第3章 明日香・馮 弘の墓と斑鳩・藤ノ木古墳
前章では北燕国天王馮 弘が祖国を捨て東方仏教の浄土を求めて日本列島にたどりついて、
連れてきた民たちとともに大和の明日香に住んだことをお話しました。
仏教徒の渡来です。この氏族が仏舎利や仏具・仏図・仏像を持って渡来してきたことは、書紀や
扶桑略記にも書かれていて否定することは出来ません。
だけど神の国倭国では、仏教がすんなりと受け入れられることはなかつたのでした。
古来の宗教を堅持する豪族たちによつて仏教は規制され、布教活動はつぎの世代に託されます。
馮 弘の長子・王仁は九州から仏教の種子を蒔きました。稔りをみることなく馮 弘は明日香の
地に波瀾の人生の幕を閉じたのでした。
この章では古墳出土品を中心に今までの話の「裏づけ」をしていきます。
奈良県新沢千塚古墳群126号墳
1963年奈良県橿原市新沢千塚古墳群の126号墳の発掘調査から思いもよらぬ遺品が出土
しました。
この五世紀後半の古墳は22×16mの長方形をした小さい古墳ですが、木棺内外に王侯に
匹敵する貴重品が納められていたのです。
北燕国ゆかりの出土品
【棺外には、鉄刀2口、青銅製熨斗1個と、漆盤3個がおかれていた。漆盤の1つには、黒漆の地
に朱で四神が描かれいる。
棺内遺物は主に装身具で、遺骸に装着していたような状況で出土している。それらを出土位置
によって復元すると次のようになる。】
【まず頭には布製などの冠(帽)の前面に金製方形冠飾を付け、髪には金線を螺旋状に巻きつ
けた垂飾を垂らし、左右の耳には長さ21cmの金製耳飾を付けている。
上半身の衣服には、径1cm程の小さな円形の金製歩揺と青色のガラス玉を多数縫い付けて
飾っている。
腰のベルトには、金銅製の帯金具を留めていて、腕には金と銀の腕輪をはめ、さらに指にも金・
銀の指輪をつけている。そして、両足の部分にガラス玉が集中しているため、ガラス玉で飾った
ブーツのような履をはいていたようだ。】
このように、全身を各種の装身具で飾ったこの人がもつとも大切にしていたものは、頭のすぐ
右側にあつた透明の切子ガラス椀と青色のガラス皿である。
そして径6.5cmの小型鏡は、頭部から約20cm離れた仕切り板を隔てたところに、多数の滑石製
臼玉等と一緒にに置かれていた。日本の古墳では、鏡を副葬する場合は遺骸のすぐ近くに置く
のが一般的であることを考えれば、このような扱いは珍しい。
これらの金・銀製装身具やガラス器は、いずれも海を渡ってもたらされたものである。それらの
故地は、朝鮮半島で作られたものもあるが、さらに中国大陸の東北地域や、ガラス器のように
はるか西方のサザン朝ペルシャに求められるものも含まれている。】−
(特別展「新沢千塚の遺宝とその源流」奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 写真資料も同書)
<北燕国天王・馮家に関連>
全身金ピカの装身具に飾られたこの人物は、首につけた各種の首飾りの中に勾玉の首飾りを
つけ、列島の風習にも順応しているようにもみうけますが、出土した純金方形板は、中国遼寧省
朝陽北方にある北燕天王馮跋の弟馮素弗の墓や馮一族の墓(房身村2号墓)
から出土した冠帽飾りに酷似するといいます。
中国遼寧省朝陽は北燕国の都竜城があつたところでした。
そこの天王であつた馮 弘は北魏国から圧迫を受け、自らの民を引き連れて
国を捨て、高句麗を頼って亡命したのです。
さらに馮氏一行は国際的な軋轢の中で、高句麗に永住することが出来ずに
さらに離散したという。
東方に亡命の旅を続けた末に、弘が辿り付いたのが出雲の海岸だつた。
(上段129号墳、下段房身村2号墓)
この国の大王に面会を求め、「この国を奪うことはしない」と誓約をした馮弘は明日香に居住を
許されました。
燕国と高句麗の二度にわたる追放を受けた貴人(位の高い人物)は、波瀾に満ちた人生の
終焉の地として、明日香の小さな墓に葬られたのでしょう。
北燕国天王の終焉の場所がこの小さな長方形の古墳だつたのです。
あまりも、ささやかな墳墓というのは倭国大王家の陵と比べてのこと。
天王号を持ち、仏教に深く帰依していた彼は、墳墓の大きさには関心が無かったのではないで
しょうか。
北燕国の馮氏一族は深く仏教に帰依して、仏教の守護者である天王号を用いていました。
その証拠は仏像の打ち出された冠帽飾りです。
左の写真は馮素弗(北燕国天王馮跋の弟)の墓から出土した冠帽飾りで、
中央に胡座をかいた仏像の姿が打ち出されていました。
亡命した馮 弘の叔父に当たる人物の墓です。
日本列島における仏教の伝来時期は、書紀記載の六世紀中から百年は遡ら
なくてはならないと思う由縁がここにあるのでした。
新沢千塚126号墳の主の最も大事にしたものは、「頭のすぐ右側にあつた透明の切子ガラス椀
と青色のガラス皿である。」と図録にかかれています。
この品々が仏具ではないかと思っています。
仏具である銅鋺が豪族のお墓に入れられるのは六世紀前葉から前半にかけての年代が今の
ところいわれ、その状況は後ほど話が出てくるでしょう。豪族の銅鋺に対し、王者の仏具がこれら
のガラス製品だつたのではなかろうか。
(126号墳出土のガラス製品)
中国遼寧省の馮素弗墓出土ガラス椀とガラス皿の写真をみると、128号墳のガラス製品と極めて
似ているように思われます。
(中国遼寧省馮素弗慕出土のガラス製品)
こうしたガラス製品を王者の墓に入れる風習は、日本にも伝えられたのでしょう。安閑天王陵出土
と伝えられるガラス椀も切子細工でした。
そうすると年代からみて126号墳と安閑帝の中間に在る継体天王陵にもガラス製品があると思
われるのでしょう。
考古学には先入観念を持つてはいけないといわれますが、きつとあると私は思っています。
ところで、冠帽飾りにも、衣服にも金製歩揺が多数縫い付けられていました。鮮卑族の一族・
慕容氏が好んで着けたという北方文化でした。(中国学者の解釈は前に出しています。)
南北朝時代の燕国はこの慕容氏が建国した国だつたのです。
ここで126号墳の主の姿をみてみましょう。
頭には金の飾り板のついた冠をつけ、らせん状になつた金の髪かざり(写真左)
耳には垂飾付きイヤリング。(写真中)
金製指輪(写真右)
腕には金・銀の腕輪、指には金・銀製指輪をはめるこの人物は、上着には数多くの歩揺と
青いガラス玉を縫い付けて腰には金銅のベルトを締めている。しかも、後の天皇家が持っている
ような玉椀を所有しているのです。
まさに王侯の姿でしょう。しかもこの貴人は中国・燕国と深く関連する出土品に囲まれて126号墳
に葬られていました。
この古墳の五世紀後半という時期は、馮 弘が436年北魏によって追放されて高句麗に逃れ、
さらに438年その地に永住できずに離散した年月に、日本列島に上陸して明日香に暮らした
年月を加えた年代に合致するものでしょう。馮 弘の墓と考えてよいのではないでしょうか。
この古墳の主は王侯の生活を送っていました。
その生活を支えたのは、彼が故国から連れてきた民だつたのです。
鞍部・衣縫い・錦織り・絵画・陶器などの技術者、さらにまた砂鉄による鉄鋼の生産や各種鉱山
の探鉱技術者なども連れて来たに違いない。
五世紀前半では、貴重品であつた鉄板を古墳に入れる風習も急速に廃れました。
鉄の生産が進んだ結果にほかならない。
後の奈良時代初期、埼玉県秩父における和銅発見後に銅山採鉱に従事したのは、継体天王
後裔の多治比真人を長とする渡来技術集団によるものだつたのでした。
そうした歴史の流れはここから始まっていると考えています。
藤ノ木古墳出土品と仏教美術
中国・北朝文化の香りが高い出土品を多量に出土した藤ノ木古墳は、六世紀後半の中ごろ
(575年を前後するころ)設営されました。
上宮家ゆかりの寺院群がある斑鳩の里に存在し、その前面には渡来氏族の居住した額田邑が
あつて、この三者の関係について強い興味をもたれているところです。
そのことはさておき、この古墳からは古代東アジアにおける最高水準の工芸品といわれる馬具
が出土し、人々の注目を集めました。
三組の鞍のうち特異な文様をもつ鞍Aについては、とくに有名で数多くの出版物によつて紹介
されています。
鞍および馬具にパルメツト文様があちらこちらに配置され飾られている。
鞍の把手の支柱には複弁蓮華文座が飾られていること。
パルメツトで飾られた象の図形があることから
「仏教美術との強いかかわりを示している」(勝部明生氏)。
との指摘は十分に納得するところでしょう。
(藤ノ木古墳出土の鞍金具)
鞍金具の亀甲文内には、パルメツト・鳳凰・竜・獅子・象・小禽・鬼面・怪魚(マカラ)・兎・虎などが
透かし彫りされ、中央には躍動感あふれる鬼神が右手に環頭太刀を持ち、左手に鉞(まさかり)を
持つ。背景は火炎で邪を払い、法を守る鉞をかざす姿の金銅板を配していました。
勝部氏はこれらの動物文について次ぎのように述べています。
−【この馬具には、六世紀代の東アジアの中国以外では珍しい動物文が含まれている。
たとえば象、獅子、兎などで日本はもちろんのこと新羅、百済、伽耶でもこれまでにないもので
ある。】−
つまり、中国の古代デザインによるものであるとして、さらに続けて
【これらの動物文は(中国の)図像の特徴から仏教遺跡のものに似ている】
詳細な対比は省略させてもらつたが、要約して語られたのがこれでした。
北魏を中心とする時代の北朝文化に関連する技術や文化が日本に入ってきたのです。
またこの鞍文様からも窺われるように六世紀後半のわが国には、もうすで
に仏教文化が花開いていたのだと考えてよいのではないでしょうか。
山陰・鳥取県国府町の岡益石堂に彫られたパルメツトは
北朝文化の到来を示すとされている。
現在は立ち入り禁止となつてテントで覆われ詳細を知ること
はできないが、北朝文化の通り道としては山陰をあげさせて
頂くのが最も適しているのだろうと思うのです。
(鳥取県国府町、岡益石堂。付近には八角墳・壁画古墳の
梶山古墳がある。)
鞍金具と馮氏の民
藤ノ木古墳の鞍金具について、調査担当者である橿原考古学研究所の前園実知雄氏は
次ぎのように語っています。
「いままでの古墳出土品には見かけないものであった。たとえば象・獅子・兎など。」
「近年、中国遼寧省の朝陽市付近一帯で、相次いで発見される鞍金具のなかに、藤ノ木例と
共通するモチーフをもつ例がみられる」。
それと中国考古学者の意見に「この鞍の形は鮮卑スタイルで、六世紀の中国では使われなく
なっている」。中国の複数の学者が「中国製ではなかろう」という意見であった。
「私も日本製を考えている一人なので意を強くしたことを覚えている」。
(日本の古代遺跡を掘る5「藤ノ木古墳」より)
重要な言葉がいくつも出てきました。
藤ノ木古墳の鞍は、鮮卑族が六世紀以前に用いていたスタイルであること。
近年、遼寧省の朝陽市付近一帯で共通するモチーフをもつた鞍が相次いで発見されていること。
中国製ではなく、日本製の可能性があること。などです。
後燕国は鮮卑族の一氏族・慕容氏の王である慕容垂が再建し、その後397年に、遼寧省朝陽の
竜城に移転した国で、後に漢人馮 跋次いで馮 弘に天王位が引き継がれました。
漢人の燕国を区別して北燕国と呼んだことは、前に書いているのでご存知だと思います。
その朝陽市ですよ。
そうです。 北魏の圧迫を受けた馮 弘は竜城の民を引き連れて、高句麗を頼って故郷の竜城を
捨てたのは、436年のことだつたのです。
438年には高句麗に居住することも出来ずに、離散しました。
一方、日本書紀は雄略紀に鞍部や錦織などの新漢人たちが来朝したことを記しています。
藤ノ木古墳の鞍金具が日本製ならば、鞍部らの手になったと考えるのは当然でしょう。
鞍部たちの祖は堅貴(けんくい)で、雄略紀に来朝した際に、仏舎利や仏像・仏図・経典などを
もつて渡来して来たと思われます。
達止の代には、扶桑略紀に「継体16年、鞍部司馬達止が高市郡坂田原に草堂を結び、
本尊を安置して帰依礼拝した。皆は、これを「大唐神」といつたという。」とありました。
達止の子・多須奈は用明紀に仏像と寺を作り出家しましたし、孫の鳥は最初の本格的な寺院
である法興寺の丈六の仏像製作にあたつたという。
土地は飛鳥の衣縫いの提供した真神原で、初の僧・尼僧も新漢人から出したのです。
藤ノ木古墳の鞍金具が仏教美術の粋を極めるのも、竜城の民の後裔たちが仏教に帰依し、
東方仏教浄土建設のために仏教の資料を持参したからでしょう。
出土馬具が六世紀以前のスタイルであつたのは、五世紀中ころに馮 弘に引き連れられて
来日したからであり、鞍部を始めとする新漢人は馮氏の民と考えられるのではありませんか。
彼らの故郷は遼寧省の朝陽市でしょう。
日本書紀には、日鷹吉士が新漢人たちを「百済から引率して来た」と書きました。これは嘘です。
新漢人たちは高句麗を経由して日本列島に来た人々で、馮 弘に率いられ出雲に到着した
のです。
本書をお読みいただくとなぜ出雲かということが、だんだんと分かってきます。それと同時に
書紀がなぜ嘘を書いたのかも分かるのでしょう。
理由は、仏教の伝来時期です。仏教が到来したために日本国内で豪族同士の戦いが起こった
ことや、隠したいことが多かったのでした。
馮 弘の叔父馮素弗の冠帽飾りには金の板に仏像が打ち出されています。
そうです。仏教は、この一団が日本列島に持ちこんだのでした。
渡来して来た五世紀中ごろから日本仏教の芽が息吹いたのです。
この国の王号に仏教守護者を表す天王号がやってきた。
それまであつた倭国の大王号に取って代わるようになるまではもう少し時間が必要ですが、
確実に仏教は定着していきました。
そのための激動は、書紀には書くことができません。そればかりか史実をゆがめ、
神話を作り神武紀と合体しました。
後世の出来事なのに一番先頭に配置して倭国の国号を抹殺し、遥か昔から日本国が存在する
ように装いました。
そして偽りの書と後世に言われるようになります。
それほど、出雲と新漢人を分離しておきたかつたのです。
また、馮 弘とその民を一つの集団とすることなく分離して、別々にしておきたかつたのでした。
続く。
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