第7章 虚像の時代・大国主神と「国引き物語」
紀記が出雲神話の中で、書くことができなかったことがいくつかあります。
その一つが「国引き物語」でした。本来なら神話の中で大国主がいじめられ、生命まで奪われ
かけた後、国引きがあつて外国から氏族を招き入れる話が続くはずなのでした。
しかし、そんな話は削除しなければならなかつたのです。我々は出雲風土記という本によって
紀・記が削除したところを見ることができたのでした。
大国主は八十神の迫害を避けて根の国に行き、スサノオの太刀、弓矢を持ち出します。
そして、「その太刀・弓を持ちて其の八十神を追い避りしとき、坂の御尾毎に追い伏せ、河の瀬毎
に追い払いて、国を作り始めたまいき」となつていました。
その太刀と弓矢が暗示するものはなにか。恐らくこの間に国引きが行われたのです。
国引きによつて、引きよせられた氏族の力を暗示するのではありませんか。
なぜ国引きが神話に入らなかったのか。
その訳は大国主に味方する氏族の存在を隠すためだつたようです。
もう一つ重要な出来事も、削除しています。それは、国引きが行われた後に
「大穴持命(大国主の別名)の宮を造営申し上げようとして多くの神がその社地に集まつて宮を
築かれた」(出雲風土記杵築郷条)ということなのでした。
敵対する八十神とは別に、大国主を盟主とする神々・それも多くの神々が出雲に集まって、
大国主の宮を建設しょうと働いたこと。これをなぜ紀・記は書けなかったのでしょう。
理由は、出雲地方に大国主を首長とする一つの国家が誕生したからなのです。この国は仏教国
でした。これが日本国(ひのもとのくに)だと感じています。
原日本国といつた方が良いかも知れません。「日本もと小国。倭国を併せり。」と中国史書に記録
される国です。
前章で述べたように仏教布教を支援すべく、外国から「仏教遠征軍」を招きました。
これが「国引き物語」です。
書紀は大国主について、主要部分をすべて削除してしまいました。
出雲風土記がなかつたら、その辺の事情を知ることができなかつたでしょう。
神々の系譜が書かれている出雲神話
古事記の神話で神々の系譜が逐一書かれているのは、出雲神話だけの特徴です。
スサノオから大国主神に至る系譜、さらにその子孫十七世までの系譜。別に大年神の系譜が
あります。
こちらは「海を照らして依り来る神有り。」の条文の次ぎに書かれ、「故、その大年神(の子孫は)」
として韓神・ソホリ神・白日神・聖神など半島に起因する神々などの名がありました。
いつたい、だれが記録していたというのでしょうか
世代数をわざと間違えて書いているのは、「この系譜が作られたものだよ」
という古事記編者のヒントなのかも知れません。
それにしても、大物主神(書紀では事代主命の娘)の娘と神武は結婚しているのですから、
それ以後の神々の系譜は書く必要もないことでした。
ここからは神話時代ではなかつたはずですから。
神々の名前を綴つたのは、スサノオや大国主神を古い時代の人物と見せかけるための細工
だつたのでしょう。
書紀には出雲神の系譜は一切書かれていない。
スサノオが大蛇退治をした後、
−【(稲田姫とともに)結婚の場所を求められて旅をされ、出雲の清地(すが)に着かれた。
そこで、「わが心清々し」とおうせられ、そこに宮を建てられた。
そして両神は同棲されて、大巳貴神(おおあなむちのかみ)を生まれた。】−と。書いています。
大巳貴神は大国主の別名ですので、この条文によって大国主は、スサノオの子であることは、
確かなことです。
実は書紀の別の書に「大国主はスサノオの六世の孫である」と異論が書かれているのですが、
これは信用できない。なぜなら神話の中で大国主の后となつたスセリヒメは、スサノオの娘です。
結婚する相手は同年輩でしょうから、六世孫であるわけはありません。
紀・記では、大国主神に対するさまざまな偽装が行われています。
スサノオと大国主神の間に、世代を入れて年代が離れているように装ってみたりしました。
出雲神話そのものが新しい出来事を、古い神話時代に移動したものですからあちらこちらに
ほころびが出るのは致し方のないことでしょう。
ここでは大国主はスサノオの子という粉飾を取り去った基本的なお姿を提示しました。
これは一般の常識であつたかも知れません。
そこから一歩進めて、出雲神話だけに系譜が書かれているのは、なぜだと考えてみてください。
その理由はスサノオも大国主も出雲神話そのものも、後世の出来事を古く装うために神話の
時代に移動したからではありませんか。
本書では、スサノオが馮 弘で、五世紀中ころに出雲に上陸したとしてきました。
この国を平定する大国主神はスサノオの子です。
実像はだれでしょうか。五世紀中頃に生まれた人物、六世紀初頭にこの国を平定し、天王位に
ついた人物こそ大国主の実像ではありませんか。その人物の名前は?誰!
大国主神と大物主神は別人
スサノオの子大国主には、いろいろな名前がついています。
「大国主神の別名には、大物主神・大巳貴命・葦原醜男(あしはらしこお)・八千戈神(やちほこ
のかみ)大国魂(玉)神、顕国魂(玉)神(うつしくにたまのかみ)」(書紀の一書より)
その他にも、伊和大神、大地主神(おおとこぬしのかみ)、奇甕魂神(くしみかたまのかみ)
広矛魂神、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、三穂津彦神、幽冥亊知食大神(かく
しごとしろしめすおおかみ)など(出雲大社由緒より)
この中には、大国主神と大物主神とが混同しているものもありました。
神社によつて、同一神としたり、別神としたり対応はさまざまです。
紀・記では大国主神を国つ神として、あたかも土着していた神のように扱っていますが本当は
外来神の子であるし、さらに遅れて出雲に渡来した大物主神とは、別人であることははっきりして
いると思います。
その点から話を始めましょう。うえの名前の中でも、大物主神の別名がまぎれ込んでいました。
奇甕魂神(くしみかたまのかみ)・三穂津彦神は大物主の別名ですから、これは大国主の別名
から除外しなければなりません。
紛れ込んだ理由は、書紀の「海を照らしてより来る神(渡来神)を自分の幸魂・奇魂(くしみたま)
とし、三諸山に住まわせた」ということや
【(大国主神が)自分の和魂(にぎたま)を鏡につけて、倭の大物主奇甕魂神(くしみかたまのかみ)
と名を称えて、三輪山に鎮めよ。(といつた)】「出雲国造神賀詞」ことによるのです。
神様にいろんな魂があるのはこれでわかりますが、別の場面(国譲りの場面)ではまつたくの別人
になっているので、これはよく分らないことです。
なにかの理由があるに違いない。紀・記は外来の神の到来を大国主と同一神とすることで隠した
のではありませんか。
次ぎの場面は後に出てくる「出雲氏族の国譲り」の場面ですが、いろいろな要素が入っているので、
ここにかかげてみましょう。
【(大巳貴命は国譲りをした後)「私はこれでおいとまさせていただきます】と申しあげて、永久に
かくれてしまわれた。そこで経津主神(ふつっぬしのかみ)は国内をめぐつて平定され、命に逆ら
う者があるとみな斬り伏せられた。反対に帰順する者にはみな褒美をあたえた。
このとき帰順した首魁は大物主神と亊代主神とである。この二はしらの神は八十万神を天高市
に集めて、この神々を率いて天にのぼりその赤誠を披露された。
時にタカムスビノミコト(大伴氏祖神)は大物主神に、
「もしお前が国神を妻としたら、余は邪心があるとおもうだろう。そこで、いま余は女の三穂津姫
をおまえにめあわせよう。後略」とおつしゃつた。】
大国主が永久に隠れることは、死亡されたことの暗示です。
死亡された後に、残っていた亊代主神と大物主神の話があるのですから、大国主と大物主は
別人でなくてはなりません。
このときに神話では大伴氏祖神のタカムスビが、大物主神(遅れて渡来した神)に三穂津姫を
与え婚姻関係を築くとしました。
三穂津姫の対象名が三穂津彦ですから、この名は大国主の別名ではなくて大物主神の別名
なのです。
本来別の人物であるのに、書紀がなぜか同一の人物としたり、ある場面では別人としているのは、
しつかりと書けなかったからで、そのため、いまだに大国主と大物主は同一視されているのでした。
香川県仲多度郡金刀比羅宮は祭神を大物主神としており、古来は金毘羅大権現と称していたという。
金毘羅は仏法の守護者として薬師如来十ニ神将の一つクビラ大将であり、
権現とは仏が衆生を教化するため、人間界に仮の姿になって現れることをいいます。
出雲の神々が仏法の守護者としてその役目をしていることは大いに注目して良いことなのです。
金毘羅宮がどちらの神様を祭神にしたのか、それとも異名同一神としているのか分りませんが
各地の金毘羅神社には大黒天像を奉納している所が多く、混同されているのは明らかでした。
大国主は大黒天というシバァ神に権現しており、この神は憤怒相をもつ破壊と戦闘神であつた
といわれます。
大物主神は大国主とは別人で、大国主の子・亊代主神のひきいる神々と別の神々の首魁と
思われますから、この点ははつきり別けておきましょう。
この項では、紀・記が遅れて渡来して来た大物主神を、大国主神と同一神と装いたい事実を
指摘しました。これは史実である「国引き」を隠蔽する狙いがあるためではありませんか。
紀記の神話では、国引き物語を削除してしまいましたから、大物主神がどのようにして列島に、
さらに大和(天高市)にこられたかということが欠落しています。
前章では、虚像の時代に先駆けて実像の時代を描き、日本列島の出雲に高句麗系氏族の集団
が招かれて上陸した様子を示しました。
大物主神は渡来して来た高句麗氏族の長ではありませんか。
招くにあたって、大きな原動力として活躍したのはタカムスヒを祖とする大伴氏です。
神話の中、タカムスビが渡来神に娘三保津姫を嫁がせるのは、大伴氏と渡来高句麗氏族との
絆を強める意味があつたのでしょう。
お互いに仏教徒として同一の基盤に依っていたのでした。
紀・記ではけつして書けないこと、仏教徒としての結合や団結がここに窺われます。
渡来氏族の長と大伴氏の婚姻関係は一方的でなく、大伴氏側から高句麗氏族の長に、
また同氏族の長から大伴氏へと相互に婚姻したのでした。
これは、「大伴狛夫人(こまのいろえ)」の存在からもいえます。
こうした関係は、渡来氏族が出雲地方に上陸し、大国主の宮を築く前後と思われますから、
神話の国譲り後に三穂津姫の名が出てくるのはおかしい話だといわなければなりません。
ここにも欺瞞が存在するのでしょう。
出雲風土記の国引き物語
実像を知つた後で、「虚像の国引き物語」がどのように書かれているかを対象してみると面白い
のではないでしょうか。
出雲国東部・出雲の政治の中心地である意宇(おう)郡の郡名伝承として風土記に描かれてい
るのが、国引き物語です。
【「意宇となづくる故は、国引きませる八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)の詔り給ひしく、
「八雲立つ出雲の国は狭布の稚国なるかも…」(出雲の国は誠に狭く、未完の国だから継ぎ足して
大きな国にしょう)と、
【新羅の国を、国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
【北門(きたど)の佐伎(さき)の国を国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
【北門の良波(よなみ)の国を国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
【高志の都都のみ埼を国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
と余りある国を「よつこらしょ」とお引き寄せになられた。
(新羅の国と北方の佐伎・良波の国は、外国からお引きになった。
(出雲の北方は外国しかないでしょう)。
高志は国内からそれぞれ国をお引きになつた。そして仕事を終えられて意宇の地で【おえ】と
言われたのが郡名となつた。)
文学的高い評価を受けている国引き物語ですが、歴史として見れば国を引く人物がいて、
また引かれる国に氏族がいるわけです。無人の国を引いてきたのではないでしょう。
そうすると外国の氏族、それも騎馬民族を招き入れる話が国引きなのです。
宗教布教のため、この国を仏教国にするための兵力が海を渡って招き入れられたのでした。
まず新羅(北の新羅)の氏族、次に佐伎・良波氏族、これは出雲の北方といつているので、
高句麗氏族と考えます。北の新羅は高句麗に吸収されているので、本書では高句麗系氏族と
一括しておきました。騎馬民族でも分かりやすく良いでしょう、同じ意味を表します。
引かれる国の一方を招き入れた集団とすれば、次ぎの高志も越の国都都のみ崎ではなく氏族名
と考えられるしょう。
出雲国神門郡には日置郷・古志郷があり、氏族の名を郷名とすることが多いからです。
松江市から佐太神社に行く道にも古志の村落があります。
日置郷の日置氏については、すでに述べているように高麗氏族でした。
では、古志郷の豪族については次を見てください。
姓氏録「右京天神 高志連。高魂命(たかむすびのみこと)九世孫日臣命之後也」
「同上 高志壬生連。日臣七世孫室屋大連之後也」
とこの高志氏族は、大伴氏の一族なのです。
引き寄せられた大伴氏族は出雲族と共同して日本国を建設していくのでした。
国を引き寄せた八束水臣津野命はよく分からない神様ですが、八束水を「枕ことば」ととらえ、
臣津野命(おみづぬのみこと)を名前とすれば古事記に記載されている大国主系譜の中に祖父
としてオミヅヌノカミがいらつしゃる。この系譜は大国主をスサノオの六世孫にしていて信用できない。
出雲の神の中で「天下を平定された大神」(書紀の奇魂段)は大国主神であり、天下をとるため
大伴氏や外国から部族を招いたと考えられるのですから、この神様は大国主神の別名と考えて
いいのではありませんか。
つまり、大国主が国引きをしたことは、「外国から氏族を招きいれて天下を平定されたのだ」
と考えると前後の繋がりがよく理解できるのでした。
海を渡ってこられた神の名前は「大年神」
古事記は、「海を照らして依り来る神」に続いて【その大年神】とし、渡来神の名前が大年神で
あることを示しています。だから大年神は大物主神の別名と考えられます。
ところで古事記には大年神の系譜を掲げて、興味のある神様が多くいらつしゃるので、
ぜひ見て置きましょう。
【その大年神、イノヒメを娶り生みませる子、大国御魂神、韓神、ソホリ神、シラヒ神、ヒジリノ神。(五柱)
カヨヒメを娶り生みませる子、大香山戸臣神、御年神、(二柱)
アメチカルミヅヒメを娶り生みませる子、奥津日子神、奥津比売これは竈の神なり。
次ぎに大山咋神、この神は近江の国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用いる
神なり。
次ぎに庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神、(九柱)
以下略 】
大年神の子は、渡来神らしく半島に由来する名前をもち、韓神であるとか、ソホリ神(ハングルで
牛鋤を意味する農業神か)、シラヒ神(新羅神か)、ヒジリノ神(百済神か)など。
この氏族が半島から来たことを示すものだろうし、また次ぎの竈の神も面白い。
竈の神は時期を特定する資料に為り得るもので、列島において炊事は古来「いろり」で為されて
来た。竈が朝鮮半島から輸入されるのは、五世紀初頭といわれますから、それ以前に竈の神が
列島にいるわけはないのです。
この氏族が五世紀以後に海を渡って列島にきたことを示すものでしょう。
大山咋神は近江の日吉神社や京都の鴨神社・松尾神社に祭祀されている神。
この神の話はこれからいろいろなところで、でてきます。
阿須波神・波比岐神などは、天皇家の住まいである宮中で祟りを恐れる神として、
巫に祭祀させる神々の中にある興味深い神様。
古事記がなぜこのような系譜を載せたのか、疑問に思う人は多いようですが、出雲の神様が
渡来神であつて国つ神でないというのはこの系譜を見ただけでも分るのではないでしょうか。
古事記も日本書紀も後世のため、ちゃんと手がかりを残してくれていることを思えば、
そうしたヒントを見極める知識を大切にしなければならないのでしょう。
「宮の建設」、日本国は出雲に誕生した。
風土記出雲郡杵築郷条では、
【八束水臣津野命の国引きをされた後、大穴持命の宮を造営申し上げようとして多くの神々が
その社地に集まって宮を築かれた。】と。
国引きが終了後、つまり渡来神の渡海が終わった後、出雲国杵築郷の地に多くの神々が集合した。
そして大穴持命の宮を造営したという。
多くの神々が集まって宮を作るということは、新しい国家建設でしょうから、ここで倭国とは別の
国が誕生したということでしょう。
「原日本国の誕生」といって良いのかもしれません。「ひのもと」は出雲の杵築郷から発祥した
と考えられます。宮の名前が日栖宮(ひすみのみや)であり、ここを日の中心としたことは明らかで、
付近地名に簸の川、日の御崎、日置など、また古代では「高句麗始祖朱蒙の母が日の光を受け
受精し、朱蒙を生んだという」伝説が伝えられ、「高麗が日の国」という認識は列島にあつたらしく、
−【桓武天皇母上の高野新笠は朱蒙の子孫(百済も同祖で朱蒙を祖とする)であるがゆえに
「天高知日の子姫尊」と申し上げる】(続日本紀延略九年条)−
つまり、朱蒙の子孫だから日の子であるといつているのです。これが古代の感覚でした。
日を尊重する国は高句麗だと古代では認識していたのです。
高句麗の冠帽飾りには、象徴として三本足の烏を中心に置き、図案化されていました。
スサノオのときにも、熊野神社の午王誓紙の話がありましたが、この誓紙に印刷されたのは
「三本足の烏」で、いわゆる「日の鳥」であり、太陽の日の出、日の入りとともに、生活を行う烏が
古くから太陽の象徴とされてきたのでしょう。
こうした日の鳥「烏(からす)」は島根県・美保神社の青柴垣神事に、また出雲神を祖とする京都
左京区賀茂御祖神社(下鴨神社)に八咫烏化身として伝承されているのです。
出雲に出来た国は高句麗の人的、物的援助を受けましたから、かなり高句麗の影響を受け、
「日」にこだわった国であつたといえるのでした。
ここに集まった神々の実像は、高句麗系氏族・北燕国遺民氏族それに仏教に帰依した元倭国
の豪族達だと考えられます。それらが一堂に会して、新しい国家と新しい元首を主とし、旧来の
倭国と完全に決別して、仏教を国教とする宗教国家の建設に立ち上がって行くのでした。
大和にいる倭国大王の権威に屈するとなく、進撃して行ったのは新しい国家が誕生し、対等の
権威を獲得したことによるものなのです。
この軍の陣営には三本足の烏を描いた軍旗が、旗手鴨県主の手によって高々と掲げられ、
出雲の地に翻ったのでした。
大国主と八十神との戦い
書紀は神話の前段部分をすべて棄て、都合の悪い部分である「国引き物語」や「神々の建設した
宮の話」「八十神との戦い」「出雲から倭国に上る場面」も消してしまいました。
そして天下経営の場面から、物語が始まっています。この後に続く文章はこれまた、書紀の書き
順が疑われるところですから、正しておきましょう。
@【大巳貴命と少彦名命(タカムスビの子・大伴氏祖神)が力を合わせ、心を一にして天下を経
営された。】
A【むかし、大巳貴神が少彦名命に向かって、「おれたちの作った国ははたしてよくできたといえ
るだろうか」と語られると、少彦名命は答えて、
「できたところもあるし、できていないところもある」と言われた。
この二はしらの神の相談には深い意味があるらしい。
その後、少彦名命は、熊野の御崎に行かれて、そこからとうとう常世郷(とこよのくに)に去られた。】
B【この後、大巳貴神は国の中のまだ出来上がっていないところを、ひとりで廻って作り上げられた。
そして出雲国にいたつたとき、言われるには
「いまこの国を作ったのは私一人である。私と一諸にこの天下を作ることの出来る者はいるだろうか」
といわれた。
するとそのとき、こうごうしい光が海を照らし、やがてその中から忽然と浮かび上がってくる神が
いた。
その神が、 【「もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することが出来ただ
ろうか。私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功を挙げることが出来たのだ」
といわれた。「そこで神宮を造り、大三輪の神と称えた」(日本書紀 神代紀)】。】
話がぎくしゃくしていることに、なにかおかしいものを感じます。
@にはすでに大巳貴命と少彦名命が協力して天下経営をされていたとしている。それなのに
Bの渡来神が「この国を平定したのは私がいたからだ」というのは、順序が違っている。
本当は天下経営以前に渡来神がいなくてはなりません。
「渡来神が来て平定をするための尽力をした、そして天下経営をなさる」というのが順序なのです。
だからこの場面はB、@、Aの順序が正しいのでした。
書紀が変な書き方をしたのは、「八十神との戦い」を抜かしたからで、真実はつぎのようになります。
【大伴氏祖神の少彦名命と大巳貴命が密約を交わし、その上で外国から渡来神を招き入れて
八十神と戦い、勝利してこの国を平定した。そして大和で天下経営に当たる】
というのが本来の筋でしょう。
経営が安定したのち、少彦名命(大伴氏を指す)は倭国分割統治の密約どおり、九州以西の政治
を執るため、筑紫に向け大和を去ることになります。
この神話のなかに出てくる「平定という言葉」は時期を示していました。
列島の国内が平定され、一つの国家になつたのは、四世紀中過ぎで、それ以前は多くの国に
分かれていたということは今日では考古学上の常識になっていることです。
従って大巳貴神(大国主神)がこの国を平定するのは、四世紀中以降でなければならないでしょう。
大国主神はそんなに古い方ではないのです。
紀記は比較的新しい方の業績を、神代という架空の時代のできごとに変更したのでした。
さて、古事記には書紀にない「八十神との戦い」が載っています。この条文をみてみましょう。
【この大国主神の兄弟には、大勢の神々がいらした。けれども、その神々はみな自分の国を治
めることを辞退して、大国主神に国をお譲りになった。自分の国をお譲りしたわけは次ぎのとおり
である。】と神々が大国主神に国を譲渡した理由が書かれています。
この場合、平穏に国を明渡したわけではない。古事記は凄まじい両者の戦闘状況が描かれていて、
双方が殺し合う様が描写されているのでした。
大国主神と大勢の神々が争う直接の原因を、「因幡の八上比売(やがみひめ)が求婚にきた神々
を袖にして、大国主神の求婚を受け入れたことに神々が怒り、相談の上大国主神を殺そうとした」
としています。
列島挙げて敵・味方に分かれ戦う理由が、一女性の求婚話であるわけはありません。
こんなことが本当の原因ではないでしょう。原因はほかにあるのです。
ところで、大国主神は最終的に神々を追い払って勝利しました。
そして八十神の治めていた国々を取り上げて平定されたのですが、そこに至るまでさまざまな
苦労をする描写があります。
「大国主神の受難」といわれているもので、その中に大伴氏祖神の協力、大屋毘古神(五十猛
命の別名)、須世理毘売(すせりひめ)の助けがありました。
大国主側にも支援する勢力がいたのです。そうして列島の各地でそれぞれが戦つたのです。
そうした大国主と神々との戦闘場面は次ぎのとおり。
【八十神、大国主神を焼き石で殺す、神産巣日神(かみむすびのかみ・)が二人の神を派遣し
て助ける。その二人とは神産巣日神の御子、支佐加比比賣命(きさかひひめ)・宇武加比比賣命
(うむかひひめ)のふた方『出雲大社天前社祭神』がその神様で、そのほか神産巣日神の御子
少彦名命も現れて協力したのでした。】
書紀とは違い、古事記は神産巣日神の御子少彦名命とする。
【八十神、大国主神を木に挟んで殺す。大屋毘古神(五十猛命の別名)は木の股から救い出
して逃がす。】
【八十神の追撃を避け根の国へ至り、須世理毘売(すせりひめ)の助けを借りてスサノオの生
太刀と生弓矢(武力を象徴する)と天の沼琴(宝石で飾られた琴、王者を象徴する)を盗み出す。】
【その大刀と弓矢をもつて、その八十神を追い避りしとき、坂の御尾毎に追い伏せ、河の瀬毎
に追い撥ひて、国を作り始めたまひき。】
大国主命は大勢の神々によつて苦しめられ、死に至るのですが、神産巣日神が二人の神を
派遣して助けるのです。神産巣日神の御子、少彦名命〈すくなひこなみこと〉も現れてお味方した
のでした。
書紀では少彦名命はタカムスヒの子となつていたのに、古事記ではカミムスビの子になつている。
出雲神話中に天神カミムスビがでてくること自体注目すべきことで、カミムスビはタカムスビとともに
アメノミナカヌシの子で兄弟とも、タカムスビの子であるともいわれている。
いずれも大伴氏祖神としていいでしょう。
大伴氏祖神が出雲神話で重要な役割を担っていること、大国主神と大伴祖神が密接に繋がって
いることを理解してください。
さらに、大屋毘古神が戦闘場面に登場しているのも注目されます。
大屋毘古神は五十猛命の別名で、スサノオの子でした。
大国主神とは同時代の人物ですから、兄弟であつたのです。
イタケルは大国主神に協力して戦闘に参加していたのでした。
このことは重要で、なぜイタケルが紀の国に祭祀されているかを探るキーになります。
あとでお話しましょう。
殺し合いの戦いは、大国主が根の国に行き、スサノオの弓矢と太刀を盗み出し、それを使って
敵対する神々を打ち払い、ついに大国主神の勝利となりました。
根の国から持参した武器を使って、八十神を追い退ける話から、渡来神たちを招くため、
大国主神自身が、根の国(海外の国)に行ったと解釈するのはいかがなものか、それよりも使者を
派遣して、海外勢力の応援を要請したと考えたら良いのかもしれません。
大伴氏の助言と折衝を考えても良いのではないでしょうか。
渡来神たちの「もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することが出来ただ
ろうか。私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功を挙げることが出来たのだ」。
という言葉がここでは納得することが出来るでしょう。
大国主神は少彦名命やカンムスビの派遣した二人の娘などに代表される大伴氏族及び渡来神の
率いる氏族(渡来騎馬民族たち)の助けを借りてこの国を平定することが出来たのでした。
大国主神 出雲より倭国に上る
【その神の適后(おおきさき)須世理毘売を残し、出雲より倭国に上り坐さむとして、束装(よそ
おい)ひ立たす時、片御手は御馬の鞍にかけ、片御足はその御鐙に踏みいれて歌ひたまはく・・】
(古事記)
出雲を出発し大和において王位につこうとする(あるいは大和に向かって出撃をしょうとする)
大国主神の姿は、なんと乗馬姿です。
列島において馬具が出土する初見は老司古墳(福岡県)の五世紀初頭ですから、乗馬姿の神が
登場する出雲神話は神代のことではありません。
すくなくとも五世紀以降の出来事なのです。出雲神話が遠い昔の話ではなく、五世紀代の話で
あることがここでも証明されています。
また、すでに正妻の須世理毘売が后の称号を得ています。だからこの時点では出雲地方に
【日本もと小国、倭国を併せり】、という小国が誕生していて、大国主神は天王の位についていた
のでしょう。
出雲から倭国(やまと)に上がった時期は、反対勢力の大部分が追放され、国が平定される
めどがついた後であろうと思われます。
出雲風土記意宇郡拝志郷条には、【大穴持命(大国主の別名)が北陸の八口(やくち)を平らげ
ようとしてお出かけのとき、ここを通られたところ樹木がよく繁茂していた。これをごらんになつて、
「この林はわが心を栄えばえと引き立たせてくれる林だ」とおうせられたので林という】
さらに同郡母里郷条では【大穴持命が越の八口を平らげて帰られた】と伝え、出雲を根拠地として
出撃し他族を平定したうえで、国を取り上げ自分の息のかかった氏族を配置しては、出雲に帰着
した様子が窺われます。
他に播磨風土記の中にも、出雲族の播磨国侵入を示す記事が多く書かれて、多くの重要な
視点を今日に残してくれている。
全文を挙げることが出来ないのが残念でなりませんが、重要なところは指摘しておきましょう。
第1段階(新旧勢力が互いに国を巡って争う段階)
【葦原シコオ命と天日槍命がこの谷を奪い合う(宍禾郡奪谷条)】
【葦原シコオ命と天日槍命と国占めしたまふ時、ここに出逢う(戦う)】(宍禾郡伊奈加川条)
【国占めましし時に、天日槍命先に到りし処なり。伊和の大神後に到りたまふ。(宍禾郡波加村条)】
【伊和の大神と天日槍命 軍を発して相戦いましき】(神前郡粳岡条)
【宍禾郡の伊和の君が族、到りてここに住む。】(飾磨郡伊和里条)
播磨国の旧勢力は天日槍命で、さきに住んでいた。そこへ後から葦原シコオ命(大国主)が
やって来て国を取りあげたという。
天日槍命は垂仁紀三年条に新羅の王子とみえ、播磨国の宍栗(宍禾)邑にいたという人物でした。
垂仁紀には「殉死の代わりに埴輪を立てる説話」があるように古墳時代ですから、天日槍命と争う
葦原シコオ命(大国主)のいた時代は縄文時代でも弥生時代でもなく、古墳時代のそれほど古い
時代ではなかつたということが分かるのです。
天日槍命に代表される在来の倭国の勢力とそこに侵入して来た出雲の勢力が戦ったのが
第1段階の記述で、出雲の勢力は北の宍禾(しさわ)郡方面から、南に進撃し飾磨郡に到ったと
風土記はいう。
播磨国には渡来氏族に関係する多可郡や賀茂郡があり、一方向だけの南下とはいえず各方面
からの南下を想定しなければなりませんが、戦いは次ぎの第2段階の記述で出雲族の勝利とな
つたことが分かりました。
第2段階(出雲勢力が戦いに勝ち、播磨国を占拠する)
【大物主葦原シコオ、国堅めましし以後・・】(美嚢郡志深里条)
【伊和の大神、国占めましし時・・】(揖保郡香山里条・他多数)
【伊和の大神、国作り堅めたまうことおわりし後・・】(宍禾郡条)
【大神、国作りおへて後・・】(宍禾郡伊和村条)
播磨国において、大国主神は大汝命(大巳貴命、おおなむち)、葦原シコオ、などの名で呼ばれ、
国を占拠した後は伊和の大神となつています。
伊和神社(兵庫県宍栗郡一宮町須行名407)は播磨の一宮として、祭神大巳貴神(大国主神)
を祭祀しているし、南下した飾磨郡には射楯兵主(いたてひょうず)神社(姫路市総社本町190)
があつて、射楯大神(五十猛命)・兵主大神(大巳貴命)を奉祭しています。
このことは、出雲から出撃して来た勢力が播磨国を制圧したことを示すものでした。
射楯は出雲の韓国伊太弖神で渡来神、兵主は燕国ゆかりの中国山東省の土地神で兵器と戦闘
の神なのです。
山陰から兵庫県・滋賀県さらに大和にいたる各地の兵主神社は出雲勢力の戦闘守護神として、
進出した先に祭れた神社だと推定できるのでした。
大国主神は継体天王と同一人物
【衣縫の猪手・漢人刀良(とら)等の祖、ここに住もうとして伊和の大神の御子、伊勢都比古、
伊勢都比売を祭った。そこで伊勢野という名がつけられた。】(揖保郡伊勢野条)
書紀雄略紀・新漢人渡来記事にみえる「伊勢の衣縫」は呉から渡来したと言う。
そうした渡来人が出雲神を祭祀することは、大国主神と渡来人との係りがあるからです。
五世紀中頃に渡来した新漢人たちが出雲神を崇拝し、氏神としていることを注目して下さい。
スサノオ(馮 弘)に率いられて出雲に上陸したのが彼らであるとこの本は主張してきました。
そのことは漢人達が出雲神を祭祀するということで、立証されているのです。
またこれらの新漢人たちが仏教布教に貢献したことは明らかでした。
そんなことから考えると、スサノオの子である大国主神が八十神から迫害を受ける原因は因幡の
八上比売(やがみひめ)の求婚話ではないでしょう。
現実世界において、オオド(継体天王の幼名)は倭国豪族からいじめを受けました。
仏教布教に対する抵抗がいじめとなつたと思われます。
それに対抗して、オオドは外国から仏教布教の為の遠征軍を招き入れました。
これが神代の国引き物語なのです。そしてオオドは日本国を建国しました。
神々が集まって出雲に宮の建設をしたというのがそうです。
仏教が伝来したため倭国の豪族は、仏教に帰依する豪族と反対する豪族に分裂し、それぞれの
陣営に参加して戦いを開始したのでした。
大国主神の平定は、現実の世界では継体天王の征服と同一で、大国主神と継体天王は同一
人物でなくてはなりません。
播磨風土記に出てくる伊勢の衣縫たちも、出雲族としてこの戦闘に加わったのではないかと想像
されます。
播磨や近江など、継体天王の拠点としている処には、新漢人の集団が存在し出雲神を祭ってい
ました。
近江では新漢人たちが奉祀する出雲神の日吉神社がありますし、播磨では前述したように伊和の
大神の御子、伊勢都比古、伊勢都比売を祭祀したという。
大国主の戦闘には新漢人たちも参加したのです。
このことは神代の大国主神の時代が、実は雄略紀の新漢人渡来時機以後で、継体天王の時代
だと考えられるのでした。
さて、日本列島では「兵主神社祭神は大巳貴命」でしたが、元来は中国の歴史書「史記に出て
くる神」で、中国東部に建国された慕容氏の燕国とゆかりのある神様なのです。
この神が中国から列島にお出でになつたのは、慕容氏の燕国が北遷して北燕国となり、
漢人馮王朝の時代に子孫が列島に来たからなのでしょう。
馮氏の守護神であり、また戦いの守護神でもあつたのでした。
大国主神が中国山東省の土地神に擬せられること、すなわち「兵主神社祭神は大巳貴命」ことも、
継体天王と大国主神が密接な関係にあることを示していると思われます。
継体天王オオドは馮 弘(スサノオ)が日本列島で産んだ子であると考えられるからでした。
スサノオの子が大国主、馮弘の子が継体天王、両者は同一人物なのです。
継体天王を祭神とする神社の数
この国を引き継ぎ、新王朝を樹立して約二十五年間天皇位にいられた継体天王は偉大な方で
あったと推定しなければなりませんが、意外なことにこの方を祭神とする式内神社の数は全国で
8神社。
すべて福井県に存在し、主祭神としているのは次ぎの5社のみ。
横山神社(福井県坂井郡丸岡町坪江19−37)
日野神社(福井県武生市中平吹字茶端80−1)(丹生郡兄子神社の論社)
意加美神社(福井県福井市字池ケ谷64)
片岸神社(福井県坂井郡三国町山岸24−22)
高向神社(福井県坂井郡丸岡町高田)(国神神社に合祀)
後の3社は出雲神と同居していらつしゃる。
継体像のある足羽神社(福井市足羽町1)では、
継体天皇、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神
合祀 大穴持像石神、亊代主神、スサノオ、継体皇子達
興須奈神社(福井県福井市下市町27)
大巳貴命 合祀 少彦名命、継体天皇、大山祇命、雅子媛
三国神社(福井県坂井郡三国町山王6−280)
大山咋命、継体天皇 配祀 雷神
継体天皇が渡来神大年神の子である阿須波神・波比岐神・大山咋命と一諸に祭祀されることを
「何故だ」というよりも「古代人にとって当然」と受けとめた方が良いのかもしれません。
それよりも私が不思議に思うのは、継体天王の次ぎに王位に就き、在位2年間の安閑天王を祭る
式内神社の数(11社)が在位25年間の継体天王を上回り、しかも広範囲に存在することでしょう。
秋田県・波宇志別神社、宮城県・御嶽神社、長野県・清水神社、山梨県・神部神社、
静岡県・三嶽神社、滋賀県・赤見神社、愛知県名古屋市・片山神社、愛知県瀬戸市・金神社、
愛知県豊田市・射保神社、大阪府柏原市・伯太彦神社、それに継体天王と御一緒の
福井県三国町の片岸神社です。
安閑天王と縁をもつ氏族が広範囲に広がっているのに、なぜ継体天王の神社は数が少なく
しかも福井県だけに存在するのでしょうか。
そこには何らかの規制が行われ、祭神を大国主命などの出雲神に変えたのではという感じがし
ますし、あるいは古代人にとって大国主命こそ継体天王だという想いが強かったのではないですか。
だからこの国を再統一した継体天王は大国主命としてお祭りされている可能性が高いのではない
でしょうか。
火明命系譜
「播磨国風土記」には、火明命系譜があつてそこには次ぎのようなことが書かれています。
【大汝命(おおなむちのみこと)の子、火明命、心も行も甚強し(いとこわし)・・】
(播磨国風土記飾磨郡条)
【大神の妻、コノハナサクヤ比売、その形美麗しかりき】(同宍禾郡雲箇里条)
【尾治連らの祖、長日子・・墓を作る】 (同飾磨郡馬墓の池条)
この条文によれば、火明命は大国主神の子であり、大山祇神の娘・コノハナサクヤ比売は大国
主の妻、火明命の子天香山命が尾張連の祖になつて、この一族(火明命・天香山命・尾張連)は、
出雲族なのでしょう。
大山祇神が出雲神に娘を婚姻させるのは、他に古事記スサノオ段に「スサノオの妻として大山
津見神の女、神大市比売。同く木花知流(コノハナチル)比売」がありました。
一方、紀・記には、火明命の系譜についてそれぞれ異論があり、錯乱している。ここで一々取り
上げるのは避けたいと思います。
ただ結論としてどれか正しいのかといえば、紀・記の系譜を退けて風土記の記述を信用したい。
歴史の糸が繋がるからというのがその理由です。
風土記は書紀や古事記の官製と異なり、地方の伝承を集めたものと思われます。
紀・記が間違っていると感じているその地の有力者もいたでしょう。
どちらが歴史的に正確かを検証しなければなりませんが、書紀の火明命の系譜は二転三転し、
検討に値しないと思いました。
火明命の子、天香山命は弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)の祭神。弥彦は大屋毘古(大国主
の兄、五十猛命の別名)の名からきているし、火明命後裔の尾張連は、継体天王に妃を出す氏族、
さらに火明命後裔の丹比連は、継体子孫の丹比真人氏の養育にあたった氏族で糸はつながって
いくのでした。
紀・記が異論を掲げているのはこうした大国主神と継体天王の繋がりを隠すためと考えられます。
火明命後裔氏族は姓氏録に40氏余、宿禰姓を持つものには尾張宿禰・丹比宿禰・津守宿禰・
若犬養宿禰・伊福部宿禰・坂合部宿禰。
ほかに出雲に部をもつ蝮部(たじひべ)、刑部首(おさかべのおびと)。関東に地盤をもつた
檜前(ひのくま)舎人連、その他山陰には但馬海直、丹波国造の丹波直・石作連などが後裔と
して見え、未定雑姓には「川内漢人。火明命九世孫否井命の後者 不見」とある。
これらの氏族は出雲を始め、山陰の但馬・丹波や河内に展開した渡来系の氏族で、
のちに高句麗系の難波連らと協力して四天王寺建造に主体となりました。
四天王寺守護神は大江神社で、祭神はスサノオです。仏教の守護神に出雲神を祭ることも、
出雲と氏族の結び付きを無視することはできません。
ついでに、スサノオが大蛇を退治する仕草を演ずる出雲神楽を太々神楽といいますが、
この神楽を東北各地に広めたのが四天王寺の楽人だという。
出雲と四天王寺の関係もまた興味深いものがありそうです。
さてこの章では、虚の時代の出来事をいろいろと挙げて見ました。
いじめを受けた大国主神が国引きを行い、さらに神々が集まって「宮の建設」を行い、そのうえで
倭国の平定を行ったことです。
外来勢力の支援を受けて、大国主神の征服は勢いを増し、出雲から越の八口を制圧、さらに
播磨国を征服しました。そして「倭国に上がり坐まさむ。」と出雲を出立される大国主神のお姿
(乗馬の姿)が描かれていました。
日本国を建立した大国主が、倭国と対立して攻めあがらんとする姿なのでしょう。
最終目的地は倭国の都大和であつたけれど、この「倭国に上がる」は、「敵対する倭国の軍勢
と対決する」という意味もあつたのです。
対決の結果、日本国は倭国に打ち勝ちました。
中国史に「日本もと小国、倭国を併せり」と書かれています。
日本書紀は日本国が最初からあることにして次ぎのようにいう。
【イザナギ・イザナミの神が大日本を生んだ(日本これをヤマトという)】
紀・記において倭国は最初から存在していないのです。倭国は敵対すべき国として描かれている。
これは紀・記の重要な問題点です。おかしな書き方をしている。
倭国を倒したのは継体天王でしょう。そうするとここに書かれている大国主神はやつぱり
継体天王じゃないですか。
さて虚の世界では、大和において「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」になつたという。
大国主は天王(天皇)になられたことと解釈できるでしょう。
そうすると、本当は天皇位に名前がなくてはならないのです。
この方の名前はどなたでしょうか?
紀・記にはこの方の名前は書いていません。形容詞だけです。
書けなかったからこそ大国主神として神話の世界に押しやったのでしょうか。
いや、もつと別の目的があつたに違いない。途中で王朝が交代し、血統が絶えたのを隠すため、
あるいは万世一系の皇位を誇示するために、出雲神話を作り出したのです。
先頭に持っていけば途中の皇朝交代を隠すことが出来る。うまく考えました。
出雲神話は暦史上の出来事を神話としています。ただ名前がありません。
スサノオにしても、大国主にしても「須佐の男」や「大きな国の王」という形容詞であつて
ほんとうの名前ではないのです。
紀・記が書けなかった名前こそ、歴史の謎を解く鍵なのでしょう。
本書ではかれらの真実の名前を追求しょうとし、馮 弘や継体天王をあげています。
初めてのことですから、挙げる資料も徹底しているわけではありません。まだまだたくさんの資料
や史実があるでしょう。
ほんのすこし、スサノオから大国主そして継体天王の概念が分かっていただければ、それで良い
と思っています。
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