第2章 「馮 弘」の渡来 

 日本列島では五世紀中頃北燕国天王馮弘らしき人物が来朝して、その後の末頃に豪族同志
の戦いがあり、多くの倭国豪族が滅亡し、それまであつた倭国が崩壊して日本国になりました。

日本書紀は倭国がいつ滅亡したか、大王から天王にいつ王号を変更したのかまったく書いてい
ません。神武の時代から連綿として一系の王族が続いているように装っています。

なんどかの王朝の変遷があつたのが真実の歴史でした。この本の中では倭国が倒壊し、日本
国に変わる様相が次第に明らかになると思います。
この遠因となつたのは倭国に仏教が到来して、仏教に帰依した豪族と列島固有の宗教を支持
する豪族との争い(宗教戦争)が起きたからです。
そしてその戦争に勝利したのは継体天王というお方でした。

馮弘さんや新漢人といわれる人々が仏教をもつてこの国においでになつたのが、始まりだつた
のです。この章ではその原因を作った馮弘さんとはどんな方であつたのか、中国の仏教伝来や
天王号の由来など、仏教のことと馮弘のことを中心にお話します。

中国へ仏教と天王号が伝来した。

 紀元前400年ごろ、インド、ヒマラヤ山麓の小部族サクヤ(釈迦)族の王子であつたゴータマ・
ブッタが修行の末に悟りを得て、行った宗教活動が仏教の始まりといわれています。

最初は修行をすることにより、私欲を捨て悟りを得て仏を目指す自己修行を中心とした宗教でし
たが、それだけではなく、他人に仏の功徳を与える大乗仏教の思想が起こると宗教の輪が
だんだんと広がっていきました。

その過程でより大衆に受け入れられるための「極楽・地獄などの考え」や「宗教を迫害する悪魔
の存在」であるとか、「それに対抗して仏教を守護する天王や神将」が、仏教の中に取り入れら
れていつたのです。
ブツタの祇園精舎(寺院のこと)の守り神は牛頭天王とされました。

この方はインド須弥山(しゅみせん)山腹豊饒国武塔天王の太子、頭に三尺の牛頭があつたと
され、長じて王位につき波利采女(はりさめ)を妻として八王子を産んだという。

牛頭天王や八王子は古代インド宗教の伝統的な守護神でしたが、のちに仏教に執り入れられ
ました。

仏教が広がるにつれ守護神は四天王・十ニ天王さらには三十ニ天王と拡大していきます。
この牛頭天王や八王子および天王(てんのう)という王号が仏教に関係する言葉であることは
ここで認識しておきましょう。日本列島に仏教が伝来したときに経典とともに天王号も入ってきた
と思われるからです。(日本書紀にに天王号が見えたのは、雄略紀五年条・二十三年条。)

ところで、インドに発生した仏教が中国に伝来したのは古く、前漢哀帝元寿元年(前2)のこと、
長安を訪れた大月氏国王の使者伊存から博士弟子景廬に[浮屠経(仏経)を口授した]という
「魏略西戎伝」の記事が最初の記録といわれています。

以後、後漢末の恒帝(147〜167)の時代になると安世高らによる経典漢訳が始まり、ようやく
中国人の間に新しい外来宗教として現世の社会不安を無くし、未来に希望を与える宗教として
浸透してきました。

−【ブツタの慈悲による一切衆生の救済を強調する】−
 仏教の教えは、戦乱の続く後漢末に、支配体制が動揺し、それまでの国教であつた儒教の
既成価値観がゆらぐことに応ずるように、大衆の心の中に入り込んでいきます。

さらに五胡十六国とよばれる北方異民族国家が華北を支配する時代が来ると、従来の儒教の
代わりに仏教をもつて支配体制をつくるという目的に利用され、異民族支配という大きな社会
変動を緩和する手段となりました。

もともと仏教は、ブツタの「唯我独尊」をもつて、仏がこの世における最高位の地位にあり、王は
下位にあつて仏法の保護にあたる「教主王従」の教えであり、北方民族が漢民族を支配すると
いう異民族支配下で、民衆は仏によって導かれ、王は自ら仏教の守護者を意味する天王
(てんのう)号を称えていつたのです。

天王号

 313年それまでの統一国家であつた晋が亡び南方に去ると、中国北部は天王号をもつた王
に支配されました。

その最初の例は匈奴人きん準(革へんに斤)で漢天王を号し、引き続き羯族人石勒の趙天王(32
8)・石虎の居摂趙天王(333)、西部地域から起こったてい族(氏の下に横棒)符建の大秦天王
(天王大単于)・符堅の大秦天王などなど、天王号は北方民族の好んで使った君主名であつたの
です。

 趙天王と名乗った羯族人石勒(趙の初代高祖)は、西域出身の僧仏図澄(?〜348)を大和尚
として尊崇し、居摂趙天王石虎(石勒の子)は、また仏図澄に帰依し、建武元年(335)漢人の
出家を公許したといいます。

このようして仏教をもつて国家体制を強化し漢民族を統制していきました。
さて、年月を経て漢民族を統制することが可能になった後では、最初の「教主王従」の考えから
宗教を国家目的遂行のためにのみ利用する、「王主教従」に変化を求められるようなります。

民衆をバツクに王を軽んずる僧侶が現れることもあつたでしょう。国家としては王権に奉仕し、
そして祖先崇拝に限定した宗教を求めるようになりました。天王号の消滅です。

436年北魏によつて、追われた北燕国天王 馮弘を最後に天王号は中国から消えました。

そして大延五年(439)華北を統一した北魏の太武帝は、皇帝と名乗り、444年から大規模な
廃仏を行いました。七年間に及ぶ中国仏教がうけた苛烈な大弾圧の後、復仏令が発せられま
したが、そこでは仏法の王への帰一が重要視されて、仏教は皇帝崇拝と鎮護国家を祈念する
教団へと変貌していきました。それとともに仏教保護者を意味する天王号も中国から消えてい
つたのです。

最後の天王号 馮 弘

中国最後の天王号をもつ馮 弘は北燕国の王様でした。日本列島の政治体制に大きな影響を
与えることになったこの人物はどんな方でしょうか、また燕国とは何処にあつた国なのでしょうか。
 
四世紀初め、中国北部はそれまでの漢族による政治体制が終り、北方民族が乱入して国を作る
状態になると、それまで中国国境北部にいた鮮卑族も中原の地をめざし、遼東半島付近から南
下して来ます。

 まず鮮卑族の慕容氏が337年に華北東部に燕国を作りました。昔から燕と呼ばれる地域に
基盤をもち、国を作つたのは、この時代五カ国もあるので区別するため人々は最初に慕容氏に
よつて作られた国を前燕国と呼んでいます。

この前燕国は北方民族同士相争うなかで大秦天王符堅に滅ぼされ、中国北部は一時符堅に
よつて統一された時期があります。

符堅は勢いに乗じて南の漢人国・東晋に攻め込みましたが、そこで思わぬ大敗を喫してしまい
ました。命からがら北に向かって戦場を離脱する符堅を助け、守護したのは符堅によつて滅亡
され、一部将となつていた前燕国の慕容垂です。

−【いまこそ、手中にある符堅を殺し、滅ぼされた燕国の復讐をすると共に、中原を支配する絶
好の機会ですぞ】−

幕僚たちの進言を退けて垂はこのようにいいました。
−【わたくしに中原の地を征する力はない。ただ東部の地に祖業を復することが希みなのだ】−

慕容垂のお陰で窮地を脱し洛陽についた符堅に、垂は願い出ます。
−【この度の長征により北方の民族に動揺の兆があります。これを鎮める
ためと併せて祖先の墓参りをいたしたい。】−

符堅の武将たちや幕僚たちの【鷹を放つようなものだ】という反対の声を押さえ、符堅は垂が
二度と帰って来ないことを知りながらこれを許しました。

このようにして、慕容垂は燕国を再び華北東部に復興するのですが、この燕国を後燕国と呼び
ます。
北方騎馬民族の王たちの仁義に厚くその英雄ぶりを中国史書は率直に書いていますが、
ここで注目して頂きたいのは前後の燕国が華北東部の地を根拠地にしていたということです。

山東半島の土地の神である兵主神が日本列島に渡来してくることや、出雲に数多くある「韓国
イダテ神社」の祭神は、華北に起因する兵主神といわれていること。

この神が日本に来るのは、燕国との関係があるからではないかという状況証拠になるものです。
それはまた北燕国天王馮 弘の上陸地点の特定になるものでしょう。
詳しくは後で述べることにします。

さて義理・人情の厚い慕容垂の作った後燕国も、息子の宝の時代になると同じ鮮卑族拓跋部
の国北魏に圧迫され、都の中山(河北省)を捨て竜城(遼寧省)へと逃げ出さなくてはなりません
でした。397年のことです。

竜城は遼寧省朝陽というところにありました。
慕容宝からその養子となっていた高句麗氏族出身の慕容雲、さらに政権を引き継いだ漢人
馮 跋(北燕国初代天王409〜430)、馮 弘(在位430〜436)と朝陽の竜城を首都にして
いたのでした。人々は漢人の燕国を区別して北燕国と呼びます。

この国名も首都の地名も日本列島・藤ノ木古墳の出土品に関連して出てきますので覚えてお
いてください。北燕国は日本とは縁の深い国なのです。

北燕国天王 馮 弘とその民、国を捨てる。
 
 中国北部の覇者・北魏にとつて、統一の妨げとなっているのは、漢人国の北燕国だけになつ
ていました。鮮卑族の国・後燕国を簒奪して漢人が北燕国を作ったことも、鮮卑族北魏としては
我慢ができないことでしたし、馮 弘が仏教に帰依し殺生を嫌い、平和主義者であつたことが
北魏の侮りをうけることなつたともいえます。

三国史記・高句麗本紀には435年条に
−【魏軍がしばしば燕を討伐し、燕は日々に危なくなった。】−

さらに燕王の馮弘が
「もし事態が急迫するようなら、東方にゆき、高句麗にたよつて、再起をはかるように。」といつて、
ひそかに尚書の陽伊を派遣して(自分たちを)わが国(高句麗)に迎え入れることを申しでた。」と
書いています。

馮 弘が外交努力を怠っていたのでありません。燕王は使者を魏に派遣して朝貢をし、侍子
(魏王に近侍する子弟)を送りたいと申し出ました。

魏王はこれを許さなかったといいます。
北魏国は基本的に他国の近侍や姫君の入婚を認めませんでした。

 百済国王蓋鹵王(がいろおう・在位455〜475)が472年北魏に使者を送って朝貢し、高句麗
の圧迫を受けていることを訴えて将軍の派遣を要請し、−【(もし救援していただけるのであれば)
必ず田舎娘を送って後宮の掃除をさせ、あわせて子弟を送って外厩の世話をさせましょう。・】
(百済本紀)と申し出た時も北魏はにべない返事をしています。

新羅の近侍を受け入れた唐や百済の近侍を受け入れた日本国とは、また違った哲学をもつて
いたのかもしれません。

近侍を受け入れることは後世の混乱を生じる原因になりかねないのです。百済閥の生じた日本
など例は多くあります。魏王はそれを避けたのでしょう。

それに戦いを避ける燕国が、強い高句麗との中間に位置しては、いつ高句麗の領土になるか
分かりません。そのことの方が心配だったことでしょう。

436年夏四月、北魏は燕の白狼城を攻略しました。このとき、燕国天王馮 弘は、竜城の民を挙
げて反撃をすることなく、ただ高句麗の迎えを要請したのでした。

−【高句麗王(長寿王在位413〜491)は葛盧(かつろ)・孟光(もうこう)両将軍に数万の大軍
を率いさせ、陽尹にしたがつて、和竜(中国遼寧省朝陽)にゆき、燕王を迎えさせた。

葛盧・孟光は城に入ると、(率いてきた)軍に命じて、破れた軍服を脱がせ、燕の兵器庫にある
精巧な武器を兵に与え、大いに城内を強奪した。】(高句麗本紀)−と。

前燕時代から約百年間、燕国が蓄えた精巧な武器や何万人分の装備が高句麗兵士の手に渡
りました。
危急のとき役立つ兵器も天王が戦う意志を放棄したときには何の役にも立たなかったのです。

自国を防衛できない国民も、また天王とともに流浪の民となつたのでした。

別の見方をするなら、北燕国を攻めた北魏がこの後、廃仏を断行することが見えていたのかも
しれません。白旗を掲げ帰伏しても、それは自分達の宗教の破滅であるかもしれないと思った
とき、彼らは宗教を守って東方の新天地に向かって転進することを望んだのではないでしょうか。

436年五月北燕天王馮 弘は竜城の民を率いて東方に移動を開始しました。
 高句麗本紀はその時の状況を次のように書いています。

−【長寿王二十四年五月、燕王は竜城の住民を率いて、東に移るとき、宮殿を焼いたが、その
火は十日も消えなかった。

(この行軍では、)婦人に甲(よろい)をきせ、中央におらせ、陽尹らは精鋭な軍隊を率いて外に
おり、葛盧と孟光は騎馬隊を率いて殿をつとめ、車をならべてすすんだ。(この行列は)前後
八十余里(にもおよんだ)。魏王がこのことを聞き、燕王を送るよう命じた。

王は魏に使者を派遣し、馮弘とともに魏の王化を奉じたいと上表文を奉った。】−

暗黒の夜中、野宿を重ねた馮 弘の一行に、燃え上がる宮殿の火が名残りを惜しむかのように
夜空に火の粉を散らしたとき、彼らはなにを感じたでしょう。
ただ手を合わせ、祖先の霊に別れを告げ、仏の導くまま東方に歩みを続けたのでした。

 その後、高句麗領内の平郭(中国遼寧省蓋平付近)次いで北豊(中国遼寧省遼東の西方)に
弘がいたことは資料にみえますが、それから先は謎の部分が多いのです。

高句麗本紀にはこの間の事情として
−「弘か遼東にきたとき、彼の太子の王仁を人質とした。弘はこのことを怨み、使者を宗に派遣し、
上表文を奉り、迎えを求めた。宗の太祖は使者として王白駒(おうはくく)らを派遣し、弘を迎えに
行かせた。」−

−【長寿王二十六年(438年)春三月、高句麗王は弘を南に行かせることを好まず、将軍の孫漱
(そんそう)や高仇(こうきゅう)らを派遣し、北豊で弘やその子孫十数人を殺させた。

(宗の)王白駒らは部下の七千余人を率いて、(高句麗の将軍を)不意打ちし高仇を殺し、孫漱
を生け捕りにした。】

歴史書には「弘やその子孫十数人を殺させた。」とあるけれど「殺した」とは書いていない。
このへんになにか、からくりがあるみたいです。

高句麗王はこの時代、中国の北の勢力北魏と南方の勢力宗の南北両朝に朝貢し、そのバランス
を保つて自国の安全を図ることが最重要でしたから、馮 弘のことで両朝の板ばさみになることは
なんとしても避けなくてはなりませんでした。
王は弘を殺したことにして別の場所に移したのではないかと思われるのです。

混乱の中、馮一族も二分して、あるものは王白駒らに従って南方の宗に行き、また馮 弘らは
古新羅方面に身を隠したのでしょう。高句麗王の隠密の援助があつたのです。

この新羅は「北の新羅」(隋書に新羅として見える国で沃沮・穢・秦韓地方にあつた国)で、いま
の元山付近に都がある高句麗の属国でした。

五世紀の中頃には高句麗に吸収されて国名もなくなります。
この国とその後六世紀に新羅の国号を襲名した南の鶏林国(慶州を都とする国・鶏林新羅と
します)とはまつたく違う国であることは、歴史上はつきり区別して認識しておかなくてはなりま
せん。

韓国歴史学者李鐘恒氏によれば、「南の鶏林国は任那の一国で、503年に任那から独立して
新羅を襲名した」という。倭国の敵となつたり、ときには人質を倭国に送ってきたこともある北の
新羅は高句麗の勢力に吸収され、国がなくなつてしまいました。
その後任那から独立した鶏林新羅(倭人の王国)についてはこれからしばしばでてくるでしょう。

 弘のいた北の新羅はこの頃には高句麗領となつたと思われますが、ここから出発して安全な
そして仏教の普及した南中国の宗に、弘は何故行かなかったのでしょう。

行こうとして道に迷い、出雲に到着したのでしょうか。その後の彼の行動をみると日本を中継して
南中国に渡ろうとした形跡がありません。

そうすれば、最初から日本列島に渡るのが目的だったのでしょう。
[東方を仏教浄土の国にする]お釈迦様の教えを忠実に守って、中国最後の天王号をもつ馮 弘
は列島においでになつた。そのときから列島へ「天王号」が入ってきたと思われるのです。

それまではこの国の首長は倭国連合の王として「大王」という称号を使っていました。それが天王
号に変わったとき、仏教が波及してきたといつてよいのでしょう。

海を越え天王号が、日本列島にやつてきた。

 中国から消えた天王号が入れ替わるように海を隔てた日本列島に出現してきました。 
書紀で天王という言葉が使われるのは、雄略紀五年・二十三年条ですが同時に日本という言葉
も使われ始めました。

列島の天王号は倭国の大王号に取って代わり、五世紀後半から現代に至るまで、途中に
「天皇」と表記を変えながらも継続して列島の首長号として用いられていることは御存知の通りです。

奈良時代、聖武天皇の年号「天平」は729年六月河内国古市郡の人、賀茂子虫が献上した祥瑞
の亀の背に読める【天王貴平知百年】(天皇の政治は貴く平和で、百年も続くであろう)の文字に
よって定められました。
天皇と表記を変えたのちも、天王という字は続けて用いられた例です。

ところで、それまで日本列島にあつた国は倭国で、半島南部にあった倭人の国々と連合国家を
作り、その王は「大王」と呼ばれていました。

その大王は五世紀末ごろまで列島に存在していたことは刀の銘文で確認できます。しかしその
後は大王という呼び方は消え、つぎには天王という呼び方に変わつていました。

大王がいらつしゃる倭国に天王号が入ったのです。
このことは列島に仏教が入ってくると同時に天王号も入ってきた、逆に天王号が入ってくると同時
に仏教も入ってきたと考えなければなりません。
さきにも述べたように天王号は仏教用語で仏教の守護者を意味するからです。

伝来した時期は、燕国滅亡後の五世紀代(440〜中ごろか)のことでしょう。書紀に出てくる天王
号が雄略紀なのも、時期的に適合しています。

半島には天王号は伝わらずに、中国遼寧省の北燕国から直接天王号は列島へ移つてきました。
だからこの天王号の出現も馮 弘の到来によるものです。

もし馮 弘が朝鮮半島に足場をもつたなら、半島にも天王号が伝わるはずと思うと弘の目指した
のは仏教の未開地の日本列島だつたのではないでしょうか。

馮 弘とその民 明日香に住む。

 さて出雲に上陸した馮 弘の民たちが河内に連行され、苛酷の生活を送つたこと(「死ぬ者が
多かった」書紀雄略紀)は既に述べていますが、これに心を痛めた弘は大和に上り、ときの大王
に面会を求めます。そして「この国を奪うようなことはしない」と誓をたてました。

そして忠実にその誓をまもつたのです。結果、弘の民たちは解放され、各地に分散して居住する
ことを許されたのでした。

偽りの多い日本書紀は、馮 弘の来朝も歴史の話ではなく、神話の世界に入れてしまいました。
だから馮 弘の民たちもその出自を隠くされています。

−【仁賢紀六年条(五世紀後半か)−この歳、日鷹吉士が高麗より帰ってきて、工匠(てひと)の
須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。いま大倭国(やまと)山辺郡の額田邑(ぬかたの
むら・現在の大和郡山市額田部北町、寺町、南町付近)にいる熟皮高麗(かわおしのこま)は、
その子孫である。】−

−【雄略紀十四年条、身狭村主青(むさのすくりあお)らが、呉国の使者とともに、呉の献上した
才伎である漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津(すみのえのつ)に碇泊した。
−中略−
三月に呉人を檜隈野(奈良県高市郡)に置いた。そこで呉原(明日香村栗原)と名づけた。
衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・
伊勢衣縫らの先祖である。】

中国歴史書に書かれている倭国の大王は五人、すべて高句麗とは常に敵対関係にあり、
日鷹吉士の高麗へ「大王の使いをした」という条文が真実であるとはとても思えません。

それよりも、これらの民が出雲から連れてこられたと考える方が理に適います。
日鷹吉士が額田邑に連れてきた熟皮高麗(かわおしこま)は、従順な高句麗人(新漢人という
見方もある)という意味でしょうが、この地名は大和郡山市額田部とあるように伴造は額田部臣
でした。

岡田山一号墳(島根県松江市大草町)から「額田部臣」の文字を象嵌する太刀が出土して、
額田部臣が出雲の国に根拠地を持っていることが分かりますし、額田部邑の熟皮高麗とも当然
関係があるのでしょう。出雲から移動して、この地に来たと考えて良いのではないでしょうか。

 平安初期に作られた新撰姓氏録抄(姓氏録)には額田邑の村長さんを
【額田村主。遠呉国(人) 呉国古之後也。】(大和諸蕃、漢人部)としています。

額田村主は遠呉国から来られた方でした。呉が南中国の国といっていいのか、高句麗の句麗
であるのか迷うところですがさきに述べられているように高句麗人の子孫が住んでいるのが
額田邑なので、この呉は高句麗のこととしましょう。そうするとこの遠呉国は高句麗国の先、
燕国を示すものではありませんか。

これより先、同書雄略紀七年条には同じ日鷹吉士という人物を派遣して、今来の才伎(てひと)
を大嶋(場所不詳)から連れて来たという、

−【そうして倭国の吾礪(あと・河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市)の広津邑に才伎
(てひと)を安置した。病死するものが、多かった。

そこで天皇は、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じ、新漢
(いまきのあや)陶部高貴(すえつくりこうくい)・鞍部堅貴(くらつくりけんくい)・画部因斯羅我
(えかきいんしらが)・錦部定安那錦(にしきごりじょあんなこむ)訳語卯安那(おさみょうあんな)

らを上桃原・下桃原(大和国高市郡)・真神原(明日香村)の三カ所に居住させた。】という。
日本初期仏教に貢献し、仏教界をリードした人たちです。

書紀には「百済から連れてきた」と嘘を書いていますが、信用できる話ではありません。
真実を隠すためのごまかしが入っています。

これらの民は「藤ノ木古墳出土の鞍金具」から馮 弘の引き連れて来た北燕国の遺民だと推測
できました。

ついでに額田村の広がりの中心にあるのが斑鳩(いかるが)の里で、藤ノ木古墳や聖徳太子
邸宅・法隆寺があるところでした。これらの主と前面に広がる額田村とどんな関係があつたのか、

位置関係からみて両者の関わりはきわめて興味のあることですが、現在のところはつきりした
ことは解明されていません。さきに話を進めましよう。

 馮 弘の民は明日香村(上桃原・下桃原・真神原・栗原)(日本初の本格的寺院の建設される
地名でもある。)や額田邑に住いをいただきました。

同時に弘も「この国を奪うことはしない」と倭国大王に誓いを立てて、彼の民たちとともに明日香
に居住を許されたのです。

明日香は古代人が「すがすがしい場所」というところでした。「あすか」のあは説頭語で意味は
なく「すがすがしい」の意味の「すが」に「あ」をつけて場所を示したのです。

出雲神話にはスサノオが大蛇退治後、旅をして「須賀」にすむという説話がありますが、「旅をし
て」ということは、出雲から大和に移動したことなのでしょう。
距離の近いところに移り住んだことをいうのではありません。

さて、馮 弘やその民が明日香にきたことで、倭国の文化に大きな影響を与えました。
いろいろな才伎(てひと)を率いて来たので、それまで素朴な馬具しかなかったこの国も、立派な

鞍や金銅製の透かし彫のついた金具を手に入れることができるようになりましたし、その他の
金工細工も一段と進歩していきました。

頭には光り輝く王冠を被り、耳には垂飾付き耳飾りを、さらに伝統的な首飾りも一段と豪華になる
きんきらの豪族の姿、国内に持ちこまれた新しい桂甲という鎧を纏う兵士の姿が増えていきました。

女性には華やかな色彩の衣装が流行します。
飛鳥衣縫や伊勢衣縫の故郷・燕国の衣装文化から斬新なデザインが執り入れられ、宮殿の

女性たちや貴族の奥方たちの身をかざつたことでしょう。歩揺という歩くたびにきらきらと輝きな
がら揺れる小さい金飾りを多数付ける文化も列島に入ってきました。

鮮卑族・慕容氏が好んで身につけたもので、慕容という氏族名も、「歩揺」からきているという

中国歴史学者もいます。慕容氏が作った国が燕国で、弘の渡来によりその文化は中国北部から
確実に列島に移ってきたのでした。

馮 弘が倭国の中でも、王侯に準ずる生活を送っただろうという想像ができます。全身金ピカの
装飾品で飾り、遠く燕国から運ばせた貴重な品々に囲まれて、庶民とは比べることが出来ない
ほど贅沢な生活だつたに違いありません。波瀾に満ちた人生の最後に訪れた平和なひとときでした。

しかし、弘の心残りは、この国が仏教を容易に認めようとはしなかつたことです。倭国は昔から
神様を信仰する国で、異国の宗教を排斥しょうとする有力豪族たちは数多くいたのでした。

東北アジアの諸国に仏教が伝来する時、中国宗主国から下賜の形をとった高句麗、百済には
仏教に対する反対勢力は存在しませんでした。

渡来人の私伝の形をとつた倭国には、当初から激しい反仏教の風が吹いていましたから馮 弘
の民たちも公の布教を禁じられ、ささやかな身内だけのお祭りを続けながら時を過ごしたのです。

仏教布教の波は弘の時代では起きることはなく、次の世代へと引き継がれていつたのでした。
五世紀後半のある日、病を患った馮 弘は、仏に導かれるように明日香の邸宅で息を引き取り
ます。

鞍部(くらつくり)や衣縫たちの哀悼を受けながら、かつての北燕国天王としてはあまりにもささや
かな陵(みささぎ)・後世に新沢千塚古墳群126号墳と呼ばれる古墳に葬られたのでした。

継体天王オオドはウシ王の子・出雲で育つた。越前というのは嘘。

 残された妻はわが子の養育のため、幼子を連れて出身地の出雲に帰っていつたのではないか
と考えます。馮 弘が日本列島に来て、娶つた妻には幼い子がいました。

この子こそ、後に継体天王となるオオドです。
弘が来朝した五世紀中から約五十年後の六世紀初、御歳58歳で樟葉宮(大阪府枚方市)に即位
するこの天王は後から話がでてくる出雲の渡来氏族と深い関係があるのです。

オオドが招き入れた高句麗氏族(騎馬民族)は出雲に上陸しました。
このことが示すように継体天王は出雲と切っても切れない関係があります。

きつと馮 弘の子の名前はオオドでしょう。父の来朝時期と生誕時期はぴつたりと合っていたの
でした。

そうです。日本書紀はちょうどこの頃に、継体天王の父ウシ王(上宮記・書紀では彦牛王)が亡く
なって、妻の振媛が実家の越前に帰ってオオドを育てたという話を書いています。

「越前へ」というのは本当のこととは思えません。
それよりも、出雲に帰ったというのが真実でしょう。

妻の名前・振媛というのは、出雲の稲田姫の間違いではありませんか。
ウソで固めた話はいつか崩れるものなのです。

出雲の継体天王が仏教布教のために起こした戦争(列島の宗教戦争)に勝利するため、外国
から高句麗や北の穢人新羅らの騎馬氏族を招き入れた話(出雲の国引き物語)やこの戦争に
勝利した後、出雲から大和に上り新しい国家を作る話はこの本の中でゆつくりと説明していきま
しょう。 
                       
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