第1章   はじめに。

日本書紀の隠したいこと。仏教徒の渡来

 むかし、ある人物が自分の民を連れて、朝鮮半島経由海を越えて日本列島にやってき
ました。そして上陸されたのは山陰地方・出雲の海岸でした。
昔の港は川の河口でしたから、その人物も出雲の海岸に流でる簸の川(ひのかわ)の河
口に着き、一息ついたのかもしれません。

前後して到着した船団には、はるか遠い中国の地から付き従った彼の息子やのちに新
漢人と呼ばれる「鞍作」・「衣縫い」などの民達・また途中立寄り、保護を受けた高句麗国
の長寿王が、彼のため護衛に付けた兵たちが乗船していました。

列島にくるのが目的だつたのか、それとも南中国に渡ろうとしながらもなにかの手違いで、
たまたま出雲の海岸に着いてしまったのか判断が迷うところです。

それというのも実は故郷を一緒に出発した彼の親族が途中離れて、南中国の宗という国
へ行きその保護を得て栄え、その子孫が奈良時代に日本の仏教界に大きな貢献をする
ことになるからです。

中国僧「願真和上」の渡海に尽力する彼の親族の後裔の話やそこにでてくる日本人名の
話は、すでに有名で学者の研究もあります。

だから、どこかで意図的に分離したのではなく、混乱の中で親族がばらばらに別れて日
本・南中国とそれぞれの道をたどつたというべきでしょう。
南中国に渡った人々とは、お互いの安否を気遣いながらも日本の海岸に上陸した後は、
当面自らの安全を計らなくてはなりません。

当時出雲は倭国という国に属し、仏教徒である彼らとは異なった宗教をもつていました。
そんな異なった文化の中に突然入り込んだのですから危険な状態を想像しなくてはなり
ません。

人口希薄な出雲海岸だといえ、大勢の人間の上陸はたちまち付近住民の騒ぎとなりまし
た。早速通報によって、出雲警備の豪族やさらには大和朝廷に報告されたことでしょう。

倭国を治める王は大王という王号で呼ばれ、大和(いまの奈良県)に都していたのです。
倭国大王は外国人たちが集団で出雲海岸に上陸したとの報告を受け、直ちに倭国の軍
事組織である大伴・物部の軍隊を出動させたのです。

出雲の海岸で、この集団と倭国の軍隊が戦いをしたのかどうかは分かりませんが、倭国
の軍勢が出雲地方に進駐したことは付近に祭祀される物部神社や天太玉命神社(大伴
系)など、倭国大豪族氏神の存在によつて想像することができます。むかしは軍事行動を
する場合、氏神を祭祀する神社を建てるということがおこなわれていたのです。

 これにたいして、出雲に上陸した人々は大きな抵抗をすることなくただ逃げ回ったので
しょう。彼らは仏教徒でした。
自国を放棄し放浪の旅にでたのも仏教の教えに従って殺生を嫌い戦争を放棄したことに
あります。

平和主義の人々であったからこそ、国を捨てはるか東海の国に辿り付いたのです。
だから戦いを避けて川の上流へ、山の中へと逃げ込んだことでしよう。

簸の川上流の須佐盆地は険阻な道に阻まれ、軍勢の進撃を避けるに適した場所である
ことは一度足を運んでいただけると容易に理解できます。
彼らはやつとの思いで、この須佐の地に逃げ込んできました。その間に護衛の高句麗兵
たちが若干の抵抗をしたかもしれませんが受身の姿勢を崩さなかったのではないかと思
われます。

しかし、事態は急速に収まりました。彼は中国を離れる時から持参した数々の宝物やこの
国になかつた桂甲といわれる新しい鎧などを倭国大王に献上し、さらに精巧な彫金技術
や美しい絹織物の製作技術をもつた民たちを率いてきたことを申し出て「その技術を役立
てて欲しい」と、この国の大王に入国することを求めたのです。

華美な宝剣や透かし彫りのついた王冠・金製飾り付きの耳環・今まで見たことのない美し
く飾られた鞍や彫金の馬具は中国の加工技術で作られ、実用だけの馬具しか持っていな
かった倭国豪族たちの心を動かしました。

もとより、主要な倭国豪族にもさまざまな馬具であるとか、桂甲・耳飾りなどが贈られたで
しょうし、そのような贈り物に弱いのは世の常でしたから彼らの入国は倭国大王から認め
られたでした。

 一応、彼の民たちは物部軍の監視下に連行され、跡部郷(河内国渋川郡)に安置され
ました。この地は物部氏の本拠地とされる所で捕虜収容所か難民収容所みたいなところ
だつたのでしょう。

−【死ぬ者が多かった】−(書紀・雄略紀)と後に記録されています。
難民収容所での苛酷な生活から自分の民を救い出し、平穏な帰化の道に就けるための
働きかけが行われました。

大和を訪れ、倭国大王に直接逢つて「この国を奪うようなことはしない。」と誓約した彼は
生涯この誓を守り通したのです。

彼の名前を明らかにしておきましょう。馮 弘(ふう・こう)という名でなんと中国北部の国、
北燕国の王様だった人物では・・と考えられます。

(奈良県橿原市新沢千塚古墳群126号墳からは、馮弘の伯父馮素弗の墓や馮一族の墓
(房身村2号墓)から出土した冠帽飾りに酷似した純金形板が出土しています。詳細は後述)

お連れになった王子は馮 王仁といわれる方で、その他大勢の民・新漢人といわれる人々
をつれて上陸して来たのでした。

後に日本国の仏教に多大の貢献をする人達で、五世紀中頃と推測される渡来時には
おそらく仏像や仏舎利・仏図・仏具それに仏経典を持参していたのだろうと思われます。

 ところで、日本の歴史書である日本書紀や古事記に彼らの来朝の話が書いているのや
ら、書いていないのやらよく分からないのです。

書いていないのではなくて、実は出雲神話の中に出てくるスサノオ(須佐の男)というのが
どうもそれらしい。
これから本書を読んでいくうちに、なぜ馮 弘の来朝やその子たちの行跡が歴史の場から
神話の中に移動し、新漢人と分離されているのかがだんだんと分かるようになるでしょう。

日本書紀が隠したいのは、「仏教の到来時期」でした。
仏教が到来したことによって日本列島の中では古来の宗教を守ろうとする人たちと仏教
に帰依した人たちの間で宗教戦争が起こります。

そして倭国という国が滅亡して日本という国に変わったこと、それは7世紀後半の大和政
権にとつて明らかにすることが出来ないことでした。

仏教伝来は古い時代から新しい時代に移して、日本列島で起きた宗教戦争を隠そうとし
たのです。だから書紀に書かれている仏教関係記事の年月は信用できません。

逆に馮 弘とその一族の話は現実の歴史から神話の世界に移し、全体像を隠そうとした
のでした。出雲神話に仕立てたのです。

虚構の神話・出雲神話

もともと神話というものは時代をこえて伝えられていく間に、短い素朴なものと変わってい
くのでしょう。多くの神話がそれぞれに存在し、お互いに関わることはないのが普通です。

ところが出雲神話は違いました。
スサノオ一族の伝記といつて良いものです。
スサノオ・大国主神・事代主神さらに続いて神武朝四代の奥方にまで及んでいました。
こんな話は、神話ではありません。歴史ではありませんか。

出雲神話の中には、神様の系譜が逐一書いてあります。
それが出雲神話の大きな特徴です。

だれが神様の名前を記録していたのでしょうか。
古い時代の出来事と装うために、系譜を作ったとしか思えません。

神話といわれると何か歴史時代とは違う時代のような印象を受けますが、古事記や日本
書紀に書いている神話はどれもせいぜい弥生時代や古墳時代のお話なのです。

スサノオさんのお話も古墳時代のお話でしょう。
年代を示すヒントはいろいろあります。

〇「新羅経由で出雲に来た」。
倭国王卑弥呼の時代、朝鮮半島は三韓が居ました。三韓が魏と諍いを起こし滅亡した後、
魏の勢力が衰える四世紀になつて「高句麗」が半島に進出し、「百済」や「古新羅」が国
を起こしてくるのですから、新羅という言葉で年代が四世紀以後の話と分かるのです。

〇「出雲神話に大年神の子神「竈の神」」がいらつしゃる。
日本列島に竈が入ってくるのは五世紀以後なのです。

〇「大国主段に出てくる「乗馬姿の神」や「平定」といつた言葉は古い時代のことではあり
ません。
竈や馬具がこの国に出現してくるのはすべて五世紀前後の古墳時代中期以後なのです。

大国主がこの国を平定したということを神話の中でいっていますが、日本列島が平定の
姿をとるのは古墳時代前期の四世紀中頃以降のことで、その時代は倭国の卑弥呼や
その後継者が政治を執っていました。

それ以前は平定などされていません。考古学で証明できます。
だから出雲神話はそれよりも以前の話ではないのでした。
そんなに古い話ではないということなのです。

・倭国紀の神話と結合させた出雲神話は「日本紀の先頭部分」

日本列島の歴史書は日本書紀と古事記です。この日本書紀の正式名称は「日本紀」で
した。(続日本紀より)
日本国の前に、倭国という国が存在していましたから、とうぜんこの日本紀の前に倭国の
歴史書である「倭国紀」がなくてはなりません。

それはあつたのでしょう。
−【書紀皇極紀4年6月13日、蘇我臣蝦夷らは、誅殺されるにあたつて、天皇記・国記
および珍宝をことごとく焼いた。船史恵尺(えさか)は、すばやく焼かれようとする国記を
取り出して中大兄にたてまつった。】−

と書いていますし、古事記には
−【天武天皇の言葉として、「私が聞くところによると、諸家で承け伝え持っている帝紀
(王の亊績)と旧辞(王室に伝わる物語)は、すでに真実と違い、偽りを多く加えていると
のことである。」だからこれを正して後世に伝えよう。】−とおつしゃつたことが編纂の動機
となつていました。

 皇極紀にある「国記」や天武天皇の代、「諸家で承け伝え持っている帝紀と旧辞」が
倭国の歴史書である「倭国紀」であつたのかも知れません。

そんな記録類は後世のために残してほしかったものです。一切残さなかったのは記録の
抹殺に他なりません。

一方で、書紀に日本という言葉がでてくるのは、雄略紀以後で「天王」という宗教色の強い
王号とともに出現してきました。

だからこの大王の時代に、「日本国」の胎動があつたと思われます。
倭国と日本国がいつ、交代したのか。どのように倭国が崩壊していったのか。

どの大王の時代に倭国が滅亡したのか。新しい国家となつた日本国の王はだれだつた
のか。歴史書は書いていません。

倭国大王の血筋が続いているように装うため、「倭国紀」を抹殺し、倭国と日本国の歴史
を一つの書に編纂してしまいました。

最初にもつていけば、途中で血統が絶えたことを隠すことが出来ます。
日本国の歴史の先頭部分を出雲神話に仕立て倭国の神話に併合しました。

2カ国の歴史を編纂して一つの歴史書にすることは他国にも例があります。
朝鮮半島の新羅本紀なども、北の古新羅(穢人の国・都は元山の近く)と南の新羅(倭人
の王の血統を持つ国・都は慶州)との歴史混在がありますが、おおむね紀年毎に書かれ
ているでしょう。

ところが紀記においては、「日本紀の先頭部分」を古い方に移動、「出雲神話として、倭国
紀の上にオーバーラツプしてしまつた。」

本来は紀年順に倭国の歴史があつて、それから日本国の歴史が続くのがほんとうだつた
のに年代を無視してしまいました。そして倭国の神話と出雲神話とを結合したのです。

出雲神は渡来人なのに、その子の大国主神は国ッ神だとしました。おかしな話です。

始祖伝説の神武天皇の正妃ヒメタタライスズヒメ(亊代主命の娘)をはじめ、初期天皇四代紀
に閨閥として出雲氏族のヒメたちが婚姻をしています。

それは本当のことではないでしょう。神話同士の結合の産物だといえます。
まやかしの話がが後世に創られました。

直木孝次郎氏は天皇家と亊代主神の娘が婚姻することに「歴史的事実ではない」が
「出雲氏族と天皇家との結び付きの時期は別に考えなくてはならない」と述べています。

つまり古い方向に引き伸ばされた歴史は元の位置に戻して、倭国紀そして日本紀が続き、
その日本紀の歴史の中で考えるべきことなのでした。

 紀・記はなぜこんな書き方をしたのか。
隠したいことが多かったからそのようにしたのです。

前項であげた仏教徒の渡来はぜひとも隠したいことでした。
なぜなら、彼らによって仏教の種子が播かれて、列島にじょじょに広がり宗教に帰依した
豪族と古来の宗教を守ろうとする豪族との争いになつたからです。

出雲に来られた貴人は、「この国を奪うつもりはない」と誓約されましたが、この方の子は、
大国主(天皇位)となつて結果的にこの国を平定されました。

 紀記に書かれている出雲神は、古い時代に持って行かれたけれど、実は五世紀後半の
「日本国建設」にあたった人々だつたのです。

出雲風土記では出雲郡杵築郡条に次ぎのように述べていました。
−【八束水臣津野命の国引きをされた後、大穴持命の宮を造営申し上げようとして多くの
神々がその社地に集まって宮を築かれた。】−と。

大穴持命は大国主神の別名ですが、ここには八十神から迫害される姿はなく、逆に多く
の神々から支持されている大国主神の姿があります。

これが日本国の誕生だろうと考えます。原日本国は出雲に存在しました。
そして、その時期は国引き後だと明記されています。本書では「国引き」がどんな行為で
あるかを明らかにしていきましょう。

日本もと小国、倭国を併せり

中国史には「日本もと小国、倭国を併せり」と書かれていますが、なぜ小国が倭国という
大きな国を征服できたのか、それには倭国豪族を二分するような大きな力が働いたと思
います。

その力が仏教の伝来によるものだつたから、仏教の伝来時期は隠す必要がありました。
倭国豪族の分裂がこの時代にあつて倭国という古来の国家が崩壊し、新しい日本国に
なつたことを隠したいと思ったからです。

大国主神=継体天王説について
 五世紀の歴史を古い時代の出来事と装うために神話に仕立てたのでした。神話の中で、
大国主神は八十神を追い払い退けた後に「出雲より倭国にのぼる」と古事記に書かれて
います。

倭国の都である大和に遷都して政治を執ろうとする大国主は、倭国の正当な継承者では
なく征服者でした。
「この征服者・大国主神は歴史上では継体天王である。」と考えました。

倭国の立場としてみると征服者であつたでしょう。しかし日本国の立場からみると東方
浄土の国に仏教を広めるためには戦争を行う以外道がなかったのかもしれません。

倭国の通史として倭国の誕生から滅亡までを書いた前著「倭国物語」の中では十分な
紙幅がなく、あまりこの説を詳しく書けなかったと思います。

だから今回の「仏教、出雲に伝来」は、時代を限定し継体天王のお生まれになった五世紀
中ごろから六世紀前半までの話しに限っています。

神話がでてきますが、古く装っているのは紀記の故意の誤りでした。
出雲神話は五世紀中ごろからの事績です。そして倭国の歴史の後に、日本国の歴史が
続くのが正しい。

さあ、出雲神話を元の姿に戻していくこととしましょう。

大国主神=継体天王説を人に話す時によく理解されない理由は、史実の人物(モデルに
なった人物)が知られていないことが原因。だから本書ではモデルを先に書き、理解して
いただいたあとに虚像を対比させることにします。