付録
古代史の謎を解明する一つのキーワード
「三面相の公式」
三面相の公式
三面相とは継体・神武・大国主神の三人の人物が、本当は一人の実像によつてそれぞれに
書き分けられているのではないかということです。上の三人物には、共通するものがありました。
それは「この国を平定する」ということです。
これらの方はこの国を平定されたという共通点を持つていられます。
大国主神は「出雲から倭国に上り」、大伴氏の祖先・少彦名神と協力して国を作りかためた。
(古事記)という。
神武は東征して「倭国の賊」(紀・神武紀)を制圧し、国土を統一しました。
もちろん大伴氏が兵を率い先頭を進んだことが書かれています。
継体はご存知のように倭の五王の後継者となり、新しい国を作ったと考えられます。
大伴氏が継体擁立に働いたことは確実です。
そしてそれぞれに倭国という言葉が紀には出てきました。これを「やまと」と呼びかえては
ならないのだろうと思います。
ここに出てくる人物の相手は倭国だつたのではありませんか。
「この国を平定する」というのは倭国を平定したことだつたのです。
三人の人物の平定には、三回とも倭国豪族であつた大伴氏が関わっていることも重要な点
でした。このことも共通するのです。
倭国が滅ぶときには、倭国豪族が内部分裂したという認識が必要になつてきます。
「出雲に関係する三人物」
もうひとつ共通するものがありました。それは「出雲」です。
注意深く見ていくと上の人物は出雲に関係するように見うけられました。
継体天王は、五世紀の倭国豪族を倒して大和に入りましたが、その勢力は渡来氏族を中心と
する出雲族に、大伴氏などの旧倭国豪族で継体天王を支持する勢力を合わせたものでした。
出雲勢力という言葉を使っています。
継体軍の主力となったのは越前ではなく、出雲なのでした。
神武も合成されているけれど、東征説話の80%ぐらいを占める畿内進撃描写では
「継体の進撃状態」がここに挿入されている。」と複数の学者によつて指摘されています。
ほかに「日本」という言葉や敵となった氏族に関連して「倭国」という言葉が使われている。
神武は倭国の豪族たちを打ち倒し、大和を制圧したのでしょう。
その象徴的な出来事は、「賊を制圧した後に葛城の地を剣根に与えた」ということです。
五世紀の大王家の最も有力な豪族「葛城氏の滅亡」が神武紀に入っている。
神武は葛城氏を亡ぼし、その領土を大伴氏や出雲族に分配したのでした。
さらに、この方が出雲に関係するだろうとするのは、次ぎのことがあるからです。
神武東征説話に出てくる「やた烏」・三本足の烏は出雲に原点があります。
美保神社の青柴垣神事には、三本足の神器が登場してきますし、スサノオを祭る熊野神社の
神旗はこのカラスでした。神武以前に出雲で「やた烏」は使われているのです。
さらに、烏に化身して神武を導いたとされる下鴨神社の祭神・鴨建角身命は神魂命の後裔と称し、
これは出雲神話だけに登場する神様名でした。また上鴨神社の由来には、出雲神が登場します。
東征紀の高倉下命は火明命の子孫でした。同族には多治比氏や尾張氏など継体朝と密切な
関係を結ぶ氏族がいます。
播磨風土記では火明命は大国主神の子と書かれ、この高倉下命は出雲族だつたのでした。
神武は出雲勢力を率いて畿内に入ったのです。
大国主神はどうでしょうか。出雲出身だが神話時代の人ではない。
播磨風土記では歴史時代の人物天日矛と戦って、追い出したという記事が書いていました。
播磨の地に入った漢人刀良や伊勢衣縫いの祖先たちが祭祀したのは、
伊和大神(大国主神の別名)の子伊勢都彦・伊勢都媛です。
大国主神は新漢人たちも一緒に引き連れていたのではありませんか。
新漢人といわれる渡来人の氏神は出雲神でした。渡来した高句麗氏族の氏神も出雲神です。
出雲族の中核をなす高句麗氏族は、渡来後すぐに古墳を作ります。
五世紀末に出現するプレ群集古墳から六世紀・七世紀と群集古墳を作り続ける、
それだけの力をもつて渡来してきました。
高句麗五部の氏族がばらばらに故郷を捨てて、列島に辿りついたのではないのです。
戦闘集団として、継体天王に招かれて渡来したと考えました。
神武の兄の五瀬命は、大国主の兄五十猛命ではありませんか。
そして継体の兄・王仁だつたのでは。三面相の兄もまた三面相なのです。
このように「国の平定と出雲」というキーワードが共通する三人は同一人物でしょうし、
時代を変えて出現しますが「倭国を平定」する時期は同一で、五世紀末だったと考えられるです。
日本の歴史書では、その時期の出来事が分散して出てきているのではないだろうか。
そこで継体天王が実像と考えました。神武・大国主神は虚像だろうと思います。
倭国が滅んだことを隠すために虚像を歴史の先頭に配置して、太古の昔から日本国が存在
していたことに「装おう」のでした。
一人の人物が仮面で、あちらこちらに出現する。つまり三面相なのです。
日本の歴史書には三面相が登場している。
これを解くには共通項を探せば良いということが分かってきています。
キーワードは「出雲と平定」なのでした。
ここでの歴史公式は
AB=1+a+b‥‥‥‥‥ABは継体天王(実像)
a は大国主(虚像)
b は神武 (虚像)
これにはa=ABの一部,b=ABの一部‥‥でもあるのです。
aとbは置き換えが可能なのでしょう。
(ただし、神武紀には別の要素も入っているから「畿内進撃に限定」してということです。)
これを三面相の公式と呼びましょう。
とはいえ公式として成り立つのにはいろいろな検証が必要です。
また公式が使えるものでなくてはなりません。
どのように使うのか、一つの事例として古代氏族の解明に役立つのではないかと考えています。
普通に考えると難解な氏族も、公式を使えばたちどころにその氏族の性質が分かってくる。
そんなことを成果としてあげることが出来るなら役に立つ公式になるのではないでしょうか。
【事例 古代氏族・多氏の解明】
古代氏族に多(太・大・意富・於保にも作る)氏という氏族がいます。
現在の奈良県磯城郡田原本町(大和国十市郡飫富郷)を本拠としたという。
この場合の本拠というは移動して来て、ここに住みついたと考えるとよい。そんな程度の本拠です。
当然移動元というのは考えられます。それについては後述。
この氏族は神武天皇の皇子・神八井耳命(かみやいみみのみこと)の後裔と称しました。
母方は大物主神の女・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)です。(古事記)
紀では大物主神の代わりに事代主神とする異説を掲げている。
氏族の一員である太朝臣安麻呂が古事記を編纂したのだから、こちらを尊重して紀の記述は
一応退けなくてはならない。母方が事代主神であつたならそう書くでしょうから。
後から書いた紀の編者は、大物主神(遅れて出雲に到来した神・多分に騎馬民族の長と
思われる)が皇統に入るのはまずいと考え、かつ氏族が納得できる事代主神に変更した
のではないだろうか。
ここにある神武朝の出雲閨閥の発生位置が歴史上の位置であるかどうか、
また閨閥が事代主神系かそうでないかということも検討する必要があるのでしょう。
いずれにしても神話の神の娘と神武が婚姻をしている。
その子孫を自称する多氏の解釈は普通に考える人達を惑わし、難解な氏族にしているのでした。
だからこの氏族について語る学者は少ないのではないですか。
文献としては佐伯有清氏「新撰姓氏録の研究」があるようですが、「日本古代氏族辞典」は
同氏の編集で、この中に書かれている多氏の記述に謎を解くようなヒントがあるわけではない。
谷川健一氏の「青銅の神の足跡」には、多氏について
−【多氏およびその同族の伊勢の舟木直と、忍海漢人と、それに呉部の地名が同一地域に
登場する。これは多氏が朝鮮半島からの渡来人であることを示唆してはいないだろうか。
その出自が百済であるか加羅であるか、それをきわめるのはむずかしい。】−
という記述が有ります。
「多氏が渡来人ではないか」という示唆をしている。
この根拠は三重県の員弁郡(いなべぐん)付近に上の氏族がいるということらしい。
為奈部を称する氏族には百済人(これを氏は呉部と解釈している)もいたが、姓氏録には
「伊香我色乎命之後」という物部氏後裔もいる。
員弁郡が物部の伴造であつたことを思えば根拠が希薄になるでしょう。
この本には「大国主神」が出てくるのは一個所だけ、騎馬民族も高句麗氏族も出てこない。
員弁郡の隣に朝明郡があるのだが、そこに朝明史という高句麗氏族がいることも出てこない
不思議な本である。
多氏の母方が出雲族であるというのに、その方面からの探求はまったくされていない。
一般的にむつかしいことや解釈できないことにタツチしないというやり方はよくとられます。
「出雲」からのアプローチが困難だつたのでしょうか。それほど難解な氏族といえるのでした。
だがなんとなく渡来人の後裔ではないかという推測がされている。
それは三重県だけの話ではないのでしょう。この氏族の性質からみて、そのような感じがする
ことは私も同じように感じていました。
それにしても、半島のどこから来たかその理解は難しいと同氏はいう。
公式の適用
そこで三面相の公式を当てはめて見ます。
AB=1+a+b…・継体の真像=継体+大国主+神武
a=ABの一部、 b=ABの一部
多氏の父方、神武は継体天王の一部であり、大国主神と置き換えることも出来ます。
神武と大物主命の女が結婚することに納得できなくても、大国主と大物主命の女が婚姻する
ことはあり得ます。
「出雲に早く来た渡来人後裔大国主と同じく出雲に遅れてきた渡来人大物主が固い絆を結ぶ
ため氏族同士の婚姻をした。」
この国を平定するため、国引きをして外国から氏族を呼び寄せました。平定に貢献した大物主に
対して丁重な地位を与えたことは十分に考えられることです。
この大物主を五世紀末に渡来して来た高句麗氏族の長と推定するなら、
大国主は継体天王そのものでなくてはなりません。
公式を使えば、多氏の性質が見えてきました。
つまり、継体天王と渡来高句麗氏族の長の女による御子が「神八井耳」で、
多氏はその子孫だつたのではありませんか。
つまり、この氏族は継体と高句麗氏族に関わりを持つ氏族であろう。
検証
それではこの公式によって導き出された結果について検証をします。
☆ 多氏は出雲から畿内に入ったのではないですか。
大和の磯城郡(しきぐん)に本拠を築く前は、出雲にいたのでしょう。
出雲風土記の出雲国郡司には、出雲郡に少領として「大臣」の名がみえます。
出雲郡は代々大領が日置氏であり、諏訪神社の御柱に囲まれる地域とともに大和政権から
国譲りの条件として高句麗氏族に賜った土地と推定される所でした。
ここでは大臣が日置氏という高句麗氏族の近所に住んでいることや、同じ郡の郡領となつている
ことを重視しなければならないでしょう。
治外法権として与えられた地に少領として、存在しているのでした。
「青銅の神の」に出てくる同族の伊勢舟木直の場合も高句麗氏族、朝明(あさけ)史が
近所に住んでいる。
雄略紀の倭国豪族・伊勢朝日郎(あさけのいらつこ)の滅亡も紀氏、葛城氏などと同様に
倭国滅亡の宗教戦争でしたから、伊勢の豪族を制圧したのは継体軍としての物部氏と
渡来氏族の連合軍であつたのです。
朝日郎の領地は、彼らによって占領されたのでした。
多氏は渡来氏族・高句麗族の近所に住んで居る。このことをもう少しみてみましょう。
☆ 同族・茨田連の場合。
神武の子、彦八井耳を祖と称し多氏の一族であつた。それに継体天王の閨閥で、
茨田連小望の女関媛は継体との間に三女を生んでいる。
神武の子孫が継体天王と密接に繋がっていることを指摘しましょう。
継体が最初に宮を作り、即位したのは楠葉宮(大阪市枚方市)でした。
この近辺に布陣したのは、出雲勢力であったのです。綴喜郡加茂町・山城町・井出町にかけて、
上狛・下狛・棚倉・多賀の地名や高神社・高麗寺などがある。
門真市の茨田連もこうした出雲陣営の一つとして配置されたのではないでしょうか。
継体と密切な関係を持っており、付近に高句麗氏族がいることも共通している。
☆ 阿蘇氏(科野国造・金指舎人)の場合
阿蘇氏は多氏同祖。科野国造家から九州熊本へ移動したという。
このほかにも多氏同族の九州へ移動した氏族は火君・大分君・筑紫の三宅連など。
移動理由は九州王朝を倒すためだつたのではないですか。
阿蘇氏がいる熊本には壁画古墳が密集しているし、チプサン古墳やオプサン古墳などの
ハングル名古墳が有る。氏族には高句麗氏族の日置氏がいます。
信濃の金指舎人は同祖であるという理由で多氏を賜りました。(貞観五年)
この氏族は静岡県から関東に展開し、諏訪神社下社の大祝を勤めました。
欽明紀の国譲り時に舎人となった出雲族だつたことを指摘できるでしょう。
この人達が出雲族であること。神武の子を祖先とする多氏の同族であることは、
三面相の公式の妥当性を証明するものだと考えますがいかが。
信濃にも甲斐にも積み石墳がありますし、高句麗系渡来人は多く史上に表れています。
こうしてみると、多氏は高句麗氏族を束ねる役を務めていたのではないだろうか。
☆ 関東以北の多氏一族について
古事記には一族として長狭の国造、常陸の那珂国造、道奥の石城国造をあげています。
長狭は千葉夷隅郡南方の安房郡にかけてと推定されていますが、和名抄長狭郡には
日置郷・加茂郷があり、出雲氏族の進出を裏付けています。
さらに、この地の「小高」という地名は東北各地に広がった。
常陸の那珂国は水戸市を中心とする那珂川沿いの地域で、太平洋岸・壁画古墳ベルト地帯の
中核をなしている。
ひたちなか市の虎塚古墳などの著名な壁画古墳、その他横穴墓群が存在し九州戦役終了後
に移動して来たと推測されるでしょう。
大洗の式内社酒烈磯前神社は大巳貴命と少彦名命を祭神としている。
那珂郡の北側は多珂郡で昔は広大な領域であつたため、分割したと伝えられている。
石城国造のいたいわき市は多珂郡のなかにあつたのです。
多珂郡は高句麗氏族の居住していた場所からとられた名前で、東北各地に移動し各地に
多珂(多賀)の地名や多珂神社を残している。
(福島県浜通り、小高町と原町市の中間の「高」にある式内社名神大の格式を誇る多珂神社)
日本屈指の古社、東北各地の多珂神社の根源という。狛氏族の東北移動は六世紀中から後半。
(多珂神社、正面からみたお姿)
(東北の神社は大黒天像を祭る神社が多いがここは七福神像であつた)
いわき市大国魂神社は国造の氏神とされ、大巳貴命、事代主神、少彦名命を祭っている。
(多氏一族の石城国造が氏神としたのは出雲神であつた。)
これらの氏族が蝦夷対策のため、白河の関やいわき勿来の関に配置され、
さらに白河軍団・安積軍団や行方軍団の構成員になりました。
狛造たちの賜姓にその姿をみることができます。
白河の関には棚倉という地名がある。
さきにあげた京都府綴喜郡の狛氏族との関連があるのです。
狛造たちが奉祭したのは出雲神でした。都々古別神社には大国主神の神像がある。
東北に派遣された高句麗氏族は出雲神を氏神としたことは明かです。
そして多氏もまた出雲神を氏神として奉祭したのでした。
☆ 佐伯有清氏編の日本古代氏族辞典によると、
【多氏の氏人が史料にあらわれるのは日本書紀天智即位前紀の多臣蒋敷(こもしき)が最初で、
その妹が百済王子豊璋の妻になつたとある。】
神武の子と称しながら、史上に出てくるのは七世紀後半だというのは、この氏族が比較的新しい
氏族であつたという証拠でしょう。
豊璋は百済国再建のため、列島から旧百済に上陸したが再建ならず数人を従えて船で高句麗に
退去したという。妻の縁故を求めて高句麗に行ったのではないかと考えています。
☆ 天武天王は紀・記の編纂を目指し、日本国が古い時代から存在して一系の皇統が続いた
と装うのですが、なぜ皇祖の子孫である多氏が「真人」の姓を賜らなかったのでしょうか。
壬申の乱において多氏一族は多臣品治(ほんち)を初め大分君たちの活躍があつたのです。
そのことが謎として残ります。
想像してみると天武の時代には多氏について神武の子孫という認識がなかつた。
安麻呂の時代にいたつて日本という国を先頭に置くならば、大物主神の血を引くわが氏族は
皇祖の子孫になつて当然と考えたのだろう。
古事記は神武朝の閨閥を師木県主とする。(紀は事代主命)
式内大社志貴御県坐神社(奈良県桜井市大字三輪字金屋)は祭神大巳貴神を祭る。
河内の志紀県主は多氏の一族。こうしてみると安麻呂の書いた古事記は日本国の成立を、
神武と出雲閨閥大物主系(高句麗氏族の長)の合体によつて構成しているのでした。
紀はそれを修正して神武と出雲閨閥事代主系の合体にする。
そのようにみていくと日本歴史書には卑弥呼以前の話も、倭国が九州と半島南部の諸国によつて
構成されていた時代の話もないということが本書により明かにされたと思います。
これが歴史の公式から導き出された一つの結論でしょうか。
公式をいろいろ使って見てください。
たとえば「小野氏」など、日本全国に展開するこの氏族は神武朝の大王の子孫と称していますが、
母方は尾張連の女でした。
出雲族のうち、火明命系ですから漢人の可能性があります。
近江西岸という渡来氏族が密集する場所に本拠地がありました。
小野妹子など中国語が出来たのではないですか。
そんなことを調べるには一つの道具として、公式に当てはめてみるというのもおもしろいのでは
ないでしょうか。