第6章 「倭国豪族分裂と騎馬民族の上陸」
継体天王はウシ王の子(上宮記・書紀では彦主人王(ヒコウシ)の子)で、出雲に上陸した
馮 弘の虚像・スサノオの別名、牛頭天王・午王に適合するものです。つまり、ウシ王に擬された
馮 弘の子がオオドであつたのではないか。
継体天王の生年は、即位年507年に58歳であつたというから、書紀の記載を信じて五世紀
中ごろの生誕でしょう。そうすると馮 弘が日本にこられて、稲田媛を娶り生んだ子がオオドで
あつた可能性が高いと思うのです。
書紀はオオドが母の振媛の故郷「越前国高向(福井県坂井郡丸岡町付近)」で53歳まで育つた
と書きました。それは本当のことでしょうか。
いくども越前に足を運びましたが、足羽山公園山頂に立つ彼の銅像があるだけで、ここに継体
天王の影はありません。
丸岡町付近の広域首長墓・松岡古墳群は何代も続く領主墓でその中の二本松古墳出土の
王冠は、倭国構成国・伽那の系統に繋がります。
氏族は武内宿禰後裔とされる生江臣かいるところでした。
書紀の書いている継体天王の故郷が、越前国・高向なのは信じられる話ではないのです。
それよりも、継体天王出現のときに外国から騎馬民族を招き入れたという話をいたしましょう。
騎馬民族の上陸地点は出雲で、この点からも継体天王の故郷は出雲であると考えられるのです。
倭の五王の時代
五世紀に中国史書にみえる倭国の王は五人で、それぞれ中国南部の漢人王朝に朝貢し、
国の主権を除(任命)せられることを望みました。
倭国は当時、朝鮮半島において高句麗と敵対し、互いに半島の覇権を争つていたのです。
だから、倭国の大王は後ろ盾となる中国の冊封を求めていたのでした。
403年に「北の新羅」(都は現在の元山近辺・東沃沮、穢、辰韓で構成される国)から倭国に
差し出されていた人質・新羅王子未斯欽が418年倭国から逃亡するという事件が起きます。
高句麗の長寿王が圧力を掛けた結果ですが、それだけにとどまらずに高句麗はこの国を吸収
併合してしまいました。
四世紀初めに建国し、倭国と高句麗の争いに巻き込まれ、ときには倭国の敵となつたり、
ときには倭国に人質を派遣して朝貢した「北の新羅」(隋書にみえる新羅)は国号も消え、
高句麗に属し統一されたのです。
三国史記地理ニに、冥州郡(江原道)地名は【高句麗の地名であつたのを景徳王の時代に改名
した】としています。
冥州は穢の古国(古今郡国志)なので、ここが高句麗の地名ということは「北の新羅」は高句麗に
吸収され、地名も高句麗の地名に変更されたということが分るのでした。
倭国に人質を派遣し、朝貢していた国が高句麗の圧力で統一されたことは倭国にとって戦略上
大きな痛手です。
それまでしばらくの間、平穏であった半島はにわかに騒がしくなり、倭国と高句麗の紛争は続いて
いきました。
新羅本紀463年条には「倭人がしばしば領域に侵入するので、国境地帯に二城を築いた」という
記述があります。
隋書にある新羅の構成国には「辰韓」がありました。この国のの南には倭が接することは、
中国史にも書かれていました。つまり北の新羅の南には倭人国があつたのです。
国境を境に接していた国が、高句麗に吸収されるという重大な局面になつていきました。
このために倭国は中国の漢人王朝に朝貢し、外交努力をします。
また高句麗も北朝の魏・南朝の宗の両方に朝貢して、対抗したのでした。
五世紀代、中国史書に現れる倭国王は五人、讃・珍・済・興・武の一字名をもつて表現され、
讃と珍は兄弟、珍と済の関係は親子(梁書)、済と興・武は親子です。
これを日本書紀記載の大王名に当てはめるのは無理がある、書紀の即位年代と中国史書に
書かれている年代とはまったく合致していないのです。
書紀に書かれている帝紀をあれこれと修正しない限り、中国史に描かれている五王に比定する
ことはできません。ここでは一字の名を持つ王として話を進めて行きましょう。
◇ 高祖(宗の武帝)の永初ニ年(421)倭讃、万里貢を修む。 除授を賜うべし」
◇ 太祖(宗の文帝)の元嘉二年(425)倭王讃が表を奉り方物を献ず」。
◇ 〃 元嘉十五年?(438)讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられん
ことを求める。詔して安東将軍・倭国王に除する。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国
将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに許す。
◇ 元嘉二十年(443)倭国王済、使を遣わして奉献す。 また以て安東将軍・倭国王となす。
◇ 元嘉二十八年(451)使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東
将軍は元の如く、ならびに奉るところの二十三人を軍郡に除する。
◇ 世祖(孝武帝)の大明6年(462)済死する。世子興、使を遣わして貢献す。 世祖(孝武帝)
詔していわく、「倭王世子興、代代すなわち忠、藩を外海になし、化をうけ境を安んじ、恭しく貢職
を修め、新たに辺業を受け継いだ。宜しく爵号を授け、安東将軍・倭国王とせよ」と。
◇ 順帝の昇明二年(478)興死して、弟武立つ。みずから使侍節都督倭・百済・新羅・任那・
加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す.使を遣わして表を奉る
詔して、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に除した。
◇ 南済高帝建元元年(479)新たに進めて除す。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事安東大将軍倭国王 武の號を鎮東大将軍と為す。南済書
◇ 梁高祖武帝天鑑元年(502)高祖即位して(倭王)武の號を征東将軍に進める。梁書
倭国大王が外交に熱心に取り組んだのは、それだけ敵となつた高句麗が強力であつたからと
いえます。
436年高句麗は北燕国の要請をうけ、北燕天王馮 弘とその民を自国に迎え入れるとともに
馮氏の都、竜城の武器庫にあつた精巧な武具を手にいれました。
これで高句麗の軍事力は一段と強化され、その影響力はただちに半島に現れて行きます。
438年倭王讃が死亡し、弟珍が継承した六国諸軍事のうち、新羅については高句麗の圧倒的な
軍事力のまえに国が吸収され、その回復は困難な情になって来ていたのでした。
半島東部の戦線に倭国軍が手を拱いていたわけではありません。
463年【倭人がしばしば領域に侵入するので、国境地帯にニ城を築いた】と。(新羅本紀)
失われた権益を取り返そうと倭人たちは頻繁に北へ攻め入ったのですが、回復することは出来
なかったのです。
このときの国境はどこなのでしょうか。それは次ぎの文章から見るのが分りやすいでしょう。
468年春二月、【高句麗王は悉直州城(江原道三陟郡三陟邑)を攻め落とした。】と。
463年条に書かれている国境は悉直州城の北にあつたのでしょう。
倭国連合軍は江原道三陟邑北方の国境からも、続いて悉直州城からも撤退せざるをえません
でした。
ここを撤退することで、倭王が、せっかく中国の皇帝から除(任命)された六国諸軍事のうち新羅
・秦韓の実質的な支配力は失われていつたのです。
このとき半島で高句麗軍と戦ったのは、半島の倭国構成国の軍だと思われるのです。
「なぜか列島の軍は派遣されなかつた。」そこにひとつの謎がありました。
派遣できない理由について、武王は【倭王済(443〜462年)の時代、大軍を送り高句麗と雌雄を
決しようとしながら大王が死亡し、さらに兄も失つたために、その後478年まで喪中として兵を動
かしていない】としています。
しかし、もうすでに倭国国内では豪族同士の争いがあり、かつての倭国のように団結した一枚岩
ではなくなつてきていたのが真実ではないですか。
半島西部では、475年倭国同盟国の百済の都「漢城」が陥落し、百済王・王子・王妃らが高句麗
軍によつて殺されました。
百済は都を熊津(公州)に移し再建されますが、このとき再建に尽力した大伴氏と高句麗王になん
らかの接触があつたのではないかとの歴史上の想像ができます。
倭国豪族の大伴氏が倭国の敵であつた高句麗と接触し外交交渉を行った。それがどの時点で
あつたかは定かではないのですが、倭国大王の統制下に有る豪族が大王の意思ではなく、
独自の行動に出たことは大王の権威の失墜でしょう。出雲への騎馬民族招請に大伴氏が係りを
持つたことは否定できないことでした。このことはまた後ほどでてくるでしょう。
なぜ大王が半島に兵を派遣しなかったのか、恐らく倭国豪族の分裂によつて列島の中で争い
があり、兵をまとめることが困難だったのです。
列島の豪族の分裂は宗教の到来によって引き起こされました。
仏教に帰依した豪族たちと固有の神の怒りを恐れる豪族たちの争いは、当初は廃仏派の力に
よって仏像が難波の堀江に流されるという事件になり、みぞを次第に深め国内紛争の状態にな
つてきたというのが、この時代の姿なのです。
廃仏派には五世紀最大の豪族葛城氏を初め、紀氏・吉備氏・平群氏・筑紫の君などが知られます。
仏教帰依派には大伴氏・物部氏や蘇我氏など、初めは廃仏派の力が強く圧倒していました。
仏教帰依派は粘り強く抵抗し、そのうえで騎馬民族勢力を列島に招き入れ、ついには倭国勢力
を一掃したのだと考えられます。
初めて聞く話でしょうか。
いいえ、江上波夫氏が雑誌「民族学研究」掲載の座談会(1948)の中で話されたことは、
後に修正を重ねられて「騎馬民族征服王朝説」として完成されました。
最初の説に反対した学者も、修正論には次第に声を潜めていつたのです。氏が文化勲章を受賞
されたことはまことに喜ばしいこと。世に認められたということではないでしょうか。
騎馬民族を構成したのは、高句麗氏族を中心に旧新羅の民(東沃沮、穢、辰韓)だと考えられ、
本書では高句麗系氏族(騎馬民族)としましょう。
彼らは倭国を侵略し、占拠する目的で列島に来たのではありません。
この高句麗系軍事勢力の到来を、キリスト遠征軍になぞらえて「仏教遠征軍」と呼ぶこともでき
ると思うのです。
列島が宗教国家になつたときは、帰国を予定した軍隊だつたのではないかと考えたほうがよい
でしょう。
古代の人口希薄な時代に貴重な人的資源を他国に出すことは、高句麗王にとつて苦しい決断
だつたのです。さらにまた、高句麗王は列島の造寺を支援するため、黄金三百両を拠出して人
と物の両面で支援したのでした。
兵力を割くのは、自国の安全を脅かすことになります。
それを犠牲にしてまで、強い意思を持つて東方仏教王国の建設に協力したのは高句麗王・
長寿王の仏教に対する強い信仰心だつたのでした。
そして、仏教王国ができれば、東北アジアに平和が訪れると考えたのです。
そのときには、派遣した軍隊は帰国してくるだろうと。
しかし、この遠征軍は情勢の変化によって帰国することができませんでした。
列島に残留し帰化の道を辿るようになり、日本人として暮らして行くようになります。
残念ながら勢力を派遣した高句麗は、この後国力を衰退し終には滅亡することになりました。
後継国の勃海が「日本は兄弟の国」(続日本紀)と呼ぶのは後の時代です。
高句麗系氏族の列島上陸
日本列島では、倭国豪族が二分して戦いを開始していました。宗教戦争です。
この戦いに援軍として、高句麗系氏族を招いたのは後の継体天王オオドであつた
と思われます。
大伴氏の進言によるもので交渉にあたったのも、また旧来の倭国を引き継ぐ「倭国分割統治」
の密約をここで取り付けたのも大伴氏だつたのでした。
オオドにとつては、仏教国家建設が大きな目的でしたから、国土の分割などは意に介さないことでした。
そのどちらの国も仏教国家になるのですから。
恐らくこのとき、二分し戦いを始めた豪族の勢力は、五分と五分だつたのではないかと想像されます。
だから大伴氏の進言に応じオオトは長寿王に働きかけたのでした。
それでは、このときの戦いに大きな勝敗の分かれ目となった高句麗系氏族の上陸時期について
みることにしましょう。
狛江亀塚古墳の年代
多摩川中流域の東京都狛江市には、「狛江の百塚」と呼ばれた群集古墳がありました。
現在ではほとんどが壊されましたが、その盟主墓と見られるのが狛江亀塚古墳です。
全長四十メートルの帆立貝状の短い前方部を持つ古墳のなかから金銅製飾板が出土し、そこに
描かれている竜・天馬・人物は「その構図や筆致が高句麗古墳の壁画に見るものと酷似している」
(大場磐雄氏)といわれ、高句麗からの渡来人集団主領のお墓と見られています。
(古代東国の渡来文化 埼玉県立博物館図録より)
またここから出土した「尚方作神人歌舞画像鏡」は六世紀初頭に建造された八尾市郡川西塚
古墳出土の鏡と同じ鋳型であるという。(小出義治氏)
河内国若江郡・大縣郡には巨麻郷名があり、それらの高句麗系氏族とのつながりがあつたもの
と思われます。
さてこの狛江亀塚古墳は、六世紀初頭遅くとも六世紀前葉の早い時期に建造されたと考えられ
ているので、この狛江集団の渡りの時期は、列島のある場所に渡来してそこに根拠地を作り、
さらにそこから分離して列島内を移動(転戦)多摩川中流域に領地を構えるに要した年数を古墳
建造年にプラスすることが必要でしょう。それは倭国王 武の治世年代と重なる時期といえます。
武王が中国南朝に使者を送り上表した478年には、兵を動かしていないとしていますから、それ
以後の約20年のうちに渡来軍団が、列島に来たのです。
倭国王 武が激しい怒りを抱いた相手が列島に出現したのでした。
だから倭国王朝に対して、友好的に渡来して来たとはとても思えません。
さらに、関東に来ている事は河内を始めその他の地域にも来ていることでしょう。
ここでは、高句麗系氏族の渡りの時期として五世紀の末を指摘しておきます。
書記武烈大王の行跡は新王朝の誕生を暗示する。
日本書紀は、六世紀初頭に暴虐な武烈大王を登場させてその悪事を数え上げました。
【妊婦の腹を割いてその胎児をご覧になった】とか【人のなま爪を抜いて、いもを掘らした】
また【人を殺すことを楽しみにされた】などなどです。これは真実のことではなく、中国史書の書き
方をまねたものなのでした。中国では前王朝の最後の皇帝が悪逆で天帝の怒りに触れ、
その結果王朝が交代したということを書きます。書くのは新王朝になつて書くのですから
これでもかと書くわけです。書紀がそうした中国史書にならうことは、王朝が交代したことを暗示
しているのでした。
そして次に列島を統治された方は、継体天王なのです。
当然継体天王は新王朝で、この時期に出現する高句麗系氏族と関係があるものとみなさなくて
はなりません。
前王朝の敵であった高句麗系勢力が上陸した後に新王朝が誕生するのですから、新王朝は
当然これらの勢力と関係があると考えられます。
古代の列島において高句麗氏族は全国的に分布しました。各地に高麗神を祭った神社があり
ます。埼玉県の高麗神社、神奈川県大磯の高来神社、富山県富山市高麗神社、大阪府狛神社
などの高麗名や・各地にある氏族名の日置神社・多珂神社は日本社会の中に溶け込むほど長い
歴史があります。
壁画で有名になつた上淀廃寺や日置前廃寺(滋賀県今津町)も高句麗氏族が造つたもので、
壁画については「六世紀前後の高句麗の技法を持つた画工集団が渡来し、七世紀末にその
ニ、三世が上淀廃寺の壁画を描く際、集団に伝わった技法を一部で使つたのでは
(河原由雄氏奈良国博美術室長)」と六世紀(500年)前後の古渡り集団を、ここでも示唆している
のです。
高句麗壁画技法は年代によってそれぞれの年代特徴があり、ふくよかな女性像は六世紀前後
の技法をよくあらわしています。
渡来時期は分かりました。ところでこの氏族は日本列島の何処に上陸したのでしょうか。
海の向こうから来たのですから、まず列島の海岸地帯に根拠地を作ったのに違いありません。
「海岸地帯で高句麗氏族が蜜集している所はどこか」を探すとそれは【出雲】でしょう。
他の所の高句麗族は出雲に比べ人の数が薄いと思います。
だからここが渡渡来人の根拠地でしょう。
それはまた、この時代に天王位についた継体天王とも密接な関係を有する場所なのです。
書紀がいかに隠そうとし、嘘を書いても史実ははつきりしているのでした。
本書では、そのことを明かにし、みなさんが追認できるように検証をしていくことにしています。
継体天王オオドは出雲で生育し、その後、出雲から高句麗系氏族や大伴氏などの仏教に帰依
した氏族を引き連れ大和に上って政権を奪取した人なのでした。
書紀はオオドが出雲に育つたことを書いていません。さらに高句麗系氏族の渡来記事など一切
ありません。
書紀に書いてない高句麗系氏族の渡来について、幸いなことに出雲風土記や正倉院文書の
天平十一年(739)出雲国大税賑給歴名帳(福祉関係帳簿)出雲郡・神門郡条が現存して、これ
らによつて高句麗系氏族が出雲地方に渡来してきていることがわかります。
大税賑給歴名帳(賑給帳)には老齢寡婦(寡夫)・自立不能者・精神薄弱など生活困難な人々に
対する生活保護の受給者と戸主の氏姓が記載されていますがこの中に認められる高句麗氏族
名は日置氏、舎人氏、神人、刑部氏等と考えられます。日置氏を見てみると、
(加藤義成氏作成より抜粋)
姓氏 | 出雲郡 | 神門郡 | 計 |
日置臣 | 0 | 1 | |
日置部臣 | 49 | 11 | |
日置君 | 1 | 1 | |
日置部首 | 9 | 3 | |
日置部 | 29 | 36 | 140 |
受給者の中で、日置氏は両郡合わせると最大の数であり、それだけ多くの氏族数がいたという
ことです。
この氏族は姓氏録に次のように、
「高麗 日置造。男馬王裔孫G古君之後也」左京諸蕃
「高麗 日置造。高麗国人伊利須使主之後也」右京・大和諸蕃
「高麗 日置倉人。伊利須使主兄許呂使主之後也」大和諸蕃
「高麗 日置造。鳥井宿禰同祖。伊利須使主之後也」摂津諸蕃
「日置部。天櫛玉命男天櫛耳命之後者。不見」和泉未定雑姓。 と日置造が畿内にいます。
臣は造よりも位が高く氏族の長であるので、臣がいる出雲が日置氏の本拠地といえるでしょう。
日置部の祖としている櫛玉は奇魂(くしみたま)であり、書紀に海を渡ってこられた渡来神と書かれ、
大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神)が列島を平定された時次のように言われました。
−【「もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することが出来ただろうか。
私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功を挙げることが出来たのだ」。
「そこで神宮を造り、大三輪の神と称えた」(日本書紀 神代紀)】−と。
これが日置部の祖先としている所です。この話は、出雲神話が高句麗氏族と関係があることを
示しているし、【この国を平定した】とされる時期は、古渡り高句麗氏族渡来時期(前出狛江市
高句麗氏族参照)の五世紀末頃で、この時期の話が出雲神話、大国主神段である可能性が
高いのです。
この日置氏の別系に舎人氏がいます。【「日置臣志毘は出雲国意宇郡舎人郷の人で、倉舎人
君などの祖。出雲風土記舎人郷条に、欽明天皇の世、大舎人として供奉し、ここに住んだので、
舎人といい、正倉があるとみえる。」】−(風土記)と。
欽明天王の御世に中央官人として、天王のお傍近く供奉し奉ったのは、高句麗氏族でした。
どのような事情で官人に採用されたかについては、後の話になります。
意宇郡舎人郷を中心として住んでいる関係上、賑給帳にみえるのは、僅かです。
また神人部は各地の大三輪神を奉仕した氏族で、下記のように高句麗氏族です。
姓氏録 「神人。高麗国人許利都之後者。不見」和泉未定雑姓
「狛太首神人。天表日命之後者。不見」同上 (天穂日命は出雲の神・出雲臣の祖)、
狛族が出雲臣の同祖を名乗ったものでしょう。
また、刑部は渡来系氏族で編成された名代で出雲の刑部は、高句麗の可能性が高いのです。
姓氏 | 出雲郡 | 神門郡 | |
舎人臣 | 1 | 0 | |
舎人部 | 0 | 1 | |
舎人 | 0 | 5 | 計 7 |
神人部 | 0 | 3 | 計 3 |
刑部臣 | 0 | 13 | |
刑部 | 1 | 12 | 計 26 |
以上は賑給帳による出雲の高句麗氏族をみましたが、次に出雲風土記に出てくる豪族名を
見てみることにしましょう。
出雲国郡司一覧
郡名 | 大 領 | 少 領 | 主 政 | 主 帳 |
意宇郡 | 出雲臣果安父 | |||
出雲臣果安 | ||||
出雲臣広嶋 | 出雲臣 | 林臣・出雲臣 | 海臣・出雲臣 | |
島根郡 | 社部臣訓麻呂 | 社部石臣 | 蝮朝臣 | 出雲臣 |
秋鹿郡 | 刑部臣 | 蝮部臣 | 日下部臣 | |
楯縫郡 | 出雲臣大田 | 高善史 | 物部臣 | |
出雲郡 | 日置臣布弥 | 大臣 | ◇部臣 | 若倭部臣 |
日置臣佐提麻呂 | ||||
神門郡 | 神門臣 | 刑部 | 吉備部臣 | 神門臣、刑部臣 |
飯石郡 | 大私造 | 出雲臣弟山 | 日置首 | |
出雲臣弟山 | ||||
仁多郡 | 蝮部臣 | 出雲臣 | 品治部 | |
大原 郡 | 勝部臣虫麻呂 | 額田部臣 | 日置臣 | 勝部臣 |
国府のあつた意宇郡の大領は代々出雲臣が勤め、楯縫郡・飯石郡にも大領を、
仁多郡には少領、同族の神門郡大領神門臣と合わせると出雲国の半数の郡司を出しますが、
出雲国の中心出雲郡の大領は日置氏です。後で話が出てきますが、ここと甲斐国・諏訪神社の
地域は高句麗族が大和政権から治外法権を獲得した場所なのでした。
その他にも、楯縫郡の少領に高善史氏、飯石郡・大原郡に日置氏が主政を出し、次に述べる
継体関係氏族とともに出雲国に広く分布していたことがわかるのです。
継体天王関係氏族
蝮部臣(たじひべ)は継体天王の孫上殖葉王を祖とする氏族(記紀)に関連し、
仁多郡大領・秋鹿郡少領を出していますし、島根郡の主政にもみえます。
河内国の丹比氏(大国主の子火明命を祖とする・播磨風土記)とも関連する氏族で、
出雲に大きな分布をみることができるでしょう。
継体後裔丹比真人氏と密接な関係があるのでした。なにもない越前と出雲を比べるとはるかに
出雲の方に継体天王の影があるのです。
意宇郡舎人郷(日置臣志毘が住んでいた前述)に建造された教昊寺は、上蝮首押猪の祖父
である教昊僧が造った寺(風土記)であり、風土記編纂時の天平五年(733)頃の当主祖父が
教昊僧であることから、早い段階から仏教が伝わつて寺が建造され、出雲国が仏教先進国で
あるともいえるでしょう。 この寺創建時の瓦は上淀廃寺式といわれる瓦様式です。
意宇郡には他に山代郷(日置君目烈新造)山国郷(日置部根緒新造)と高句麗氏族が建造し
た寺が多く、出雲臣の膝元でもこの渡来氏族の分布を見ることができます。
ではこれまでのところをすこし戻っておさらいをすることにしましょう。
高句麗系渡来集団の上陸地点と上陸時期は分かりました。それは出雲で、高句麗氏族と
継体天王を祖とする氏族名を「賑給帳と郡司一覧」から見てきました。
上陸時期は今まで見てきたことや倭国滅亡後、任那から独立した鶏林国の新羅襲名503年
(韓国李鐘恒氏の著書「韓半島から来た倭国」より)状況からみて、五世紀末ころのことであろう
と思われます。
高句麗系氏族は継体天王が大伴氏の進言を受け入れ、出雲に招き入れました。
これが本当かどうか、別の視点でみてみましょう。
実は列島に来た渡来氏族が祭る自分たちの氏神が出雲神なのです。
高句麗系氏族は出雲に上陸した後に各地に移動しますが、行く先々でお祭りしたのが出雲神の
イタケルであつたり、大国主であつたりまたその子神たちでした。
深く出雲と結び付いているのは、この地に最初に招かれ上陸し、この地に王朝が樹立したこと
によるものでしょう。
渡来して来た高句麗系氏族の奉祭する神様が、出雲系の神様ということは面白いですね。
その状況は後にでてきます。
出雲に誕生した王朝、それは「日本国」でした。
原日本国といつたほうが良いかもしれません。この国の読み方は「ひのもとのくに」だろうと思います。
古代で「太陽」の国は、日の光を受けて懐妊したという始祖伝説のある高句麗でしたから、
その影響を受けた命名であつたのかもれません。
そして、日本国の旗印は三本足の烏だつたのでしょう。
太陽の使い神とされる烏は古来より太陽信仰の国において崇められました。
島根県美保関町美保神社の青柴垣神事には、三本足の烏・八咫烏の神器が
登場するという。
神武東征以前に八咫烏の思想が出雲に存在することに注目することも必要な
のです。
また、出雲神を祭る熊野神社には、三本足の烏を描いた神旗が現在も用いられていました。
出雲の仏教王国の陣頭にかがげられた旗印・八咫烏の旗手の名は、姓氏録記載で分かります。
鴨県主の祖、賀茂建角身命でした。京都市左京区の下鴨神社の祭神さんで、この神社が出雲の
神社であることは一度参拝するとすぐ分かりますし、賀茂建角身命が出雲人だということも同様です。
書紀神武紀には、「八咫烏」が登場してきました。そして大和を征服した後に巡幸され、
「なんというをすばらしい国を得たものよ。」といわれました。
書紀編纂者はその直後に「日本」という言葉を二つ書き加えています。
「日本は浦安の国」、「虚空見つ日本の国」と。こんな言葉は後世に残されたヒントでしょう。
日本国が倭国を滅ぼした。その事跡は五世紀末の出来事でしたが、古い時代へと移動させられて
いました。神武は日本国の勢力を率い、大和を制圧したのではありませんか。
段々とこの謎も解明していきます。
騎馬民族を船で運んだのは誰だ?
騎馬民族が自ら船を作り、人・馬を載せて海を渡って来たのかという設問については、
そうではないと考えます。
渡来した場面においての確証を得ることは困難ですが、大伴氏の息のかかった九州の海族が
彼らの渡海に協力したことが考えられるでしょう。
青海首(あおみのおびと)、安曇族(あずみ)、宗像族などの航海に慣れた氏族たちは、もちろん
新しい宗教に帰依した人たちでした。
大伴氏の命令のもとに人馬の輸送に活躍したのです。
少し後の時代、これらの九州海族は日本列島に分布を広げました。
青海首は日本海沿岸の各地に「青海」という地名を残していますし、安曇族も同様です。
宗像氏は主として瀬戸内海方面に進出しました。
青海首は大和連と改名し、宗像氏とともに中央官人となつたのです。
継体天王擁立派となつて、出雲軍の輸送にあたったその功績によるものでした。安曇族は
長野県に進出し、安曇の地名を残しています。海上輸送ばかりでなく、出雲軍に従軍し陸上
戦闘にも参加したのでしょう。
これらの海族の活躍は原日本国が出来た後の出雲勢力支援の状況ですが、それ以前の騎馬
民族渡海に対する支援の状況証拠になるでしょう。
倭人の海族が操船し、曳航する船には初めて大海を渡る高句麗系人や軍馬が乗せられて、
出雲に到着したのではないでしょうか。
宗像氏と出雲の関係も(姻族関係、大国主神は宗像神を娶って子を作っている)このときに
築かれたのではと思います。
そして、九州に地盤を持つ大伴氏が、高句麗系氏族を招くために大きな力を発揮したと考えら
れるのでしょう。