継体天王の進撃 2

 丹後半島から近江・山城への進撃
 兵庫県の北から南まで、ずらりと並んだ兵主神社のラインが出雲勢力の防御線でしたが、つぎ
の段階では琵琶湖東岸・鈴鹿峠へと兵主神社のラインが移動しました。西国での平定が一段落
となり、東へと膨張してきたのです。

丹後半島北側丹後町には高山古墳群12号墳に双竜環頭太刀2が出土するし、和名抄「竹野郡
鳥取郷・小野郷」などが残っている。

    
     (高山古墳群12号墳の双竜環頭) 丹後発掘より

ここと隣の網野町に上陸した部隊は岩滝町へ南下、のちに国分寺が置かれる地域の字名は天王山
であり、至近距離に日置という地名も残っている。

山陰の国分寺は渡来氏族の居住地の傍に建設されることが多いのは、それだけ仏教に貢献する
渡来氏族が多いせいかもしれません。

吉田東伍氏によると、昔の与謝郡日置郷は「伊根、筒川、本荘から経ケ岬に至る広いものであった」
という。ここには浦島伝説の宇良神社がある。

国分寺のある岩滝町には篭神社(祭神・火明命)があります。この祭神には物部氏が随伴して
いました。和名抄「与謝郡物部郷」、野田川町石川・物部神社(祭神・宇摩志麻遅命)さらに福知山
市付近の「何鹿郡物部郷」がみえます。

部隊は加悦町大虫神社(祭神・大巳貴命)小虫神社(祭神・少彦名命)を経て、福知山市、船井郡
丹波町に入りました。

ここから南方の亀岡市にかけて大きな根拠地を作ったようです。
丹波町と日吉町に胡麻原・胡麻・上胡麻、八木町に日置、園部町に宍人、さらに園部町と篠山町との
間に、和名抄「多紀郡日置郷」など、高句麗氏族の大きな集団があります。

亀岡市周辺には出雲大神宮や漢部郷があつて随伴した新漢人達が、北から綾部市を通って南に
下がり、ここに漢部郷を作りさらに穴太にも分布を広げたのでしょう。

和名抄・丹波国郡郷名には、出雲族名と思われる桑田、漢部、刑部、日置、美和、賀茂、私部、
高津、後部など。
随伴した豪族には、宗我部、弓削(物部)、物部、佐伯、土師、拝師(大伴氏一族カ)などの郷名
が見えます。

一方、海族・青海首に導かれ、海上を進んだ部隊は福井県大飯郡高浜町、さらに小浜市へと進む。
上陸地点の高浜町青に青海神社(祭神・椎根津彦命)、高浜町日置に日置神社(祭神・応神天皇)、

高浜町宮崎に佐伎治神社(祭神・素戔鳴尊・稲田姫命・大巳貴神)、高浜町下車に香山神社
(祭神・天香山命)この方には物部が随伴しているはずだが見えず、代わりに胡麻峠、高浜、鷹島、
高屋、高野と「たか」のつく地名ばかりです。日置氏がこの地の関を守ったと考えられます。

一部隊を残し、主力部隊は陸上を進むもの・船を利用して小浜市へ上陸するものに別れ、
それぞれに東進しました。

大飯町父子に式内社・静志神社(祭神・少彦名命)があり、小浜市には式内社出雲神を祭る神社
が多くあります。次ぎの神社に代表していただきましょう。
久須夜神社(小浜市堅海、祭神・大巳貴命)
阿奈志神社(小浜市奈胡、祭神・大巳貴命)
曽尾神社(小浜市栗田、祭神・素戔鳴尊)
椎村神社(小浜市若狭、祭神・青海首、椎根津彦神)

小浜市には双竜環頭太刀を出土する古墳があります。上中町にも、さらに滋賀県高島にも
双竜環頭太刀の出土する古墳があつて、出雲勢力の進んだ跡を辿ることが出来るでしょう。

   
   (上中町丸山塚古墳出土の双竜環頭)「若狭の古代遺跡」より

三方方面は味方であつたのかも知れない。
味方(三方)という地名は広い地域にあるようです。探し出すのも面白いかも。
福井県三方郡三方町
愛媛県、北三方森
京都府、綾部市味方
富山県、氷見市三方峯
新潟県、味方などなど。

 本題にもどしましょう。
美浜町に進駐した出雲軍の豪族の墓とみられる獅子塚古墳には須恵器の角杯が出土。同町の興道寺須恵窯
からも六世紀初めの角杯が焼かれていた。この地を防衛していた豪族が渡来氏族であることを物語ります。

      
     (美浜町 獅子塚古墳の角杯)「若狭の古代遺跡」より

一方、小浜から上中町を経由した出雲軍は、琵琶湖西岸から東岸へと進撃し不破の関を
固めました。琵琶湖周辺は出雲神を祭祀する式内社がびつしり、一部省略して主な神社に代表
していただきます。

高島郡マキノ町大處神社(祭神・大地主命)
   今津町 日置神社(祭神・素戔鳴尊、稲田姫命、日置宿禰)
   安曇川町三尾里 箕嶋神社(祭神・亊代主神)
   高島町 鴨   志呂志神社(祭神・牛頭天王)
 
高島町鴨稲荷山古墳には、双竜環頭太刀の祖形や双魚佩が出土しました。
今津町には壁画のある日置前廃寺があります。出雲から渡来氏族と思われる氏族が、
ここにいた倭国の豪族を追い払って入ってきたのです。

 紀記で、継体天王が生まれ、育ったとされる場所は出雲氏族、それも高句麗氏族の濃厚な分布
があり、継体妃を出す三尾氏はここの首長だつたのでした。

滋賀郡滋賀町 小野神社(祭神・天足彦国押人命、米餅搗大使主命) 
 小野氏は高知市にも、丹後半島にも見えました。滋賀町からさらに南下して山城国愛宕郡、
宇治郡にも小野郷を作りますから、出雲軍に随伴したとみられるのです。

後に外交交渉や蝦夷との戦闘に従事する小野氏は「ミニ大伴氏」のような軍事氏族の性質を持つ
豪族で、早くから仏教に帰依し出雲族に随伴したのです。

 大津市 那波加神社(祭神・天太玉命)忌部氏の祖神です。これまた出雲族に随伴した氏族でした。
 大津市 日吉神社(祭神・大山咋命、大巳貴命)、古くは八王子山(牛尾山)に奉祀されました。

仏教伝来後に移動して来た氏族によって山名がつけられ、出雲神が祭られたのはたびたび指摘
している所です。後、この地の新漢人の一氏族・三津首から出た最澄(伝教大師)が天台宗延暦寺
を開山すると、天台宗の護法神として発展しました。

大国主を大黒天としたのも、出雲の神たちを本地垂迹説によつて、仏にしたのもこの方でした。
自分達の祖先がこの国に仏教を導き入れたという思いはあつたのでしょう。

スサノオを牛頭天王、大国主を大黒天などの仏教の守護者にすることで、この国の誰よりも、
どんな氏族の長よりも上位に置いたのでした。

大津市には、新漢人の集団がみえます。大友村主系(曰佐・漢人・史)、志賀忌寸(大友民曰佐、
大友丹波史、大友桑原史)、志賀穴太村主、志我閉連(造)など。

京都府亀岡市に漢部郷や穴太がありました。その集団は東進し、琵琶湖南岸で琵琶湖西岸を
南下した部隊と合流したのです。亀岡市に穴太寺、大津市坂本町穴太に廃寺跡・穴太古墳群・
穴太オンドル遺構を残すこの渡来氏族は仏教に厚く帰依していたと思われ、さらに進んだ穴太氏は
東岸坂田郡の郡領級豪族になりました。

琵琶湖東岸には、北側高月町に兵主神社(祭神・大国主神)、
野洲郡中主町に兵主神社(祭神・八千矛神)、があり、播磨東部の兵主神社ラインが東に移動し、
出雲勢力の膨張侵入を物語ります。

琵琶湖東岸も西岸同様、出雲の神様がいっぱい。特徴のある式内社に代表してもらいましょう。
 伊香郡木之本町、布勢立石神社(祭神・大山咋命)
 応神天皇の孫、意々富杼王の後裔・布勢宿禰の勧請なりという。
 木之本町、石作玉作神社(祭神・天火明命と天玉祖命)出雲から随伴された方々を祭る。
 物部氏族や火明命系の石作部・玉造氏族が居住したのでしょう。                                                    

 高月町、赤見神社(祭神・広国排武金日神、春日山田皇女)祭神は安閑天王とその后です。
継体天王と火明命の後裔尾張連の娘・目子媛との御子が安閑天王で、春日山田皇女は別名を
赤見皇女といいますから、もしかしたら后はこの付近のご出身では。

 浅井町高畑、波久奴神社(祭神・高皇産霊神、配物部守屋大連)付近地名に物部、唐国(物部
唐(韓)国連)などがみえる。

坂田郡は先に述べた新漢人の穴太村主や志賀忌寸など。
それに継体天王に妃を出す息長氏・坂田氏などの継体閨閥の存在があります。

この氏族は系譜を継体天王と同様に応神大王の子・若野毛二俣王から出自したとしている(古事記は
倭建命と一妻の子、息長田別王その孫息長真若中比売と応神の子が二俣王とする。
ただし書紀は古事記と違って、稚野毛二派皇子は応神大王と河派仲彦の女・弟媛の所生となつて
いる。この場面での息長氏の関与はない。)

かなり混乱していますが、日古坐王系の息長宿禰王(神功皇后の父君)の系列とは違う氏族。
それにしても継体天王とは深く繋がっています。「継体天王皇子の兎皇子が酒人公、
中皇子が坂田公の先祖となる」(書紀・継体紀)

坂田公は壬申の乱後真人姓を賜り、姓氏録に「息長真人と同祖」とあつて坂田郡が本拠地であつたし、
同じく坂田郡上坂郷(滋賀県長浜市上坂町)を本拠とする坂田酒人氏とも関連があつたでしょう。

対岸の継体天王と縁のある近江高島町には、小川(安曇川町上小川、下小川)の地名によると
思われる酒人小川真人がいた。
姓氏録に「酒人小川真人。男太跡天皇(諡継体)皇子兎王之後也」(未定雑姓、右京)とみえます。

面白いのは、大国主神の後裔氏族と主張する酒人君もいること。こちらは「大国主神の後裔忍みか
(瓦に長)(おしみか)足尼を祖とする」(鴨脚家本、大和国神別・賀茂朝臣条逸文)(日本古代氏族辞典)。
大国主神=継体天王であると思えば、この話はぴつたりなのでしょう。

 また、坂田郡から南方は石部(いそべ・石辺)氏の居住していた場所とみえ、愛知川町・石部神社、
竜王町・石部神社、安土町・石部神社、、石部町・石部鹿鹽上神社(論社・吉姫神社)、
守山市・馬路石邊神社。

祭神を天日方奇日方命とするこの氏族は、姓氏録「石辺公。大物主命子、久斯比賀多命之後也」
(山城国神別)と書かれ、渡来神大物主の子孫です。

付近、狛坂磨崖仏、狛坂廃寺、同寺守護神・大野神社の設営にあたった氏族と思われます。
琵琶湖南端草津町には印岐志呂神社(祭神・大巳貴命)があり、近江を制圧した出雲軍にとつて
倭国の首都大和は、距離的に間近になりました。

しかし、出雲の王、継体天王の大和入りは時間がかかりました。
抵抗は激しく大和への進撃は困難を極めたのでしょう。

それに継体天王は急ぐ必要がなかったのかもしれません。急げば双方に死傷者が増えます。
仏教徒にとつて、そのことは心に痛みとなりました。

戦争を放棄したため故郷の竜城を追われ、民とともに国を棄て放浪した父のこと、
「み仏の教え」に従って「この国を奪うことはしないと誓った」父の言葉は常に意識の中にありました。

やむなく、宗教戦争になったけれど領土を奪うことや敵を殺し尽くすことが目的ではなかつたのです。
仏の国を広げ、そこを確保して仏の教えを人々に浸透させることが真の目的でした。

百姓の生活安定をはかり仏教を広めて、その教えに皆が帰依すればそこは倭国に対して強力な
防御線となつたのです。

一方で、この国の宗教である神道を仏教に取り入れる方策も考え出されました。
「この世に具現した仏の仮の姿が神様なのだ」という天地垂迹説です。
仏教の方が古いのですから、そういわれると「そうかな」ということになります。

さて、出雲軍は大和制圧を急がずに、この地に防御線を設定したと思われます。
京都市南方の長岡京市には石作神社、大歳神社の出雲神を奉祀する神社があり、さらに綴喜郡に
高神社(井手町多賀、天王社)、地名に上狛・下狛・多賀・加茂・天王・高田・高山・高船など、
高句麗系氏族の濃厚な居住地です。

和名抄では「綴喜郡・多珂郷、相楽郡・水泉(いずみ・水泉高麗)郷・賀茂郷・大狛郷・下狛郷」
などの関連郷名がみえています。

わが国で最初の本格的寺院は、飛鳥の真神原に蘇我氏によつて建てられた法興寺(飛鳥寺)
ですが、ニ番目に建てられたのは上狛の高麗寺でした。

ときの権力者に匹敵する財源と民族の集団力を持つていたのでしょう。
このことは列島に渡来した高句麗族が仏教に厚く帰依していたことを物語るものです。

仏教布教のため、継体天王に招かれて遠征軍として列島にきました。
このときの高句麗系氏族を「仏教遠征軍」という名前をつけようと提唱しています。
高句麗長寿王は自国の国力衰退を考慮しながらも、東方仏教国の建設に力を貸したのでした。

継体天王は最初の宮を樟葉宮(枚方市樟葉)5年後に筒城宮(綴喜郡田辺町か)さらに七年後に
弟国(乙訓郡)に遷都しています。
紀の記述がどれほど信頼できるか分かりませんが、継体天王が高句麗氏族を含む出雲諸氏族に
護られて都を造ったことは確かなことでしょう。

天皇位についた継体の宮所在地・樟葉の地名由来を書紀は下品な表現を使って卑しめている
「兵士の袴から尿が漏れた所」(崇神紀)と。

「倭国復古」の勢いの高まった持統王朝時代に紀記が作られたのですから、
渡来氏族に護られて倭国を奪った継体天王の都がけなされるのは仕方のないことかも知れません。

さて出雲勢力が大和に入るのに、長い年数を掛けたといいます。大陸的な戦い方だつたのでしょう。
そして徐々に大和包囲網を作っていきました。

島根県太田市の物部神社伝承には「祭神・宇摩志麻遅命は、天香山命とともに物部の兵を率い、
尾張・美濃・越の国を平定され、天香山命は弥彦神社に鎮座された。」という。

天香山命は火明命の子で、この両者に物部が随伴していたことは既にお知らせしました。
尾張の次ぎに美濃そして越の国(北陸の総称)という進撃路がここに示されています。

そうなんです。出雲勢力は伊賀国の鈴鹿峠から三重県に入り、ここを平定してから愛知県に入り
ました。そして岐阜県の関を背後から攻めてこれを破り「不破の関」を解放して滋賀県の勢力と合流、
敦賀方面から船を利用して越の国(北陸)へに進みます。個別にみてみましょう。

東国(三重県)への進撃
 三重県阿山町と上野市に式内社・出雲神のまとまりが見えます。

 阿山町・穴石神社(祭神・出雲建子命、櫛玉命)出雲建子命は別名伊勢津彦といい、櫛玉命は出雲に渡来した
三輪神ですから、出雲勢力がこの地に到来したこと示すものです。
 阿山町・陽夫多神社(祭神・素戔鳴尊、五男三女神)伊賀国造、多賀連が祭るという。
日本古代氏族辞典(佐伯有清編)によると【氏名は[和名抄]近江国犬上郡田可郷(滋賀県犬上郡多賀町一帯)
によるか。未詳。姓は連。旧氏姓は高麗使主。】

琵琶湖東岸、多賀町には、多賀大社がありますが、「式内社名は多何神社ニ座」で、多可氏族が出雲から近江を
経由して、伊賀国造となつたことを示すものです。

 阿山町・佐々神社(祭神・八重亊代主命 合祀須佐之男命、大巳貴命)
 上野市・宇都可神社(祭神・大物主命、大巳貴命)
 上野市・高瀬神社(祭神・高瀬大神)

阿山町、上野市を確保した勢力は東進して
 阿山郡大山田村・葦神社(祭神・大国主神、亊代主神・宗像三神他)経由、海岸地域を北上する。
 名張市・名居神社(祭神・大巳貴命)

一方名張市・一志郡方面に部隊を配置した出雲軍は、志摩半島の制圧に向う。
この地に「和名抄」一志郡日置郷、呉部郷があります。呉部郷は不詳ですが、日置郷は津市南方、
雲出川に囲まれた日置を中心に高野、高岡辺りに比定され、渡来氏族の居住が想定できます。

 久居市・射山神社(祭神・大名貴命、少彦名命)
 津市・大乃巳所神社(祭神・大物主神)と三重県の海岸地帯は出雲の神さまがいっぱい。それに物部の神社も。

日置に隣接する久居市新家町には物部神社(祭神・宇摩志麻遅命)、
津市に置染神社(祭神・神饒速日命)と太田市物部神社伝承どおりの分布になっているように思います。

南へ志摩半島に向かった氏族は磯部(石部)氏が有名、この氏族が「大物主命後裔氏族」であることは既に
お知らせしていますが、後に外宮神主となる渡合氏はこの氏族からの出身。

志摩郡南端、南勢町礫浦にある宮山古墳(12mの円墳)から双竜環頭太刀、銅鋺、須恵器105が出土。
六世紀前半の古墳に仏教の象徴のような銅鋺が入れられていること。多量の須恵器納祭。
双竜環頭太刀が入れられていることに、この古墳の主が「仏教の楽土を作るため海を渡つてきた遠征軍の一員」
であつたことが想像されるのでした。このような事実の前には「紀の仏教記事」がいかに作られたものかを
思い直されてしまいます。

愛知県・岐阜県への進撃
主力部隊は鈴鹿市・四日市市へと北上します。代表して次ぎの式内社を挙げましょう。

 鈴鹿市・久留真神社(祭神・大巳貴命、須世理姫命、配漢織姫命)出雲神に漢織姫が配祀されています。
五世紀中ごろ来朝した漢織(あやはとり)、呉織および衣縫たち、【これらは飛鳥衣縫部・伊勢衣縫たちの先祖である。
(紀・雄略紀十四年条)】 

紀、雄略七年条には、新漢人の来朝を伝えて、衣縫部の名が出てくる。
漢織たちは新漢人の集団の中にいたのです。

出雲神に率いられて、放浪の末に出雲に上陸したのでしょう。だから出雲神と一諸に、ここに配祀されているのです。
彼らの来朝時代は雄略紀の出来事で、神話の時代ではない。

同様に神話で出雲の神とされる人達の実年代は、新漢人と同年代と考えてよいのでしょう。
こういう神社事例に出合うと、いままで述べてきたことがより鮮明になるようです。

播磨風土記には揖保郡伊勢野の名称伝承として、「衣縫の猪手、漢人刀良等の祖がここに住もうとして、
伊和の大神の子、伊勢都比古・伊勢都比売を祭った」とする。

伊和の大神は大巳貴命の別名ですから、この漢人たちは大神に従って来た民たちでした。
伊勢の衣縫いの名称はもしかしたら播磨の地名かもしれない。地名の移動も考える必要があるのです。
阿山町の穴石神社の祭神は伊勢津彦でした。この方は土地神ではない。出雲神と考えなくてはなりません。

 四日市市・江田神社(祭神・五十功彦尊)祭神はスサノオの御子五十猛命か。列島に木の種子を播いて有功
(いさおし)の神と称えられたという神ですが、青森県では紀元五千年前の縄文時代中期に栗の木栽培が行われ
ていたというから五十猛命の播いた種子は、木の種ではありません。仏教用語でいう種子(仏様を表す梵字)
なのでしょう。有功の神というのは仏教布教に貢献したという意味で、この一族が仏教界から高く評価されているのです。

 四日市市・鳥出神社(祭神・日本武尊、亊代主神)朝明郡大郷の総氏神。
伊勢国朝明郡(三重県四日市市、三重郡の一部)には、朝明史氏族がいました。姓氏録未定雑姓、右京
【朝明史。高麗帯方国主氏韓法史之後也】とみえ渡来氏族です。
渡来氏族がどのようにして、各地に広がったかを示しているように思います。

 四日市市・穂積神社(祭神・神饒速日命、伊我色雄命)随伴している物部氏族の神社です。

現在の名古屋市付近には倭国大豪族葛城氏が領地としていました。配下には倭国最強の鶏林(任那国の一国)
出身者で構成された部隊がいましたから、兵庫の出石で手厳しい反撃を受けた時と同様の戦闘になることが予想
されました。北上した出雲勢力にとつてやつかいな相手です。

出雲勢力の取った戦法は、急がないこと、包囲して時間を掛けることだったのでしょう。
これが中国的な戦い方だつたのかもしれません。

長期戦に我慢できなくなって、猪突してくる倭国兵を取り囲んで少しづつ戦力を奪っていきました。
そしてついに倭国軍を追い払い、兵主神社を豊田市矢作川辺に建てたのでした。


琵琶湖東岸からこの地へ長い道のりでしたが、ついに東国の一郭に仏教国を作り上げることに成功しました。
 兵主神社(豊田市荒井町・祭神大物主神、三穂津姫命)三穂津姫命は高皇産霊尊(大伴氏祖神)の娘で、
渡来神大物主神に嫁ぎました。渡来氏族と豪族大伴氏の婚姻関係を示すものです。
そんなところから出雲に渡来氏族を招く計画を立案したのは、大伴氏ではないかと推測されるところです。

○ 継体の皇子・安閑天王を祭る式内社
この地を占拠した尾張連は継体天王の妃目子媛の皇子・のち安閑天王の養育に当たったので、この地方に
安閑天王を祭神とする神社があります。
射穂神社(豊田市保見町・祭神安閑天皇、春日山田皇女、神前皇女、蔵王大権現)
金 神社(瀬戸市小金町・祭神尾張金連、配安閑天皇、金山彦)
片山神社(名古屋市東区・祭神蔵王権現、配安閑天皇、国狭槌命)

射穂神社は和名抄「三河国賀茂郡伊保郷」の地にあります。伊保の大神・蔵王権現はともに大国主神の別名で、
これを継体天王とすれば上の神社祭神の構造がなんとなく分かってくるのでしょう。

兵主神社の東側には和名抄「参河国賀茂郡および額田郡」の郡名があつて、出雲勢力の進出を裏付けています。
占拠した出雲氏族のうち大豪族は、火明命を祖とする尾張連であり、継体朝を支えた継体閨閥の一つでした。
部族の神社は多いので代表してもらいます。
 真清田神社(一宮市・祭神天火明命)尾張一ノ宮です。

 漆部神社 (愛知県海部郡甚目寺町・祭神三見宿禰、配木花開那姫命)三見宿禰は天火明命の
五世孫、漆部の祖。木花開那姫(このはなさくやひめ)は大国主の妃となり、火明命の母となる方。(播磨風土記)

 石作神社(愛知県海部郡甚目寺町)、同(犬山市今井)、同(長手久町岩作)同(岐阜県羽島郡
 岐南町)は火明命の後裔氏族氏神。
 青衾神社(名古屋市熱田区・祭神天道日女命)祭神は高倉下命の母。
 高座結御子神社(名古屋市熱田区・祭神高倉下命)祭神は火明命の子で、後に天香語山命と
 改名した。高倉下命は神武東征説話の中にも登場してくる人物、海路新潟県に渡り、弥彦神社に
 鎮座したとされる方です。

また伝承どおり物部が随伴して来ました。
 物部神社(名古屋市東区石神本町)、同(春日井市二子町(白山神社に合祀))
 味鋺(みまり)神社(名古屋市北区楠町・祭神宇摩志麻遅命)など

 この地の高句麗氏族もあげておきましょう。
 日置神社(名古屋市中区橘・祭神従三位日置天神、天太玉命)付近や西方の和名抄「尾張国
海部郡日置郷」、岐阜県岐阜市長良川河辺の「日置江」付近。

日置江は渡来氏族が管理した川辺の関で、対岸は穂積町(物部)。後に秀吉の一夜城で有名に
なる交通の要衝でした。

それと三重県桑名市に東方・西方・播磨・額田などの地名が固まってみえる地帯もまた渡来氏族の
居住が想定されます。

但馬・近江でみえた穴太部もこの地に来たのでしょう。
 穴太部神社(愛知県葉栗郡木曾川町、論社賀茂神社祭神・玉依姫命、賀茂別雷命)がありました。

 岐阜県には賀茂の地名が多くあります。賀茂が出雲に由来した地名であることは異論のない
ことでしょう。
岐阜から、出雲の部隊が飛騨路を遡り高山市方面に進撃したのかについては否定的です。
それよりも高山市方面は富山県からの進出だつたのでしょう。

地名考証をされた佐賀 新氏もこの道は連絡路程度であるという。
私もそのように感じています。部隊は不破の関を開放して、滋賀県の勢力と合流しました。
新しく東国の一郭に仏教の国を建設したのです。

ここの民の生活を安定させ、仏教を広めることが優先されたことで、戦いを性急に進める方法は
取らなかったのです。ゆっくりとそして確実に民を導くこと。それが次ぎの膨張を促していく。

そんな宗教戦争は経験したことがない倭国軍にとつて、まことに苦手であり、強敵でした。
「日本、小国。大国倭国を併せり」といわれました。小国であつた出雲の日本国が大国を倒し、
併合するには宗教の力があつたと思っています。

越への進撃
 北陸で大きな国を作った地域は、能登半島を含む加賀国(石川県)、越中国(富山県)を合わ
せた地域でした。途中の越前国(福井県)では局地的な戦闘をおこなつたのでしようが、
在地の豪族とは大きな争いとはならなかつたようです。

それでも、九頭竜川川口に上陸した氏族は、坂井郡三国町を占拠。雄島に
大湊神社(祭神・亊代主神・少彦名神)を安置しました。
三国神社(三国町山王・祭神、大山咋命、継体天皇、配雷神)
直野神社(福井市南居町、大巳貴神社境内・祭神三尾君)

この地に侵入してきた三尾君は近江西岸に居た氏族で、出雲族でした。
紀・継体紀では、【三尾君堅ひの娘倭媛は継体天王の妃となり、ニ男二女を生んだ。】
【その第一を大娘子皇女、そのニを椀子皇子と申し上げる。これは三国公の先祖である。以下略。】と。

三国付近は、近江から進出して来た三尾君の新しい領地になつたのです。継体天王の御子たちは
この地で育てられました。継体天王の子孫が北陸の三国に居るわけがこれで分かって来ました。

三国神社の祭神に、「山王さん」といわれる出雲神・大山咋命と継体天皇が一諸にまつられている
ことも不自然ではありません。

大山咋命は琵琶湖西岸の八王子山に、出雲族によつて祭られました。
移動して来た三尾君たちによつて勧請されたのです。もちろん継体天王も氏神だつたのでした。

ところで、紀では大伴金村大連、許勢臣、物部連らが計って継体天王を三国から迎えて王位に
就けたとしています。【そのとき天王は平然と胡床(あぐら)に坐し、侍臣を整列させて、すでに帝王
のような姿であつた。】という。

この時期は出雲勢力が関東地方を制圧した後、いよいよ大和へ進撃する時機と思われます。
もうこの時には継体天王は日本国の帝王だつたのでした。
「帝王のような姿」ではなくて「帝王だつた」のです。

そんな時、継体天王は三国の妃君の許にいらっしゃったのかも知れません。
だけど、近江で生まれて、越前で育ったということはないでしょう。紀の継体天王紀は誤りが多い
ように感じています。

 九頭竜川支流日野川沿いには、
 與須奈神社(福井市下市町、祭神・大巳貴命、合祀少彦名命、継体天皇、大山祇命、雅子媛)。
 石部神社(鯖江市磯部町、祭神吉日古命、吉日売命)があり、出雲族の部分的な占拠が認められます。

九頭竜川本流沿いには
 足羽神社(福井市足羽・祭神・継体天皇、生井神、福井神、綱長井神,阿須波神、波比岐神、
合祀大穴持像石神、亊代主神、素戔鳴尊、継体皇子達)
継体天王と出雲神が一諸に祭られているのはここも同様です。

福井県で戦闘が起きただろうと推定されるのは、和名抄「大野郡」(現在の大野市・勝山市を含む
一帯)だつたのでは。

ここには一言主大神を祭る「坂門一亊神社」があつて葛城系氏族がいたから、頑強な抵抗をしたでしょう。
しかし、すで多数派になつた出雲勢力の前に壊滅されました。勝山や勝原などの地名が残されいます。

勝ったのは出雲族で、和名抄「大野郡賀美郷、資母郷、出水郷」と渡来氏族に関連した郷名がみえます。

三国に上陸した三尾君たちは坂井郡から石川県南部に侵入し、加賀市付近まで勢力を広げました。
近江でも三尾君の居住地近辺には日置神社がありましたが、この地にも同様に存在しています。

 日置神社(石川県江沼郡山中町・祭神天押日命)祭神は大伴氏の祖で、日置氏族が大伴氏の
祖を氏神とする。北陸の戦闘は大伴氏を指揮官としておこなわれたのでしょう。
大伴氏と渡来氏族との婚姻関係は既に述べました。

△ 法皇山横穴古墳群(加賀市勅使町、80基以上)。横穴墓は丘陵の中腹や崖状の山腹を掘り
込んで作る墓で、渡来高句麗氏族によつて採用されて広がったと考えられる。
渡来族の居住地には横穴墓の存在があります。

越前国坂井郡は後に東大寺領となり、関係資料に住民の氏名が載せられていますが、物部・秦
などの姓の中に、日置・額田の姓がみえる。(古代人名辞典)

日置氏の分布は福井県三国から石川県南部にかけての地域に想定することができるでしょう。
ついでに秦氏は応神大王ご帰還時に、半島倭国から随伴・移住した氏族で「国籍倭国の人達」
だから、渡来人ではありません。倭国人というのが正しいのです。

倭国と日本国との戦いでは倭国の精鋭部隊として、戦ったのが鶏林系秦氏でした。
越前国の秦氏は任那系秦氏と思われ、奴婢にならず百姓としての生活を送っている。
戦闘がなかつたと推定される点です。

越中に大きな国を作る出雲氏族
石川県南部は三国に本拠を置く氏族によつて、統治されたと思いますが、
石川県北部と富山県にも、別の大きな国ができました。

地名考証をされた佐賀 新氏も次ぎのように言っています。【現在の富山市,小杉町、大門町、
福岡町、高岡市、礪波市等の富山、小杉、大門、福岡、高岡、礪波の地名は、総て出雲にある
地名である。仮に「礪波の国」と呼ぶと、現在の富山県から石川県の半分ぐらいを支配していた
ようであり、それ以外の石川県は福井県に造った国の支配下にあつたようである。】
                    佐賀新著「出雲朝による日本征服」より。

富山県近辺の山名を見てみると、「高・たか」の名前をつけた山が圧倒的に多い。
地図を御覧になってください。大部分の山が高をつけた名前になつている。

これは偶然とは思えないのです。この高の名前がついて居る所を一つの行政範囲と考えると
一つの国と推定できるでしょう。
そういうことで、この地方の高句麗系氏族の分布から調べることにしましょう。

和名抄「能登国珠洲郡」には「日置郷」があります。能登半島北端は新潟侵攻の足がかりとなつたのか、
かなりの高句麗系氏族の分布があつたのです。
珠洲郡には双竜環頭太刀の出土する古墳が複数存在しました。

七尾湾の能登島では、前にも出た「四隅三角持ち送り式」の高句麗様式古墳「蝦夷穴古墳」が存在。
南方鹿島町に「曽根1号墳」双竜環頭太刀出土。
氷見市には加納横穴墓群、西8号墓に銅製双竜環頭刀子が出土。

常願寺川下流、富山市水橋に「高麗神社(祭神・五十猛命)」、「高来社(祭神・五十猛命)」。
高句麗系渡来氏族が出雲神を祭るのは何処も同じで、この氏族が出雲に渡来したことを示すものだ
と考えられます。

川口左岸浜黒崎と横越に挟まれた地に現在も「高来」の地名が残っている。
常願寺川中流には日置の地名と日置神社(祭神・天太玉命)、立山町日中に日置神社(祭神・天押日命)、
祭神はいずれも大伴氏系祖神。
大伴氏は出雲と縁の深い氏族。この宗教戦争の立役者であったのです。

現在の砺波市を中心に越中一の宮、高瀬神社(砺波郡井波町・祭神大巳貴命、天活玉命、五十猛命)付近、
高瀬、高儀所、高屋、北高木、南高木、胡麻島、和泉などの地帯も渡来氏族の居住を想定されます。

その他の氏族はどうでしょうか。能登半島羽咋市付近には、羽咋公(三尾君と同族)氏族が蟠居して
いました。付近式内社は出雲神をまつる神社が多い。
 気多神社(羽咋市寺家町・祭神大国主命)能登一の宮。
 相見神社(羽咋郡押水町・祭神大国主命)
 手速比盗_社(羽咋郡押水町・祭神沼河姫)

古事記神話に八千矛神が越国の沼河比売を娶る話があります。
この話は大国主が八十神を退けて国作りを始めた説話の後に入っている。
沼河比売が求婚を受け入れた後、いよいよ大国主は大和に向うため、出立なさるのですから、
大和攻略のためには北陸さらに長野・山梨・関東の平定が必要だったのでしょう。

沼河比売は新潟県糸魚川市田伏の奴奈川神社の祭神でもある。
 能登生国玉比古神社(鹿島郡鹿西町金丸・祭神多気倉長命、配市杵嶋姫命)
多気倉長命は大巳貴命・少彦名命の随臣。その姫君市杵嶋姫は少彦名命の妃となつて、
菅根彦命を生んだという。これがこの地域、金丸村村主の遠祖だと伝えている。
出雲族の進出を物語るものでしょう。

 久目神社(富山県氷見市久目・祭神大久目命)祭神は大伴氏一族の久米氏。
 磯部神社(富山県氷見市磯部・祭神天日方櫛日方命)すでにお馴染みの大物主神後裔と伝える氏族。

そのほか、砺波郡に蝮部公(たじひべのきみ・火明命後裔)が部民とともにみえます。
出雲に蝮部臣や蝮朝臣などの氏族がいますから、その分家というべき人達でした。

 物部神社(富山県高岡市東海老坂・祭神宇摩志麻遅命)
 布勢神社(富山県魚津市布勢爪・祭神五十猛命)布勢氏は大彦後裔と伝える氏族で、同族に阿倍氏、
高橋氏などがいる。この氏族が氏神として五十猛命を奉祀しているということは、同神に随伴した
ものでしょう。

 林神社(富山県砺波市林・祭神道臣命)大伴氏の神社です。和名抄「射水郡伴郷」の郷名がみえ、
九州を平定し終えた大伴氏が、本土の戦線に参入し北陸攻略の指揮を執ったのではないか。
そんな思いがするのは、石川・富山県の高句麗氏族が祭祀する日置神社祭神を大伴氏祖神
「天押日命」としているからです。

 熊野神社(富山県婦負郡婦中町中名)には「出雲の民が船で北上し、(この地の)為成郷(十八ケ村)
に移住し、開拓にあたつた。」と伝えている。時期的には高句麗氏族を伴える時機でなければならないでしょう。

その高句麗氏族は新潟県境の防衛にあたり、さらに南下して岐阜県高山市方面にまで進出しました。
 富山県の山名に尻高山がある。岐阜県との境には大高山、岐阜県に入って高山があります。
山の名前どおり富山県側から高山市に向かって飛騨街道、越中東街道を進んだのでしょう。

岐阜県飛騨高山地方には次ぎのような式内社があります。
 栗原神社(岐阜県吉城郡上宝村・祭神五十猛神、大山祇神、宇迦之御魂神他)
祭神はスサノオが高句麗(「北の新羅」)から伴って列島に来朝した長男。と大山祇神の娘・
神大市比売との御子「宇迦之御魂神」。同じ御子の大年神がここでは見えないが、そういった関係の氏神。

 阿多由太神社(岐阜県吉城郡国府町・祭神大歳御祖神、大物主神、配熊野久須美命、
 阿須波神他)こちらは渡来神大年神一族の神社。

 水無神社(岐阜県大野郡宮村・祭神御歳神、配祀大巳貴命、三穂津姫命、少彦名命、大歳神、
 応神天皇、他)飛騨国一の宮です。出雲関係者の神社。

 荏名神社(高山市江名子町)、 高田神社(吉城郡古川町)は祭神を高魂神とする大伴氏祖神を
 祭る神社。

出雲族が、岐阜県高山市・国府町を中心とした地域に根拠地をおいた理由は、ここが南北交通の
要衝であつたからで、美濃賀茂市に通ずる連絡路があつたのです。

     

 


    越後の平定
 越中国(富山県)と能登半島に大きな根拠地を築いた出雲軍は、膨張して越後の国(新潟県)に
侵入しました。

船を使用して河口に上陸、流域を占拠して奥地に進撃する大規模戦闘部隊の上陸地点となつた
直江津・柏崎・新潟。

その間の河川に上陸をした小規模部隊とかなり計画的な同時侵攻作戦を実施しました。
新潟県南部の頚城郡・三島郡は騎馬民族が得意とする機動力が有利に働く地域、包囲し
敵を殲滅する作戦に適した地形でした。大部隊はここに上陸したのでしょう。

新潟県中部は現在の姿とは違い、信濃川・阿賀野川・加治川が東西に合流して新潟や岩船郡
の荒川から日本海に流れでていました。

その水流は複雑に入り組み、各地に「〇〇潟」という沼地が存在していましたから、蒲原という名の
とおり、大部分が水草の生え茂る場所です。

ここでは、海族の活躍があつたものと思われます。
そうした沼地の縁を囲むように延びる、現在の弥彦村から新潟に至る細長い海岸地帯には、

新潟よりに寺尾・寺地・立仏など仏教に関連した地名や大友・伏部・高橋などの氏族名を現す地名、
境界を示す西川町の大関(防衛のための施設)の地名があります。

弥彦村から燕市の大関を通り三条市・加茂市さらに五泉市、新津市の大関・古津に至る山側の地帯。
この両陸地に挟まれた地帯は信濃川や五十嵐川など支流が形作る大小の潟と呼ばれる湿地帯でした。

和名抄「蒲原郡」には日置郷、櫻井郷、勇禮(いくれ)郷、青海郷、小伏郷の五郷名があります。
日置郷がどの辺にあつたのか、比定することは難しい。ここは郷名があつても日置の地名も、
日置神社の存在もない珍しい地域だからです。

高峯(要害山)、高館山や加茂市などの地名に渡来氏族の存在を感じさせるものがあります。
 激戦となつたのは、阿賀野川北側の沼垂郡(現在の北蒲原郡)・岩船郡だったのでしょう。

この地には倭国の大豪族葛城氏の一族・多奇波世が四邑の民(半島倭国鶏林の軍)を配置していた
と思われるので、大きな戦いになったことが想像されます。

書紀は「四邑の民が虜として列島にきた」としていますがこれは誤りで、本当は、応神大王の御帰還に
随伴した半島倭国の民・鶏林秦氏の民でした。

 秦氏は葛城氏のもとで列島に領地を賜り、倭国の最強軍団として出雲軍に対抗しました。
激しい戦いの後に敗れ生き残った鶏林秦氏が捕虜となり、奴婢とされるのは倭国滅亡の戦いのときです。

つまり倭国と日本国の戦いの時に捕虜となったのでした。
そんな戦いは紀・記には一言も書いていません。歴史の大きな部分を抜かして前後を縫合した
のが、書紀なのです。

この地の和名抄郷名は沼垂郡に足羽郷、岩船郡に利波郷があります。
足羽郷は福井県の氏族、利波郷は富山県の氏族が戦闘に参加して占拠した場所、
仏教に帰依した彼らも北上する出雲軍に加わったのでした。

先に述べた「大関」のあり方から見て、主力部隊は南から北側に段階を経ながら進撃したと考え
られますが、縦横に走る河川地帯に新潟市を根拠地にした海族が、船で各地に兵員を輸送した
ことも事実です。あるところでは南下も考えて良いかもしれません。

海族・青海首の奉祀する青海神社は新潟市長峯町と加茂市大字加茂にあります。
新潟市から南下して加茂市に進出したと解釈できるでしょう。

ここでは出雲族に随伴する海族の活躍が話にでました。越後の戦いには船での移動が無くては
ならなかつたのです。

それでは、神社伝承を中心に出雲族の北上を見てみることにします。
 青海神社(新潟県西頚城郡青海町・祭神椎根津彦命)海族青海首は富山県から新潟県に入った
すぐのところ、青海町の青海川口に根拠地を設けました。

祭神椎根津彦では分からないかもしれませんが、あの神武東征説話に登場する九州大分の漁師。
珍彦(うずひこ)のことです。この氏族は仏教に帰依し出雲側に付いて大きな活躍をみせました。
そして広い地域に分布をしたのです。

青海町の北側・糸魚川市を流れる姫川は、河口も広く大部隊の上陸に適していたでしょう。
こちらは九州の海族安曇族の上陸、さらに県境を超えて長野県への進撃が想定されています。

糸魚川市には越の奴奈川姫が住んでいたとみえ、
 奴奈川神社(糸魚川市一の宮・祭神奴奈川姫・配八千矛神)
 佐多神社(糸魚川市大字北山・祭神大国主命、建須佐之男命)など。

大国主が婚姻を結ぶ相手の奴奈川姫は、地元の豪族とみられるのて平和交渉が成立したのか
もしれません。

ここから次ぎの直江津市までの間にある小河川には、それぞれ出雲神を祭る式内神社が存在する
ので、一応あげておきます。
能生川流域、大神社(能生町平・祭神高皇産霊尊,大巳貴命、少彦名命)
名立川流域、江野神社(名立町・祭神素佐能男命、奇稲田姫命、大巳貴命、亊代主命)

直江津は新井市、上越市を流れる関川の下流域の津(古代の港)で国分寺の置かれた場所、
この地を含む高田平野は、古代行政の中心地だつたのです。高城山がここにある。渡来氏族
と高城山の山名も関連があると思っています。

越後一の宮である居多神社(上越市五智・祭神大国主命、奴奈川姫命、建御名方命、亊代主命)
や阿比多神社(上越市長浜・祭神少彦名命)が存在する。

上流、新井市宮内には斐太神社(祭神・八千矛神、積羽八重亊代主神、建御名方神)があつて、
神社伝承に「大国主神、越の国に行幸され、この辺りを国中の日高見の国なりとおうせられて滞留された。
(大国主神は)沼河毘売を娶られて、建御名方神を居多の浜の躬論山に生み給う。
大国主神、大御功績を終えまして[わが魂をこの地に鎮めん]と御衣・御剣・御鏡・曲玉を残し給えるを
御魂として、斐太神社と称する」と。

この付近は後期古墳の密集地帯となつている所でした。
また、こうした伝承は直江津と柏崎の中間地点、柿崎町岩手の圓田神社にもある。

「大巳貴命、国土平定のため、高志に来たり給う時、この圓田沖に船を入れ、龍ケ峯に船を繋ぎ
上り、この峯に一祠を立つ、これが神社の初めなり」と。

西山町二田の物部神社(祭神二田天物部命)、二田造(物部配下、五造の一)の神社でも
「弥彦神社祭神の天香語山命に供奉し当地に至る」との伝承があります。

物部が大国主の孫である天香語山に随伴し当地に至ったその時機は、大国主神の国土平定の
時でなくてはならない。
物部神社の伝承は島根県太田市の物部神社の伝承から始まって終始一貫しているように思えます。

物部と並んで各地に転戦した渡来族・久斯比賀多命の後裔石部(磯部)の神社も見ておきましょう。
越後国、頚城郡・水嶋磯部神社(論社3)、古志郡・桐原石部神社(論社2)、三島郡・御嶋石部神社(論社2)
などに随伴する出雲族の姿がみえます。

新潟県の名神大はご存知の伊夜比古神社(弥彦神社)で、現在の祭神は天火明命の子、天香山命
お一人になつているが、神社名からみると大弥彦こと五十猛命の御名がなぜか消えているようです。

弥彦神社の付近には伏部・高橋などの地名がみえ「小伏郷」はこの辺りか。
富山県魚津市の布勢神社の例に従えば、布勢氏は五十猛命に随伴したと思えるので、
伏部・高橋など布勢氏一族の住んでいる所にあるこの神社祭神に、五十猛命の御名がない
ことはおかしい事でしょう。

現在の神社物語は「神武天皇の勅を受けて、高倉下命が名前を天香語山命と変え越の国に下向、
開拓にあたった」(作者の名前?)とする。

この物語の筋では、祭神として五十猛命の入るところはない。数ある物部神社伝承も考慮されて
いないし、大国主の越平定との関連もない。不思議な話になつてしまつている。
だが、神武東征と出雲氏族の物語は意外な歴史の一面を伝えているのかも知れない。
詳しいことは後で(継体天王畿内へ進撃の項)で述べます。

 蒲原郡以南を制圧し、五泉市の大関を築いていた出雲軍はこの地に
 中山神社(五泉市大字橋田・祭神大巳貴命、配祀大山咋命、少彦名命、天穂日命、建御名方命)
の氏神社を築く。

この付近、金毘羅山、菩提寺山、護摩堂山の山名はいつの時代につけられたのだろうか。
仏教による、気になる名前です。

さて、次ぎの段階には沼垂郡(現在の北蒲原郡)に侵入を開始しました。
新潟市河渡は東西に流れる川によって山側と分断された細長い海岸地帯、ここには大形神社
(新潟市河渡字本屋敷・祭神大巳貴命)が存在しました。

付近に物見山という地名、大仏という古名、なにより仏伝という地名は宗教が伝わったことを示す
ものかもしれません。

誰によって伝えられたかというと、大形神社の祭神によって仏教が伝えられたと思うのでした。
阿賀野川を越え対岸に進出した出雲軍は、陣ケ峯を経て新発田市へ。

 ニ王子神社(新発田市田貝・祭神大国主神、配祀一言主大神)
 川合神社(北蒲原郡黒川村・祭神多奇波世神、熊野加夫呂伎櫛御食野命)
このニ神社は、出雲氏と葛城氏の呉越同舟の神社。お互いに良く戦い、良く護り全力を尽くして
善戦したのです。

勝つたのは出雲の日本軍でした。ここに新潟全県が制圧されました。
この新潟の国に仏教を定着させるためには、固く護らなくてはなりません。

地図を見てみると新潟県と群馬県・長野県の境には、栃尾市の高森山、小出町の高鼻山、
六日町・高倉山、湯沢町・高津倉山、高野山、野沢温泉村高倉山と、高を冠した山名は線で
結べるように感じます。

群馬県と長野県の県境に近く、これらの山には防衛用の貯蔵施設である倉が作られていたの
かもしれません。偶然に付けられたとはとても思えないのは富山県の山名と同じです。

 小出町には伊米神社の論社清水河辺神社(祭神・建御名方命)、
           同論社諏訪神社(祭神・建御名方命)。
 六日町には阪本神社の論社日吉神社(祭神・大巳貴命、大山咋命他)
などの出雲氏式内神社が存在しているのでした。

     



信濃・甲斐への進撃
 長野県・山梨県への出雲勢力の進出が、日本海側から行われたということに異論はないように
思われます。

地名考証をされた方も、神社伝承を検証された方も北から南に出雲勢力が侵入したと結論を
出されている。

大国主命と越の沼河比売が結婚し、二人の間にお生れになった建御名方命が諏訪神社の祭神
なのですから、この結論は当然というべきなのです。

一方でこの地方に高句麗氏族が住んでいたことは、続(後)日本紀の記事や積石古墳の存在、
さらには甲斐国巨麻郡(こまぐん)の地名などで分かるでしょう。これまた、異論のないところです。

ただ、この二つが同時期の出来事によるものであること、つまり出雲勢力の一部として高句麗軍が
侵入して来たことは、いままで誰も言わなかった。
紀・記に書いていないからです。

書いていないだけならまだしも、五世紀末の出来事を神代という空想の時代に棚上げしてしまつた。
従って、古渡りの高句麗氏族が列島に広く分布していることは、明らかなことなのに誰もが出雲とは
関係のないことだと考えてきた。

高句麗氏族が日本列島に来た理由も、何故広い範囲に分布しているかも、よく分からなかったから、
古代史の専門家も話すことを避けたでしょう。
基本になるべき紀・記が誤りを書いているのだから、古代史は謎だといわれるのです。

さて、進撃路の概要は南下したという状況でいいのでしょうが、個別のことをもう少し詳しく見て
みることにします。

 糸魚川市から南下した部隊には、海族の安曇氏がいました。和名抄信濃国には「安曇郡」
(現在の北安曇郡・南安曇郡)の地名が残っています。
 川會神社(長野県北安曇郡池田町・祭神底津綿津見命)
 穂高神社(長野県南安曇郡穂高町・祭神穂高見命、綿津見神他)は安曇氏の氏神。

騎馬民族渡来説に反対論を称える人が真っ先にいうことは、「騎馬民族が船を扱えないのでは。」
という言葉です。この本の中では、海族の青海首も安曇族も出てきて、出雲の軍勢を導いたことを
明らかにしています。

倭国の海族が、出雲勢力に協力したのは、彼らが仏教に帰依して出雲の日本国に付いたからなのでした。
 糸魚川市から南下した部隊とは別に新潟県信濃川沿いや関川沿いに南下した部隊は、長野市付近を
目指しそれぞれに進撃を開始した。

 粟野神社(長野県上水内郡豊野町石・祭神天日方奇日方命)は大物主後裔の石部氏の氏神。
 同じ豊野町には 伊豆毛神社(豊野町下伊豆毛・祭神素戔鳴尊、大巳貴命)があり、
出雲勢力の南下を印像づけています。付近小布勢町の地名は阿倍一族、布勢氏の南下。

高井郡の高井は高氏族の居住地を示す高居でしょう。ここの式内神社は
高社(たかもり)神社(上高井郡高山村大字高井・祭神建御名方命、高毛利神)と高の字が続く。

 この付近中野市新野・金鎧山古墳および長野市松代町大室を中心とする500基以上の
大室古墳群は、積石墳と合掌形石室を持つ古墳群で知られているし、須坂市鎧塚2号墳は
獅噛文バツクルを出土して有名です。

   (須坂市立博物館)

古墳から出土する五鈴鏡や鈴が仏教に関連するのではないかといわれながら定説にはなつて
いないのは、書紀の書き方に影響を受けているのでしょう。

金鎧山古墳の被葬者のように騎馬民族系渡来人なら仏教帰依者であったことは充分考えられること。
五世紀末(TK47期)の古墳から出土した鈴鏡は仏教用具と思われます。

 長野市更北の清水神社祭神は継体天王の御子・広国押武金日命(安閑天王)で、和名抄
「水内郡尾張郷」との関連が想定され、継体天王閨閥の尾張連の部民が出雲勢力の一部として
進出して来ました。そのことは長野市の地名に尾張部という地名が残っていることで納得できますし、
その出雲勢力は、継体天王が率いる軍勢であると思われるのでした。

尾張連の祖神火明命には物部が随伴したとの伝承が各地にあります。当然のように当地にも
 越智神社(須坂市幸高・祭神饒速日命)
 小内神社(長野市若穂綿内・祭神宇摩志麻遅命、建御名方刀美命他)
と、物部氏の神社があるのです。

長野市から松本市に向う街道沿いの信州新町日原には、
 日置神社(祭神・天櫛玉命、天櫛耳命、建御名方命、八坂刀売命)祭神は日置部の祖
(姓氏録和泉国未定雑姓)と出雲夫婦神。

同式内論社は他に生坂村日岐・日置神社がある。いずれも高句麗氏族の氏神社。

 生島足島神社(上田市下之郷・祭神生島神、足嶋神)の神社伝承には「建御名方命が諏訪の地に
下降される際、この地に留まった。」という。
宮中で祟りを恐れ、巫女にお払いをさせる神々の23座の中に生島神・足島神が入っていることを
どのように考えたらよいのでしょうか。この神社祭神も出雲神と考えれば、納得できましょう。

 長野県の式内社48座の大部分が出雲神を奉祭しているので、次ぎの神社に代表してもらいます。
 南方刀美神社(諏訪大社・祭神建御名方神、八坂刀売神)祭神は大国主命の御子で、国譲り物語に
登場する。奥方は八坂造というスサノオを奉祀する京都の豪族出身ではないのか。すべて出雲族です。

名神大社で古事記に登場する人物の鎮まる神社。しかし周辺は渡来氏族の桑原氏の蟠居する
和名抄「桑原郷」であり、姓氏録「桑原村主。漢高祖七世孫万徳使主より出ずる也」(左京諸蕃上)
同じく同書に「桑原史。桑原村主同祖。高麗国人万徳使主之後也」(摂津国諸蕃)
「桑原史。狛国人漢臂より出ずる也」(山城国諸蕃)とみえる氏族、

隣接する和名抄「美和郷」は渡来神大物主神を氏神とする氏族の居住が想像され、祭神に随伴した
のはこれらの氏族であつたのでしょう。

諏訪神社下社の神官(大祝)は金刺舎人氏で、出雲の大舎人氏(日置氏一族)とおなじく敷島金刺宮
(奈良県櫻井市)に政をとつた欽明天王の御世に官位・姓氏を得た氏族。信濃国・駿河国・関東に分布する。
多氏一族に属し、渡来氏族であろう。

そのほか、長野県茅野市「釜石古墳」は獅噛文環頭太刀を出土する古墳。この太刀の分布も興味深い、
巻末の一覧表を参照ください。

 大伴神社(北佐久郡望月町・祭神須佐之男命、大巳貴命、少彦名命、木花咲耶姫命他)
 御牧ケ原近辺にある神社、群馬県との県境に近く地名に布施,伴野、跡部、穂積と豪族の名前がみえ

、次ぎの関東進出に備えた集団の展開が想像されます。日本霊異紀下には「信濃国小縣郡嬢里の人、
大伴連忍勝らが同心して(心をあわせて)その里に氏寺を作った」との記述があり、大伴氏の早い段階での
仏教帰依を語っています。



 長野県には、桓武天皇治世時の延暦十八年(799年)日本後紀の記述に、「この地の高句麗族に
対して姓氏を賜つた。」その記録は、次ぎの通り。
信濃国高句麗氏族 改氏姓
下部奈弖麻呂他・卦婁・後部・前部・高麗・上部・下部姓 は清岡連。
卦婁真老 に対して須々岐氏。
前部綱麻呂 に対して安坂氏。
前部黒麻呂 に対して村上氏。
前部秋足 に対して篠井氏。
前部貞麻呂 に対して朝知氏。
高麗家継・高麗継楯 に対して御井氏。
下部文代ら に浄岡連。

高句麗氏族には大きく別けて、五部の部族がいました。その氏族全部の氏が長野県の上の表に
みえます。それは高句麗氏族がばらばらに列島に来たのではなくて、まとまって軍隊組織として
列島にきたことを意味します。

ただ政治組織を有しない、軍人だけであつたところに侵略性をもたない、仏教布教の支援軍の
性格があるのだと私は思っています。
恐らく、列島に仏教を定着させれば、高句麗氏族は帰国を予定していたのでしょう。

本国の防備を多少犠牲にしても、東海の仏教国建設に貢献したのは高句麗・長寿王の仏教に
対する厚い信仰心だつたのでしょうが、予想外の出来事が起こって派遣されて来た氏族は帰国
することができませんでした。

列島の高句麗氏族は日本人として帰化せざるをえなかつたのです。このことが本国の高句麗国の
衰退を招くことになりました。
予想外の出来事については、のちほどお話します。

山梨へ
 山梨県への進撃には佐久市からの南下と諏訪市からの進撃があつたのでしょう。
佐久市から小海町・信州峠を越える佐久甲州街道には、
 神部神社(山梨県北巨摩郡須玉町・祭神安閑天皇、諏訪大神他)がみえ、安閑天王と出雲神の
組み合せはここにも存在しています。継体王朝と出雲の関係は隠しおおせるものではありません。

 黒戸奈神社(山梨県東牧丘町・祭神素戔鳴尊)祭神の別名を[唐土大明神]と呼ぶのだそうですが、
こうした庶民の呼び名の方が官製の紀・記よりも物事の本質を伝えているように感じます。

この神社同名社は甲府市黒平町にもあつて、こちらは祭神大巳貴命、少彦名命、素戔鳴尊と国土
平定の神様がいらつしゃる。山梨県には同様の神を祭る神社は多く存在します。

 物部神社(山梨県八代郡石和町松本・祭神饒速日命、宇摩志麻遅命)は物部氏。
 弓削神社(西八代郡市川大門町)は大伴武日連命を祭る。大伴山前連は山前之邑(石和町山崎)に
根拠地を置き山梨・八代の郡領家となりました。

この地の高句麗氏族も挙げておきましょう。
山梨県における渡来氏族の記録として、延暦八年(789)甲斐国山梨郡人の高句麗族に対して
姓を賜ったことが歴史書に記載されている。

甲斐国山梨郡の高句麗氏族に賜った改姓名。
要部上麻呂らに対して 田井氏。
古爾ら に対して玉井氏。
鞠部ら に対して大井氏。
解礼ら に対して中井氏。
 
表の中、 鞠部は鋺師公(まりしのきみ)の部民(太田亮「姓氏家系大辞典」)。 姓氏録「鋺師公。
高麗国宝輪王之後也」(未定雑姓、大和国)。

仏教用具の製造にあたつた氏族であるといわれている。なお、山梨県甲府盆地北側山麓地帯に
積石塚古墳の蜜集地が存在し、渡来人との関連がある。

東海道の制圧
 出雲勢力の長野・山梨県南下に合わせて、尾張国を守護していた勢力の東方への進出が始
まりました。ここも高句麗氏族の活躍があったものと思われます。

愛知県宝飯郡一宮町金沢一帯に広がる「旗頭山古墳群」は38基の積石塚を含む群集墳で、
豊川流域の渡来人の墓域であつたと想定されるでしょう。

五世紀末ごろからこうした積石墳が作られることは、継体天王の列島征服に果たした高句麗氏族
の存在があるのです。

○ 付近一宮町東上の炭焼平21号墳からは獅噛環頭太刀が出土している。ここの式内社は、
 砥鹿神社(とか)、(愛知県宝飯郡一宮町・祭神大巳貴命)

○ また、豊橋市石巻西川町・北ノ谷古墳群1号墳から双竜環頭太刀が、2号墳から銅鋺が出土し、
仏教布教のため海を越えて列島に渡来した氏族がこの地に住んでいたことが想像されるのでした。

ここの式内社は、
 石巻神社(豊橋市石巻町・祭神大巳貴命)

渡来氏族が出雲神を祭るのは、全国どこも同じです。出雲の王に招かれて日本列島に上陸したから
でしょう。出雲の王が継体天王であつたことは、一の宮町の旗頭山・積石墳の出現時機(五世紀末)
からも推定できるのでした。

五世紀末からの継体天王の列島征服に、高句麗氏族が協力したのです。
出雲神を祭祀する高句麗氏族は、継体天王に率いられました。

本当は継体天王が祭られるところなのに、圧力によつて紀・記の出雲神に変更しなければならなかった。
出雲の王は神代に移動してしまつたのです。

偉大な大国主として存在するのですから、彼らも納得したのです。そんな事情は、考古資料と式内神社の
分布によって明らかになるのでした。
 浜名湖北岸、猪鼻湖神社(三ケ日町・祭神武甕槌命)。祭神は大物主命の子孫太田田根子の父という。
大物主命系譜にある神。(紀・崇神紀)

同じ北岸、細江町、細江神社は「式内社角避比古神社」の論社で、祭神・建速須佐之男尊、奇稲田姫尊の
ご夫婦神を祭り、牛頭天王社と称する。

和名抄「遠江国引佐郡刑部郷」の地です。刑部氏もまた継体天王の征服と伴に分布を広げる氏族で、
渡来系氏族でした。
 三嶽神社(引佐郡引佐町)は祭神・安閑天皇、配祀大国主命、少彦名命を祭る神社。
火明命を祖とする尾張族の伸出が想定されます。継体天王御子と国土平定の神々がともに祭ら
れていることに注目してください。

大国主の子・火明命を祖とする尾張族にとつては、継体の子・安閑天王を氏神とすることは
火明命を氏神とするのと同意義であつたのでしょう。
「大国主=継体」「大国主の子=継体の子」は隠された真実、本書では次第に明らかにして行き
たいと思っています。

 浜名湖南岸は新居町・大神神社(祭神・大物主神)と、舞浜町・岐佐神社(祭神・キサ貝比売、
ウム貝比売)、古事記出雲神話に登場する神々のお社がある。

「出雲神話には、八十神が大国主神を殺そうと焼いた大石を坂より落とし、大国主を殺したときに
神産巣日命がキサ貝比売、ウム貝比売を派遣してこれを生きかえらしたという。」

この逸話の場所は、古事記では伯耆国手間山(鳥取県西伯郡会見町天万)の地になつているの
ですが、舞阪町にその神社があるとは…。

ここの新井郷には「語部」という氏族、「神人部」(各地の大神・三輪神社を奉祭する氏族、高句麗氏族)
の氏族名がみえる。(遠江国浜名郡諭租帳)
彼らが出雲から移動してきた氏族であることは、その分布からいえることですし、その伝承にもとづく
神社の存在からも推察できるでしょう。

 大歳神社(浜松市天王町・祭神素戔鳴尊、大歳神、櫛稲田媛命)スサノオも大歳神も渡来神、
スサノオは半島を経由して来られた神ですが、大歳神は「(大国主を助けるため)海を照らして
依り来た大年神」の子で半島の神、一族には韓神・ソホリ神・大山咋神などがいらつしゃる。
こうしてみると、浜名湖の周りには出雲神話に関係する神社が集まっているように感じます。
出雲勢力の東海への進出を示していました。ここの特徴は渡来氏族を主力とした勢力ではなかつたのか。
大物主系の神社が多いようです。

○ 浜松市には将軍神社西古墳から獅噛環頭太刀が出土。
 浜北市・於呂神社(祭神大国主命、配祀素戔鳴尊、大山祇命、磯部大神)
 大物主神を祖とする磯部氏は、ここにも分布していた。

 天竜川を境にして、愛知県側の制圧は終りました。それより東の静岡県側は山梨県側からの
南下を想定しなければならない。信濃国に分布する金刺舎人氏族の姿が見えるからです。

 金刺舎人祖父満侶 駿河国駿河郡主政(天平十年同国正税帳)
 金刺舎人麻目   駿河国益頭郡(大井川東部)人、宝字改年号の起源と                            
          なつた字を描く蚕を献上した。
 金刺舎人広名   駿河国駿河郡大領(続日本紀)ら名が残る。

ついでに、檜前舎人 駿河国志太郡少領
     檜前舎人部諸国 遠江国城飼郡主帳らは、尾張連同祖の火明命後裔氏族を称え、
関東に存在する。これらも出雲族だと考えています。

静岡県の東海道沿いには、出雲神話の神々の式内神社がつらなつているので、代表してあげる
とともに付近遺物もあげておきましょう。

 磐田郡森町・小国神社(祭神・大巳貴命)一の宮。
 ○ 森町、院内甲古墳から獅噛環頭太刀が出土する。

 磐田市・田中神社(祭神・宇迦之御魂命)祭神は大年神の兄弟。出雲族です。
掛川市では 阿波々神社(祭神・阿波比売)八重亊代主命の奥方をお祭りしている神社。
阿波比売は天石戸別命の子という。天石戸別命は別名櫛石窓神(豊石窓神)といわれ、
宮中で巫女祭祀をうけている。 

 利神社(掛川市下俣、祭神・大年命)古事記に「海を照らして依り来る神」大年神と。
書紀では「光が海を照らし、その中から現れた神」大三輪の神であるとされる。
いわゆる渡来神・大物主神の神社です。 

 ○ 同地の宇洞ケ谷横穴墓に単竜環頭太刀が、2組の馬具と伴に出土。単竜環頭は双竜環頭より、
早い段階の古墳に出現しており、この6世紀中よりやや古い時期に建造されたとする横穴墓出土品は
伝世品と思われる。

 大楠神社(島田市阪本、敬満神社境内祭神・大巳貴命)
 ○ 島田市吹木、御小屋原古墳から著名な馬具が出土。金銅製忍冬文透彫鏡板と同じ杏葉は、
 福岡県宮地嶽古墳出土のものと類似する。
 ○ 榛原郡榛原町仁田、仁田山ノ埼古墳に双竜環頭太刀が出土。

 飽波神社(藤枝市藤枝、祭神少彦名命)
 那閇神社(焼津市浜当目、祭神八重亊代主命、大国主神)
  ○ 藤枝博物館蔵、双竜環頭太刀
  ○ 焼津市高崎古墳、獅噛環頭太刀など。

静岡市には出雲神の神社が多数あるので、代表して
 池田神社(静岡市池田、祭神亊代主神,配大巳貴命、木花開那姫命他)
 大歳御祖神社(静岡市宮ケ埼町、祭神、大歳御祖神(神大市姫命))
  神大市姫はスサノオの奥方で、大年神と宇迦之御魂神を生んだとされる人物。この方が静岡で
  祭祀されているのは全国的にも珍しいことです。

 ○ 静岡市賎機山古墳、鈴鏡・金銅張壷鐙
 ○ 静岡市半兵衛奥古墳、銅製壷鐙などの出土。

 御穂神社(清水市三保、祭神大巳貴命、三穂津姫命)
  三穂津姫は大伴氏の出身、書紀によれば大物主命と婚姻されたことになつている。
  しかも紀・三穂津姫婚姻段では大国主と大物主は別人に書いていますが、神社によつては
  別神としたり同一神とすることがあります。
  大伴氏と渡来神の婚姻関係は歴史上、重大な意義があつたことは本書で指摘しているところでした。

 ○ 清水公園古墳からは、単竜環頭太刀と銅鋺が出土。
 倭文神社(しとり、富士宮市、祭神建羽雷神、合祀大屋毘古神)
 祭神は委(倭)文連・臣の遠祖とされる方で、天羽槌雄神(あめのはつちおのかみ)ともいわれる。
 姓氏録大和国神別に「倭文宿禰。神魂命の後、大味宿禰から出る」とあり、出雲神話に出現してくる
 神魂命の後裔氏族。
普通綾織りの部民とされているが、その分布は出雲から始まって東国まで、出雲族の移動とともに随伴し
、戦闘に参加している様子が窺われる。
合祀されているのは大国主の兄、五十猛命(別名大屋毘古神)で、この方に随伴する氏族には他に北陸の
布勢氏がいました。

 桃澤神社(駿東郡長泉町・祭神建御名方命)
  ○ 同所、駿東郡長泉町本宿新芝古墳、獅噛環頭太刀出土。
 三島大社(三島市大宮町・祭神大山祇命、亊代主命)
 平安時代の伊豆半島は田方郡・那賀郡を除き、全体が賀茂郡であつた。
三島神社付近は賀茂郡に所属し、和名抄「賀茂、月間、川津、三島、大社」の各郷名がありました。

伊豆は佐渡・隠岐・薩摩と並んで古代の流刑地の一つで、流刑者を管理する刑部がいたことが
推定される地域でもある。
刑部は渡来氏族で構成されたとされており、高句麗氏族の関与が大きい。地名に見る伊豆の
高句麗氏族は伊東市から熱海市にかけて桑原、上多賀、下多賀など、伊豆山神社は渡来人との
関連をいわれている。

伊豆の神社は海岸線に沿って散在し、大国主神を祭る神社と亊代主命を祭る神社が存在するが
諏訪の大神・建御名方神のお姿はみえない。

その他、倭文神社、(田方郡修善寺町)、高椅(たかはし)神社(三島市松本、祭神磐鹿六雁命)は
出雲族に随伴した氏族の倭文連と布勢臣同祖の神社でした。
式内社の祭神から出雲族に随伴した氏族名が分かるのです。

 三島溝咋姫の神社が大仁町、広瀬神社と南伊豆町、三島神社の2ヶ所にあります。
神武天皇の皇后は書紀に「亊代主神が三島溝咋耳神の娘、玉櫛媛と結婚され生まれた姫が
媛蹈鞴五十鈴媛命と申し上げ、天皇は媛を召して正妃とされた」とあります。

古事記では「美和の大物主神が三島の溝咋の娘を見初めて、丹塗り矢に化して娘のほとを突く
という。そして生まれた子がヒメタタライススヒメという。」こちらは大阪府三島郡(茨城市五十鈴町)
溝咋神社とする。

母系家族を尊重する古代において、神武天皇の皇后がいずれの場合でも倭国豪族出身でなく
渡来氏族の血統であることは、どうなっているのか分からないのが本音でしょう。

この後で神武東征を取り上げます。
その中では継体天王の畿内進撃時の話が、神武東征説話の中に入っているということを説明します。
継体天王のご活動が神武天皇の業績の大部分を占めている。
従って神武天皇の皇后さんもヒメタタラさんではないはず。本来の方ではないというのが結論です。

   関東へ
 大伴氏が「道臣」(街道関所を管理する氏族)を賜ったのは紀・神武紀ですが、実年代はもちろん
不明です。しかし関東から以北の関所防衛や蝦夷対策に大伴氏族が広い地域に展開していたのは
事実でしょう。

そうした関係氏族に、本宗家の大伴氏から仏教が伝えられたこともあつたのではないでしょうか。
群馬県群馬町・保渡田薬師塚古墳(六世紀初)から鋳銅製小薬師像が出土したと伝えられ、
この古墳の名称にもなりました。

江戸時代天和年間の盗掘により他の出土品(鈴付き金銅製馬具類、鏡、玉類)とともに出土し、
小仏像は古墳の所在する西光寺に保存されている。

薬師像は勿論仏教に関係しますが、鈴も宗教に関連するといわれているのです。
生前に仏教帰依したとすれば、五世紀後半代に関東に仏教は伝わってきたと言えるでしょう。

実は先代の墓と思われる保渡田八幡塚古墳(五世紀後半)にも鋳銅製小仏像?が石棺の中から
出土して、この古墳の遺物であることがより確かです。ただ、仏像であるか神像であるか見解が
分かれている。それにしても五世紀後半には北関東に偶像崇拝の徴候をみることができるようです。

 一方群馬県西毛地帯には、上毛野臣の祖と伝える竹葉瀬、田道が四邑の民を率いて、
蝦夷防衛の根拠地としていました。

「書紀神功皇后摂政元年条」の記事には、人質となつていた北の新羅(東沃沮・穢人が作ったの新羅)
の王子未斯欣が倭国から逃げ帰ったという事件(新羅本紀418年)が起こり、葛城襲津彦が新羅に行き、
草羅城を攻め落として帰還した。
そのときの俘がいまの桑原・佐糜・高宮・忍海などの四邑の民の先祖である。としています。

面白いことに仁徳五十三年条の記事にも、「(北の)新羅が朝貢しなかつた」として竹葉瀬と田道を
派遣して、(北の)新羅を攻撃させた。
その時に四邑の人民を捕らえ、率いて帰ってきた。とも書いています。

二つの記事において、四邑の民がいずれも倭国と敵対して、捕虜として列島に来たという説話は
まったく信じることが出来ないものですが、「葛城氏と竹葉瀬、田道そして四邑の民」という言葉
から葛城氏と竹葉瀬、田道が密接な氏族関係であることが分かります。

五世紀初頭、神功皇后が任那を救援、北の勢力を制圧した後、半島倭国の豪族を引き連れて
ご帰還されました。
このとき、海を渡って来た半島倭国の人達は国籍がもともと倭国ですから、渡来人ではありません。

本書では半島倭国から来た方々を区別するため帰来人ということばを使いましょう。
群馬県西毛地帯に入った四邑の民は、葛城氏に引率され日本列島に帰来した半島倭国の雄藩、
鶏林国(503年に任那から独立して新羅を襲名・南の新羅)の人々で、竹葉瀬・田道は鶏林国の
王族であつたと思われます。

前橋市山王町の山王二子山古墳(金冠塚古墳)から新羅(南の新羅・旧鶏林国)の王冠が出土
して列島の上野国に半島から来た王(豪族)がいたことを実証しているのでした。

そして、葛城一族と深い関係をもつ氏族でしたから、倭国古来の宗教を尊重し倭国大王家を守護
する立場に居たと思われます。
関東においても、宗教をめぐってふたつの陣営に分かれ熾烈な争いがあつたことが想像できます。

紀・安閑元年条には次ぎのような記述があります。
【武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵(おき)とは、国造の地位を争って、いく年も決着がつかなかつた。
小杵は人にさからう性格で高慢であり、ひそかに上毛野君小熊(群馬県地方の大豪族)のもとに
おもむいて救援を求め、使主を殺そうとした。使主はそれに気づいて国をのがれ、京にのぼつて
事情を報告した。朝廷は裁断をくだして使主を国造とし、小杵を誅殺した。

国造の使主はかしこみかつ喜んで,その気持ちをあらわそうと、謹んで天皇のために横淳(よこぬ),
橘花(たちばな)、多氷(おおひ)、倉樔(くらす)計四処の屯倉を設置した。
この年の大歳は甲寅(きのえとら)。】と。

甲寅は西暦534年。
書紀では九州の筑紫国造、磐井の戦いも時期をずらして書かれていましたが、関東における
使主と小杵の戦いも本来の位置から移動しているのではないかと考えられます。

笠原直使主と小杵・上毛野君小熊との争いは、国造の地位をめぐる争いという視点でとらえるべき
ではありません。上毛野国や武蔵国に大和政権に敵対する勢力を想定して、その勢力が大和
政権に屈したというシナリオは謎を深めるだけでした。

そうではなく、笠原直使主と小杵の争いはもつと大きな五世末の倭国対継体天王の中で考える
性格をもつている。使主は仏教を容認する側に立ち、小杵は仏教を否定し倭国の崩壊を防ぐ側
に就きました。

上毛野君小熊は関東の盟主として、一族の葛城氏族と連携し、出雲勢力に敵対したと考えると
よいと思います。そう考えれば謎は自然と解けていくのです。

小杵・上毛野君小熊連合軍の勢いは強く、一時はこの地の仏教容認派が領地を放棄して逃げ
出さなくてはならないほどだつたのでしょう。

書紀の記述からも、使主は命の危険を感じて領国から逃げ出しています。
その後、出雲勢力の応援を得て、再度関東に帰ってきたのでした。
そして、小杵を殺したことが書かれています。上毛野君小熊も殺されたのでしょう。

大勢の「四邑の民」は戦死をし、戦に負けて生き残った人々は奴婢として労働に従事させられました。
奴婢の子孫が解放されて、その喜びを石に刻み「多胡碑」を建てるのは、約二百年後の奈良時代
になつてからです。

使主が献上した四処の屯倉のことは書紀の性質上、この事件と切り離して考えた方が無難なことです。
倭国対出雲勢力の争いの中で、倭国豪族たちの滅亡や領地の削減が起こり、安閑紀に列島全土
にわたる屯倉記事がまとめて書かれていると解釈した方がよいのです。

 使主が連れて戻ってきた応援軍・出雲勢力の中には、狛江市の亀塚古墳の主がいました。
六世紀初の古墳からは金銅製毛彫飾板が出土し、高句麗文化との関連が高いことが指摘されました。
馬具類のほか、鈴釧が出土しています。
この鈴釧も宗教に関連するもので、この古墳の主が生きていた五世紀後半から末に、高句麗氏族の
宗教・仏教を持つて来たことを否定することは出来ないのです。

この地の氏族名は刑部直で、出雲を始めに各地に転戦し五世紀末にこの地に入ってきました。
この氏族の氏神が出雲神であることは、他の地域と同様です。
 虎柏神社(とらかしは、調布市佐須町・祭神大歳御祖神)で、式内同名社は青梅市根ケ布にもあり、
こちらの祭神は建南方命、亊代主命、スサノオ他と出雲神のメンバーが揃って鎮座。

山梨県側から青梅街道を通って関東に進出した氏族といえるでしょう。
同様のコースには、少彦名命を祭祀する神社(調布市・布多天神社、稲城市・穴澤神社、
西多摩郡瑞穂町・阿豆佐味天神社)阿豆佐味天神社は少彦名命と素戔鳴尊・大巳貴命が鎮座。

小野氏の神社が多摩市一の宮と府中市住吉町に存在する。
小野氏は孝昭天皇皇子、天足彦国押人命を祖とする氏族というが、丹後半島・近江・関東と、
出雲族の居住地に隣接して領地を構えるのはなぜだろうか。
随伴したという以上のものを感じてしまう氏族です。

 物部天神社(所沢市北野)は物部氏の祖神を祭祀するし、
 出雲伊波比神社は出雲臣一族が祭祀する式内社で、関東に数多い。
武蔵国名神大の神社は「氷川神社」ですが、この名称は出雲の簸川からと伝えられ、出雲国の
須佐神社の分身を移したといわれます。
 氷川神社(大宮市高鼻、祭神須佐之男命、稲田姫、大巳貴命)
 中氷川神社(所沢市論社2、祭神須佐之男命、稲田姫、大巳貴命、少彦名命)

笠原直使主がどんなメンバーを連れて関東に戻つたか、お分かりになりましたか。
使主の居住地は埼玉郡笠原郷(:現在の埼玉県鴻巣市笠原)とされているのですが、お隣の
比企郡吉見町には吉見百穴横穴墓群や黒岩横穴墓群、東松山市に北武蔵最大の前方後円墳
として知られる野本将軍塚古墳が存在する。

渡来色の強い地域で、比企は日置(へき)であろうと考えられる。
この地の式内社は三座。すべて出雲関係の神社で、いままでと変わらない。
 横見神社(比企郡吉見町御所、祭神建速須佐之男命、櫛稲田姫)
 高負比古神社(比企郡吉見町田中、祭神味?高彦根尊、大巳貴尊)
 伊波比神社(比企郡吉見町黒岩、祭神天穂日命、誉田別尊)

 行田市・埼玉古墳群は笠原一族の墓といわれ、五世紀後半代から六世紀に続く古墳群で、
稲荷山古墳は金象嵌銘文入り鉄剣の出土があり著名な古墳となつています。

古墳の主は三環鈴や鈴杏葉など鈴を多用し、また眉庇付き冑を被った武人埴輪や鈴鏡をつけた
女子埴輪などの出土もありました。

この古墳群は稲荷山古墳、二子山古墳、鉄砲山古墳、瓦塚古墳とつづくのですが、同一墓域に
古墳の方位が異なる古墳群が存在しています。将軍山古墳、奥の山古墳、中の山古墳など。

将軍山古墳(六世紀後半・古墳編年集)からは忍冬文杏葉や大小の銅鈴・銅製高台付き蓋鋺・
銅製鋺などの仏教に関連した品物のほかに馬冑、蛇行状鉄器が出土しました。

      
(左から3点「武蔵国造の乱」大田区立郷土博物館図録より)       「古代東国の渡来文化」図録より

この蛇行状鉄器の使用法が、馬の鞍後部につける飾りに用いられるものであることが行田市
酒巻14号墳(六世紀後半)出土の馬型埴輪から分かつたのです。

高句麗壁画(長川第1号墳、五世紀中葉)には、乗馬姿の人物の後方に蛇行状鉄器に付けられた
飾りが描かれている。
酒巻14号墳には筒袖上着ズボン姿の高句麗系とみられる人物埴輪や相撲力士の埴輪が出土
しているのです。これらも高句麗壁画の中に存在する。

        
(左から2点「古代東国の渡来文化」図録より)       (「高句麗文化展」図録より、朝鮮画報社) 


倭国豪族の墓域にある墓から出土する渡来文化(蛇行状鉄器)をどのように見れば良いのでしょうか。
大伴氏のように仏教を共通土台とする倭国豪族と渡来氏族の結び付きがあつたのではと想像して
しまいます。

行田市の式内社は
 前玉神社(さきたま・行田市埼玉、祭神前玉彦・姫命)と本来の神名を失っている。
付近の神社をみてみましょう。

 玉敷神社(北埼玉郡騎西町、祭神大巳貴命)多治比真人三宅麿の創建と伝える神社。
多治比真人は継体天王の子孫、その方の祭祀する神が大国主であることは、まさに本質を表して
いると思います。

 高城神社(熊谷市と大里村、祭神高産霊命)大伴氏祖神の神社。高城と名前があることに注意する
必要があると思います。この名前の地名付近には渡来氏族高氏族が住んでいたのではないか。

 田中神社(熊谷市、祭神武甕槌命、配祀少彦名命、天穂日命)と行田市埼玉古墳群の付近には
出雲神が鎮座する式内神社が存在する。

 豪族と仏教との関連で、見逃せないのが行田市小見の小見真観寺古墳でした。埼玉古墳群の
北方3.5Kmに位置する全長112mの前方後円墳(六世紀末)からは武器類とともに銅製有脚
蓋鋺が出土しています。

「古代東国の渡来文化」埼玉県立博物館図録より
(小見真観寺古墳出土)

これらの品物が生前から愛用されていたものと考える時、関東の六世紀中頃から後半は仏教の
生育する時期であつたのではないですか。

書紀に描かれている蘇我氏と物部・中臣氏との仏教を巡る争い(用明紀ニ年条から崇峻即位前紀の
587年)の記事は史実と違い、いかにも空虚に感じてしまうのでした。

さて、笠原直使主が北武蔵の地にどのルートで出雲勢力を連れて帰ってきたのでしょうか。
南武蔵から北上したこともあるでしょうが、長野県から群馬県に入り、そこから南下したとも考えられます。


関東の旗頭・上毛野君小熊の根拠地、群馬県での戦いがこの地方の最大の戦闘だつたのでしょう。
小熊は滅び行く倭国をなんとか守ろうとし、死力を尽くして倭国防衛の為に戦いました。

小杵や小熊の戦いを関東の豪族と大和朝廷との争いと見てはならないのです。
群馬県を見てみましょう。
上毛野君を盟主とした関東勢にたいし、出雲勢力は新潟県や長野県の各方面から進撃を開始しました。

新潟県湯沢から南下した部隊は神人(みわひと、高句麗族)を主体とし、三国峠を越え、新治村・
沼田市を通り、渋川市へ。
別の一隊は四万から高田山・嵩山・中之条町へ、そこで長野県須坂からの部隊と合流、渋川市へ。

 伊香保神社(群馬県北群馬郡伊香保町、祭神大巳貴命・少彦名命)
 赤城神社(群馬県勢多郡宮城村、祭神大巳貴命・豊城入彦命)
群馬県における三大神社のうち、二つの神社が北から侵入して来た出雲勢力の祭祀する神社です。

群馬郡群馬町の保渡田薬師塚古墳には小仏像が出土していることは、さきに話が出てきましたが、
この古墳の近くの下芝に「谷ッ古墳」(六世紀初頭の方墳)が出現してきました。

墳丘を河原石で覆う積石墳で、「大陸文化の影響を直接に受けているといつてよい金銅製飾履」
(群馬県史1)を出土。

金銅製飾履は、滋賀県高嶋・鴨稲荷山古墳、後に出てくる千葉県木更津市・金鈴塚古墳など渡来人と
思われる古墳から出土しており、さらにこれらの古墳には双竜環頭太刀が伴っていました。
状況から見て、谷ッ古墳にも双竜環頭太刀が入っていたのではないかと考えます。



 実は群馬県群馬郡出土と伝える双竜環頭があり、環頭柄の長大さから古手のものとされている。
 この環頭が谷ッ古墳のものと断定できるものでは勿論有りませんが、群馬郡に高句麗系氏族が
 到来していたことを否定することは出来ないと思います。

 下芝の東、前橋市総社・王山古墳(六世紀初頭、前方後円墳)は積石墳として造られた円墳を改造、
 前方部を執り付けた初期の横穴式石室古墳。

これらの古墳を作った氏族が北から南下したことは、渋川市・東町古墳・北群馬郡子持村・
伊能古墳などの積石墳の分布から想像できます。

これとは別に長野県北佐久郡から碓氷峠を越える街道を進んだ氏族ではつきり分るのは、
各地を転戦して来た「大物主を始祖とする」磯部(石部)氏でしょう。

「安中市簗瀬二子塚古墳」(六世紀初め、MT15期)は、字名「磯部・下磯部」の中間に位置して
います。この古墳は王山古墳と同様に追葬可能な横穴式石室古墳で、従来の葬送儀礼の変化を
物語るものでした。

古墳が「黄泉の世界」へと変化したことはその宗教感の変化でもあつたのです。
その変化が出雲族の手によって関東に移入されたことは、いままで誰も言わなかった。
そんなにタブーなことではないと思いますが。

五世紀末にこの地に到来した出雲勢力の中に狛族がいたことは、安中市小間地区の名称からも
窺えます。渡来人を祖とする磯部氏が率いた部隊は、高句麗族を主体とする部隊でした。

長野県佐久市跡部から南方の臼田町(物部銅印出土)・佐久町穂積と続く地域は物部氏、
佐久市伴野や望月町の大伴神社辺りは大伴氏らの長野県における根拠地であり、東に進撃し
内山峠を越せば群馬県甘楽郡に至る場所でした。

抵抗を排除しつつ、長野県から群馬県に入った部隊は鏑川流域の甘楽郡一の宮に名神大式内社
である貫前神社を奉祀したのです。
 貫前神社(富岡市一の宮,祭神經津主神・姫神)は物部氏の神社でした。のちに社家が磯部氏に
代わり、物部公を名乗るようになります。

渡来氏族と倭国豪族の結合は、この時代よく見かけるものでしょう。
甘楽郡の東側は旧名多胡郡(現多野郡)ですが、字名「高」小字「高原・上高原・下高原」などの
地名が残っています。

戦闘で勝つたのが出雲勢力、戦いに敗れたのが倭国を支えた上毛野君小熊たちでした。
生き残った「四邑の民」が奴婢として苦難な人生を送ったことは想像されるところです。

子孫はやつと持統王朝の出現によつて解放され、その喜びを石に刻んで世に伝えました。
和銅四年(711年)に建造された「多胡碑」は吉井町に現存します。

さて、この街道終点には藤岡市「七輿山古墳」が存在する。全長146mの前方後円墳、ニ重の
堀と三段構築の美しい古墳は主体部不明のため長い間建造時期がぶれていたが、ようやく
六世紀初頭に定着してきました。

この地が「安閑紀」に出てくる緑野屯倉に比定されるところから、「武蔵国造の乱」の上毛野君小熊
との関連が言及されています。

倭国豪族の雄・小熊を倒して、この地に入った出雲勢力の指揮官のお墓だつたのではないかと
思われるのでした。

さらに「山ノ上碑」・「金井沢碑」によつて高崎市佐野にも佐野屯倉が存在したことが分っています。
前にも書いたけれど五世紀末の倭国豪族と出雲勢力との戦闘の結果、倭国豪族は滅亡し
その領地は新たに配分されたものといえるでしょう。つまり代替わりしたのでした。

 小祝神社(群馬県高崎市石原町、祭神少彦名尊・合祀五十猛命)
佐野屯倉の付近にある神社です。ここは大伴氏の神社でした。
大伴氏の群馬県における根拠地が、次ぎの代には屯倉となつて別の氏族に渡される話は、
後にお話しましょう。ただ付近の古墳の状況だけ見ておいてください。

高崎市・綿貫観音山古墳(六世紀後半、全長97m・前方後円墳)は、仏教文化と関係の深い
銅製水瓶・蓮華花弁をデザインした金銅製花弁付き鈴雲珠などの遺物類や北方民族系の
異形冑を副葬していることで知られています。

なかでも銅製水瓶について群馬県史は次ぎのように書きました・
−【銅製水瓶は、六世紀前半の中国北斉王朝時代の北狄廻洛墓(ほくてきかいらくぼ)から出土
したものに同じ種類のものがある。観音山古墳の銅製水瓶が、中国から将来されたものであることは間違いない。

この水瓶の擬宝珠を飾った蓋には、内側にピンセツト様になっている長い舌が付いていて、
それが本来は仏教の灌頂儀式で用いられる浄水を入れた容器であることをうかがわせる。

その水瓶が奥室の右手前に土師器長頸坩や須恵器Pなどとともに置かれ、特別な扱われ方を
しているということは、観音山古墳の被葬者が、仏教文化の影響をうけていたからとも推測される
のである。】(群馬県史1より)

   (「武蔵国造の乱」図録より)

中国から将来された銅製水瓶や異形冑がどのようにして関東の地にもたられたかということに
県史は言及してはいませんが、本書をここまで読んでこられた読者にはすべてがお分かりでしょう。

ここの高崎市・狐塚古墳や藤岡市・七輿山古墳付近の皇子塚古墳に獅噛環頭太刀の出土があり
ますし、六世紀後半の諏訪神社古墳には銅鋺の出土がありました。
仏教文化を持つた渡来氏族の居住が強く意識されます。

ついでに六世紀末ごろ(TK209期)仏教文化が花開いた高崎市・観音塚古墳を見ておきましょう。
巨岩を用いた横穴式石室の中から出土した副葬品には、銅承台付き蓋鋺2、銅鋺2の仏具類。
馬具や刀剣のデザインに仏教文化を想定できるものが出土しました。

−【金銅製杏葉に火焔形透かし彫りをしたものがあり、それが法隆寺に伝わる飛鳥時代の仏像の
火焔形光背と同一のデザインであること、さらに銀製鶏頭太刀柄頭が飛雲を表現したものであること。
仏教文物のデザインを用いた、大刀と馬具類の装飾品が残されているのである。】−(群馬県史1)

県史の筆者は、観音塚古墳出土の文物が鞍作部の工人によつて製作されたのではないかと
強く示唆している。五世紀中頃来日した鞍作部が仏教を持つて渡来したことは疑いのないことです。
鞍作部が出雲族であることも事実でしょう。関東に来た豪族達もまた出雲族だったのでした。

そして書紀の仏教記事が古い時代のことを新しい時代に時期的にずらして書いていることが、
関東の六世紀後半の古墳出土品からも言えるでしょう。
生前を考えれば六世紀中ごろの仏教に関連する品々です。
関東の田舎で仏教が豪族にとりいれられているときに、畿内の都で仏教を巡って争うのはおかしい。
紀の仏教記事は、時期的に約100年はずれているのです。

群馬県の仏教文化を追いかけて「継体天王の進撃路」のテーマからは、少し後の時代まで話が
入り込んでしまいました。戻すことにします。

赤城山南麓一帯(大胡町から伊勢崎市)に広がる1000基を越す古墳群の盟主墓が前橋市
西大室・前二子古墳(六世紀初頭・前方後円墳92m)でした。

初期の横穴式石室をもつ古墳で、この地には檜前(ひのくま)部君が率いる檜前部の居住が知ら
れています。檜前部は宣化天王(継体の御子)の名代部およびその伴造氏族につけられたと
一般に言われ、ほかに檜前舎人部が東国に多く居る。

檜前舎人は火明命後裔で、継体朝閨閥の尾張連と同祖。
この古墳の主も出雲勢力の一員として北関東に入ってきたのです。
氏神社は、
 二宮赤城神社(前橋市二之宮、祭神大巳貴命・豊城入彦命)、
勢多郡宮城村にある赤城神社の二宮で、この地の氏神でした。

佐位郡大領・檜前部君賀美麻呂、国造となつた檜前部老刀自(上毛野佐位朝臣を賜る)らが後の
世にみえます。

群馬県東部には 美和神社(群馬県桐生市宮本、祭神大物主櫛甕玉命)
 賀茂神社(群馬県桐生市広沢、祭神別雷神)を氏神とする氏族がいました。

群馬県新田郡新田町・二ッ山古墳(六世紀後半、74m,前方後円墳)に双竜環頭太刀、
同じく足利市西宮・長林寺裏古墳(七世紀前葉)からも双竜環頭太刀の出土がありました。
高句麗系渡来氏族の影が濃厚な地域と思われます。

さらに藤原宮出土木簡に{大荒城評 胡麻□}とあるのは、群馬県東部の邑樂郡(おはらぎぐん)に
比定され、群馬県と栃木県との県境地帯は出雲に上陸した仏教支援軍の駐留があつたことが知られるのです。

ここの氏神は、
 大国神社(群馬県佐波郡境町、祭神大国主神)がありました。
渡来氏族が大国主神を祭祀するのは、全国どこも同じなのです。

さて、この項のはじめに「武蔵国造の乱」についての話をしましたが、この乱が大和政権と関東の
在地豪族との対立ではないこと、倭国を支える勢力に対して出雲勢力の侵攻があつたことを
ご理解頂けましたでしょうか。

この勢力が関東に入ってきたのは、五世紀末のことで、北関東では積石墳の谷ッ古墳や六世紀初めの
横穴式古墳が、南関東では狛江市の亀塚古墳が出現してきました。

勢力の頂点には継体天王がいたのです。
天王は出雲に深い関係があることが立証されたものと考えますが、まだ疑問を感じる方には
「継体天王の大和進撃」の章でさらに追求し、検証します。

倭国豪族との戦いは当時陸奥国と呼ばれていた地域や山形県米沢盆地でも行われたのだろうと思われます。
しかし関東を制圧された後では、その抵抗力は弱かったのでしょう。

東北各地の出雲勢力の分布については、出雲からの一次移動の他に、九州戦役後の二次移動
があるので併せて後にお話することにします。