第5章 日本列島の「仏教の広がり」

前章の仏教帰依者の中に物部氏の名があることに違和感を覚えた方もいるだろうと思います。
「物部氏は仏教布教に反対していたのではないか。」

いいえ近年、高句麗様式の素弁蓮華文瓦を出土する渋川廃寺の調査によると、物部氏の寺の
可能性が高く、書紀の記述に疑問符が付けられたようになりました。

そればかりでなく、書紀六世紀代の仏教記事はいずれも古い時代の出来事を、仏教公伝とされ
る「書紀欽明紀十三年条の百済から釈迦仏伝来」以後に移し変えたのではないかという推測が
されるのです。

少なくとも五世紀末の継体天王擁立時に、物部氏は蘇我氏や大伴氏とともに継体側に参加し、
葛城氏・紀氏・吉備上道氏・下道氏・筑紫君などと倭国豪族を二分する戦いを、列島各地で繰り
広げたのでした。
これは列島の宗教戦争なのです。物部氏は仏教に帰依していたのでした。

仏教史を書いた田村圓澄氏は、五世紀後半での仏教伝来を肯定して「私伝として仏教が伝来
した」とする。「百済から入ってきたのではないか」というのは、紀の「日鷹吉士が引率した鞍部ら
新漢人」記事に準拠した考えでしょう。

いずれにせよ、仏教の伝来時期が以前考えられていた時期よりはるかに遡るという史実が認め
られてきているのです。
この章では、紀・記の仏教関連記事が信用できないことを取り上げ、なぜそんな操作をしなくては
ならなかつたか、問題点に迫ります。

列島に出土する銅鋺
 銅鋺は仏様や僧侶に奉仕する斎(とき)の道具として使用され、最初は輸入されたと思われま
すが、後には鋺師公(まりしのきみ・高句麗系渡来氏族)らの手によって国産化されていきました。

この銅鋺の出土と年代は、列島の中で仏教がどのように浸透していつたのかを知る手がかりに
なるでしょう。巻末に付録として古代銅鋺類所在地一覧表をつけました。

この中、番号73 熊本県不知火町・国越古墳は直弧文装飾石棺に高台銅鋺が共伴し、同様に
番号72佐賀県唐津市島田塚古墳では眉庇付き冑に高台銅鋺が伴ないます。

いずれも調査者によつて6世紀前半の年代がつけられていました。
 装飾石棺は4世紀後半の大阪府柏原市・安福寺石棺を最初として、主として九州および福井県
にまとまりがありました。

5世紀代に盛行し、一部6世紀にも存在する中で国越古墳は、直弧文が装飾されている石棺の
出土年代としては、最後尾に位置します。同時に出土した須恵器は陶邑編年U形式1〜2とされ
るので、6世紀前葉といつてよいのでしょう。

装飾石棺や装飾石障(石のついたて)は石室に絵を描く壁画よりも前出するといいますから、
同じく6世紀前半とされる壁画古墳のチプサン古墳よりは一段古い時代の古墳であることは確か
なことです。

この古墳に眠る人物が、仏教崇拝者だつたことは銅鋺の存在から推測できますし、恐らく生前
から仏前へ捧げる道具として愛用していた品に違いありません。

あるいは故人の父から譲り受けた伝世品かも分からない。いずれにしても、この古墳に眠る故人
が愛用していたのは、5世紀後半代になるのでしょう。生前に仏教に帰依し、その後亡くなったと
思われるからです。

これは、新しい宗教が九州から他の地域に波及していつたという証拠となるものです。
 島田塚古墳は前述したように、眉庇付き冑と銅鋺が供伴しました。5世紀倭国豪族の儀礼用
であるこの冑は、列島と半島南部から出土しています。

畿内王者の金銅製冑を頂点に、四方白(飾りの一種)冑(長野県妙前大塚古墳など)豪族の地位
と位に応じて倭国大和政権から下賜されたものといわれ、列島の各地から発掘されました。

この冑を出土する古墳は、湯山6号墳(鳥取県)の5世紀前半、西小山古墳(大阪府泉南)金銅
装冑の5世紀前半〜中出土を始めとして5世紀後半〜末に出土が集中します。
二本松古墳(福井県)の眉庇冑が6世紀初にかかるか?という中で、島田塚古墳出土品の
6世紀前半という年代はこれまた最後尾であろうと思われます。

でも、面白いでしょう。倭国はこの時代、すでに崩壊していましたから、倭国の儀礼用冑は不必要
だつたでしょうに、それを捨てずに持つていたのでしょうか。

その冑と銅鋺が一諸に出土したお陰で旧倭国豪族が仏教に帰依していたことが分るのでしょう。
島田塚古墳の主も、生前に帰依していたものと思われますから、6世紀初頭ころまでにはこの地に
布教の波があつたものでなくてはなりません。

初期の銅鋺の分布がいずれも九州で、それも生前を考えると5世紀後半代に遡ることは書紀の
記載と大きく異なります。

銅鋺の出土年代をさらに後の時代まで見てみると、6世紀前半〜中期の宮山古墳(三重県南勢
町)や6世紀後半では、殿塚古墳(千葉県横芝町)、丸山古墳(千葉県木更津市)将軍山古墳

(埼玉県行田市)など関東を中心に多くの古墳から出土してきますし、7世紀にはいると東山1号
墳(兵庫県和田山町)、黒本谷古墳(鳥取県智頭町)のような中国山地の奥深い土地の古墳にも、
銅鋺の出土があるのです。

この銅鋺をみると、九州から畿内にさらに関東に段階的に波及したようにみえますが、新漢人の
居住場所が畿内にあるのですから、時期の差はあつても九州と畿内は同じように布教拠点に
なつたのでしょう。

そうした拠点からから徐々に仏教は人々の中に広がっていき、6世紀前期から6世紀中にかけて
その波が加速的に浸透していつたのだと思われます。
 
 畿内では7世紀初頭から、銅鋺を摸した須恵器が出現してきますし、銅の輝きを真似て磨きを
掛ける土器、(暗文土器)が生産されるようになりました。
これは仏教の大衆化が進む現象なのではありませんか。

 また仏教葬儀としての火葬は、窯塚(火葬古墳)として:現在し、その分布は大阪府堺市、和泉市、
茨木市、滋賀県蒲生市、兵庫県小野木、香川県、岐阜県、静岡県西部にあります。

「窯塚は、6世紀後半から7世紀初頭に形成されており、文献上にあらわれる僧道昭の文武4年
(700)の火葬例以前に、火葬が採用されていたことが確実になった。」(森浩一1959)古墳辞典より)

こうした考古資料を見ると、書紀の記事よりも早い段階で、仏教信仰が大衆段階にまで広がった
のではないかと思われるのです。

書紀廃仏記事のからくり
 前項では銅鋺の分布と年代をみてきした。この年代は日本書紀の仏教に関係する記事と大きく
違っています。

これが本書の大きなテーマである「列島の宗教戦争」を隠すためであることは前にも述べていま
した。すこし、細かくみてみることにしましょう。

 仏教伝来が記載されていた書紀欽明紀は慣例の大歳(即位の年)記入がなく、また即位年齢・
崩御年齢が判明しない特異な天王紀です。

書記即位前紀十二月条には「天皇の位におつきになった。時に御年若干。」(欽明即位元年)
欽明三十二年夏四月条には「天皇は大殿におかくれになつた。御年若干。」と。

書かなかったのではなく、書けなかった事情があつたのでしょう。
したがって欽明紀は何年から始まり、何年に終わったか分からず、年代が信用できません。

いろいろと後で話はでてくるでしょうが、ここは仏教関係だけをとりあげて、どのように記事が作り
上げられているかをお話します。

−【欽明十三年(552年?)冬十月、百済聖明王は金銅釈迦仏一体、幡蓋(はたきぬがさ)若干、
経論若干巻をたてまつつた。−中略−

このとき天皇は「礼拝すべきか否か」と群臣におたずねになつた。
 蘇我大臣稲目は、「外国の諸国がみな礼拝しております。日本だけがそれに背くべきではあり
ますまい」と申し上げた。

 物部大連尾輿と中臣連鎌子とは、ともに、
「わが国家を統治される王は、つねに、天地の神々を春夏秋冬にお祭りになつています。
今それを改めて蕃神(仏)を礼拝されるならば、恐らくは国神の怒りをうけることでしょう。」と申し
上げた。

そこで天皇は礼拝を願っている稲目に授けて試みに礼拝させることにした。
稲目は向原の家を喜捨して寺とし、一心に悟りのための修行をした。
ところがその後、疫病が起こり人民がつぎつぎに死んだ。

物部大連尾輿と中臣連鎌子が
「あのとき、私どもの方策をおとりあげななかつたから、このような病死がおこつたのです。
いまならまだ遅くない。もとにもどしたらきつとよいことがありましょう。早く仏を投げ捨てて、後の
幸福を求めるべきです。」と申し上げた。

天皇が「申し出のとおりにせよ」といわれたので、官人らは仏像を難波の堀江に流し棄て、また
火を伽藍につけ焼きつくした。】−

万世一系の天皇像をを求めるために
 仏法が列島に渡来して、倭国豪族の反対もなく皆が信仰を受け入れたのではないことは分って
いました。しかし倭国から日本国に変わった事情はなんとしても隠すことが必要でした。

新漢人たちが五世紀後半から末にかけて仏教の布教を行い、豪族たちを仏教に帰依していき、
ついには豪族同士の争い、すなわち異国の宗教に反対する豪族と宗教戦争を始めたとは書け
ない訳があつたのでしょう。

後の天武天皇(本書では天智天皇以後は天皇それより前は天王と表記)はアイデンテイーを万世
一系として、神代から一つの系統王朝が続いたという説話を求めました。

そのために、百済仏の到来した紀年を仏教の最初の渡来年として、すべての仏教記事をこの後
に移動してしまつたのでした。

欽明十三年という仏教渡来年代もまた、あやしいものです。いまではこの年代も否定されている
のが一般的な通説になりました。

ここに書かれていた廃仏記事も五世紀後半に起こった出来事を、時代と豪族の名前を変えて、
百済仏渡来の記事の後にとりつけたものでしょう。

仏教渡来時の反仏教豪族を、ここでは物部氏と中臣氏の二人にしていました。しかし、後に述べ
るように物部氏は仏教帰依者として、継体天王擁立に参加していますからこの記事はおかしい
ものです。

物部氏は滅亡していますから(崇峻天王即位前紀(587年)条)、これ幸いと廃仏の張本人に仕立
て挙げられたのです。本当は仏教帰依者だつたのに。

五世紀末に滅亡したり、半島に引き揚げた氏族こそが仏教に反対した勢力なのに誤ったことが
書かれたのでした。

継体天王擁立に物部は参加します。そして大伴氏と物部は協力して宗教戦争を戦いました。
その状況は後ほど出てくるでしょう。

そんな物部が仏教に反対するわけがないのです。
六世紀から七世紀前半の書記の記載については、信用できる記事がない。

物部の滅亡年月も信用できない。紀記載よりももつと後かもしれない。
平安時代の「四天王寺本願縁起」には−【物部守屋の子孫従類二百七十三人を寺の永奴婢とし、
没官所領、田園十八万六千八百九十代(一代、5歩・250歩、一段)を寺の永財と定めた。】−
とありました。

物部の残存した人々が奴となつたのです。ところで、
四天王寺の建造は飛鳥紀の法隆寺の後だということが、瓦の研究から判明してきています。
物部の滅亡年月は587年ではなくて、七世紀になつて後の時期かもしれないのです。

 もう一人の中臣連鎌子については、この人物が藤原鎌足の別名であることを思えば「何故ここ
に名前が出てくるか」ということを推定するのは容易です。
まず書紀の編纂構成が僧侶によって行われたこと。また壬申の乱終了後に行われたことを考え
てください。

鎌足はすでに病死しており、藤原の後継ぎ不比等は、壬申の乱当時まだ十三歳、難を避けて
母方の親戚山科田辺史大隅の家でかくまわれているところでした。

憎むべき法敵の鎌足を貶める絶好の機会なのです。鎌足が僧侶を殺したのが憎まれる理由で
した。その事情はご存知の方も多いので、簡単にお話しておきましょう。

 【僧定慧は考徳天王の子息。天王はこの子の行く末を案じ、わが子・定慧を鎌足に託して養育
させましたが、なお不安を感じた天王は、この子を自分の生存中の653年に、11歳で仏僧修行に
唐へ送出し、御仏の加護を祈願したのでした。

この後、天王は国の安全と政治について、唐・新羅よりの現実的な政策をとろうとして、百済より
の姿勢を崩さない皇太子と対立していました。

655年ついに皇太子(後の天智天皇)は政権を奪取して、百済支援に大きく舵をとつたのでした。
しかし唐が半島に乗りだして来た時から、この政策は無理なことだつたのです。

日本の支援も空しく660年百済滅亡。
危惧する声を押し切って天智天皇は百済復興の企てに大軍を送り、663年白村江の戦いに大敗
をしてしまいました。

定慧は在唐12年後の天智四年(665)九月、唐国使者・劉徳高の船に便乗して、鎌足の家が
ある明日香の大原第に帰ってきます。

白村江の敗戦後間もないこの時期、定慧がなぜ明日香に帰ってきたのか。
死を覚悟しての帰国は、天智天皇の失政指摘になる一方で、現実的な対百済政策を執った父・
考徳天王の顕彰を狙ったものだつたのでしょうか。

父の意志は「僧侶として仏に仕え、天寿をまつとうせよ」であつたはず。それに反して、何故この
時期に帰国して来たのか・・止むにやまれず強く彼を帰国へと動かしたものは、父・考徳天王へ
の想いがあつたのでしょう。

彼本人にそういう意図がなくとも、彼の存在そのものが人々にそのように受け止められてしまい
ます。

同年十二月定慧は毒殺されました。明日香に帰りついて僅か三ケ月の命でした。
百済人によつて殺されたとされています。

この百済人が大原第の召使を指しているのではないでしょう。もつと上層部の人たちをいうのでは。
鎌足は帰化百済人だという説もありました。確証はありませんが鎌足が、天智天皇のために
定慧を殺したことはありそうなことに思えます。

 明日香の人々は悲運の僧・定慧を悲しみ、鎌足を憎みました。
この頃から明日香の地に不審火による火災がしばしば起こるようになり、連日連夜火災が起きた
といわれます。

僧を殺した鎌足は仏法の敵だつたのです。鎌足の別名、中臣連鎌子が仏教に反対する人物と
して、廃仏記事に載せられたのはこうした理由からなのだと私は考えています。

 こうしてみていくと、崇仏を実行した蘇我氏についても割り引いておく必要があります。
天武朝の実力者・持統天皇は蘇我氏の出身ですから、この方に「よいしょ」しないほうがおかしい
のではないですか。

もちろん、蘇我氏は仏教に帰依しました。ただし蘇我氏だけではなく、仏教にもつとも早く接触した
大伴氏や物部氏も仏教に帰依したのですから、一氏族だけというのは、不公平といわなければ
なりません。

それに廃仏記事にみる仏教帰依氏族は「大伴氏」だつた可能性があります。
畿内から大伴氏主流が退去し、九州に引き揚げたのは仏教信仰を巡る争いの結果なのでしょう。

ところで、蘇我氏の崇仏記事は前述した552年の記事だけではありません。
敏達紀十三年条(584年)と同十四年条(585年)にある記事ですが、これは問題があるので、
ぜひ見ておきましょう。

善信尼ら新漢人たちの仏教貢献
−【書紀敏達紀十三年(584年)、九月、蘇我馬子宿禰は仏像ニ躯を迎え(鹿深臣[近江甲賀郡の
豪族]佐伯連[大伴同祖]の将来した仏像という)鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を遣わし、

播磨国で僧の還俗した者で高麗の恵便をさがしあて、大臣はこれを師とした。また司馬達等の女
(むすめ)嶋(十一歳)を得度させ、善信尼とし、漢人夜菩(やぼ)の女・豊女、錦織壷の女・石女を
得度させ、禅蔵尼・恵前尼とした。馬子は仏の法のままに三人の尼をうやまい、氷田直と達等に
託して衣食を供給させた。      −中略−
 馬子宿禰は、石川の邸宅に仏殿を造った。仏法の初めはこれからおこつたのである。】−

 この文章をなにげなく読んでいると素通りするかもしれませんが、書紀編纂者は「仏法の初めは
これからおこつた」と一行入れてくれたので、これがヒントになつています。

つぎの条文も一諸にみておきましょう。
 これより約三十年まえの欽明十三年の廃仏によつて、仏像も寺の伽藍もなくなった(仏像は
堀川に捨て、寺は焼き払うとある。)後の欽明紀十五年条の記事には

−【二月に百済は、下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏を遣わして救援の軍兵をこうた。】−
そして百済から派遣されていた官人の交代を申し出た。
「僧曇慧ら九人を僧道深ら七人の代わりとした。」】と。−

この年は554年で、この年以前にもまた以後にもお坊さんがいて仏法が行われ、僧たちの住む
寺があつたのではありませんか。

「仏法の初めておこなわれた」という敏達紀十三年・馬子宿禰の記事は、なんでしょうか。
つじつまが合わないでしょう。

つまり、この記事はもつと古い時代、欽明紀の百済仏伝来よりもさらに古い時代の出来事を、
新しい時代に移しかえた条文だつたのです。

では、この達等の女・嶋や漢人夜菩の女・豊女、錦織壷の女・石女などの新漢人子孫たちが
尼さんになつたのは、いつの時代のことでしょうか?

みなさんはいつごろのことだと思われますか。

この条文に播磨の国から高麗の恵便をさがしあて、馬子は師としたとある。
元興寺縁起では、「三人の尼たちが高句麗の恵便とその妻法明について仏教を学ぶ」としてい
ます。

五世紀末、出雲地方に高句麗系氏族(高句麗・東沃沮・穢などの氏族)集団が上陸して来ました。
この騎馬を得意とする集団の上陸については、次章でお話しますが、高句麗人恵便はこの一員と
して列島にきたと思われるので三人の尼が法学を学んだ時期は、継体天王治世初期ごろと
想像するのです。達等の十一歳の娘のいる歴史上の位置は、585年ではあり得ない。というのが
その理由でした。

乙巳(きのとみ)の法難
−【敏達紀十四年条(585年)二月蘇我大臣馬子は塔を大野丘の北に立てて(寺を造つたことを
示す。)達等が取得した舎利を塔の柱頭に収めた。

三月、物部守屋大連と中臣勝海大夫とが、
「疫病が流行して国民が死に絶えてしまおうとしているのは、ひとえに蘇我臣が仏法を広めている
からに違いありません。】と奏上した。

天皇は詔して、「明白なことなので、仏法を禁断せよ。」といわれた。
奏上から約1ケ月後、物部守屋大連は、みずから寺にいたり、胡座に坐し塔を切り倒して火を放ち、
仏像・仏殿を焼いて、焼け残りの仏像を難波の堀江に棄てさせた。そして佐伯造御室を派遣して
善信ら尼たちの法衣をはぎとり、その身を縛って海石榴市(つばきいち・奈良県櫻井市)駅舎で
鞭うつた。】

仏教が受けた最初の、僧尼にたいする法難です。
ここにも、物部氏と中臣氏がでてきていますが、基本的に欽明十三年条の条文に似ています。

蘇我氏崇仏の後に疫病が流行すること、仏像を難波の堀江に棄てることなどまったく同じで、
条文の焼き写しといえるのではないでしょうか。

中臣勝海連は尊卑分脈・中臣氏系図にみえない人物で、もしかしたら作られた人かもしれません。
本当に585年に行われたのかということは、まつたく信じられません。

この三年後の588年には、わが国最初の本格的な寺院、法興寺の創建が始まりますし、
銅鋺出土にみられるように6世紀中から後半には地方にも、さらに山間僻地にも仏教の影響が
及んでいることが認められますから、こんなに仏教信者がいるときに法難が起きるわけがない
ではありませんか。乙巳年の法難記事も本来の位置からずれているのでしょう。

元興寺縁起には「乙巳年に廃仏があつた」と記されています。
乙巳年を585年と、とらえて書紀の記事にしたのでしょうが、それよりも2巡りの120年遡った465年
すなわち5世紀後半の出来事ではないかと思うのです。

馮 弘とその民は5世紀中に出雲に上陸しました。それから地道に仏教の種子をまいたのです。
そんなときに法難は起きたのでしょう。

 仏教徒が少数のときに法難は起きますし、5分5分になつたとき、宗教戦争が起こりました。
仏教徒が大多数になったときは法難を宣伝に使うのかも知れません。
もうすでに6世紀末ごろは大衆布教の段階に達していたのです。

銅鋺を摸した須恵器や土師器が大衆の需要を満たす時期に、法難が起きるなんて信じることはできない
のでした。


 「銅鋺(左列)とそれを模した七世紀初頭の土器(右列)」

日本列島では五世紀後半の法難のときから、倭国豪族の中に亀裂が起こりました。
その溝は時間とともに大きくなり、大伴氏の九州引き揚げとなつたのです。

書紀には面白い記事を応神紀に載せているのですが、これが次ぎの時代の予告ととらえたほう
がよいでしょう。

−【応神紀九年条「武内宿禰の弟の甘美内(あましうち)宿禰は、兄を廃しょうととして、天皇に
讒言し、『武内宿禰はつねに天下を望む野心をもつております。いま筑紫にあつて、ひそかに

謀って、《ひとり筑紫を裂いて、三韓を招き、自分に従わせ、その上で天下を支配しょう。》と言った
と聞いています。』と申し上げた。

そこで、天皇はただちに使者を遣わされて、武内宿禰を殺させた。】−
この記事の中で、重要なところは<ひとり筑紫を裂いて、三韓を招き、自分に従わせ、その上で

天下を支配しょう。>ということなのです。
武内宿禰は大昔の人で、五世紀の人物ではありません。

大伴氏の名を隠すため、書紀がすり替えた名前ですから、大伴氏と読み替える必要があります。
大伴氏は五世紀後半に九州に引き揚げました。畿内での宗教をめぐる紛争によつて、倭国政治

と決別したのです。そして九州以西を分割して、支配する望みをもちました。そのうえで継体天王
の支援に応じたのです。倭国の豪族として仏教の国である倭国を建設する意欲をもつたのでした。

書紀は仏教の広がりを隠している。
 書紀は古い時代の出来事を六世紀後半に移し変えるということをしました。
仏教が広がってその勢力を背景に、継体王朝が出現したということを隠したいと思ったのです。

だから出雲で育つた継体天王を越前で育つたことに変えたり、物部氏や中臣氏を反仏教派に
仕立て上げたのでした。
本当は五世紀末の戦争の結果、滅亡する葛城氏・吉備氏・紀氏などが反仏教派だつたのに。

 見ていただきたいのは、中臣氏の経歴について書かれていること。
「中臣。おもに神祇職を担った上級氏族。・・中臣氏が宮廷に進出し、地歩を築くのは六世紀前後
で、継体天皇の支持勢力となり、おもに祭祀・儀礼を職掌としたことによる。」
  (佐伯有清編「日本古代氏族辞典」)

中臣氏は六世紀前後に中央に進出し、継体天王の支持勢力であつたと書いてあります。
物部氏も中臣氏も継体天王出現時に、大伴氏や蘇我氏と並んで支持勢力として葛城氏らの

反対勢力と宗教戦争を戦ったのです。そんな氏族が仏教に反対するわけはないでしょう。
それよりもむしろ中臣は、仏教と神道の融合に力を発揮した氏族だつたのです。日本で仏教は
神道と摺合し、互いに守護神・守護仏となり氏族の氏神として共存していつたのでした。

宗教戦争という大きな戦いを経験した後の民族の知恵として。

                               続く。