第4章 虚像の時代・ スサノオと五十猛命

 信仰としての神々と歴史の中の神々とは違うものでなければなりません。江戸時代中期の
学者 新井白石は紀記の神話に現れる神々の行動について、「神は人なり」と看破しています。

神話に登場してくる神々は「だれかの偉大な人間の行動」がモデルになつているといいました。
残念ながらその後、真理を探求することが難しい時代に「神々のことはそっとしておこう。」という

雰囲気が醸し出されたと思います。でも真実の歴史を探るには神話の中にこそメスを入れなけれ
ばならない。ここを避けているから列島の歴史は謎のままなのでした。

紀記神話のの大きな部分を占める出雲神話は、渡来人のスサノオとその息子たちが渡来後、
どう行動したかという歴史の話です。

スサノオと五十猛命は渡来人、大国主神は渡来人スサノオが列島に来て妻を娶り、生んだ渡来
人の子でした。息子の大国主を国つ神として、列島にあたかも土着していたかのように書くのは
おかしいことでしょう。

ここではスサノオが自国(海原)と高天原の二箇所を追われる点をおなじく二度追放される北燕国
天王馮 弘と対象してみようと思います。

いいたいのは、スサノオのモデルは馮 弘ではないかということ。同じくスサノオが連れてこられ
た息子の五十猛命のモデルは、弘がお連れになつた息子の馮王仁だと思うのでした。

スサノオ(2度追放された貴人)は馮 弘がモデル。

 前2章で、馮氏親子が自らの民を連れ、流浪の生活を送った実像を書きました。
この方を「モデル」として書いたのが出雲神話のスサノオではないかと考えます。

スサノオは本名ではなくて、「須佐の男」という「あざな」のようなもの、本名を語ることはまずない
という古代中国の風習に従っているのか。本当の名前はなんだつたのでしょうか。

もし、ここで疑問に思う方がいられるなら、もう少し範囲を広げてスサノオが渡来後、出雲で
もうけた大国主神が「この国を平定した」ことを思い浮かべてください。
大国主はスサノオの息子です。

同じように、馮 弘が来日して約五十数年後の六世紀初頭に御年五十余歳で楠葉宮で即位する
継体天王が「この国を平定する」史実を合わせて考えましょう。

スサノオには別に外国からお連れになった息子がいました。その方のお名を五十猛命と申し上げ
ます。木の種子を筑紫(九州)から蒔き、この国を青山に変えたという。

有功(いさおし)の神と称えられました。その行為こそ仏教の布教に努める姿である。と考えます。
この方のモデルは?

ここでは神話の中に書かれている虚像を、実際に列島に渡来してこられた実像と対比して古代の
様相に迫ってみたいと思います。

古事記や日本書紀には出雲神話があつて、大きなスペースを占めているだけでなく神武朝四代
の姻族として歴史と接続されていました。

日本列島の歴史の中で出雲の占める割合は大きく、出雲を語らずして歴史を語ることができない
のでしょう。それだけ大きな出来事が山陰の出雲を基盤として日本列島全土に広がったということ
なのでした。

紀・記のスサノオ
出雲族(スサノオを長とする渡来系氏族の総称)の始祖について、いろいろな説話が語られてい
ました。シンプルな形に直してみようと、説話毎に番号をつけてみました。

@ 最初は、自国からの追放
スサノオが第1番目に追放されたのは生まれ育った国からの追放でした。そのわけについて、
紀記は次ぎのように書いています。

「亡くなった母を慕って、スサノオは大人になつても泣き喚いた。そこで父のイザナキの神は
スサノオに向かってその訳をお聞きになられた。」

−【何故、お前はわたしが命じた海原の国を治めずに泣いてばかりいるのた?】−
スサノオは答えて次ぎのように申し上げました。

−【母のいらつしゃる根の国に行きたいと思い泣いています。】−
大変お怒りなられた父神は、
−【それならお前はこの国に住んではならない。】−
とスサノオが生まれ育つた国から追放されてしまつた。これが最初の亡命なのです。

A 高天原でのスサノオ
スサノオは高天原の姉に会ってから根の国に行こうと思い天に昇られた。

紀記では、スサノオは天照大神の弟としており、スサノオが天照大神に逢いに高天原へ来る
様子を次のように書き記しています。

−【はじめ、スサノオが天に昇られるときに、その影響で大海原はとどろき荒れ狂い、山も丘も
ために鳴り吼えた。これはこの神の性質が雄健だからである。

天照大神はもちろんその神があらあらしいことを知っておられてが、スサノオが天に参上する
様子をおききになつて、たいそうびつくりされて、

「弟がやつて来るのは善意ではないにちがいない。きつと国を奪おうとする意志があるのだろう。」
と戦いの準備をされた。】−

神々が待ち構える中、スサノオはおいでになり、面談して
−【私はこの国を奪うことはしないと誓約した】−のでした。

B 2番目の追放 高天原からの追放
【スサノオは高天原で数々の罪を犯した。】と紀記はいつている。

「田の畔を壊したり、灌漑用の溝を埋めたりした。また神聖な機織(はたおり)の家で、神にお供え
する衣服を機織女に織らしていた時に、スサノオは家の屋根に穴をあけ斑の馬の皮を剥ぎ取って
、その穴から落し入れた。」

スサノオはここで上のような悪しき行いを数多くしたという。
「そこで高天原の大勢の神はともに相談をして、犯した罪をたくさんの品物で贖い(あがない・賠償)
させ、スサノオを高天原から追放してしまつた。」
これが二度目の亡命なのです。そして降り立つたのは、出雲国なのでした。

 紀記神話の誤り、書き順の間違い
 高天原の国では、田の畔だとか灌漑用の溝などのことばがあつて、米作りが行われていたし、
馬も飼われていたらしい。こういつた言葉は、神々の実在年代を考えるヒントになるものですから、

時間があるときにゆつくりと考えることにしましょう。
ここでは紀記に書かれている説話を順番どおりに、(不必要な天の岩戸説話を取り除いて)番号を
つけてみました。

@ABの順番をつけてみると面白いことが分かってきます。
スサノオは自分が治める海原の国から亡命して高天原へ行き、そこも追放されて出雲の国へ
亡命してきた。というのが大筋でした。

本来は@⇒Bへ続く話の中にAの説話が挿入されているのです。@とBの場面に天照大神は
でてきません。
弟を追放するという重要な決定を下すのに最高神の天照大神が出てこないのはおかしいことです。

いや、いなかつたに違いない。つまりこの部分は海外での部分、
Aが天照大神のいるわが国での出来事と解釈できませんか。いまできなくてもすぐ後で、
「ああそうか」と思うはずです。

江戸時代中期の学者・新井白石の時代から高天原は、高句麗(多珂)を示すものという考えが
根強くあります。もちろん海原の国は国内ではありません。

紀・記は間違った書き方をしている。書き順@ABではあり得ない。わざと間違えたのだと思い
ます。

 ほんとうの書き順はこうだ。

母を慕って泣くような気のやさしいスサノオが、Aでは突如として荒々しい性質に変質している
のはどうしてなのでしょう。

なによりもスサノオが熊野神社(ご本家・出雲)の午王誓紙護符の神とされ、約束事の神である
のは日本列島なのです。彼自身は、この誓約をきつちりと守りました。

そうすると、スサノオが誓約をして「この国を奪うようなことはしない」とした話は彼が列島に渡来
してから、さらに出雲から大和に上り、ときの倭国大王に逢って誓約する話ではないでしょうか。

誓いを守っている人物を追放はしないでしよう。
そんなことを考えると、神話のほんとうの順番は@⇒A⇒Bでなくて、@⇒B⇒Aの順だと思う
のです。

@⇒自国からの追放。B⇒高天原からの追放。A⇒出雲に上陸後、誓約。
「自国を追放されたスサノオは、高天原に行き、そこで二度目の追放を受けて、出雲に亡命して
来た。

そして大和で天照大神とあつて、誓いを交わす」これが出雲神話の書き出しでなくてはなりません。
ここに出てくる天照大神とは、実体は五世紀の倭の大王でしょうし、

この場面の高天原Aは、B(高句麗)と違つて場所は大和だつたのです。
 スサノオは出雲で大蛇を退治しました。このとき、大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣
(あめのむらくものつるぎ)は「私物にしてはならない」と天神(天照大神)に献上したという。

「この剣が草薙剣で、列島にあつたとされる。」ということは、天神(天照大神)は大和にいたとしか
いいようがないではありませんか。スサノオは天叢雲剣を大和の大王に献上したのです。

 自国から他国に行き、そこも安住の地とならなかつた。そこで列島の出雲に渡来して来たという
貴人は、そんなに何人もいるはずありません。

だから、スサノオのモデルとなつたのは、五世紀中頃に来朝の北燕国天王馮 弘だと思うのです。
参考までにスサノオを列島で約束亊の守護神とされている熊野三山の護符とそこに印刷されて
いる三本足の烏について見ておきましょう。

 三本足の烏については、高句麗とも関係があって、後であっと驚くような面白い話になつていく
かも知れません。これらは出雲と深い繋がりあるのです。

※ 参考 約束を守ったスサノオの神社
紀記によりスサノオは約束事の守護神といわれ、熊野三山から頒布される「熊野牛王宝印」の
護符は極めて神聖視され、約束事を書く用紙にも用いられたほどでした。
牛王というのはスサノオの別名ウシ王又は牛頭天王からきています。熊野三山とは次のとおり。
 熊野本宮大社(和歌山県東牟婁郡本宮町)
島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野神社を勧誘したもので、祭神はスサノオの別名だと
いわれる家津御子神(けつみこのかみ)。
 熊野那智神社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
主祭神は熊野夫須美大神で、家津御子神・熊野速玉神を配祀する。
夫須美神はスサノオの御子熊野久須日命という説があり、また大滝である那智滝を御神体としている。
 熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)
祭神は列島創造の神イザナギ・イザナミ命の御子といわれる熊野速玉大神。
 熊野三山のの神使は八咫烏ですが、熊野三山は出雲国意宇郡の名神大社熊野大社
(現島根県八束郡八雲村熊野)を勧誘し、出雲の祖神スサノオを祭ります。

同じく出雲国美保関にある美保神社の青柴垣神事には、漆盤に描がかれた三本足の八咫烏
を祭具として使用するといいます。

風土記のスサノオ
 熊野牛王宝印の項にも出てきました。スサノオはウシ王という別名を持つています。実は継体
天王のお父上の御名もウシ王(上宮記)なのでした。
書紀は彦牛王としています。彦は男という意味ですからオウシなのでしょう。

ウシ王だから仏教守護者・牛頭天王に擬される話が多い中、次ぎの話は武塔天神になつている。
スサノオが仏教と結びついているのがお分かりでしょう。

 備後国風土記逸文(転記されて残された文章)に記されている備後国・疫隈国社(えのくまくに
しゃ・広島県芦品郡新市町・素盞鳴神社・境内末社)の縁起につぎのような話があります。

−【昔、武塔天神が北海より南にお出でになったときに、日暮れて一夜の宿を求めたところ、
金持ちの巨旦(こたん)将来には断られてしまった。つぎに貧乏な蘇民将来の家を訪れると、

蘇民は快く宿を提供し粟飯を炊いてすすめ、もてなしたという。のちに武塔天神は八柱の子を引き
連れて蘇民の家を訪れ、「我は速須佐雄神である。疫病が流行したら、蘇民将来の子孫といい、

茅の輪を腰の上につけよ。そのようにすれば厄災から逸れるであろう」と言ったという。
(それ以後疫病除けに茅の輪を戸口に掲げたり、門口に「蘇民将来子孫の家」と墨書して呪い
(まじない)とした。) 】−

この話は神話?それとも仏話?
 武塔天神というのは、インド仏教・祇園精舎の護り神となつた牛頭天王の父・武塔天王の名と
とれますが、「子の八王子を引き連れて」とあるから牛頭天王なのでしょう。

このため、この縁起は牛頭天王(スサノオ)を祭神としている八坂神社(祇園社・天王社・
本源京都市祇園町)にも執り入れられています。
ところで、この説話を神話だという人がいるし、仏話だという人もいる。

武塔天神だとか八王子の名は、仏教用語ですから仏話でなくてはなりませんが、スサノオの名が
出てきたら神話なのでしょう。
みなさんはどちらと考えますか。  実はどちらも正解だと思います。

つまり、日本神話の中でスサノオが出雲に現れる時代は、仏教伝来の時期だと感じているから
です。そしてスサノオは仏教に関係する人物ということが出来るのではありませんか。

そうでなくては牛頭天王になるわけがないからです。もしかしたら深く仏教を信仰していた人の
ように感じます。

そして出雲の神代というのは、縄文時代や弥生時代の列島固有の神さまのいらつしゃつた時代
と比較すると、より新しい時期と考えられるのでした。

 この話の最初には武塔天神が現れて、後に自分はスサノオであると名乗っています。
武塔天神はインド須弥山(しゅみせん)山腹豊饒国の王・武塔天王か、またはその太子・牛頭天王で、
彼が波利采女(はりさめ)を妻として産んだ八王子をお連れになつたのでしょう。

釈迦誕生以前のインド古代宗教の守護神が、はるかに遠い日本列島にひょいと現れることに
不自然さを感じます。列島の人々が牛頭天王のお姿や名前を存知あげることはないでしょう。

それに引き換えスサノオは「うわさ」になつていたのでは……そうすると本当はこんな話ではない
でしょうか。
−「最初にスサノオが現れる。そして自分はウシ王である。と名乗る」−
人々から須佐の男(スサノオ)と呼ばれていたこの男の名は、実名ではありません。

だが、自分から名乗る時は実名を言うに決まっています。
「自分はウシ王である。」と名乗った言葉のウシ王が牛頭天王になり、さらに武塔天神に変化した
と考えるとすつきりします。

ところでスサノオ一族は牛頭天王や大国天また金毘羅大権現などの仏教守護神に
垂迹(すいじゃく・変身すること)し、仏教界から厚遇されていますが、こんな待遇を受けている
氏族は日本中で他にいません。なぜでしょう。

スサノオ一族とは、実は馮氏一族のことでこの国に仏教をもたらし、その布教に尽力した恩人
だからではないでしょうか。

蘇民将来は姓名なのか?
 蘇民将来の子孫は茅の輪を腰につけ災厄を逸がれたという。

須佐神社(島根県簸川郡佐田町)では、現在でも二月節分日に蘇民将来の古事にならつて
参拝者に悪病退散厄除けの小さな「茅の輪」を各人に授けています。これは例外。

一般的に、この縁起にもとづく神事を行う神社は境内にしつらえた大きな茅の輪の中を参拝者が
潜つて厄除けを行うのが例です。ほかに「蘇民将来子孫の家」とした寺社のお札を頂いて、
家の戸口に貼る習慣をもつ地域があります。

茅の輪を腰に着けたり、門口に「子孫の家」を墨書することは、簡単に言えば人物や家屋を
識別することなのでしょう。

識別する必要があつたからこんな縁起話が発生したのだろうと思うと、識別される家は一軒だけ
とは限らないのです。蘇民将来は多数いたと考えたい、それは馮氏の民でなかつたのか。
神様も大勢の民を、それぞれに覚えて置くことはできなかつたのでした。

 縁起話の中では巨旦と蘇民は兄弟で、「将来」が姓であるように書いていました。
名が前で姓が後ろにつくのは、東北アジアの民族のなかにはいないでしょう。朝鮮半島や中国
など漢字文化圏では、人名は姓・名の順に書きます。だから蘇民将来を人名でないとする説も

有力視しなければなりません。「将来」は「渡海して来た」なのでしょう。蘇民は「民が蘇る」か
「蘇った民」ととれるし、読みどおりに「ソの民まさに来る」なのかもしれません。
蘇民将来説話が渡来文化であることは確かなことなのです。

スサノオは新羅国・曽尸茂梨(ソシモリ)にいた。
 日本書紀の一書にはつぎのように伝えています。
−【スサノオの行状は乱暴をきわめた。そこで神々は高天原から追放された。スサノオはその
子の五十猛神(いたけるのかみ)をひきいて新羅国に天降られて曽尸茂梨というところにおられた。

そして「おれはこの地にはいたくない」とおつしゃつて、埴土(はに・つち)で舟を作り、その舟に
乗って東へ航海され出雲国の簸の川上にある鳥上峯(とりかみのたけ)に到着された。】−

 ソシモリは場所を示すというのが、一般的な考え方で江原道春川市の牛頭山をそれにあてると
いう説があります。韓国の学者は場所ではないといつている。

牛頭山というのは「ソシモリサン」「ソモリサン」でなくてはならない。文法上「サン」を抜いては、
特定できません。 例えば富士山を指す場合、「フジ」と言ってしまったら、藤の花か富士川か
または会社の名称か分からないではありませんか。

固有名詞をはつきりと理解させるには、「フジサン」「ふじのやま」といわなければならないのです。
書紀がソシモリというのは、山ではないのかも知れません。
山ならそのように書きますから。

さらに、春川市のような半島の中心では、舟に乗るのにも困ります。出雲に渡るため舟に乗るには、
半島の東岸にいて、東に航海しなくてはなりません。

太白山脈の東側の地域は北の古新羅(東沃沮・穢・辰韓の国で構成された国・隋書)の領域で
昔から南の倭勢力と高句麗が覇権をめぐって激しく争っていた場所でした。

高天原からこの地に移動してきたスサノオに対して、この国の人はあまり親切でなかったのかも
しれません。
戦争続きで荒廃していた土地にも嫌気したのか「おれはこの地にいたくない」と出雲に向かった
のでした。

ソシモリが場所の名であるかどうかは、まだはつきりしません。
前項で蘇民の話をしましたが、ソシモリがそれと関係があるのでは…。

「ソシ」は蘇氏、「モリ」は頭領という韓語ですから、ソシモリは「蘇氏の頭領(長)」と訳すことができ
ます。蘇民に対し、蘇の氏族の長(王)というのは、スサノオが氏族と民をつれて出雲に来朝した
ことを示すような気がするのです。

出雲上陸後、彼の民はばらばらに居住させられました。
しかし、スサノオの民であることを常に誇り、お互いに識別しあつたのではないだろうか。
後世になつて、この識別の札が災厄除けの札と変化するのだろう。

蘇は牛だという人もいる。スサノオはウシ王すなわち牛族の長であつたから、蘇=牛と考えると
分かりやすいです。
ちなみに現代の朝鮮半島人名にも蘇を姓とする蘇氏の方が、いられることをお知らせしておきます。

副題を大国主神=継体天王説入門としたのは、知識が入門程度という意味で、さらに知識の有る
方に中級編・奥義編を書いていただきたい。その中ではソシモリの解釈ももつとはつきりしたもの
になるのではないですか。

五十猛神(イタケル・有功(いさおし)の神)
 スサノオガ高天原から追放された時、ご一緒にお連れした子息が、五十猛神です。

別名大屋毘古神(大は尊称・弥彦神)とも申し上げるのですが、古事記がその業績を書いていない
のに対して、書紀の一書には「いさおしの神」と高く評価していました。

そのわけは次ぎのようなものです。
−【はじめ五十猛神が天降られたとき、多くの樹の種子をもつて下られた。
しかし韓の地にはうえないで、全部もつて帰られた。そして筑紫からはじめて、大八州国全体に
まきふやしていつて、とうとう国全体を青山にされてしまつた。

だから五十猛命を有功の神というのである。これが紀伊国に鎮座しておられる大神である。】−
この文章の中でイタケルは、命(みこと)から上位の神に昇格していることが分かりました。

なぜ紀伊国に鎮座しているのかについては一切説明がない。
説明できないことがあるという解釈をしておき、後で驚きの結果を伝えることにします。

書紀の高天原はお釈迦さまのいらつしゃる仏教の兜率天(極楽)をモデルに僧侶の考え出した
世界だといわれますが、編纂に当たった僧侶たちにとつてイタケルの業績は高く評価されたの
でした。なぜでしょう?

 日本列島は照葉樹林帯に属し太陽の温かさと雨量に恵まれて、太古の昔から樹木がありました。
地球は何千年規模で温暖期・寒冷期を繰り返して、その温暖期の紀元前五千年ころには青森県

三内丸山遺跡で栗の樹木の栽培がおなわれていたという。縄文時代には人々は狩をして、
山野に住む鳥・鹿や猪の捕食をしていました。狩の道具・矢じりの石鏃は遺跡から多く出土します。
動物の住処となる森林はイタケルの来朝以前から、存在していたのでした。

「スサノオが高天原の田の畔を壊したり、灌漑用の溝を埋めたりした。」と書かれているので、
イタケルも米作りが始まった以降の神であることは明らかではありませんか。

 ではこの蒔かれた種子はなんでしょうか。
書紀の編纂に当たった僧がこの神を強く賞賛したのは、種子を播き広げたことでした。

この種子こそ、仏教の「種子」だろうと思います。筑紫から始めて全国に種子をまかれたのは、
仏教の布教に行脚されたことを意味するのでしょう。「筑紫から」とありますから、まず最初に九州、

それも倭国大豪族大伴氏の根拠地である九州西部の地に布教の種子をまかれたのではないか
と推測するのです。
のちほど、裏づけとして銅鋺(どうわん)出土地をたずねてみることにしましょう。
なお巻末付録として銅鋺出土地一覧表をつけているので活用してください。
      


        種子:いろいろな仏さまを一語の梵字で表現する仏教用語

スサノオ一族の貢献
 書紀・別の一書にはつぎのようにも伝えていました。
−【スサノオは「韓国の島には、金銀が満ちている。だからわが子の治める国からそこに渡ろう
にも、舟がなくては渡ることができまい」といわれて、お顔のひげを抜いてまかれた。
すると杉になった。また胸の毛を抜かれてまかれた。これが檜になった。     −中略−

そしてつぎようにいわれた。
「杉とくすのきは舟を作る材料とせよ。檜は瑞宮(みつのみや・美しい宮)を作る材料にせよ。
槙は墓所の棺を作る材料にせよ。また食料としての木の実をたくさんまき植えよ」と。

このスサノオの御子神を五十猛命と申し上げる。この神の妹には大屋津姫命、つぎに抓津姫命
(つまつひめ)がある。この三はしらの神もまた樹木の種子をまかれた。
そこで紀伊国にわたし奉つた。】と。

前段はスサノオが身を削って、樹木を育成されるさまが書かれていました。
本来は下段のように「樹木の種子」をまかれたとしていたのでしょうが、神様らしく、ひげとか胸の毛
とか神秘性をもたしたものです。

この種子が仏教でいう「種子」であることは前項でも指摘したところでした。
スサノオ一族は挙げて、仏教布教に貢献したのです。

でも列島には固有神の宗教があり、この宗教を堅持しょうとする豪族たちの勢力は非常につよい
ものがありました。

スサノオ一族は苦労をしたのでしょう。のちに仏教界から恩人とされ、寺院の守護神として
この一族は待遇されます。
スサノオや大国主また五十猛命を祭神とする神社は、列島の北から南の端まで存在する、
その理由のひとつが寺院の守護社祭神なのです。

 この一書のなかに、重大なヒントが入っていました。「わが子が治める国」という言葉です。
わが子というのは大国主を指すのでしょう。

大国主は八十神を打ち払つてこの国を平定し、出雲から大和に上って王位を引き継ぎ、国を
治められた方で天皇位に就かれた方なのでした。
そのことがここに「わが子が治める国」として表示されています。

大国主はスサノオのご子息でした。紀記には大国主はスサノオの五世孫とか六世孫などと書い
ていますが、系譜を古くみせかけるためのごまかしの言葉なのです。
わが子が天王位についたのでした。このことは大国主の章でもつと詳しくお話しましょう。

さて、スサノオはおつしゃいました。「〜舟を作る材料とせよ。〜瑞宮(みつのみや・美しい宮)を作る
材料とせよ。木の実をたくさんまき植えよ。」と。

だれに向かって言っているのでしょう。スサノオの一族はもちろんのこと他にも命令を受ける民が
いたのです。スサノオは彼の民を率いてきたのでした。
それらの人々が、スサノオさんの命を受けて種子をまくことに努めたのです。
           この国を青山とするために。

五十猛命のモデルは元北燕国皇太子 馮王仁
 五十猛命が種子をまきはじめたのは、筑紫すなわち九州からでした。
だから彼は出雲から九州へ移動していたと考えられます。自発的ではなく、倭国の大豪族

大伴氏への人質として連れてこられたのかもしれませんが、その後現地で仏教の布教に成功し、
大伴氏の仏教帰依に大きく貢献しました。まさに有功の神であつたのです。

日本列島が仏教国になる最初のきっかけ大豪族大伴氏が仏教に帰依したことだつた。
仏教に帰依した豪族と古来の神を尊崇する豪族の間に戦いが起きるのは、五世紀末。

宗教戦争を制する大きな原動力になつたのは、この大伴氏の仏教帰依です。後に詳しく説明します。
神話の五十猛命を歴史上の実像に当てはめると、馮 弘が高句麗の地を退去したときに一諸に

出雲にお連れした元の北燕国皇太子馮王仁だろうと思います。
馮王仁の名前は高句麗本紀長寿王の二十六年条(438年)に出ています。

−【王は使者を遣わし、竜城王の馮君は、野宿することになって、さぞ兵馬も苦労なさつている
ことでしょう。といつて慰めた。(中略)… 

弘はわが国をあなどり、その政治・刑罰・報償などは燕国のままであつた。
そこで王は彼の近侍を奪い、彼の太子の王仁を人質とした。
弘はこのことを怨み、使者を宗に派遣して迎えを求めた。】−(三国史記)

二十六年条がどれくらい正確な情報を伝えているかは分からない。
出雲神話では高天原を退去するときには、スサノオが息子の五十猛命を連れて出雲に下ったと

書いているので、この五十猛命が王仁であると思います。出雲に渡来してから倭国の軍によつて
河内に連行された民とは別に九州の地に人質となつていたのでしょう。
環境にめげず宗教の種子を少しずつ蒔き散らしていきます。

もちろん、馮王仁だけが布教に当たったのではなく、馮 弘一族と彼の民たちが迫害を受けながらも
、釈迦の教えを説く努力を惜しまなかったのでした。

五世紀後半のこうした努力はすこしづつ報われ、おおよそ50年の長い時間をかけて倭国豪族の
中に徐々に帰依者が増やして行きました。
こうして、仏教に帰依していつた倭国の豪族は大伴氏・蘇我氏・物部氏など六世紀に存在した豪族
です。五世紀末に消えていった豪族は仏教を排斥し、布教に抵抗した人たちなのでした。
                                       続く。