀四年)と。

じつはこの条文は皇極紀ニ年に書かれている次の記事と対になるもの。
そこには、次ぎのようなことが書かれている。
「入鹿と上宮家の争いが起こり、上宮家の王たちが山中に逃げ込んだとき。」
−【入鹿は高向臣国押に向い「すぐに山に向い、かの王を捜して捕らえるのだ」と言つた。】−

そのときに国押はこう返答しました。
−【私は天皇(すめらみこと)の宮をお守りしているので、外に出て行くことはいたしません】−と。
 天皇の宮をお守りしている国押の姿がここにあります。
それと蘇我の門を守る国押は姓も名も適合し同一人物と思われますから、これは蘇我氏が天王で
あったことを示すものではないですか。

書紀執筆者はわざわざ高向臣国押なる人物を2ヶ所に登場させ、史実を後世に伝えたかつたのでしょう。
そうでなければ、一つ、一つの条文は書紀に記載する必要性の薄い記事なのでした。
ふたつの条文を合わせ見て、初めて意味するものが分かるのです。

 そういうわけで、531年クーデターを起こし継体王朝を倒した欽明天王は六世紀王朝の始祖であり、
蘇我氏の可能性が高い考えています。

 宣化帝の時代、蘇我氏は稲目宿禰が氏上で、大臣の地位にあつたという。
政府の中枢を握っていたに違いない。

稲目宿禰の父・蘇我韓子宿禰は雄略紀九年条に紀大磐宿禰と弓で争い、「射殺され河の中流で
死んだ」となつていました。
倭国豪族が互いに相争う場面は半島での出来事として書紀に書かれています。
もちろんこの争いや韓子宿禰の戦死は日本対倭国の列島内における戦いで宗教戦争だつたのです。

紀大磐宿禰を始め紀一族は最終的に戦いに敗れ、列島から脱出して半島へと退去しました。
蘇我氏は宗教戦争を戦うことで戦後重要な地位を獲得できましたが、それだけだったとは思えない。

娘の多くを後宮に送り込み外戚としての地位を固めたのではないか。そして物部氏や阿倍氏を
引き入れて、一期にクーデターを起こし、渡来王朝を倒してしまったのでしょう。

神話に書かれた出雲族の「国譲り」が、ここで行われたと解釈したい。
欽明天王は渡来氏族に対して、硬軟両手段をもつて懐柔をはかり結局日本列島を収拾することに
成功しました。

渡来氏族の国譲り

 「幼時から人にぬきんでて声望をほしいままにし、寛大な御性格で、人をあわれみ許すことを努め
としていた」と書紀に書かれている欽明天王にしても、「国譲り」を完成させることは一大事業でした。

偉大な王でありながら列島内で手が一杯であり、半島には心を残すことになる。
それが歴史の趨勢というものだろう。
 
渡来氏族の国譲りがどのような手段で行われたか、どのような条件を提示して交渉にあたったか
はあまりはっきりしない。

史書が国譲りを現実の話ではなく、神話としたからです。はつきり書くと王朝の交代が分ってしまうから、
宗教の到来も、九州王朝があつたこともすべて消してしまいました。
神話のなかに入れた以外のことは書けなかったのです。

でも、欽明紀に国譲りがあつたことが分るのは別の資料からでした。
平安時代初期の姓氏録には「長背王。高麗国王鄒牟(一名朱蒙)之後也。欽明天皇御世。
衆を率い投化。顔美しく、軆大きい。其の背が高いので名を長背王と賜った。」
(姓氏録右京諸番下高麗)という。

「長背王は高句麗始祖朱蒙王の後裔であり、しかも衆を率いて日本列島に来ていた!」
文献と考古資料(高句麗氏族の到来)は合致します。
高句麗氏族が仏教国の民であつたことも明らかなことで、列島に仏教が到来した時期は
一般的に公伝とされる538年より遡るのは当然のことでしょう。

「投化」の意味を考えて見たい。この言葉には「みずから忠誠を誓って、身分を変える」ことだと
考えられます。帰化したのかも知れません。

「仏教を定着できる見込みが付けば本国に帰国する」渡来氏族の希みは、はかなく消えました。
上古において人材の確保は重要なことでしたから、一度手に入れた群衆を帰すなど出来ないことでした。
お互いに人民の取り合いが戦争の原因だった時代です。

それはまた、人材を手放した高句麗本国の衰退を招くことになりました。
高句麗長寿王は東方に仏教国の誕生を願って、その国と自国が友好国となり東北アジアの平和に
寄与することを信じ自国の衰退を考慮しなかつたのでした。 
高句麗王にとつてはそれほど予想外のことが起きたのです。

神話の投化 
国譲り神話の一節につぎのような話があります。
−【(大国主神が永久にお隠れになった後、)大物主神と亊代主神は八十万神(やそよろずのかみ)を
天高市に集めて、この神々をひきいて天にのぼり、その赤誠を披瀝された。】−

 この場面は天高市神社が大和にあるので、現在の奈良県での出来事のように思います。
しかも、この神社の所在地は奈良県橿原市曽我町字宮久保に所在している。蘇我氏の関わりを考慮しない
わけにはいきません。

もちろん、本拠地出雲の種族にもまた東国信濃の種族にも働きかけが行われました。
ここでは、さきの大物主神・亊代主神の投化とは別の筋がきになっています。

大国主神がまだご存命で、交渉団がまずこの方に交渉すると「私の息子の亊代主神に尋ねてくれ」といい
ついで交渉成立となる。

古事記のほうではさらに信濃国の建御名方神との力較べがあつて、屈服した彼が「この国をさし
あげましょう」ということになつています。
多少の違いはあるものの、おおむね同じといってよいでしょう。

「中国の歴史」を書かれた陳舜臣氏は、中国の神話と日本の神話を比較して「中国の神話は首尾
一貫せず、同種のものの重複があり、断片的なものの集合体にすぎない。」

それに較べると日本神話は「これを八世紀はじめに集成された虚構の神話」と断じて戦前に大学を
追われた津田左右吉氏のことを挙げ、
「皇室と国家の起源を説くため、構成されたものといわれている」と書いている。

本来あるべき話に修正を加え、「国譲り物語」を出雲神話の主要部分としたのですが、その前に来る
「国引き物語」や「神々が集いて宮の建設をする物語(国家成立)」などの話が史書からすつぽりと
抜け落ちています。

目的にそぐわない神話は必要でない。あるいは目的を構成するために阻害要因である部分は
切り捨てになりました。

私は出雲神話の成立について、後世の出来事を古い時代に移し神話にしたと考えています。
出雲神話には、神々の系譜がすべて書かれているのでした。そんなこと、誰が記録したというのでしょう。
それにしても構成が整いすぎます。神話にはもつともつと素朴な話があつたでしょうに…

 さて国譲りに出雲勢力と交渉した人物はだれだつたのか。
紀・記には「天穂日神、天若日子を派遣したが、大国主神におもねりこびて帰ってこなかった。」として
紀・経津主神、武甕槌神。記・武甕槌神(建御雷神)天鳥船神を派遣し、国譲り交渉にあたらせたという。

経津主神は石上神社の祭神、最初は和珥系の氏族が祭祀する神社であつた。
物部氏が祭祀権を引き継いだことは先に挙げておきました。
五世紀閨閥の一翼であつた和珥氏は消えたのです。

武甕槌神は歴史時代の大物主神系太田田根子の系譜にもみえ、紀・記に二つ同じ名が出てくる
人名はどちらかが架空の人物。天鳥船神は早い船を神格化したもので同じく架空の人物と思われます。

上記の中で、唯一子孫を残すものは天穂日神で出雲臣の祖でした。
奈良時代、出雲国造の新任にあたつて大和朝廷が特別の儀式を行っていたことは、国譲りにおける
出雲臣の功績をたたえ、出雲地方の治世に特別の関心を有していた表われでもあつたのです。

したがつて、国譲り交渉の立役者は出雲臣とみてよいでしょう。
この儀式に新任出雲国造が奏上する神賀詞(かむよごと)の中では
「天穂日命は国譲りの際、出雲の国状を見に遣わされたのであつて、出雲の国状の乱れている様子を
復奏し、その御子天夷鳥命(あめのひなとり)を遣わして荒ぶる神を払いしずめ、大穴持命をも媚びしずめ
大八州国の支配を隠退させた」(加藤義成氏現代語訳「風土記時代の出雲」より)とありました。

この文中には、大国主神が大八州を支配していたことが述べられています。
大国主神が「大八州を支配した時代」は各地に部落国家があつた弥生時代ではなく、列島が国家統一
された古墳時代であり、それはまた大国主神の平定という言葉に合致します。

国譲りの行われた時代は、「古墳時代」に行われました。大国主神のいた時代は古い弥生時代
ではないのです。
実年代として高句麗氏族(新漢人などの渡来氏族をふくむと考えられる)の投化時期は、クーデターで
出雲王朝が滅亡し、それまでこの王朝を支えてきた諸氏族との国譲り交渉の成立後、
そして九州戦争が始まる前段階の531年秋ころから532年にかけての年代と思われます。
国譲りを推進した人物は欽明天王だと思われるのでした。長脊王の投化も国譲りの一環なのです。

国譲りの条件 

 渡来氏族が無条件で国譲りを承諾したのではありません。働きかけは九州王朝を形成した
大伴氏側からもあつただろうし、その動向はその後の歴史を左右しかねない重要なキーポイントでした。

もし渡来氏族が九州王朝側につけば、大和政権にとつて大きな痛手となつただろうし、
大和政権に彼らがつけば九州王権にとつて致命的でした。

結果的には両陣営リーダーの人物差が明暗を分けたと考えたい。
「幼時から人にぬきんでて声望をほしいままにし、寛大な御性格で、人をあわれみ許すことを努め
としていた」と紀に書かれる欽明帝にたいし、九州王朝の王大伴磐は「意地にこだわり、世間が
見えない視野の狭い人物」だったのかもしれない。そのことは段々と明らかになってくる。

国譲りにあたつて仏教保持の要件は最重要なことであつたし、そのことに関しては大和政権も
異存はなかつたはずです。
仏教を振興しこの国に定着させる努力を続ける約束をしたのでした。
このことが渡来氏族の国譲り承諾に大きなウエイトを占めていただろう。

 紀の神話には「大国主神のお住みになる天日隅宮を作り、また御料田を供しょう。また海を往き来して
遊ぶ高橋・浮き橋と天鳥船を造ってやろう。
白い楯を作ってやろう。また天穂日命(ある書には太玉命)をして祭祀をさせよう。」といつたという。

古事記には「(大国主神の要求として)わたくしの住まいを(天皇が)皇位に就かれる立派な宮殿の
ようにお造りくだされば遠いところに隠れておりましょう。

また私の子ら百八十神たちは亊代主神が仕え奉るならば反対する者はいないでしょう」と。
 神話に書かれている宮殿とは、後に杵築の宮と呼ばれる出雲大社であり、また彼らの要求する
治外法権の地でした。大和政権によってその条件は受け入れられます。

出雲郡は高句麗氏族の日置氏によって郡領をだし、祭祀を行うのは出雲臣であつても、出雲大社
所在の郡の統治は渡来氏族によつて行われました。
同様に、神話には子孫の仕官を求める要求も出されている。仕官を認めなければ、反乱が起こるぞ
と警告しているようです。

現実には六世紀前半の時期にさまざまな要求を出され、欽明帝はことごとく受け入れて彼らを納得
させることに成功したのでした。
多くの渡来氏族があらたに大和朝廷に採用され、差別されることなく重用されたと思われます。

出雲の舎人郷は、渡来氏族日置臣志毘が欽明天皇の御世に大舎人となり出仕したので舎人郷
の名になつた。とみえる(風土記)。

同様に、諏訪地方には四本の柱に囲まれた御柱の神域すなわち治外法権の地を獲得しました。
この神域は渡来氏族にとつて、彼らの国に違いない。
祭神の子孫・諏訪氏は上社を中心に古来より神氏と号し、生神(あらひとかみ)としての厳粛な
即位式のあと大祝の座に就任したという。即位というのが国家の重要な儀式とみるならまさに
国であつたのです。

下社は金指舎人氏が大祝で、この名は欽明天王の敷嶋(しきしま)金指宮の宮号から執られている。
欽明天王によつて中央の官職に就いたものであることはいうまでもないでしょう。

この金指舎人は多氏の一族ですし、出雲の治外法権の出雲郡に少領として大臣がいることも、
多(大)臣の性質が分かるものです。

先にあげた姓氏録の長背王は「身体が大きい」からというが、大きいならば大臣の名があてはまるでしょう。
大氏の名はこれから来ているのではないか。と推測されるのでした。

大(多)臣は神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする。
神武を三面相で継体とすると大物主命の女が結婚したことも納得できますし、大臣が出雲の治外
法権の地に少領として存在することもうなずけるものがあります。

書紀には敏達紀における三輪君逆を寵臣と呼び、【内外のことをことごとく委ねておられた。】と書いて
います。この三輪君が出雲出身の渡来氏族であることは明らかです。

 欽明帝は明敏でありまた寛容な性質で、前王朝の支持母体を執り込むことにあらゆる手段を使った
ものと考えられのでした。
直木孝次郎氏は神武東征後の天皇家と亊代主神(古事記では大物主神となつている。)家との
婚姻関係に注目し

【(神武天皇の皇后に亊代主神の娘ヒメタタライスズヒメを娶るだけでなく)書紀によると第二代綏靖
(すいぜい)天皇の皇后イスズヨリヒメは亊代主神の妹娘、第三代安寧天皇の皇后ヌナソコナカツヒメは
亊代主神の孫娘、第四代懿徳(いとく)天皇の皇后アマトヨツヒメはヌナソコナカツヒメの孫であるから、
やはり亊代主神の系統である。こうした系譜が歴史的事実でないことはいうまでもない。

おそらくは七世紀後半以後の比較的新しい時代に作られたものと思われるが、作為にせよ、
初期の天皇系譜のうえでこのようなに亊代主神が重んじられていることは、葛城の地方における
亊代主神の神威が高かったことを想像させる。

天皇家との関係が密接になる時期は別に考えなければならないが、(奈良県の)この地方に
葛城山と関係の深い亊代主系の神の信仰が強くゆきわたつていた時期を五―六世紀までさかの
ぼらしてさしつかえあるまい。】(「奈良」岩波新書より)という。

 直木氏は神武東征の事績が継体天王の大和入りコースと重なることを述べられているお一人だし、
三輪山に大物主神が祭られていることも、問題視されている。
とすると、上のことばもどういうことを想定されているのか。

「系譜が歴史的事実でない。」としながらも「天皇家との関係が密接になる時期は別に考えなくては
ならない」としている。含みの多いことばといわなければならない。

 さきに、紀・記の作り方は「五世紀中頃から始まる日本紀を古い方向に引き伸ばし、出雲神話として
倭国神話に結合した。」としました。
したがつて、渡来系の亊代主神と大王家の結合も、その(日本紀の)線上にある歴史的事実を反映した
可能性を否定できないと思います。

「神武紀という古い時期での歴史的事実ではないが、出雲出身氏族が天皇家と密接になる時期は
別に考えなくてはならない。」

その時期とは?私の考えでは時期は欽明紀で、国譲りを迫る条件として前王朝の血筋を執りこむことを
表明し、出雲族を納得させ自らの政権に従わせたのではないでしょうか。

この系統(出雲閨閥)からは、後に出雲の影響の強い斑鳩の地を本拠とする宮家を成立したと
想定されるのです。

九州王朝の国譲り拒否

 さて、大和政権は出雲渡来氏族を納得させることに成功しましたが、九州王朝の国譲りを
平和的に解決することはできませんでした。

国譲り拒否の理由はどんなことだつたのでしょうか。
「継体天王から倭国分割の詔を受領している」「正当な後継者であるなら詔を尊重すべきだ」

「大伴氏が九州王朝を創るにあたつて、大伴談連の戦死などの代償があまりに大きかった。」
「高句麗国王・長寿王との間に交わした東北アジアの安定の約束を覆すことは、武人の長として
なんとしてもできない。」

「この国の最古の氏族として、格下の新興氏族に屈することが出来なかった」
かつては「倭国の一大率」として半島の倭国構成国に大王の命令を伝達する役目を担った大伴氏で
あつただけに、急激な時代の変化に対応することが気分的に出来なかつたのです。

この場面の大伴氏を後世の武将に当てはめると、秀吉にしてやられた柴田氏やその他の武将に該当
するでしょう。地位が低く、今まで見下げていた人物が勢いに乗って迫ってきた。

そんな場合の対処というのは難しいものです。
自分は正式の手続きで筑紫以西を統治する権利を与えられた。そしてその約束は王朝の続く限り
守られなくてはならない。
その約束を無視する政権の誕生に大伴氏としては納得することができませんでした。

九州王朝の倒壊時の記事は前にも書いていますが、「筑紫国造磐井の戦い」と混同しています。
書紀は五世紀末ころ九州で行われた「筑紫国造岩井の戦い」と六世紀前半の「九州王朝の王
大伴 磐の戦い」をかつてに合わして「磐井の戦い」にしてしまったのでした。

紀の文章の中で、−【今は使者だなどといつているが、昔はおれの同輩で肩肘触れ合わせ、
ひとつ食器で食事したものだ。急に使者になつたからといつて、そうおめおめと従うものか】−
(書紀)といつています。

この文中の「使者」を「天王」あるいは「大王」に直していただくと分かり易いのではないですか。
−【今は天王だなどといつているが、昔はおれの同輩で……急に天王になつたからといつて、
そうおめおめと従うものか。】−

大伴氏から見れば、相手は政権の正当な受領者ではなかつた。国譲りを要求してくること自体が
それを証明している。したがって、どんな交換条件を提示されても従うことは出来なかったのです。
交渉は暗礁に乗り上げました。

百済の離反

 その間に大和政権は別の秘密交渉を百済と行います。
大伴氏の古くからの盟友百済を引き離し、自分の陣営にくみ入れることでした。

大和政権の密使吉備海部直羽嶋が百済に派遣され、達率(百済高官2位)日羅と接触しました。
この時日本側がどのような条件を提示したのでしょうか。
おそらく、半島南部の任那領有を百済に任せることや百済の望む軍事援助の約束だつたのでしょう。

引き換えに要求したことは大伴氏への協力を断ち、百済に駐留していた大伴狭手彦の軍を撃破する
ための協力のとりつけでした。

百済王・聖明王は日羅らと協議し、決断しました。
「大伴氏と決別して、大和朝廷に就くこと」を。

さらに子弟を送って天王の傍らに侍らせ、後宮に子女を送り、王室同士の合体を願い出たのでした。
こうして武寧王系の百済王家が列島に誕生します。百済閨閥も当然発生したのでしょう。

百済王後裔・高野新笠を母とする桓武天皇(天智天皇以後は天皇と表記)の血筋を古い時代に
遡ると、天智天皇や百済の宮・百済大寺を建てて、さらに百済の大もがりをした舒明天王その
父押坂彦人大兄皇子などの名が見えます。

ここまで遡ると、天皇家の系譜もあいまいになっていることは先に挙げておきました。
息長真手王の女広姫のことですが、継体紀にも息長真手王が出てくること、広姫の生んだという
菟道磯津貝皇女の名が二重になつていることなどです。
書紀執筆者の「ちがう」というサインなのでしょう。

押坂彦人大兄は舎人の迹見首赤檮(とみのおびといちい・百済帰化人)をして、自分に反対する
中臣勝海連を殺害し、物部守屋大連を射殺したと紀にある。

この時の物部氏滅亡原因を「仏教排斥」とするのは、渋川廃寺の存在などからみて誤りという認識が
現在では広がりつつあるようです。

皇子と豪族の抗争は別の原因でなくてはなりません。
欽明帝の勇壮な血はこの系統に引き継がれたのでしょうが、太子(ひつぎのみこ)でありながら、
天王になることができませんでした。

欽明帝は偉大な帝王で、出雲閨閥や百済閨閥などの国際色豊かな後宮を形成したのでしょうが、
突出した王が続くことは難しく、崩御後の争いの種となつたことは洋の東西を問わず歴史が示すことです。

さて、書紀には百済を代表して、日羅が大和朝廷に参内したときのことを次ぎのように書いています。
−【この時日羅は「よろい」を着け、馬に乗って門前に到り、庁舎の前に進んでひざまずき、
「臣達率日羅、天皇が召されるとお聞きし、つつしんで来朝いたしました。」と申し上げ、「よろい」を
脱いで天皇にたてまつった。】−という。

「よろい」を脱いでたてまつる行為は、帰順や帰参を意味しますからこのとき日羅は百済を代表して
「大伴陣営から離脱して大和朝廷に帰属した」といつてよいのです。

日羅は大伴氏の恩恵を受け、親子とも大伴氏の食録を得ていたのにまさに裏切り行為だつたのでした。
さらに進言したことは「壱岐・対馬にたくさんの伏兵を置き、待ち構えて殺してしまうようになさいませ。
逆にあざむかれることがあつてはなりません。要害の個所には必ず堅固な塁を築かれますように」と。

この言葉は事態の変化に応じて、百済から帰国の準備をしていた大伴狭手彦の率いる九州王朝軍に
たいする進言でしょう。

日羅は自分の従者によつて殺されました。従者たちにとっても日羅の進言はショツクだつたのです。
百済王や日羅たち百済の首脳陣が、いかに秘密裏に事を進めていたか分るのです。

百済国の人口構成には大勢の倭人がいたし(隋書)、大伴氏に統治される半島屯倉の官吏もいたので、
百済王家にとつても大きな決断だったのでした。

この条文は紀・敏達紀に書いていますが、入れるべき位置は欽明紀です。なぜなら、欽明紀ニ年条
には百済聖明王が任那の王達に向かって、【日本の天皇は任那を復興せよといわれる。…
おのおの忠誠をつくして御心を安んじなければならない。】と早くも百済主導の任那支配が行われ
ようとしている。
だから入れる場所を間違えたかそれとも故意に別の場所に入れたと思われます。

九州国譲り戦争

 −【継体二十一年の夏六月に近江毛野臣が六万の軍兵をひきいて任那におもむき、新羅に
破られた南加羅、碌巳呑(とつことん)を再興して任那に合わせようとした。】−

南加羅、碌巳呑(とつことん)を始め洛東江東部の諸国が、新羅に無血合流したのは新羅本紀に
よると532年のこと。

それがなぜ継体紀に入っているのかがまず問題です。だからこの条文は移動されていると考えましょう。
近江毛野臣というのも、架空の人物ではないですか。
六万の軍勢を率いていながら途中で停滞して、別の将軍と交代する。
しかも書紀は古事記で書かれた将軍・大伴金村連の名前を消してしまった。

推測すると五世紀末の筑紫国造岩井と大伴金村との戦いは宗教戦争の一環として行われ、
大伴氏は継体天王から九州以西の統治権を得ていたのでした。

その時の戦いと532年以後の九州王朝大伴磐の戦いをここで合わしたのだろうと考えます。
大伴磐の戦いは欽明天王のクーデター以後の国譲りに関連するもので、欽明が継体の正当な
後継者ではないために発生しました。

そこで、新羅に破られた南加羅、碌巳呑(とつことん)というヒントに助けられて、「九州国譲り戦争は
532年から翌年の533年にかけて行われたのだろう。」という推測ができます。

533年には前述したように百済が大伴氏に代わって任那に進出してくるからです。
 「卵がさきか、鶏がさきか」という論争になりますが、書紀では半島南部の南加羅、碌巳呑の
新羅合流が九州戦争の発端として、描かれている。

よく考えて見ると、継体天王の勅では筑紫以西は大伴氏の管轄です。
大和朝廷が口出しすることではなかつた。
だから、この六万の軍勢は九州王朝を倒すための軍隊だつたのです。

百済を自陣営に取り込んで、大伴氏を孤立化しその上で軍を動員しました。
その動きが緊張をもたらし、半島南部諸国の大同団結に繋がったのでしょう。
九州を併合した後に、矛先が半島南部に向くことを恐れて。

したがつて、紀の「新羅に破られた南加羅、碌巳呑(とつことん)を再興して任那に合わせようとした。」
という書き出しは信用できません。

「鶏のほうが先」で、列島内の軍事衝突が、半島の諸国の変化になつたものといえます。
大伴氏に代わって百済が任那の主導権を得たことも、反感を持つ国が多かったのです。

大伴氏の九州王朝を倒すためやむを得なかったかも知れませんが、欽明帝はこのために任那を
失ったことをあとあとまで気にしていたようです。

−【筑紫国造磐井は火の国(佐賀県、長崎県、熊本県)豊の国(福岡県東部、大分県)の二国にも
勢いを張って朝廷の命を受けず、海路を遮断して高麗(高句麗)・百済・新羅・任那などの国(が送って
くる)毎年の朝貢の船をあざむき奪った。】−

火の国は大伴氏の本拠地。大伴氏は日臣(火・肥国の王)で後に道臣(各地の関所警備担当)を
拝領しました。
熊本県南部の葦北国造が金村をさして「わが君」と呼ぶことを考えただけで、この磐井は筑紫国造では
ないことが分かるでしょう。火の国が勢力圏の中に入っていますから。

当然、ここに書かれている磐井は二つの戦いの後者、九州王朝の王、大伴 磐と解釈すべきでしょう。
ここに書かれていない地域は鹿児島県と宮崎県だけでした。本当は薩摩国出水郡大領肥君、
主政大伴部足床、主帳大伴部福足や薩摩郡主帳に肥君広竜などの名が見えるので、
大伴 磐は九州全域を治めていたものと思われます。

「朝廷の命を受けない」というのは独立しているからであり、「海路を遮断して朝貢の船をあざむき
奪った」というのは言いがかりでしかない。

大伴氏の特権で「長門国から西の統治権」を得たのだから半島の諸国との交流について「とやかく、
いわれることはない。」のでした。

それにしても、大和朝廷と九州王朝との間にそれほどの差がなかつたにもかかわらず、大伴氏に
与党が出てこなかった。

なぜ大伴氏と親族関係を築いてきた高句麗氏族など出雲族が離れていつたか、盟友関係の百済や
物部氏が離反したかという点は大いに興味があります。

かたくなに武人の意地をとおす大伴 磐の性質によるものではなかつたか。
大伴氏の要請に応じて、自国の衰退を考慮せずに支援軍を送り込んでくれた高句麗長寿王のためにも、
ここは避けることの出来ない戦いだったのかもしれない。

大和朝廷は国譲りに同意した渡来氏族を主体として軍を編成し、戦闘に駆り出します。
かつて宗教戦争を共に戦った同志が、敵対することになつたのでした。

紀には、「ニ十ニ年冬十一月、筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し
、軍勢のかきたてる埃りもいりみだれた。両軍は勝機をつかもうと必死に戦って譲らなかった」という。
この場所は久留米市御井附近であろうか。ここにある高良山からは筑紫平野が一望に見える。

大和朝廷軍による戦闘行為は二年目に入り、さすがに包囲網は縮まって
敵軍の旗印は周囲の山や平野に充満していたのではないか。

最後の決戦に到ったとき、大伴磐の心中に帰来したものはなにであつたのだろうか。
百済の裏切りによって狭手彦も死んだ。この恨みだけは残していったのだろう。

それに引き換え、戦いを交えた出雲氏族にはお互いに恨みは残さなかった。
正々堂々と戦った相手にそれぞれが敬意を抱き、憎しみを持たなかったのです。

それはその後の日本歴史のなかで証明されている。
九州王朝が滅亡し大伴磐や狭手彦が非業の死を迎え大伴宗家が滅んだ後の世に、畿内に残留し
ていた大伴支流の人々は出雲氏族と連携することがあつても、列島の百済閨閥とは「恨」をもつて争い、
ついに最後まで和解することはなかつた。

 高良山にある高良大社は祭神を高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)とし、武内宿禰説がある。
武内宿禰は考元大王の曽孫で、応神・仁徳帝の時代まで活躍する伝説的人物ですが、もちろん
一人の人物である訳はない。

私はこの人物が半島に深く関与するので、大伴氏だろうと思っています。
紀応神紀には、武内宿禰が讒言される場面がある。
−【武内宿禰は常に天下を望む野心をもつています。いま筑紫にあって、ひそかに謀って、
「ひとり筑紫を裂いて、三韓を招き、自分に従わせ、そのうえで天下を支配しょう」といつたと聞いています】−と。

大伴氏はこの言葉どおりに継体帝から九州以西の統治権を与えられ、【半島に狭手彦を派遣し
任那をしずめ、百済を救った。】(紀・宣化紀)という。

磐は、三韓を招き、自分に従わせる途中で情勢の激変により夢を散らしてしまったが、天下を
支配するまでの意志があったのか、なかったのかそれは分らない。

九州での戦後、大伴氏に代わってこの附近を領有することになつた氏族たち(高良大社神職には
物部・安曇部・丹波氏らの名がある)が、高良大社に祭った武内宿禰は、大伴磐の霊を慰めるもの
ではなかつたのか。

これは推測にすぎないが、史実のほうには「磐の奥方、大伴狛夫人(こまのいろえ)や大伴狭手彦の
女善徳」が尼となつたことを伝える。

 戦のため命を落した者たちへの供養のため、仏道に入信出家をしたのでした。
書紀は九州戦争の一切を隠し、婦人たちの尼僧になる時期を約六十年後の崇峻紀三年に移し、
「高齢の尼」にしてしまつた。ひどい話です。

「九州王朝」も「九州戦争」も隠さなくてはなりませんし、「仏教公伝の時期」だつて移動しているのですから
とうぜん大伴狛夫人尼や善徳尼の若くして出家した時期も移しておく必要があつたのでした。

 この戦いでは、狛夫人の実家・高麗王族が誠意をもつて、磐の説得にあたつたのでしょうが
磐の堅い意志を変えることはできませんでした。

 滅亡した大伴宗家の本拠地は縁続きの高句麗氏族に渡され、日置氏らの居住地と変化しました。
熊本県玉名市立願寺には、日置氏の氏神「疋野神社」(祭神・波比岐神、大年神)があります。

祭神大年神はご存知のとおり、出雲神話にでてくる素戔鳴尊の子とも、また海を照らして寄り来る
神とも書かれている。そしてその神の子神は、半島に由来する韓神やソホリ神などの兄弟神です。

玉名市を流れる菊地川上流の山鹿市城にはオブサン古墳、チプサン古墳があり、ハングルで
漁師山、家山の意味を持っていることは有名。

九州の出雲族と壁画古墳

出雲族とは出雲地方の渡来氏族(北燕国遺民・高句麗氏族・北の新羅(穢人)のことです。
継体天王の平定や欽明天王の九州戦役・さらにその後蝦夷対策のため、東北各地に配置され
ましたからその分布は列島各地に及んでいました。

出雲出身者たちが九州戦役に従軍した、そしてどこに移動したのだろうか。
そんな氏族のことを分る範囲で見てみることにします。
大国主神=継体天王説を補強する材料になると思うからで、大伴氏の本拠地熊本から見てみます。

1、熊本県の出雲族
○ 熊本県玉名郡日置郷は高句麗氏族日置氏の居住する地域となりました。
郡司名にみえる権擬少領日置公(熊本県江田三宝寺出土銅板誌)や宇佐神社に土地を売却した
郡司、日置則利(宇佐大鏡)らの名前が残っている。

○ 阿蘇神社(祭神・健磐竜命)大宮司阿蘇氏は祭神の後裔という。
古事記には神武天皇の皇子神八井耳命は(意富(多)臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、
阿蘇君、筑紫の三宅連、雀部臣(造)、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、道奥の岩城国造、
常陸の仲国造、長狭国造、伊勢の舟木直、尾張の丹羽臣、島田氏らの祖なり)。

とみえ、同じく皇子日子八井命は(茨田連、手島連の祖)とありました。
この氏族構成はこれからの話に関連して行きます。

母方は出雲族・大物主命の娘(古事記)とも、事代主命の娘(書紀)とも書かれているヒメタタライスズヒメ命
から出る氏族で、阿蘇君は伝説上・科野国造から分れて熊本に来たという。
残った国造からは郡領や諏訪神社神官金指舎人など長野県の名門へとつながつていく。

一方でこの氏族が畿内に分布していること、また茨田連と関係があつたのではないかと推測されます。
−【阿蘇の君を遣わして、河内国の茨田郡(大阪府北河内郡・寝屋川市・守口市・門真市)の屯倉
(茨田屯倉)の穀を筑紫に運ばせ、(後略)】−(紀・宣化紀)と。

この屯倉を管理していたのが、同祖の茨田連で継体閨閥であつたことは、すでに出ていました。
書紀によると父方は神武天皇で業績が継体天王と重なっていることを思えば、この氏族の出自が
想像できるます。

この氏族の周辺には高句麗氏族が居住している。渡来氏族を束ねる役目をしていたのではない
でしょうか。

阿蘇君も継体天王に随伴した氏族の後裔で、なんらかの関わりがあるのでしょう。
阿蘇君が科野国から来たか、または河内国経由で来たかはここでは問題ではない。
出雲族の子孫が移動して熊本県に来ていることを理解できれば良いと考えています。

○ 宇土郡大宅郷の戸主として、名がみえる額田部君得万呂は君姓をもつているから宇土郡の
豪族です。勝宝二年四月の優婆塞貢進文に氏名がみえる。

出雲国大原郡の郡領級に額田部臣、さらに松江市出土刀剣銘(岡田山一号墳)に額田部臣の
姓がみえるし、額田直は長門国に、額田部君は上野国・肥後国に分布した。(古代氏族人名辞典)

〇 県北に勢力を有していた菊池氏は中世武士で「藤原」姓。菊地神社に伝わる系譜には中臣氏
から始まるとされている。「中臣氏が宮廷に進出し、地歩を築くのは六世紀前後で、継体支持勢力
となり、おもに祭祀・儀礼を職掌した。」(佐伯有清・日本古代氏族辞典)

この菊池氏が藤原を名乗つていたのは謎の部分が多いが、山鹿市から菊池市にかけては
装飾古墳が多く存在し、渡来人の墳墓と考えられる。

菊池氏はそれらの渡来氏族を糾合することに成功した氏族といえます。
菊池一族には城氏があり、肥後国山鹿郡城村を領した。あのチプサン・オブサン古墳の所在地です。
同じく甲斐氏は菊池氏庶流、御船城主となつた甲斐宗運などの名をみることが出来るが、
この名前も甲斐国からきているのではないだろうか。

〇 和銅二年六月、筑前国御笠郡大領であつた宗形部堅牛が益城連姓を賜った。
熊本県には益城郡があり、このことから宗形氏の勢力の伸張が考えられるという説がある。

〇 薩摩国出水郡大領は五百木部氏(いおきべ)で、伊福部とも作る。姓氏録河内神別に
「五百木部連。火明命之後也。」と記され、出雲族の末裔です。

大国主神を祖神とするこの氏族には、「いふく」の音からたたら製鉄に従事した氏族の連想が
有るようです。谷川健一氏「青銅の神の足跡」には、「因幡の伊福部臣には有名な古系図が残さ
れている。・・その系図をみると大巳貴命を始祖としているが…後略」とし、たたらをつかさどる職業の
名に由来するという説を支持している。火明命と大巳貴命との関係については播磨風土記だけでは
なく、このような資料もあつたのでした。

出水郡長島町には積石群集墳・指江古墳群があつて、渡来氏族の墳墓と考えられます。
この出水郡までがいわゆる肥後の勢力範囲で、南方の隼人対策基地でした。

熊本県は壁画古墳が九州の中でも一番多く存在する。北部の玉名郡から菊池郡さらに南部の
下益城郡・八代市付近まで面として存在し、離れて人吉市に点在しています。

五世紀代の石棺装飾や石障装飾の後にくる六世紀の壁画古墳は、彩色された幾何学文様や
物語をもつ壁画が存在し、渡来氏族の関連が濃いものです。

この壁画文化および九州で発生した横穴墓制がその後、東に移動していくことになります。
山陰へ・河内へさらに関東・東北にまで広がった壁画文化は氏族の移動と無関係ではなかつたのでした。

隼人国を制圧した出雲族

 時代が少し後になりますが肥後の氏族をみたついでに、それに関連する南方の隼人国制圧の
ことを間に入れておきましょう。

奈良時代初頭・文武天皇の御世に国力整い、辺境諸国へ使いを遣わして公民となるように
政策(郡司の選任と戸籍作り)を推進します。

それに対してそれまで独自の風習を維持してきた諸国の反発がありました。
699年 薩摩の隼人たちが、朝廷が派遣した使いの刑部真木らをおどすという事件が起き、

大和王権は同年十二月、三野(宮崎県西都市三納・平城付近カ)・稲積(大隅国桑原郡稲積・
現在の隼人町付近)の二城を築き、本格的な介入を始めました。

続日本紀大宝二年条(701年)八月一日条には
−【薩摩と多ね(種子島)は王化に服さず、政令に逆らっていたので、兵を遣わして征討し、
戸口を調査して常駐の官人を置いた。出雲狛に従五位下を授けた。】−と。

出雲狛はこの時点では無姓で、のちに臣を賜ったという。隼人国は二国に分離、東側が大隈国、
西側が薩摩国となりました。

薩摩国を制圧したのは、肥後の氏族を主体とする軍兵で高城郡(現在の出水郡南方から東郷町・
川内市付近をふくむ)の郷名中、四郷(合志・飽田・宇土・託満)が肥後国の郡名に一致し肥後氏族の
移住、駐屯が考えられるという。

高城はこのときに守備兵を置いて守った要害の地。奈良県東南にも「高城」の地名がありましたが、
辺境の地に派遣された氏族が守備した城柵は「高(多賀)城」という名がつけられている。

大隈国に接する日向国諸県郡でも同じ「高城町」があります。
薩摩国の高城は高城川の中流に城上という地名があり、その付近と思われます。
川内川には「高江」という地名。さらに南方にはあるのは「日置郡」で、日置・出水・桑原は
帰化高句麗氏族の姓名と一致します。

日置郡には「牛頭野岡」、「高峰」、「高倉山」などの関連する地名がありました。
帰化高句麗氏族は大和政権の忠実な部隊として最前線の戦いに投入され、国家統一に重要な
役目を担ったのです。 

隼人国の東側は日向国の管轄で、713年に大隈国として成立した。
国府は現在の国分市。和名抄「桑原郡」には大分・豊国・稲積の郷名があつて東九州から移民が
行われたと推測ができるでしょう。

さらに国分市には次の式内社の神社があります。
● 大穴持神社・鹿児島県国分市広瀬(祭神・大巳貴命、配小彦名命、大歳命)
● 韓国宇豆峯神社・鹿児島県国分市上井(祭神・五十猛命)
韓国を冠した神社名は「出雲」に多数分布する他は、福岡県田川郡香春町の辛国息長大姫大目命
神社と鹿児島県の韓国宇豆峯神社の二箇所だけ。

南九州に出雲神を祭祀する氏族が来ていることが分かります。
奈良時代初頭に、大和朝廷の命を受けて隼人との厳しい戦いに従事したのはこれらの人たちでした。

2、東九州・宮崎県の出雲族
これ以前、すなわち隼人たちが制圧され、公民に編入される以前の対大隈隼人の中心基地は
宮崎市北方地域でした。

五世紀代ここを治めた氏族に代わつて六世紀に朝廷の直轄地三宅が置かれ、帰化氏族が入って
きました。533年ごろでしょうか。

西都市三宅・百塚原古墳からは双竜環頭太刀から出土。新富町には日置・上日置の地名がみえる。
高句麗氏族が確実に入って来ました。

宮崎県児湯郡には次の式内社がある。
● 都農神社(宮崎県児湯郡都農・祭神大巳貴命、スサノオ命)
● 都萬神社(宮城県西都市大字妻・祭神木花咲那姫命)

両神社の中間を流れる川の古名は高城川(現在名小丸川)といい、中流域に「高城」がありました。
都農神社付近から高城経由、南の都萬神社付近にいたる街道の要衝で、ここに進駐した出雲族たちの
氏神だつたのでしょう。都萬神社祭神は、大巳貴命の妻である木花咲那姫であると思いたいし、
高句麗氏族が出雲神を祭神とするのはここも同様でした。

横穴墓群が宮崎県全域に分布し約1100基、中には線刻による壁画を有している。著名な壁画横穴墓として、
宮崎県佐土原町・土器田横穴墓群東一号墓(馬二、魚二、人物二、連続三角文)
宮崎市・蓮ケ池横穴墓群五十三号墓(船、鳥二、人物二一、鬼面文など)をあげておきましょう。

3、東九州・大分県の出雲族
豊後国大分郡(大分市一帯)を本拠とする大分国造は、阿蘇君のところで説明したとおり神八井耳命
(事代主命または大物主命の娘を母とする)の子孫という大分(おおきた)君でした。

壬申の乱に大伴氏とともに天武側に立ち奮戦したことは有名です。
九州戦争の後、大伴氏宗家は滅亡しましたが、支流の大伴氏と出雲族の間に恨みは残さなかった。

神八井耳命子孫の周辺には高句麗氏族が播居しているということでしたが、大分市東部には「高城」があり、
付近には「牧」という地名もあります。さらに南方に下ると天面山麓に同じく「高城」、津久見市に
「胡麻柄山」の地名がみえます。

臼杵市を中心に北は大分市から南は宮崎県境にいるまでの間、「河内」をつけた地名が多く存在して
いました。河内からの氏族が九州まで移動してきたのでしょう。もちろん九州戦役に従事するために。

豊後国の戸籍(大宝頃)に川内漢部一家が載っている。戸主等与五十三歳の戸口は十五人、
戸主の従妹・阿流加自売は各田部直(額田部直)と婚姻し、娘の各田部直阿流加売を生んでいる。
出雲族でありまた河内から移動して来た後裔たちと思われるでしょう。
川内(西)漢人は出雲の火明命後裔と姓氏録未定雑姓にある。

和名抄津守郷は日高郡・大分郡・国埼郡にそれぞれある、難波を本拠とした火明命後裔氏族の
九州における居住地といえます。
そのほか、武蔵郷がニ郷、阿岐郷が二郷、永野郷がみえ、すべて東方から来たのです。

大分市の対岸は杵築市で、出雲大社の名「杵築宮」と同じ。
杵築市が含まれる和名抄「豊後国速見郡」には八坂郷や大神郷などがある。八坂は八坂造という
高句麗氏族、大神は三輪氏であつて大物主命後裔とされる氏族。
この氏族は全国展開する豪族になり、各地に大神郷がある。

杵築市シラハゲ古墳からは獅噛環頭太刀が出土していました。
豊後高田市に「美和」、「石部」いずれも大物主命後裔。

美和に、穴瀬横穴墓群19基中12基に壁画。(円文・同心円文・連環文・格子文など赤彩)
宇佐市には「高」「高家」などの地名。至近距離の四日市横穴墓群(160基)、貴船平横穴墓群(52基)

の中に壁画(赤色同心円文、脚付円文、忍冬文よう図案)を有するものがある。
いずれも渡来氏族と壁画古墳とを結びつけて考えられるものです。

大分県内の壁画古墳は日田市・ガランドヤ古墳群・法恩寺古墳群。玖珠町・鬼が島古墳、鬼塚古墳など
が古代街道に沿うように存在し、さらに宇佐市、豊後高田市方面と大分市方面に離れて分布しています。

4、北九州・福岡県の出雲族
 豊前国は朝廷の直轄地、屯倉名が多く存在したところです。(安閑紀)
桑原屯倉(築上郡築城町)・肝等屯倉(かと・苅田町)・勝碕屯倉(みさき・北九州市門司区)・
大抜屯倉(北九州市小倉南区)にそれぞれ比定されていますが、そうした屯倉には東方から移動して
来た氏族が戦後配置され、和名抄に「高来郷」があります。

塔ケ峯山麓に現在も「高来」の地名が残り、苅田町には「高城山」、行橋市に「須佐神社」がある。
高来は高句麗のことであることはいうまでもないことでしょう。

行橋市竹並には1500基もの横穴群があり、高句麗系といわれる「双竜環頭太刀」を出土するお墓がある。
(竹並G53−2横穴)

同じ豊前国企救郡(門司から戸畑まで南は田川郡・京都郡に接する)は長野郷・蒲生郷の二郷が
ありました。(「長野」の地名は曽根の近くにある。)

 筑紫の三宅連は神八井耳命の後裔という。出雲族であることは繰り返し述べています。
ところで筑紫の三宅というと、誰もが磐井の子・筑紫君葛子が献上したという糟屋屯倉を思い浮かべる
でしょうが、三宅連のいたところは宝字二年の資料から推測すると那珂郡三宅郷や早良郡田部郷・額田郷だという。

 福岡県の壁画古墳は56ケ所(森貞次郎氏)で、熊本県の167ケ所に次いで多く、熊本県が面として
存在するのに比べて福岡県は線として存在するのが特徴といえるでしょう。
つまり古代官道の関所守備にあたつた氏族のお墓だつたのです。

福岡県鞍手郡若宮町・竹原古墳は、調査報告(森貞次郎氏、美術研究1957)に「高句麗壁画との類似」
が指摘されている横穴式複室円墳。

後室奥壁には黒・赤の顔料で、船・人物・馬を、下段に波を描いて渡海してきた物語を、上部の怪獣は
青竜を示すのか。前室右・左奥壁には朱雀、玄武を描いているから、開口部は西の西国浄土を向いて
建造されている。仏教思想に基づいたお墓だつたのでしょう。六世紀後半代と考えられています。

北九州街道・壁画古墳ベルト地帯
 高句麗壁画との類似が指摘されるというのは、帰化高句麗氏族がこの付近に配置されたということでした。
欽明帝は半島の旧倭国構成国の再統一を願っていましたから、そのための氏族配置をしたのです。

竹原古墳から東は中間市の壁画横穴墓群・北九州市日明一本松古墳と壁画古墳の線は続く。
嘉穂郡桂川町の王塚古墳は六世紀中に建造された華麗な壁画をもつことで有名になりました。

福岡市から南方に筑紫野市・夜須町・三輪町・朝倉町と続き、浮羽町・吉井町・田主丸町・久留米市・佐賀市・
小城町さらに佐賀県北高来郡高来町へと壁画古墳の線は続く。

浮羽町の東は日田市でここから大分市までは大分県の項で述べておきました。
「北九州街道・壁画古墳ベルト地帯」と呼んで、面として存在する熊本県とは分けておきましょう。

福岡県夜須町の観音塚古墳は10隻近くの船と人物・騎馬人物の壁画を持つ。
浮羽郡吉井町の鳥船塚古墳は舳(へさき)と艫(とも)に鳥がとまり、櫂を持つ人物が乗る船を描いている。

同じ吉井町の珍敷塚古墳は、盾を持った人物・ひき蛙などを乗せた船の舳に鳥を配した壁画。
船に乗って九州に来た主人公を表しているのではありませんか。

(壁画古墳の所在地については、巻末に主要壁画古墳地名を掲げておきました。なお詳しい資料はインターネットの
D&L RESEARCH CORPORATION。もしくは大阪府立 近つ飛鳥博物館「残されたキャンバス」(通信販売中)
を見ていただくのがよいと思います。)

福岡県の出雲系式内社は
● 三輪町・於保奈牟智神社一座とあるから祭神は、大巳貴命です。
● 甘木市・美奈宜神社(みなぎ・一の宮祭神スサノオ、大巳貴命、事代主命)
● 久留米市・伊勢天照御祖神社(祭神天照国照天火明尊)境内社には大国主神社、えびす神社、
祇園神社(八坂)、佐岐神社など。

 八女市には石人で有名な岩戸山古墳がありました。この古墳の主については、風土記などの記載によって
「筑紫の君」に比定する説がありました。

それが適切であるかどうかはさておき、岩戸山古墳の至近距離に建造された「乗場古墳」は、
この付近の治世を継承(あるいは略奪)した人物のお墓といつてよいでしよう。   

前方部を西に向けた前方後円墳の主体部は、複室構造で赤・黄・青の彩色顔料を用いて連続三角文・同心円文・
蕨手状文・鞆・さしばなどの壁画が描かれている。この人物が壁画文化をもつ氏族であることはいうまでもない。
そうして、この地の治世権を前代の主から得たことを理解する必要があるのでしょう。

5、肥前国(佐賀県・長崎県)の出雲族
 佐賀県には小城郡に高来(多久)郷があり、福岡県に続き神埼町・佐賀市・小城町・多久市ここから北方町・
有明町・高来町へと連なる壁画古墳ベルト地帯の中にある。

海上交通の中心となった唐津市やさらに豊臣秀吉の半島出兵の根拠地となつた名護屋に通じる場所に位置する。
 古代から万葉集に歌われている「狛島」は、現在名・神集島(かしわじま)といい、唐津湾の外海に面したところに
あります。

半島航路の中継地として利用されてきました。島には武人のお墓である鬼塚古墳群があり、狛人が住んでいた
から狛島という名がついたという。対岸の唐津市湊には八坂神社が祭られいるし、
さらに唐津市半田古墳からは獅噛環頭太刀が出土しています。

出土といえば唐津市の島田塚古墳からは仏教伝来を強く印象つける銅鋺・承盤が眉庇付冑ともに出土したことは
前に述べておきました。六世紀前半というこの古墳は側壁の持ち送りが強く、天井部は1石で作られている。
もしかしたら、この古墳に眠る人物は渡来氏族で、仏教布教支援のため列島に来たのではないだろうか。

鳥栖市のヒヤーガンサン古墳は赤の彩色で円文・十字文を描いた壁画古墳だが、この古墳の固有名称は
九州弁でどんな意味を持つのだろう。それよりもハングルで「故郷の山」という意味のヒャンガンサンではないですか。

佐賀県は仏教文化の盛んな国であったのでしょう。
佐賀県東部の諸富町石塚1号墳は長楕円形の単室構造横穴式古墳で六世紀後半〜末ころの年代がいわれて
いますが、ここから出土した金銅製飾り金具には15弁を配した蓮華文の文様が有るということでした。

奈良県御所市の水泥南古墳(6世紀後半)・石棺に6弁の蓮華文が彫られています。そんなことから書紀の仏教を
めぐる争いの年代が、いかに遅れた年代であることが分かるのです。

長崎県北高来郡小長井町にある長戸鬼塚古墳は複室構造の石室に鋸歯文・船とともに鯨の壁画があつて有名
となりました。代表例としてあげておきましょう。

九州戦争終了後、帰還した将兵

 各地から召集されて九州戦役を戦った氏族は、九州に領地を賜った氏族を残し、それぞれの根拠地に引き揚げ
ました。九州墓制である横穴墓文化や壁画古墳文化が帰還先に広がつたのです。

島根県の壁画古墓
     松江市十王免横穴墓群(1・2・7号墓)線刻、(弓、矢、船、人物。)
     出雲市深田谷横穴(芦渡横穴?) 線刻、(人物。)
     安来市穴神1号横穴 石棺に彩色画、(赤色蕨手文・三角文。)
     八束郡宍道町浜ノ埼2号横穴  線刻、(人物)
     隠岐郡西郷町飯ノ山横穴    線刻、(人物)

鳥取県壁画古墓
 52基の壁画古墳と1基の壁画横穴墓があり、数基の彩色画を持つ古墳の他、すべて線刻でした。
次ぎの町に壁画古墓が広がっています。
     岩美郡福部町2、 国府町11
     鳥取市11
     八頭郡河原町1、 郡家町6
     気高郡気高町6+1(横穴)、鹿野町1、青谷町2
     倉吉市3
     東伯郡三朝町1、 東郷町3、 大栄町2 北条町1
     西伯郡淀江町2

淀江町には上淀廃寺があり、伽藍配置は金堂を西に塔を東に設けた斑鳩の法起寺式です。
創建時期は7世紀末〜8世紀初(概報・淀江町教育委員会編)

奈良県斑鳩地域と法起寺式の寺院をもつ出雲の関係については、紙幅の関係で深入りを避けたいが、
上淀廃寺から発見された壁画については高句麗壁画の関連がいわれていることだけは伝えておきます。

鳥取県の代表的な壁画古墳は、山裾を利用した変形八角墳の墳丘をもつ国府町の梶山古墳(7世紀初頭建造)でしょう。
赤色の顔料で三角文・同心円文・曲線?・魚を描いています。

国府町にはこの古墳を含め11の壁画古墳がありました。当時、高い文化を持っていたのは渡来氏族でしたから、
そうした氏族の居住地に国府は作られていったのではないかと推測しています。

梶山古墳の至近には中国北朝文化の到来を示すという「岡益の石堂」がある。風雪のため傷み、現在はテント張りに
覆われて近づくことさえ出来ないませんが、【刻まれたパルメツト(唐草文)は北魏の雲崗石窟の文様とほぼ同時期、
中国北朝文化の影響の表れている土地】(森浩一氏)という。

中国文化が都である奈良県を経由することなく、直接山陰の地に到来していることに驚かれる方が多いのです。
本書をここまで読まれた方は驚きではないでしょう。むしろ納得されるのではないかと思っています。

大阪府の壁画古墓
柏原市とくに高井田横穴墓群(24基の壁画横穴)にまとまって存在。
それと大和川の対岸・玉手安福寺北群10号横穴(騎馬人物・人物)が現在知られており、いずれも線刻です。

大狛神社の氏子たちと思われる氏族で、6世紀中から始まる壁画文化は高句麗氏族の末裔たちの文化だつたのでしよう。
その他、香川県14基の古墳、兵庫県山陰側に2基、瀬戸内側に4基。
長野県・静岡県に壁画古墳が存在しています。

新任務についた出雲族

関東・神奈川県から東北・宮城県まで延びる壁画古墳の群れを、「太平洋岸・壁画古墳ベルト地帯」と本書では
呼びましよう。九州戦役を終えて、帰還した氏族もいるでしょうが、新しく任地に赴く氏族もいたのです。

大伴宗家滅亡後、関東以北の大伴氏拠点は出雲族に渡されました。
大和政権は対蝦夷政策の尖兵として、その戦闘力を北に向けたのです。

「そうした氏族は船を利用して移動した」という考古研究者もいます。
西方文化が途中の地を経由することなく、関東以北に出現する様相をそんな表現であらわしました。
高来神社(神奈川県大磯町高麗)7月18日の大祭には、高句麗氏族が船から海岸に上陸する所作をして、
そのときの様子をしのばせるといいます。

足柄峠・箱根の関所警備に従事する氏族として、また東北の派兵勢力としての任務も帯びていました。
関東には渡来氏族が多くいるということは、古くから言われていたのでした。

継体天王が国家統一したときに原動力になった出雲勢力(渡来氏族と出雲に荷担した倭豪族)がいる上に、
大伴氏と交代するため、さらに出雲族が来たのですから、どちらを向いても渡来氏族ということになっているのです。

「太平洋岸壁画古墳ベルト地帯」から代表的な古墳をあげながら、古代氏族をみてみます。
そしてその氏神神社の祭神をみることにしましょう。
大国主神=継体天王であることの傍証を得るためです。

神奈川県の出雲族

 古代の東海道は足柄の関から東部の横須賀に至り、そこから海路房総半島に渡るコースを取りました。
その間の関所は主として出雲族に引き継がれていつたのです。まず壁画横穴墓の出現する場所をあげておきましょう。

小田原市1、二宮町4、大磯町7、平塚市3、寒川町2、藤沢市3、鎌倉市4、横須賀市2と古代街道に沿って存在し
ていました。新しく赴任してきた氏族たちです。

これとは別に、川崎市高津区の馬絹古墳(彩色壁画古墳)や同麻生区早野、町田市熊ケ谷、横浜市緑区牛ケ尾・
港北区新吉田町などの14基の壁画横穴墓は、「武蔵国造の乱」で笠原使主が献上した横渟(よこぬ)・橘花・
多氷(多未、たま)、倉樔(倉樹、くらき)の四郡の中にある橘花(橘樹・たちばな)郡に存在し、
和名抄橘樹郡には「高田・橘樹・御宅(みやけ)・県守・駅家」の各郷がありました。

現在地名の「港北区高田」の付近には日吉があります。これは出雲神の日吉神社(近江)からつけられた名前でしょうし、
高田は高句麗氏族の居住地には必ず存在する地名といつてよい。
また上記の献上された多未郡・和名抄多摩郡には狛江郷があります。

笠原使主が親族同士争って、出雲勢力を連れて関東に帰ってきた。
それが「武蔵国造の乱」の経緯であるとしました。そのことは使主が献上した屯倉に出雲族が居住していることで
実証できるのではありませんか。
ここの壁画古墓の人々は帰還将兵と考えられます。

さて、神奈川県西部には高来神社がある。帰化高句麗人たちが大伴氏と交代し、関所の警備を担当したことは
前にも話しておきました。
「高」姓であつたらしく、小田原市千代廃寺の寺伝には次ぎのようなことが書かれている。

「寺は弓削道鏡によって発願され、食封の地・相模国・足柄郡に建造された。時の郡司は高 家伴、天平神護元年
(765年)のことである」(神奈川県史概説)この高氏が出雲族(渡来氏族)であることは間違いないでしょう。

三浦半島・横須賀市衣笠にある宗元廃寺の軒平瓦は、千代廃寺の軒平瓦と同一型で作られ、軒丸瓦は
「忍冬蓮華文」で高句麗様式の瓦です。
旧東海道は横須賀から海路となつて対岸の房総半島に渡っていた。

ここの出身、赤星直忠氏の著書「穴の考古学」の中には、横穴と仏教に関する記述がある。
「(横穴墓から火葬骨が出土することを指摘した上で、)寒川町岡田横穴・大磯町庄が久保横穴・同清水北横穴
における壁画に仏菩薩を表現したとみられるもののあることも確かである。
これは仏教の明らかな影響である。」と。 2002年生誕100年展があつた考古学先駆者の弁でした。

千葉県の出雲族

 池上 悟氏の考古学ライブラリー6「横穴墓」によると、千葉県の横穴墓が濃厚に存在する場所は
@、「東上総の一ノ宮川諸支流域」A、「西上総、小糸川〜湊川間」B「安房地方の平久里川・丸山川流域」という。

@ の一ノ宮諸流域
現在の千葉県長生郡一帯で、壁画横穴の多いことでも知られている。茂原市4、長柄町・千代丸横穴墓群を中心に16、
市原市の外部田・池和田・大和田各横穴群5の壁画横穴もこの流域にある。

和名抄「上総国長柄郡」には「刑部郷」という郷名がみえ、狛江市の渡来氏族刑部と同名、また「柏原郷」は河内、
「谷部(はせべ)郷」は奈良東南の地名、いずれも本書の中に出てきた名前でした。

A の西上総、小糸川〜湊川間
この地域は関東でも傑出した渡来氏族の地盤であつたらしく、木更津市には高句麗系といわれる双竜環頭太刀や
双魚佩を出土した「松面古墳」や双竜環頭太刀2・単竜、獅噛、単鳳環頭太刀各1・銅鋺3を出土した「金鈴塚古墳」、
獅噛環頭太刀を出土した「鶴巻塚古墳」など。

湊川河口の富津市では双竜環頭太刀他3・銅鋺を出土した「白姫塚古墳」や壁画を持つ横穴5があつて、
主として人物・馬・船を線刻しています。

滋賀県・高嶋の鴨稲荷山古墳や奈良県藤ノ木古墳などと並び双魚佩を出す松面古墳や同じく金銅履を出土する
金鈴塚古墳など有力な豪族の存在した地域でした。

B の安房地方
館山市、安房郡丸山町一帯で房総半島南端部にあたる地域です。ここの壁画横穴は、南条11号横穴墓に人物の
線刻がある。

館山市は安房国の国府があつた場所、ここでも国府の地名至近距離に「高井」の地名があります。
同様に丸山町には加茂の地名、さらに北側の鴨川市に至る地域は、和名抄「長狭郡日置郷、加茂郷」などの
出雲関連地名が見えるようです。日置氏は高句麗から渡来した氏族名で各地にみえる。
長狭国造は古事記に多氏一族とされる。この氏族が高句麗氏族を束ねたのではないか。と考えられる。

長狭郡には「伴部郷」があるので、高句麗氏族に委譲された地域といえますが、ここに駐屯したのは海上交通の
関所があつたのか、それとも横須賀の千駄ケ埼から対岸の富津市に渡り、鴨川市に運ばれてきた物資をここで船に
積みこみ、海路東北へ輸送する基地であつたのか。

池上 悟氏によると上記以外には、夷隅川流域にかなりの分布、山武郡の九十九里沿岸、利根川南岸の
下総台地北縁にも横穴墓が分布しているということです。

茨城県の出雲族

 和名抄常陸国信太郡は、「高来郷・高田郷・小野郷」などおなじみの郷名が出てくる地域。
小野氏は近江西岸でも渡来氏族の中に、あるいは近辺に接近して居住している。

遣隋大使・小野妹子が中国語にたんのうで中国要人から親しく接され、「蘇因高」なる姓名まで名乗った事実があります。
「蘇」は「蘇民将来」伝説、あるいは「ソシモリ・蘇氏の王」の「蘇」と同じで「孝昭天皇と尾張連の女による
天足彦国押人命の子孫」と伝えるこの氏族の伝承は、倭国始祖伝説と出雲神話の結合による産物の可能性が高い
神武朝の出雲閨閥出身。そうすると小野氏も出雲族であつたのだろうか。

霞ヶ浦西岸地域にある高来郷・高田郷は、出雲族の中の高句麗氏族と思われる人々の居住地。
ここの出島村には宍倉、加茂、高浜などの地名と太子唐櫃古墳(赤色、円文・珠文)、
折戸・十日塚古墳の壁画古墳がある。

横穴墓群は出島村地区に存在し、茨城県南部では他に鹿島町にある。
大洋村には獅噛環頭太刀を出土する梶山古墳、霞ケ浦北岸玉里村にある舟塚古墳出土と伝える鈴付双竜環頭太刀は
竜が4匹表現され、日本海久美浜湾の「湯舟坂2号墳」出土の双竜環頭太刀に類似しています。
霞ケ浦近辺の交通要衝を警備した氏族でしょうか。

 茨城県北部の那珂川・久慈川流域(水戸市〜日立市)は壁画古墳・壁画横穴墓の集合体の有るところで、
神奈川県から宮城県にいたる太平洋岸壁画古墳ベルト地帯の中核といえる所です。

横穴墓群もここに集中している。水戸市「吉田古墳」(線刻、武具類)、ひたちなか市「殿塚古墳」(線刻)、
「虎塚古墳」(彩色・赤)、「金上古墳」(D&Lによる、詳細不明)那珂町・「白河内古墳」(線刻)、
東海村「須和間12号墳」(線刻)、常北町・「増井古墳」(線刻)、金砂郷村「箕古墳」(線刻)
その他壁画横穴が水戸市2、常陸大田市3、日立市4、金砂郷村1以上浜通りの地域。

浜通りの地には壁画古墳の増井古墳のある常北町に、
● 青山神社(常北町青山・祭神五十猛命)

ひたちなか市には
● 酒列磯前神社(さかつらいそざき・祭神大巳貴命、小彦名命)名神大神社。
大国主神と大物主神は紀の一書に「幸魂・奇魂」と書かれ、混同することが多いのですが、この神社では大物主神を
末社に祭り、大巳貴命と別けている。これが正しいのでしょう。

地名考証をしても面白い所といえます。「高井」「額田」「磯部」(常陸太田市)、虎塚古墳・十郎穴のある中根の隣は
「高井」(ひたちなか市)がある。

国府のあつた日立国府には「多賀」「諏訪」などの地名があつて、和名抄「多珂郡」伴部・高野・多珂郷がこの付近に
比定されるのではないでしょうか。

【江戸時代中期の学者・新井白石は、高天原を高いという字にとらわれることなく「高」というのは常陸にある「多珂」郡の
地であるという解釈をしている】(井上光貞氏「日本書紀の成立と解釈の歴史」)

「神は人なり」と神話に登場してくる神は、実は人間だと看破したのは白石ですから、多珂郡の人たちを高句麗氏族と
見破っていたのかも知れない。白石が目をつけた点は高く評価しなければならないでしょう。

昔の多珂郡を割いて、多珂郡・石城郡の二つにしたと風土記にでています。次ぎに出てくる浜通り県境の勿来の関、
福島県いわき市も旧多珂郡でした
県境の 南の北茨城市には佐波波地神社(祭神・天日方奇日方命)がある。

常陸那珂国造はたびたび名の出てくる多氏一族で神武天皇の皇子後裔を伝えるが出雲族といつてよい。

内陸部は真壁郡関城町「船玉古墳」(彩色・赤)、西茨城郡岩瀬町「花園3号墳」(彩色・赤・黒・白)どちらにも
船の壁画がある。死者の魂が船に乗って遠い故里の地に戻ることを願ったのか。
関東から白川の関に通ずる古代街道の関所警備にあたった氏族だつたのでしょう。

上の 彩色古墳「花園3号墳」のある西茨城郡岩瀬町付近には、
● 鴨大神御子神主神社(岩瀬町加茂部祭神・鴨大神・大田田根子命・別雷神)
● 大国玉神社(大和村・祭神大国主命、配武甕槌命、別雷命)大国主神、大田田根子の父上の武甕槌命と
京都上鴨神社の祭神をお祭りしている。
● 稲田神社(笠間市稲田・祭神奇稲田姫之命)名神大神社。

福島県との県境に近大子町には
● 八溝嶺神社(久慈郡大子町上野宮・祭神大巳貴命、事代主命)山岳地帯の街道防衛に当たった氏族が
奉祭した出雲神でした。

栃木県の出雲族
栃木県に入ったところの芳賀郡市貝町では「刈生田古墳」に双竜環頭太刀の出土があります。

馬頭町には有名な横穴墓群{唐の御所)があり、家型の横穴は棟が浮き彫りになつて華麗な創りになつている。

  (栃木県・馬頭町の横穴古墳群、唐の御所)

隣の小川町には
● 三和神社(那須郡小川町大字三輪・祭神大物主命)
この先は那須国造碑のある湯津上村を通り、白河の関へと続く。

こうして見ると、内陸部から浜通りからまで横一線に対蝦夷の根拠地があつたのでした。
そして守備にあたったのが出雲族なのです。式内社出雲神神社があるので分かるでしょう。

福島県の出雲族
常陸風土記によれば、多珂の国の範囲に福島県の双葉郡大熊町付近まで含まれていた。
その後、多珂と岩城に別れ、勿来の関以北は陸奥の国になったという。

浜通りには東流する諸河川の流域に横穴墓が群在する(池上悟氏)。
壁画横穴墓もまた上記浜通りの各地に所在し、彩色の著名な壁画横穴墓が多く存在する。

茨城県は壁画高塚墳が多かつたけど、福島県は横穴墓に壁画があり、しかも出土品は豪華なものがあるのが特徴。
いわき市中田1号横穴(複室、彩色赤・白)桂甲、豪華な馬具一式、武具類、珠文鏡、銅鋺の蓋など、
六世紀後半築造とされる。(いわき市史)他にいわき市館山6号横穴(線刻、渦巻き文・馬)。

双竜環頭太刀を出土するのは、いわき市白穴東1号、八幡24号墓で、7世紀前葉の八幡13号墓は「仏教金銅幡金具」を
出土する。仏教を持った氏族が移動して来たと考えてよいでしょう。

 勿来の関を守備した氏族はいわき市を根拠地としました。北と西に「高倉山」とおなじみの山名がある。
● 大国魂神社(いわき市平菅波、祭神大巳貴命・事代主命・少彦名命)この神社は甲山古墳の傍に建っている。
廃寺址もあり、古代岩城地方の行政・文化の中心地といわれています。
● 佐麻久嶺神社(いわき市中山、祭神五十猛命)と出雲神をまつる神社がある。

いわき市から北に宮城県まで、壁画横穴墓が連なり「双葉町8」(清戸迫76号横穴・彩色、他線刻)
「小高町4」(彩色3、線刻1)「原町市1」(彩色)、「相馬市1」(線刻)、「鹿島町5」(彩色1、線刻4)。
















(双葉町・清戸迫題76号横穴の彩色壁画)

鹿島町寺内、真野古墳群・寺内支群20号墳(全長30mの前方後円墳)から金銅製双魚佩が出土し著名となりました。
双魚佩を持つ氏族がここに来ていたということが分かります。

他に双魚佩を出土するのは近江高嶋の鴨稲荷山古墳・斑鳩の藤ノ木古墳・木更津の元新地(松面)古墳など。
出雲族の風俗ということができませんか。

名神大の神社として屈指の古社という「多珂神社」は原町市高に在る神社。
祭神は多珂大明神。この辺りの地名考証をされると面白いかもしれません。「高」「高倉」「高平」「諏訪」「長野」など。
和名抄「行方郡多珂郷や真野郷」で、行方軍団の置かれた場所か。

原町の羽山1号横穴奥壁に描かれた彩色壁画について、壁画模写にあたつた日下八光氏は「敦煌壁画・九色鹿本生譚」との
類似を指摘し、羽山壁画が「仏教の教えを描いたもの」とする。

九色鹿本生譚は釈迦前世の善行説話の一つ、ここでは釈迦は鹿に変身して現れている。
羽山壁画においても主人公としての鹿の丁寧な作図に並々ならぬものを感ずるとき、はるか西方の国からの物語が
東北の地に出現することのロマンと人々の営みに思いをするのです。

相馬市福迫27号横穴墓には双竜環頭太刀が出土する。

 中通りには白河の関を守備する氏族が存在していました。
泉埼4号横穴(泉埼村・彩色)、大久保横穴(東村・複室構造、線刻)と須賀川市に治部池2号横穴(線刻)と壁画がある。
また東村の笊内37号横穴から銅鋺が出土しているのは浜通りと変わりはない。仏教を信仰する氏族が移動して来たのでした。
それと同じく出雲神を氏神とした氏族であったのです。

● 都都古和気神社(棚倉町馬場・祭神味すき高彦根命)ここには大国主神の神像がある。
大黒天のイメージと異なる「笑わない大国主」、うつむきかげんのお顔には微笑みはなく、少し暗い影すら感じるお姿です。

陸奥白河郡の狛造智成と陸奥安達郡の狛造子押麻呂は承和十年(843年)にそれぞれ、陸奥白河連、
陸奥安達連に改姓されています。出雲族の子孫は東北の地に根付きました。
白河軍団・安達軍団の一員として対蝦夷の軍事行動に従事したのでした。


宮城県の出雲族
 横穴墓は宮城県が最北である。対蝦夷の最前線基地が置かれ、壁画横穴墓の分布も旧北上川、支流江合川の
防御線内に、あるいは鳴瀬川に沿うように存在しています。

前者は「矢本町1」(線刻、同心円文)、「涌谷町2」(迫戸A1号線刻、A2号彩色)、
「小牛田町1」(蜂谷森横穴・不明)、「岩出山町1」(彩色)。
鳴瀬川沿いには「鹿島台町2」(彩色)、「松山町4」(彩色)、三本木町5(彩色3・線刻2)などが存在する。

川沿いの色麻町にはあの「伊達神社」(名神大・祭神五十猛命)があります。
和名抄「色麻郡」は「相模郷・安蘇郷・色麻郷」の各郷から成り、それぞれの各地からこの地に入ってきた氏族の
出身地と思われる。
伊達神社も出身地の播磨国飾磨郡伊達郷、射楯神社の勧請という。元は中国の神、出雲を経由して東北に鎮座されたのです。

● 須伎神社(黒川郡大衝村、祭神須佐之男)
● 加美石神社(加美郡宮崎町、祭神須佐之男)も同域。
高城という地名や高倉山というおなじみの山名があちらこちらにある。

県南では亘理町・竹ノ花横穴(彩色)仙台市愛宕山C1横穴(彩色)の古墓がある。
−【続日本紀は、対蝦夷との戦いの第一線指揮官・鎮守府軍曹として勤務する従八位上の「韓袁哲」が危険を
恐れず、先に立つて敵陣に突入した勇気を称え、三階級昇進させた。】−(宝字4年759年正月)と伝える。

宝字3年に北上川を渡河し、相手側の重要地点に桃生柵(城)を作ることに成功したその功績によるものですが、
この人物が渡来氏族の子孫であること、日本国の形成に渡来氏族が果たした役割は大きなものがあつたことは
間違いないでしょう。

宮城県栗原郡鶯沢町・御嶽神社の祭神は安閑天皇で、継体御子が東北の地にお祭りされているのは出雲族との
関係を抜きにしては考えられない。

神奈川県から宮城県まで壁画古墳をみてきました。
九州戦役を終えた氏族たちは新しい任務を与えられて東北の地に来ました。
そして彼らの一部は青森県まで進出したのです。
青森県八戸市丹後平古墳群からは獅噛環頭太刀が出土する。

山形県の出雲族
出羽国では宝字3年雄勝城を作り、山形から秋田への第一歩を果たしたという。
長い抗争の主役を演じてきたのも、また出雲族を主体とする軍事力だつたのです。
米沢盆地の南陽市・熊野神社は、三大熊野神社の一つといわれ、太々神楽(スサノオの出てくる出雲神楽)を伝えている。

高畠町安久津八幡神社は群集古墳群・神社・寺院が一個所に存在する古い形を示し、
神仏混交時代の延年舞は四天王寺樂人によつて当地に伝えられたという伝承を残しています。
各地に群集古墳群を造つた氏族たちもまた厳しい戦いのあけくれであつたのでしょう。

「赤湯温泉の由来から」と題し、完戸昭夫氏は次ぎのように述べている。
「元来出羽国は渡来人も多かったのだろう。(その中に)多治比・小野・大伴・阿部の上代氏族の名も散見される」と。

多治比氏は継体子孫の養育氏族、小野氏もまた出雲族と行動を伴にする氏族、火明命系尾張連の女を祖としている。
東北の東西の地に展開した出雲族は帰国することなく、日本人として定着していきました。

はるかな北の空に思いをすることが無かった訳ではない。
魂は船に乗って、北に帰ることを夢見たのです。

日本海に浮かぶ山口県の小さな島・見島には数百におよぶ積石墳墓が造られていた。帰ることが叶わない人々の
望郷の墓とみることが出来るのではないでしょうか。..........