第12章 仏教布教に貢献した氏族のその後

 壬申の乱 

 大伴御行は、畿内に残留していた大伴支族・阿波布古の後裔で宗家滅亡後の大伴氏を率いた
氏上です。そして壬申の乱の吉野軍総司令官として作戦を主導した人物でした。

宗家滅亡の一因となった百済の裏切りに、心中深く「恨」を抱いた大伴氏と百済閨閥との争いが
最初に表面化したのが壬申の乱です。

王家における倭の血筋と百済血筋の争いの形をとりますが、もとはといえば欽明紀の大奥から
発したと思われる同根同士。欽明天王の血を受け継いだ子孫たち同士だつたのでしょうが、

それを取り巻く豪族たちの思惑の違いが大きな争いに発展していつたのです。
従って乱の戦記に出てくる吉野側の氏族には、大伴一族とかつて親族関係を結んでいて、

協力することを約束した出雲族後裔たちが活躍しました。
六世紀に畿内に入ってきた氏族たちです。
五世紀に畿内にいた倭豪族の姿はすでにここにはありません。

大伴氏は御行・馬来田・吹負・安麻呂の首脳に同族の佐伯連大目、大伴連友国、
大伴朴本連大国など。

出雲族の内、高句麗氏族では舎人として従った黄文連大伴や伊賀で大海人皇子を出迎えた
高田首新家、三重県朝明川で皇子たち一行が休まれた時の朝明史、それに大狛連百枝などが
功臣としてみえます。

出雲族の大国主系では鴨君蝦夷、三輪君高市麻呂、三輪君子首(こびと)、坂田公雷(継体子孫)。
母方が大物主の娘後裔の大分君恵尺・大分君雅見・多臣品治。多氏一族をあげて天武側に
ついたとみえました。

同じく火明命後裔・尾張連大隈。
史書には名は見えないが多治比氏も入れるべきでしょう。
戦後中央官人として重用されるこの氏族の働きは近江側に、大和守備の弱点、紀の川進撃を
断念させたことか。

この河内南部を領域とする多治比氏や和歌山に配置された旧出雲勢力の力が大きく働いたの
でした。

出雲にしか出現しない神魂命後裔には県犬養連大伴、(大椋)置始連兎。
天穂日命系の土師連馬手、土師連真敷、出雲臣狛などの出雲臣の族たちも戦闘に参加しました。

真人家の成立
このときの出雲関係氏族の活躍が、天武十三年の「継体子孫に真人姓を賜る」ことに
大きく寄与したのではないか。いい換えるなら赤い血でかちえた賜姓であつたのでしょう。

斑鳩の地にあつた上宮家絶滅後、出雲族の悲願が真人家の成立だつたのです。
大伴氏は古くからの因縁で出雲氏族を誘い入れ、壬申の乱を勝利に導きました。
その後の真人家成立に後押ししたことは充分に想像できます。

このとき成立した真人姓は全部で十二、そのうち継体後裔ともくされるのは次ぎの七。

三国公 越前坂井郡三国に本拠を置く。紀・継体紀に三尾君堅ひの女、倭媛所生の椀子皇子が
「三国公の先祖とする」。古事記では応神の孫意富富杼王を祖とする、遡らせた異説がある。
三尾君は近江高嶋の地を最初根拠地としていましたが、三国に進出したことは継体天王の
進撃路の項で話しておきました。

丹比(多治比)公 河内国丹比郡に本拠を置く。宣化御子の上殖葉皇子を祖とする。 
   
偉那公 宣化御子の上殖葉皇子を祖とする。(書紀)、姓氏録には宣化御子の火焔王の後とする異説。
坂田公 継体御子の中皇子を祖とする。(書紀)

酒人公 継体御子の兎皇子を祖とする。(書紀)
★酒人公には、大国主神後裔忍甕足尼(おしみかすくね)を祖とする説。(鴨脚家本B残簡、
大和国加茂朝臣条逸文)・(日本古代氏族辞典より)この異説は「大国主神=継体天王」を
主張する筆者にとっては異説ではなく当然とみる。

 同族の酒人小川真人は近江国高島郡小川(滋賀県高島郡安曇町小川)の地名によると思わ
れる。継体天王と関係の深い三尾氏の根拠地でもある。

息長公・山道公 古事記に意富々杼王を祖とするとみえる。三国公・酒人公なども、ともにある
ところから遡らせた祖先伝承である。姓氏録には坂田酒人真人は息長真人と同祖とある。(左京皇別)

紀・記とも継体朝の子孫に関しては異なったことを書いており、混乱して所生する母系も判然と
しないものがある。ここでは真人を賜った氏族が継体朝三王の子孫として認められたことが
重要なことでしょうし、これが壬申の乱における出雲族の功績によるものだろうと考えられます。

十二の真人姓を賜った氏族の一「当麻真人」を賜ったのは、天武十四年卒の当麻真人広摩呂で、
続日本紀に壬申の功者であると書かれている事からもそのことが想像できるのでした。

多治比真人家 
継体朝後裔の真人姓を賜った氏族の中で、最も活躍したのは河内を本拠地とした多治比
真人家でしょう。
当主の多治比真人嶋は持統朝の右大臣、文武朝の左大臣を歴任し、子の池守・県守・広成・
広足も顕職につきました。

ときに大伴連御行は大納言の職に在り大宝元年(701年)の卒時には贈右大臣。
和銅五年(712年)には嶋の妻、御行の妻がともに、夫の生前、死後の貞節を賞せられ五十戸を
賜ったとある。

持統王朝擁立に当った大伴氏と出雲出身貴族・多治比氏の関係は、密接なものがあつたのです。
それは壬申の乱以後のことではないでしょう。
出雲に日本国を造ったときまで、遡る深い縁があつたのではないかと思われるのでした。
この氏族たちが中央政権の要職にあつたとき、大唐との文化交流を行って仏教の花を開かせます。

★大宝元年(701年)の入唐大使は粟田朝臣真人。山城国愛宕郡上粟田・下粟田郷(京都市
伏見区粟田口一帯)を本拠とし、氏神社は近江国滋賀郡にある「小野神社」ということからも分
かるようにあの「小野氏」の同族。

★養老元年(717年)遣唐押使は多治比真人県守。嶋の息子。

★天平四年(732年)遣唐大使に任命されたのは、県守の弟・多治比真人広成。
日本政府がどのような人選をしたのか分かるようです。

それに対して、選ばれた人たちが期待された以上の仕事を成し遂げたのは使者や従者が、
日本国にどのような文化をもたらすべきかを深く考えていたからではないでしょうか。

 輝かしい栄光の日々は長く続くことはありません。この後、藤原氏の台頭による政治の変化に、
大伴氏と多治比氏は打撃を受けていきます。

日本国の古代氏族は母系社会でしたから、母方の影響を強く受けました。
藤原氏はそれを利用して天皇家の後宮に女をいれ、御子をもうけて影響力を発揮したのです。
それでいながら、自身の家は父系を固く維持しました。
この点からも藤原氏の出自は中臣を仮称した百済系の渡来人でないかという疑いが持たれて
いるところです。大伴氏とはお互いに反する相手側となりました。

天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の事件では、大伴氏とともに連携して来た多治比真人氏も
打撃を受けます。
嶋の子・広足はこのとき、中納言の要職についていましたが「奈良麻呂の乱に同族を教導しえず、
これを悉く賊となしたることを責められ」職を失いました。

百済武寧王系の高野新笠を母とする桓武天皇治世時には、大伴氏は罪を得て滅亡していきます。
多治比氏はこのとき同様に罪を得ながらも大伴氏の滅亡後なんとか生き続け、関東地方に
勢力を移し活躍したという。
日本仏教の伝導に深く関与した氏族が滅亡したり、中央政界を去った後はあの輝かしい
奈良時代の仏教最盛期も下降線をたどつたと考えています。

仏教因縁、願真和上招聘。

 養老元年(717年)の遣唐使・従四位下多治比真人県守に引き続き、天平四年(732年)の
遣唐大使となつたのは、県守の弟・従四位上多治比真人広成です。

多治比家が中国との外交に活躍しました。それと同持に仏教に対して多大な貢献をしたことを
忘れることは出来ないでしょう。

具体的には、広成が渡唐時に留学僧・栄叡(ようえい)、普照の二人を伴ったこと。
また帰路には兄の県守渡唐期の留学生下道真備・留学僧玄ムを従え経論五千余巻及び諸仏像を
もたらしたことです。

このとき、副使中臣朝臣名代の船には日本僧・栄叡(ようえい)、普照の勧請した律僧道せん、
バラモン僧菩提、唐人皇甫東朝、ペルシヤ人李蜜翳(りみつえい)などが乗り、来日をはたしました。

 広成は天平六年暮、有明海に帰着します。飾り車に積みこまれた経論五千余巻・諸仏像は
九州街道を住民の歓呼の声を受けながら、運ばれていきました。
現地の出雲族後裔たちにとつては喜びと誇りの時です。

仏教伝導を目指して父祖が列島に上陸したときから、幾多の苦難を乗り越え、
ついに仏教隆盛の時を迎えたのでした。
出雲を出発の地として、その後国内を転戦し北九州街道に配置された氏族にとつても、
また北燕国から民を率い東方仏教浄土の国建設を目指した馮弘の子孫である広成にとつても
「わが業成れり」の思いはとくに強かったのではないでしょうか。

戒律の高僧を日本に招くこと。
 留学僧・栄叡(ようえい)、普照の二人に課せられた目的の一つに戒律の高僧を列島に招き、
日本仏教の質を高めて強固な宗教地盤を築くことでした。

どのようにして、この二人の僧が選ばれたのか知る由もないが、まさに適任というほかはない。
道せん律師を日本に送り込んだ後も、さらに勧請する名僧を求め続けたという。
もうこれは二人の僧の意志というほかないでしよう。

奈良時代前期の仏教は伝来時に貢献した氏族によつて、さらにその質を高めようとする雰囲気の
中にあつたのです。
仏教伝来の歴史を知ればその意味も分かってきます。
二人の行動は「命ぜられたから」という解釈ではなりたたないものであつたと考えます。

唐の天宝元年(742年)日本僧栄叡(ようえい)、普照は楊州・大明寺(長江北岸、願真記念堂が
建てられた)に願真を訪ね、次ぎのようにいう。

−【栄叡・普照師、大明寺に至り、大和上の足下に頂礼して具さに本意を述べて曰く、
仏法東流して日本国に至れり。その法ありといへども伝法に人なし。本国にむかし聖徳太子と
いふ人あり、曰く、二百年の後、聖教日本に興らんと。今このときにあたる。
願はくば和上東遊して化を興したまへと。】−(唐大和上東征伝、以下「東征伝」とする)

願真和上は、弟子たちに向かって「日本国は仏法興隆に有縁の国。だれか行く者はいないか」と。
一座の僧たちは旅中の危険を考え、黙して答える者がなかつた。

そこで和上曰く−【是は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。】−私が行こうという決定をされた
のでした。

頭脳流失を恐れる唐政府は、当時国法をもつて「わたくしに国外に出ること」を許していなかった。
国禁を犯しての計画は五度続けて失敗する。
特に五次の出帆は日本を目指したが天候悪化のため漂流し、遥か南方に流されて海南島南端・
振州(現在の三亜サンヤー)につく。

中国の馮一族、日本仏教のため願真を援助。
ここで振州の別駕(べつか。地方副長官、長官は赴任しないので別駕が事実上の長官)
馮崇債(ふうしゅうさい)が迎えて次ぎのように言ったという。

−【別駕来り迎えていう、弟子(自分は)、早く和上の来りたまふを知る。昨夜の夢に、僧の姓は
豊田というものあり、まさにこれ債が舅(きゅう、先祖)なりと。(あなた方の)間に姓の豊田といふ
人がおられるだろうか】−

−【この間に豊田という姓の人がいなくても、和上はまことに弟子の舅に当たる方なのであろうと、
邸の中に迎えいれ斎を設けて供養した。(ご馳走をだしてもてなした)】−(東征伝)と。

 馮崇債は夢をみて願真和上が来たことをいちはやく知り、さらに豊田という姓の僧がその中に
出てきて自分の祖先の生まれ変わりだと感じたという。
この馮氏がもと北燕国王族出身で、遼東半島から南宗に逃れて来た氏族の末裔だというから
まさに仏教の因縁というほかはない。

高句麗本紀長寿王の二十六年(438年)には、馮一族を迎えに来た宗の軍勢と高句麗軍との
間に戦闘が起こつたことが記録されている。

混乱の中、日本列島と宗に別れて移住した馮氏がそれぞれに子孫を残し、
中国の馮氏は嶺南(広東・広西地方)に勢力を有するようになつた。

夢に出てきた豊田という姓の人物については、古くから海南島と日本人との関係という点から
論議された時代もあつたのです。
本書をお読みの方々には「馮氏」という観点からもロマンを感じていただけるのではないでしょうか。

馮氏が別れて移動した時からこのときまで、おおよそ三百年たつている。
常に接触していれば記憶も続くでしようが、お互いに時代の波に翻弄され連絡も絶えていただろう。
なぜ豊田という姓が債の頭の中に浮かんだかは謎というしかないでしょう。

 願真一行が日本仏教の興隆を願って渡海し、途中天候悪化にあつて海南島に漂着した事情は、
嶺南の馮一族に知れ渡りました。

万寧(ワンニン)の馮若芳を始め広東、広西省の馮一族がこぞつて歓迎し招待をしました。
願真再起のための資金を提供したのでしょう。

廉江(リエンチアン)、博白(ポーパイ)、蒼梧(ツアソウー)などを巡錫した一行はは
桂林(コイリン)都督、馮古璞(ふうこはく)の招待を受け、要請に応えて、桂州開元寺において
戒律を授ける。
−【その所の都督、七十四州の官人、選挙試学の人(官人試験受験者)、ならびにこの州に集まり、
都督に随いて菩薩戒(大乗戒・悪をとどめ、善行を積み人々のために尽くすことの教え、
仏門に入るためには多くの戒律を受けなければならない)を受ける人(一般人)、
その数無量なり(数え切れない)】−(東征伝)と。

一行は至れり尽くせりの待遇にいつまでも甘えるわけにはいきません。
日本に渡る決意はいささかも揺ぐことなくその手段を求めて、広州(コワンチヨウ)に下ることに
なります。

当時、広州は珠江(チューチアン)デルタの北に位置する華南最大の貿易都市で広東の政治
中心地でもあつた。
現在でも下流域の香港・マカオとともに船舶の往来はにぎやかで、便船を求めての旅程で
あったのではないかと思われます。

広州太守・慮煥(ろかん)の招待を受けたのを期に、桂林を去るため船に乗りこみました。
桂林都督、馮古璞(ふうこはく)は願真たちの渡海成功を願いつつも、名残を惜しんで親しく
船上まで一行を送り哀切しきりであつたという。

願真たちは馮氏一族の庇護を得て海南島の蛮地を脱することが出来ました。
振州の別駕・馮崇債は何百という兵士を護衛につけて中国本土に送り返しました。
嶺南各地の馮氏もまた援助の手を差し伸べたのです。

彼らが日本国を意識していたのかどうかは分かりません。
ただ日本仏教に対して中国南部の馮氏一族が貢献したことだけは確かなことでした。

日本僧栄叡(ようえい)客死
 桂林からの川下りは風光明媚な観光名所として知られていますが、このときの願真には
風景を楽しむ余裕はなかつたのではないか。日本僧栄叡の病状悪化です。
端州(現在の肇慶チャオチン)の竜興寺において卒すという。

チャオチンは広州の西(鉄道で約二時間半)西江の北岸にあり、端渓硯で有名な所です。
市の北東にある鼎湖山山腹に、この地において死亡した日本僧栄叡の記念碑が中国関係者に
よって建てられている。

続日本紀は、天平宝字七年(763年)五月六日条に
「和上は(栄叡の死に)泣き悲しんで失明した」としている。

この後広州での滞在を切り上げた一行は北江を利用して故郷の楊州(ヤンチョウ)に帰来しました。
第五次行は天宝七年(748年)七月の漂流から約二年間南方を巡錫し、出発地にもどつたこと
になります。

日本では、ちょうど同じ年の天平勝宝二年(750年)遣唐使派遣計画がたてられ、九月二十四日
大使・藤原清河、副使大伴古麻呂が任命され準備に当たることとなりました。

同四年(752年)閏三月大使清河・副使古麻呂に後から加わった吉備真備の三人に節刀が
授けられ、判官として大伴御笠、高麗(こま)大山、布施人主らが従います。

天宝十二年(753年)唐の長安大明宮において行われた正月元旦拝賀の儀式には百官参朝し、
また海外万国の使者が参列しました。このときの席次争いの顛末が古麻呂によつて帰国後に
報告されています。

日本からの遣唐船が到着したと聞き、古麻呂らに面談して願真たちの事情を詳しく話し、
日本に招聘すべき人物であるとしたのは、日本僧普照だつたのでしょう。

多治比氏とは昔から縁がある大伴古麻呂は、天平次の遣唐大使・広成が伴った二人の僧のことは
よく知っていただろうし、当時準判官として同行した大伴首名からも聞いている。

渡唐前の送別の宴に同座した多治比鷹主は、古麻呂に次ぎの一首を贈る。
「唐国(からくに)に行き足はして帰り来む大丈夫(ますらたけを)に神酒たてまつる」と激励と
期待をしています。

諸般の事情で密航という形をとらざるを得なくなつたが、天宝十二年十月十九日夜、
暗闇にまぎれて願真とその弟子二十四人は準備していた河川用の船で、川を下り
日本国遣唐大使らの船四隻が停泊していた揚子江口の常熟(チャンシュウ)に向かい、
二十三日には到着して日本船に分乗する。

この度の大使藤原清河は、願真一行を同行させることにあまり熱心でなかったのでしょう。
副使大伴古麻呂の主導で事は進められたのです。

大使の乗船する第一船を除く三隻に分乗したということからもそのことが窺われます。
しかし唐僧たちの乗船は清河の耳に入りました。

「唐の官憲が和上の捜索をする危険がある。また一旦出航しても風によつては唐国の領海に
吹き戻され、僧たちの密航が発覚する危険があるだろう。」
とせっかく乗船した僧たちをみな下船させてしまいました。

大伴古麻呂の仏教貢献
 十一月十日夜、古麻呂はひそかに和上たちを招き入れ、自らの乗船する第二船に全員収容
しました。
このことがなければ、願真たちも日本僧普照も日本に渡ってくることはなかつたでしょう。

六次目の渡海は成功しました。
奈良東大寺に入った願真は勝宝六年(754年)四月、初めて大仏殿前に戒壇をたて
聖武天皇に菩薩戒を授け、皇后・皇太子(孝謙天皇)、その他四百四十余人が受戒したという。
                     (東征伝)(注、勝宝六年は孝謙天皇の御世)

日本仏教界に新たな風が吹きこんだ瞬間でした。
多治比真人広成が種を蒔き、二人の日本僧が辛苦に耐え、苦難を乗り越え
さらに願真の不退転の精神と中国南部の馮氏一族の援助があって最後に、大伴古麻呂が
花を咲かせました。

仏教伝来に関わった氏族後裔たちが、ここにも係っている。
「因縁のあること」といわなければならないのです。
願真によつて東大寺戒壇が築かれ、日本仏教の形が整えられただけではありません。
次ぎの世代に遺徳が引き継がれて行きました。

連鎖する歴史の糸
最澄の日本天台宗創設がそれです。俗名三津首広野は近江国滋賀郡古市郷(現大津市)の
戸主三津首浄足の戸口、百枝を父として神護景雲元年(767年)に誕生しました。

近江琵琶湖西岸の小豪族で「先祖は後漢孝献帝苗裔、登万貴王也。」(叡山大師伝)とみえる。
付近には孝献帝苗裔の諸氏族が本拠地としていました。

孝献帝の男美波夜王の後裔・志賀穴太村主、志賀忌寸、など。
同系四世孫山陽公の後裔という当宗忌寸は楽浪郡(高句麗の都ピョンヤン)から渡来して
来たという。
倭国の大王墓である応神陵墓の前に氏神神社を建て聖域を冒している状況は継体天王の項で
説明しました。

これらの氏族が半島の北から日本列島の出雲に入りさらに移動してきたことは、
古事記に書かれている八王子山に祭った出雲系神社の日吉神社の存在からも推察できる
でしょう。仏教をもつて列島に来た人々です。
八王子という名称は仏教に基づきます。

最澄はその氏族の家に生まれ、12歳で近江国分寺僧・行表について修行し、
15歳で国分寺僧最寂死亡の後をついで得度、20歳東大寺にて受戒。

帰化した鑑真のもたらした典籍のなかの天台宗に関するものに導かれ
その後比叡山に入って修業に励み、法華経を根本とする日本天台宗を起す。

師の行表は大和国葛上郡高宮郷の檜前調使案磨(ひのくまちょうしくらみがき)の男、大安寺に
いた唐僧道せんの弟子でした。

比叡山延暦寺創建は788年のこととされている。守護神社となつたのは大津市の日吉神社です。
出雲神の大山咋神と大巳貴神(大国主・大物主神)を祭っているのはご存知のとおり、
大国主命を仏教守護の大黒天に擬したのも最澄であつたという。

延暦寺初代俗別当となつた大伴国道の書簡には「祖先の大伴古麻呂が遣唐副使として、
願真を連れ帰ったことが日本の天台興隆の基礎となる。」と。

もちろん、それには多治比真人兄弟の関与も大きい。
天平次に帰化した唐僧道せんは弟子行表を通し、最澄に影響を与えました。
奈良紀後半の時代、最澄と並んで仏教界をリードした空海は讃岐佐伯直の出身。
大伴氏の一族です。

こうしてみると織り成す歴史の糸は絡み合いながら後世へと繋がっていく様に感じられる
ではありませんか。

高句麗氏族のことも話しておきましょう。

 707年関東秩父山地において和銅(自然銅)が発見され採掘が始まると、
この銅をもつて貨幣の鋳造が開始されます。

催鋳銭司となつたのは多治比真人三宅麻呂でした。
以後多治比氏の勢力が武蔵国に築かれます。

和銅四年(711年)多胡郡設立にも大きく寄与したことが、吉井町に残る多胡碑に刻まれた
左中弁・正五位下多治比真人の名から想像されます。

さらに霊亀二年(716年)五月武蔵国高麗郡の設立が行われました。
「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人千七百九十五人を
武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。」(続日本紀)

高句麗氏族の分布については、ほぼ全国的に及んでいることは本書にも書いてあります。
そのうちで関東近県の高麗人の中から分派して埼玉県に高麗郡(現入間郡)を作ったのは、
この地方の鉱山開発を重視した多治比氏の意向が働いたものといえます。

多治比氏は相次いで武蔵守を任命され、ついに土着して秩父郡石田牧の別当となり、
その子孫は秩父・児玉・入間の諸郡に勢力を振るったという。
その勢力(丹党)の中に高麗氏が中核として存在したことはいうまでもない。
継体子孫の多治比氏と高麗氏族の関係も、五世紀から続く長い歴史の糸の中で語られ
なくてはならないのです。

兵力を分派した高句麗本国の衰退
 継体天王の要請に応え、高句麗国長寿王は仏教王国建設のために自国の衰退を考慮し
ながらも、軍勢の列島派遣を決断しました。

当時、百済の都・漢城を攻略して百済王や王族を殺し、都を南方へと移転(575年)させたり、
半島東海岸の「北新羅」を吸収併合するなど強い勢力であつた高句麗軍の軍事行動は
急激に力を減じていきました。

そのことはあらかじめ予想されていたことです。
長寿王は継体天王との約束で、仏教に帰依した大伴氏が従来どおり半島南部を取り仕切り、
百済とともに高句麗の友好国となることを信じていたのでした。

そうなれば半島全体に仏教の教えが伝わり、戦いのない平和な地へと変わっていくものと
考えたのでしょう。
継体朝や九州大伴王朝が存続しているならきつとそうなつていたと思います。

しかし、531年のクーデターによつて情勢は大きく変化してしまいました。
欽明天王は渡来氏族の帰順や豪族たちの「国譲り」を成功させて、
国内の騎馬民族を自軍陣営に執りこんでしまいます。

帰還を予定していた仏教遠征軍は、帰国することなく大和政権に忠実な帰化の道を選択した
のでした。
それに引き続く九州王朝の崩壊は、高句麗本国の思惑外のできごとです。

日本列島は仏教国になつたけれど、長寿王の描いていた半島での共存共栄の夢ははかなく
消えました。

欽明天王は半島南部の統治を百済に任せ、これに反発した任那諸国の独立気運を
発生させてしまいます。

任那の一国であつた鶏林国は、列島から引き揚げてきた倭の勢力を糾合して独立し、
503年「新羅」を襲名して北へ勢力を伸ばしていく。

それに引き換え、高句麗は468年には悉直州城(江原道三陟郡三陟邑)を奪って江原道を
制圧していたのに、ずるずると後退していきました。
軍事的兵力が著しく減少し、かつてのような勢力はなくなつていたのです。

新羅本紀智證王505年条には早くも次ぎのようなことが書かれている、
−【六年春二月、王が親しく国内の州・郡・県を定めた。悉直州を置いて、
異斯夫を軍主(地方長官)とした。】−と。

さらに556年には鶏林新羅によつて、半島東部の朔州・安辺郡(元山付近)に地方統治の
州都が置かれ、真興王巡狩碑が咸鏡南道に設置されている(黄草嶺碑、磨雲嶺碑)。

倭国と高句麗が覇権を争っていた、かつての旧新羅の地(穢・沃租)はすべて高句麗の手から
落ちる砂のように失われていきました。

半島東海岸だけでなく、高句麗は膨張していた領土の全域から撤退して自国の防衛範囲を
縮小していきます。

550年忠清北道に侵入した新羅は、高句麗・百済の両勢力を駆逐して道薩城などを奪い、
翌551年には真興王自ら巡狩して娘城(忠北、清州市)に留まり、
高句麗の十郡を制圧すると新州(現在のソウル市を中心とした地域)とし、金武力を軍主としました。
高句麗は現有の勢力に見合った地域に退いたのです。

高句麗、内部混乱と唐の外圧
 642年西部大人の蓋蘇文が当時の高句麗王栄留王を殺害するという事件が起きました。
王殺害の原因については、よく分かっていない。

三国史記列伝には「彼が凶悪非道であるため、大人たちや王は密議して彼を殺そうと謀り、
事がもれてかえつて大臣など百余人と王も犠牲になった」という。

蓋蘇文の姓は泉氏といい、容貌はいさましく、その意気はすぐれていたという。
人の妬みを受けるような傑出した人物であつたに違いない。

あるいは王の弟太陽王に親しく、太陽王の死に陰謀を感じ取っていたのか。
一気に対抗する勢力を一掃して宝臓王(太陽王の子)を立てました。

治世に力を発揮して国内の混乱を短期間に鎮めるなど、国政に努めます。
ただ高句麗の服従を狙っていた唐に介入の糸口を与えてしまいました。

645年、唐太宗は「蓋蘇文が君主を殺し、国政を専断している」と親征を実施する。
高句麗も勇戦して撃退するですが、このことが最終的に高句麗滅亡へとつながっていく。

日本書紀皇極元年条には高麗(高句麗)の使人来朝のことが書かれている。
−【金銀などの貢献が終わると、使者は「去年の六月に弟王子(栄留王の弟太陽王)がおなく
なりになり、秋九月には、大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)が大王を殺したうえ、
伊梨渠世斯(いりこせし)など百八十余人を殺害して、弟王子の子を王とし、
自分の同族の都須流金流(つするこんる)を大臣といたしました。】−と申し上げた。という。

敏達天王の時代には高麗の使人がたびたび来訪していた。
推古天王紀には高句麗に大伴連囓を使者として派遣したことが書かれている。

高句麗僧の来朝記事もあるし、大興王が造仏支援のため黄金三百両を喜捨したこともある。
継続して外交が行われていたのでしょう。

皇極紀の中に書かれている高句麗大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)が蓋蘇文らしい。
使者は詳細な説明を大和政権にしたものと思われます。半島の歴史書三国史記より詳しい
事情が書紀に書かれています。

来訪の答礼使として、派遣されたのは出雲族・火明命後裔の津守連大海で、大和王権が
高麗と外交交渉にあたる人物をどのように選定しているかが分かるのでしょう。

蓋蘇文の死後になつて、長子の男生と弟の男建・男産と仲違いになる。
男生は家臣を連れて唐国に帰参し、唐の将軍を導いて平壌を攻めてついに高句麗は滅びました。
内部分裂により強国が衰える様はかつての倭国の辿った道と同じです。

倭国の内部分裂は、仏教の到来による宗教の争いだったが、高句麗の崩壊原因はなんで
あつたのか。

三国史記の著者・金富軾は次ぎのように語る。
−【上下が和し、その国民が睦まじいときは、大国といえどもこれを取ることができなかつた。
権力者が国に不義を働き、民に不仁を行うようになって、人々の怨みが生じると
(国は)崩壊する。】−と。
この歳、668年であつた。

・・・・・・・・・・・・後継国の勃海は「日本は兄弟の国」と呼び、交流を続けた。・・・・・・・・・・・