第8章 日本の宗教戦争(継体天王の戦い)

 それでは神話の虚の世界から現実の世界に戻って、継体天王の倭国征服に移りましょう。
出雲地方に高句麗氏族が上陸して大伴氏と婚姻関係を築いたのは、共通の宗教に帰依したと

いう土台と日本国が誕生し、ともに新しい国家建設に向けて歩み出したという状況がありました。
そして各地で宗教戦争である日本対倭国の戦いが始まりました。

書紀は倭国から日本国に変わる状況を何一つ、はっきりと書いていません。
ましてや継体天王の出自については極めてあいまいです。

紀・記を読んだだけでは日本歴史は謎なのでした。
 本書では継体天王のモデルが大国主神であることを明らかにしました。

大国主が渡来人スサノオの子であるように、継体天王は北燕天王であつた馮 弘の子で、渡来
後の出雲で産まれた子と思われます。

馮弘が五世紀中に渡来されたときに継体オオドがうまれれば、年齢的に適合しているのでした。
ところで、なぜ 継体は倭国を崩壊させたのでしょうか。

父の馮弘(スサノオ)は「この国を奪うようなことはしない。」と誓約し、三本足の烏を描いた誓紙は、
最高の「午王誓紙」とよばれるほど約束をきつちりと守りました。

しかしウシ王の子・オオドは外国部隊を招きいれ、倭国を平定したのです。そこには、オオド自身の
思惑を超えた時代の流れに従ったというべきかも知れません。

宗教間の争いは次第に激しくなつて、分裂した豪族たちの戦いに発展していきました。
いったん動き出した流れはもう誰にもとめることはできなかつたのです。

この争いを日本列島の宗教戦争ととらえますが、この激動は日本列島にとどまらず隣の朝鮮半島
にも大きな影響を与えたのでした。東北アジア全体に新しい秩序をもたらしたと考えています。

継体天王の閨閥
継体妃・目子媛(めのこひめ・尾張連草香の女)の場合

 大国主神が播磨国を侵略し、先住者である天日槍命を追い出して占拠した話は播磨風土記に
書かれているし、そこに尾張連の祖や新漢人たちの名が書かれていたことをお知らせしました。

その後、尾張連は愛知県へ移動しましたし、新漢人の集団は近江西岸に蟠居することになります。
しかも尾張連は継体天王に王妃を出す閨閥勢力となつていますから、彼らは大国主つまり継体

天王の侵略とともに移動していたと思って良いのでしょう。
 尾張連は大国主の子、火明命を祖とする(播磨風土記)とされています。

だから出雲を根拠地とする氏族なのでした。出雲を出立した継体天王に随って戦闘に従事し、
尾張地域を占拠したのです。

この地には、東海において最大規模全長151mの前方後円墳「断夫山古墳」(名古屋市熱田)が
存在しています。

六世紀前葉の建造で、旧勢力を圧倒してドラマテイツクに登場して来た新勢力の象徴といえる古墳。
前方部が大きく発達し、継体陵墓の今城塚古墳と同様の剣菱型前方を想定する研究者もいるが、

未発掘の現在は前方先端部の改変もあり不明瞭です。
興味津々の古墳で発掘されたら、あつと驚くような出土品が出てくるかもしれない。

考古学に先入観は禁物と言うけれど、馮氏に繋がる品が出現してくるようならば、歴史の縦糸と
横糸が組み合ったといえるでしょう。

尾張連が継体天王の閨閥として支持勢力であつたのは間違いない。しかも出雲に関係することも
火明命後裔であることから判明しています。

尾張連草香の女、目子媛は継体天王の間に安閑・宣化のニ帝を産んだという。
書紀安閑紀、宣化紀が信用できないまでも、安閑帝70歳、宣化帝73歳崩御といえば82歳で

亡くなられた継体天王の10代の前半時期に、尾張連の女目子媛と結婚、出産されたのでしょう
から、尾張連はそれ以前から出雲族の重要な地位にあつたと思われるのです。

継体朝の重鎮といえる豪族でおそらく継体父の時代からの重臣であつたのではないでしょうか。

継体妃・雅子媛(わかこひめ・三尾君角折の妹)
継体妃・倭媛(やまとひめ・三尾君堅ひの女)の場合

 三尾君は滋賀県高島郡南部の豪族であるというのが通説になつているようです。

継体天王オオドの父、ウシ王(上宮記宇斯王、書紀彦主人王)の別邸が三尾にあつて、継体天王は
幼少をこの地で過ごしたという。その後父の死によつて越前に暮らし、三国で皇位につくようにと

要請をうけたと書紀は書きました。古事記は父名・越前での暮らしを欠き、近江から上京したという。
どちらも、継体天王が近江に深い絆を持っていたことが窺われます。

平安時代初期の「和名抄」には近江国高島郡三尾郷を伝え、滋賀県安曇川町には三尾里が現存
していますから、継体天王に二人の妃を出す三尾君が琵琶湖西岸高島郡の安曇川町に蟠居した

豪族であると思います。
そしてこの地にある鴨稲荷山古墳(全長60m・前方後円墳)については、「古墳自体の立地や、
朝鮮半島系の器物を含む豊富な副葬品などから、継体伝承氏族との関係が早くから論じられてき

た古墳」(「日本の古代」中部、中司照世)という。
 古墳自体の立地は勿論ですが、その次ぎのことばが凄いです。「朝鮮半島系の副葬品からみて

継体伝承氏族だと早くから論じられてきた。」と。
 いいかえれば、渡来氏族が継体擁立氏族だということでしょう。

そういうことは、【早くから論じられてきた。】という。本書などは遅い方かもしれませんが、
気を取りなおしてこの古墳の副葬品をみてみましょう。

 【横穴式石室には家型石棺が置かれ、棺内から金製垂飾付き耳飾、金銅製冠、双魚佩、沓、
玉類、内行花文鏡、双竜環頭太刀・鹿角装太刀など。

棺外からは一組の馬具、高坏・壷・器台などの須恵器が出土した】(古墳辞典)
古墳の年代は六世紀前半(全国古墳編年集成)、環頭太刀は双鳳と見えるが、双竜環頭太刀の

祖型とされるもので双竜環頭太刀の編年では六世紀前葉に位置する。
この双竜環頭太刀については、「双竜環頭太刀の存在が日本海側に偏ることを指摘、この太刀が

高句麗系で、その氏族が製作や配布に関与していた可能性は高い。」(森 浩一氏)
「双竜環頭太刀を高句麗系と考え、蘇我氏との結びつきを指摘した。」(清水みき氏)
また「双竜環頭太刀の配布地は出雲であると考える。」(古墳時代の研究)とする研究者もいる。

七世紀前葉まで双竜環頭太刀の系譜が続くことを考えると
出雲在地勢力がそこまで力を持ちつづけることには、いささか疑問で、やはり配布は中央から、

帰属した高句麗系氏族に配布されたものと考えた方が良いでしよう。
 継体朝を支える三尾君の素性が早くから論じられてきたというのは、このようなことなのです。

高島町の北側、今津町には日置神社や日置前廃寺があります。さらに北にはマキノ町があり
ここの大處神社と日置神社は祭礼を合同で行うという。

日置氏は出雲で最大の高句麗氏族と説明しました。継体天王に随ってこの地に入ってきたもので、
三尾君も同様出雲からこの地に入ってきたのではないでしょうか。

三尾君角折の女雅子妃の産んだ継体の御子名が出雲皇女というのも、うなずけるものがあります。
 古墳から出土した金銅製沓についていた魚形歩揺は、上淀廃寺のある鳥取県西伯郡淀江町の

長者平A古墳の冠帽にもついていました。上淀廃寺と日置前廃寺の両方には壁画があり、
六世紀を前後する高句麗壁画技法との共通性が指摘されています。

魚形歩揺のついた冠や飾り沓を出す古墳は、鴨稲荷山古墳、長者平A古墳の他に
 ◇ 十善の森A古墳(福井県遠敷郡上中町天徳寺) 冠帽
 ◇ 西山6号墳  (兵庫県三田市貴志西山)   冠帽
 ◇ 東宮山古墳   (愛媛県川之江市妻鳥町東宮)  冠帽
 ◇ 大谷今池2号墳 (奈良県大和高田市大谷)   冠帽 
 ◇ 古城古墳    (群馬県伊勢崎市稲荷町古城)   冠帽
 ◇ 藤ノ木A古墳  (奈良県斑鳩町)      飾り沓
 ◇ 桑山塔ノ尾古墳 (山口県防府市)     飾り沓があります。

鴨稲荷山古墳の双魚佩(魚形腰飾り)は全長21.5cm,幅10cmで原型を留めている類似の双魚佩を
出す古墳は
 ◇ 元新地古墳(松面古墳) (千葉県木更津市長須賀)
  魚佩の全長20.5cm,幅6cm。双竜環頭太刀出土。長須賀には金鈴塚                          
  古墳など双竜環頭太刀を出土する古墳の集団がある。

 ◇ 真野20号墳  (福島県相馬郡鹿島町)
  魚佩の全長約20cm,幅9.5cm。寺内支群の30mの前方後円墳から出                
  土して有名になる。奥州守備の行方軍団の置かれたところ、付近には           
  多珂郷名が残り、壁画古墳もあつて渡来氏族の濃厚な居住がある。

 ◇ 藤ノ木古墳  (奈良県斑鳩町) 
  3組全長23cm幅12cm/21cm,11cm/19.5cm,11cm
  藤ノ木古墳の発掘で、双魚佩が刀剣に付随するものであることがわか                   
  つたが、渡来氏族の可能性が高いという。

鴨稲荷山古墳の主が、三尾に古くから住んでいたのではないのです。
この地は半島倭国の雄藩鶏林国の王子天日槍命が来朝し、倭国大王から賜った土地でした。

全国同名神社の総本山・白鬚神社や新羅善神堂などの鶏林系神々を祭っていた所なのです。
その後、天日槍命の後裔氏族を駆逐して出雲族が入ってきました。それが三尾君たちだつたのです。

継体天王の妃について、閨閥となる尾張連・三尾君をみてきました。
いずれも出雲族と思われる人達でした。それが証拠に氏神を見ましょう。

箕嶋神社(滋賀県高島郡安曇川町三尾里558)は三尾里におけるの唯一の式内社。
祭神を亊代主神とし、出雲神を祭る神社です。同様に鴨稲荷山古墳の鴨も出雲に関係することは
言うまでもありません。

ついでに、鴨稲荷山古墳の南には大友村主系の漢人たちが蟠居していました。
この地の八王子山に出雲神を祭る氏族で、古事記大年神の段に【大山咋神、亦の名は山末之大主神。
この神は近江の日枝の山に座す。】と書かれているのです。

大山咋神は渡来神大年神の子、この八王子山という名称も仏教用語から来ており、仏教を信仰する
新漢人たちの集団が継体天王に率いられ、近江西岸に入ってきたものと思われるのです。

対岸の琵琶湖東岸には近江伊香に兵主神社(滋賀県東浅井郡湖北町高田)「祭神、大国主命」、
近江野洲に兵主神社(名神大・滋賀県野洲郡中主町五条)「祭神、八千矛神、配・手名椎神、
足名椎神」があります。

兵主神は元来、中国山東省の土俗神の名前ですが、日本列島に渡来し出雲神となりました。
八千矛神は大国主の別名で、手名椎神、足名椎神は大国主の祖父母になる方。

それに兵主神は戦闘の神ですから、こうした神々を祭る氏族が琵琶湖の付近に侵入、
ここを根拠地とし占拠していたと推察できるのです。

継体天王を支えた閨閥にどんな氏族がいたかをお話しました。何処から来たのかというと、
出雲から来たと答える以外ないのです。

それでは日本という国を出雲に造った氏族たちが、日本列島にいた倭国という国をどのように
侵略平定したのかという問題に進みたいと思います。次ぎの継体天王の進撃路をみてください。

日本国対倭国の戦い・進撃路

 日本列島は山地が多く、平野が少ないから騎馬部隊の団体行動には適していない。
そして騎馬民族は船に慣れていないのではないかという議論をする人がいます。

騎馬民族集団の侵入を疑問視する議論の一つなのでしょう。
ここには倭国豪族の分裂、そして仏教を崇拝する大伴氏たちが、布教を支援する高句麗王に
要請して応援軍を日本列島に招いたという発想がありません。

大伴氏と高句麗族との婚姻は、神話にもありましたし、日本国は出雲に誕生したと思うのです。
この国には大伴氏と出雲族との連合部隊が出来ました。そんなわけで、列島内の戦いは大伴氏が

計画し、指導したことは容易に想像できます。
船に慣れない騎馬民族たちを、海を渡し河川を遡り導いたのは、大伴氏傘下の海族だつたのでしよう。

信州に安曇野・南の甲州には巨摩(こま)という地名があります。この地名の由来は海部たち
および狛人たちの分布によるもので、彼らが日本海側から出雲族とともに入ってきたことを示す
と思います。

出雲軍が日本列島の戦いに最初から船を多用していたという説は、以前からありました。
出雲国の地名が日本各地にあることから、出雲の政朝による列島統一が行われたという説を

唱える佐賀 新氏の「出雲朝による日本征服」という地名考証の本によると、侵入経路は船による
移動と河川の遡行が認められるという。 

地域毎に出雲の地名を繋いで行くとルートが見えてくる、これは出雲族の侵入経路だともいう。
そして越後の国から信州・甲斐へ進撃していったとしている。

こうしたルートには出雲神を祭る神社があつたり、また賀茂・鴨と名前がついた所もあり、とても
分かりやすい説と思います。

地図があれば見てください。「出雲埼」という地名は新潟県にもあり、和歌山県串本町にもあります。
同じ和歌山県にある「日置川町」の日置も出雲の地名(氏族名)から来ています。

だから地名考証は古代を考える上で重要な手段でしょう。
また、生島足島神社(長野県上田市)には、「諏訪の大神がここに滞在された三ヶ月間、村人が
食事を献上した」という神社の伝承から、出雲族が北の海を経て、信濃・甲斐へ入つて来たと説く
方もいます。

そこから得られた「出雲族によって日本列島が征服された」という結論は本書と同じでしょう。
ただ、出雲族によって日本列島が征服された時期と侵略順序については、それぞれ違いが有る
ようです。

例えば八王子とか天王山の地名はどうでしょうか?
こんな言葉は仏教が伝来したからこそ、地名に付けられたのです。

つまり仏教私伝の時期に出雲族が移動していることになると思いますがいかがですか。
それと同時に侵入経路には渡来人の遺跡があり、渡来氏族の居住地があつたりすることを本書
では指摘したい。

高句麗系といわれる環頭太刀の分布、壁画古墳の所在地についも出雲族の居住に関係するので
巻末に掲げておきましたから、参考にして下さい。

継体軍の進撃路はさきの地名考証を参照しながら、さらに「出雲神祭神の式内社の位置と
和名抄の郡郷名」、それに若干の考古資料で補強しています。

追証したいと思われる方やさらに細かく検証し発展させたい方に資料名を明らかにしておきましよう。
平安時代初期に作られた「延喜式神名帳」には古代の神社名が記され、その神社は式内社と呼ばれ
ています。

そうした式内社を地図に入れていくと、地図上に古代の街道が現れてきます。
さらに同時期に作られた「和名抄」の中に、日本全国の郡郷名が書かれていて、郷名(氏族名を
郷名にすることが多い)を知ることが出来るでしょう。

そんなことから調べるといろいろなことが分かるようなつて来ました。
 出雲族(出雲の渡来系氏族)と大伴氏の連合軍は、神話では大国主と小名彦としてペアで語ら
れることが多く、二柱を祭神とする神社が多くあります。

それは出雲神を氏神とする氏族の分布を示しているのでしょうし、
それと同時に、神名帳には出雲族に随伴した元倭国の豪族たちの氏神を祭る神社もあり、

それと和名抄の郡郷名から出雲族と共に継体(大国主)に協力した豪族達を推定することができます。
大伴氏と祖を一にする佐伯氏・久米氏・天太玉命を祖とする玉作氏、楯縫部、青海首、宇摩志麻遅命を

祖とする物部氏などが出雲軍に随伴しています。
新潟県刈羽郡西山町二田の物部神社は祭神を二田天物部命とし、「弥彦神社祭神の天香語山命に
供奉し、当地に至った」という伝承を残している。

天香語山命は火明命の子ですから、播磨風土記によって大国主の孫になる人物。
そうした出雲族に倭国豪族の物部が随伴したのは、仏教に帰依して宗教戦争で日本国側に味方
したからです。

勿論、火明命後裔の丹比・石作・尾張連などや渡来騎馬民族系の日置氏、高氏、刑部、額田部、
などそれに石部(磯部)たちは出雲軍の主力として戦闘に参加しました。

それに琵琶湖西岸や播磨の新漢人の話は前に出ていました。六世紀以後も名前の出てくる倭国
豪族は、この時の宗教戦争に継体(大国主)天王に味方したかあるいは降伏した豪族で、
名前が消えていった豪族・葛城氏・紀氏・吉備氏などは滅亡したか、あるいは半島に落ち延びた
豪族なのです。

宗教戦争・因幡の国での戦争

 古事記には「因幡の白兎」説話があつて、大国主命と八十神の争いは八上比売をめぐる恋の
いざこざともとれる話になつています。

なぜ白兎がここにでてくるのかということも謎ですが、争いの発端として因幡の国取りがその後の
国土統一に繋がったのは間違いがないところでしょう。

 因幡の国(現在の鳥取県)の戦いは、出雲に日本国を作った後に行われたと考えられます。
次ぎに継体(大国主)の進撃路図を掲げているので御覧になってください。

     

図に有るように、ここは壁画古墳・壁画横穴墓の集団が特徴です。
北条町から倉吉市にかけて一つの集団、それに気高町・青谷町・鹿野町にかけての集団、

ここは日置川と勝部川が流れ、それぞれ古代氏族が居住して和名抄の「気多郡日置郷・勝部郷」
に該当する場所、いずれも渡来氏族と思われるのです。

日置といえば最初に揚げた北条町にも国坂に日置黙仙禅師(永平寺貫主)の生家と墓地がある
という。そうすると両地域とも日置氏に係る壁画地帯といえましょう。

もう一つは鳥取市東部から国府町・郡家町・河原町にかけて壁画をもつ古墳・横穴墓の存在が
あります。著名な壁画古墳の「梶山古墳」は獅噛環頭太刀を出土し、付近にある「岡益石堂」の
パルメツト(仏教様式唐草模様)は「中国北朝文化の伝来」を示すという。

ここを制圧するには激しい戦闘が行われたことでしょう。しかし遠征軍の支援を受けた出雲族は
緒戦をなんとかものにしたのです。苦しい戦いでしたが、この勝利は大きな成果だつたのです。

倭国を併合するための最初の戦いがここで行われた。そのことが因幡の白兎説話として神話に
残ったのです。

因幡の国での戦闘に勝利した日本軍は倭国軍を鳥取県境から駆逐し、次ぎの攻勢の準備と
西方確保のため兵庫県と鳥取県境の守りを固めました。

 岩美町北側・海寄り街道に兵主神社・大神社(祭神大物主神)を配置し、岩美町・山街道にも
兵主神社・二上神社(祭神素盞鳴尊)・御湯神社(祭神大巳貴命、八上姫命、子の御井神)が

あつて、付近地名に高山、高住、高江がある。和名抄郷名「高野郷」はこの付近にあつたのでしょう。
岩美町延興寺にある高野神社は祭神をニニギノミコトとしているが、元来は出雲神を祭る神社

ではなかったのか。付近壁画古墳地帯の状況や県境の山名「牛ケ峰山」などから出雲族の
高氏の居住が想定されます。

 鳥取市から兵庫県南部に通ずる因幡街道は、若桜町に意非神社(祭神神饒速日命)がある。
街道上南から和名抄「若桜郷・丹比郷・刑部郷・日部郷・私部郷・土師郷」と出雲から進撃して来た
氏族たちが守りを固めました。

若桜部は物部系、丹比部は火明命系、刑部は渡来系、日部は日下部のことで土師部とともに
出雲臣系でしょう。

鳥取市付近は前進基地司令部が置かれたと見えて、鳥取市大字岩吉に伊和神社(祭神大巳貴命)、
鳥取市古郡家に中臣崇健神社(祭神大物主神)が美和古墳群の一郭に存在する。

和名抄「邑美郡美和郷」はこの付近と想定され、美和は三輪であり、大物主神のことを指しています。
出雲族の進出を裏付けるものです。

因幡の国の戦闘は最初に述べたとおり、出雲に日本国が建国された後に行われました。
すなわち「国引き」によつて「遠征軍」を招き入れた後に戦争開始を実行したのです。

そのことは高句麗系氏族・日置氏や高氏の存在を確認することで理解できるのでした。
出雲族は大国倭国を相手に慎重なそして用意周到な準備のもと、この戦争を起こしたのでした。

出雲の国・三屋(みとや)神社(島根県飯石郡三刀屋町)の社号の由来は、
「所造天下大神・大穴持神が、八十神を出雲の青垣山の内に置かじと追い払い給うてからここに

宮居を定め、国土ご経営の端緒を開かれた。・・大神の宮垣の御門と神戸に因んで御門屋社と
号けたものである」という。

神話で大国主神が八十神と行動を共にし、そして仲たがいになつた因幡の国は、青垣山の内で
あつたのか。図上にみえる氏族配置は、八十神を追い払つて護りを固めた出雲勢力の姿が見えます。
これが国土御経営の端緒であつたこともまた事実でした。

西国での戦争

広島県三次市付近の進撃路 

三次市付近は出雲と吉備の交通路として、南北の文化交流が盛んに行われてきました。
それはまた南北の進撃路となつて、弥生時代末に、ここに基地を置く吉備勢力が出雲に進出した

ことは、四隅突出型墳丘墓を飾る特殊器台が物語ります。ところが時代は変わって今度は逆に、
出雲側から吉備へと勢力が進出しました。五世紀後半から末にかけての時代です。

ここの特徴は大きな兵站基地を築いたことでしょうか。
戦争に使用される武器製作のため、砂鉄を製錬・加工するための遺跡や倉庫群が存在することです。

中国山地の豊富な砂鉄と北方氏族による製鉄技術が導入され、ここで作られた鉄は各地の加工場
へと運ばれました。

 この地に出雲軍は、四軍に別れ島根県と広島県の県境を超え、広島県側に進出してきたのです。
図を御覧下さい。
      
 三次市付近地図




左右を進んだのは高句麗系氏族を中心とした軍であつたのでしょう。
庄原市高や高取付近は和名抄「備後国、三上郡多可郷」に比定され、高には鍛冶遺跡、
庄原市濁川に製鉄遺跡があります。

現在のJR芸備線駅名「たか」駅付近を中心にそうした鉄の遺跡が残っているのでした。
もつとも左側の道は島根県太田市から中国山地を超え広島県に到る街道ですが、

県境を超えたところから和名抄「安芸国、高宮郡・高田郡」と続き、このニ郡は後に八坂神社領
となりました。

八坂神社は、八坂造という高句麗氏族がスサノオを牛頭天王としてお祭りした神社ですから、
高宮・高田郡は高句麗氏族と関係があるのです。

現在の中国自動車道はこの中を横断していますが、ここのトンネル名は「牛頭山トンネル」という。
図の下側に胡麻原という地名があります。胡麻は狛・高麗とも書きますが渡来族の名前である
ことご存知のとおりでしょう。

また大河「江の川」(別名「可愛川」)に注ぐ支流が「多治比川」で、多治比という部落名も残って
います。
多治比は丹比とも書き、もうすでに何度か出てきました。火明命後裔氏族で、継体子弟の養育
に当たった氏族。

江の川の「エ」は古代語で「愛」ですから、江の川が別名・可愛川というのはそこから来たものと
いえます。現在は「ゴウの川」と呼んでいるそうですが、「ゴウ」は「ガン」(漢江(ハンガン)・
洛東江(ノクトンガン))の変化形で、朝鮮半島経由の外来語です。

三次市から南方には、額田郷・私部郷・刑部郷と続く。先に因幡街道でお知らせした氏族名が
ここでも出てきます。

広島県三和町の三輪や賀茂などの地名が出てきたり、須佐神社(甲奴町)・式内論社、
須佐能袁神社(芦品郡新市町、蘇民将来説話で有名)同論社、素戔鳴神社(深安郡神辺町)
とあるのも、出雲族の進出と理解することが出来ます。

中国地域では佐伯という大伴系の氏族が随伴している。のち厳島神社(祭神宗像三女神と五男神・
スサノオの八王子か)神主職を継承する氏族で、元倭国豪族が出雲神を奉祭するのは日本国の
王に従属したからなのです。

中国山地・三次市地方の大体のことがお分かりましたか?
三次市を中心としたこの地域には、三千余の群集古墳が残されていて出雲族の根拠地であつた
ことが想像されるのでした。
先に進みますが、もつと詳しく知りたい方は和名抄郡郷名リストを片手に地図を眺めて頂ければ、
いろいろなことが分かって来るのではないですか。

姫路への進撃路
 中国山地で豊富な砂鉄原料を確保し、武器・武具の補給が可能になつた出雲軍は、因幡の国
から東に進出して兵庫県東部までの確保に動きました。

ここも三隊に分かれ、海岸線に沿って進撃した部隊は途中分離し、主力部隊は船を利用して
海を渡り京都府熊野郡久美浜へ上陸しました。
久美浜町天王山古墳群谷垣3号墳には、皮袋状提瓶が騎馬氏族の到来を示しているし、須田天
王谷「湯船坂2号墳」には双竜環頭太刀が出土している。
    
(湯船坂2号墳の環頭太刀)        (谷垣3号墳の革袋状提瓶)丹後発掘より

また熊野郡の天王山とか女布権現山などの地名は仏教を信仰する氏族が名前を付けたのは
確実でしょう。

仏教伝来時に宗教戦争が行われたという主張を裏付けるものです。この後、この部隊は出石町
を包囲するような行動を取ります。

一方、牛ケ峰山付近にある蒲生峠越しをした部隊は温泉町・美方町そして村岡町高井から東へ。
同じく高坂から関宮町経由東へと進む。

これらの氏族は日高町日置神社を奉祀する高句麗日置氏族で、天田郡夜久野町日置にも進出
していました。

和名抄気多郡高田郷・日置郷・高生郷が関連する郷名でしょう。
日高町みの柿山古墳は「四隅三角持ち送り」という特殊な工法で玄室が作られ「高句麗に類例を
有する古墳」という。

こうした様式の古墳は日本海側に多く、隠岐・平古墳、松江市・御崎山古墳、倉吉市・大宮古墳、
能登・蝦夷穴古墳、佐渡・台ケ鼻古墳それから兵庫県北部の図にあるように村岡町の八幡山5号墳
八鹿町・舞狂A10号墳、但東町・栗尾古墳が知られています。

出石での戦いが激しく、厳しいものであつたのでしょう。高句麗からの遠征軍を投入して、
かなりの長期戦になつたのか。

「四隅三角持ち送り」式古墳がこの付近に集中しているように感じます。
出雲軍はここで勝利しました。倭国の雄藩、出石の氏族を屈服させました。 



朝来郡青垣町の地名は、「青垣山の内に八十神は置かじ」と言われた青垣がさらに東へと移動
したことを示すものではないでしょうか。

播磨風土記には「伊和の大神(大国主命)が宍栗郡から南下して来た」と書いています。
この南下は因幡街道を通ってきたもので、総大将の部隊で最後発であつたのでしょう。

つまり兵庫県東北部の戦闘が一段落して、出石の倭国雄藩であつた鶏林国皇子・天日槍後裔
氏族と講和を取り付けた上での出発であつたのでしょう。 

進撃路を書いていると播磨風土記の言う「伊和の大神と天日槍命の直接対決」はなかったよう
に感じられます。この部隊には宍栗郡狛野の地名に見える高氏が随伴し、側面を警戒防御した
と思われます。

和名抄「狛野郷」は伊和神社(祭神大巳貴命配少彦名神・下照姫神)の南西山崎町にある高下、
牧谷付近か、ここには大倭物代主神社(祭神大巳貴神・亊代主神・大物主神・健御名方神)が
あり、出雲神を祭祀する氏族の蟠居が想定されます。

兵庫県東北部から氷上郡を通り南下して来た部隊は和名抄「播磨国多可郡」(荒田・賀美・那珂・
資母・黒田郷)に高句麗氏族を見ることが出来ます。

賀美郷・那珂郷・資母郷(上・中・下)などの郷名は、半島からの渡来氏族の居住地郷名につけら
れているし、多可(郡)という氏族名も残っている。

加西市には出雲から随伴した氏族の石部神社や磯部神社が集まっている。
また兵主神社は兵庫県山陰側から山陽にいたるまで続き、この兵主神社を結ぶ線は出雲軍に
とつて防御線であり、また西国の遮断線となつて西国の平定を容易にするものだつたのでしょう。

中国西部への進撃
出雲から山陰側西へは、海路を使った作戦が行われたのではないか。倭国地方豪族への襲撃
が行われ、制圧していつた。この方面には山口県大津郡日置町に日置上、日置中、日置下の地名が
残る。

日本海に浮かぶ見島にある数百の積石古墳との関係が想定される地域であり、数ヶ所の須恵器
窯址も存在するが、現在の人家は少なくひつそりとした町になつていた。

そのほか、付近には熊野岳や権現山など、それに出雲族に随伴した海族の青海首に因る地名も
見られる。

山口県西端豊浦郡には、和名抄「額部郷」があります。
出雲から来た氏族で、景雲元年銭百万、稲一万束を献じ、豊浦郡大領となる額田部直塞守・
同広麻呂の名が残りました。

この額部郷は室津郷の後に書かれているので、現在の室津の近所にあつたと思われます。
豊浦郡豊浦町黒井には式内社・村屋神社(祭神三穂津姫命)があり、

書紀にタカムスヒの娘で渡来神大物主神と婚姻関係を結ぶとされるのが、この三穂津姫なのでした。
政略的結婚というよりもつと心情的な、大伴氏と高句麗氏族との堅い信頼関係を築くための婚姻でした。

その前提となつたのが相互の仏教に対する厚い帰依心であつたと思われます。 
山口県瀬戸内海側の拠点となつたのは、山口県佐波郡徳地町付近で和名抄「佐波郡日置郷、
玉祖郷(たまおやごう)」があります。

いずれも出雲から進撃してきた氏族たちで、要害岳・八坂・上八坂などの地名に式内社出雲神社
(祭神大巳貴命・亊代主命)、御坂神社(祭神大国主神・亊代主命)があります。
山口県における根拠地にしたのでした。

佐賀 新氏の「出雲朝による日本征服」によるとこの方面には、益田市から南下した出雲勢力は
日原町から分離、一隊は高津川・高尻川を利用して六日市町へ入り、さらに美和町に進撃して
いつたという。

別の一隊は日原町から津和野町高田・野坂峠を超えて山口県に入り現在の国道9号線沿いに
進んだという。
いずれも山また山の困難な進撃路でした。道筋には物見岳と名付けられた山が多いが、
この近辺で要害岳とされたのは徳地町だけで、ここから南方の徳山市・熊毛郡・玖珂郡にかけて
は出雲神を奉祀する神社の集合体があるようです。

徳山市・式内論社二俣神社(祭神大物主神・八千矛神・稲田姫神)、
同じ論社の周方神社(祭神建御名方命・大物主神・八千矛神)
熊毛町・式内論社大歳神社(素戔鳴尊・稲田姫命・大巳貴命)
柳井市・式内論社賀茂神社(玉依姫命・別雷命・三毛入沼命)
防府市・式内社剣神社  (素戔鳴尊)

熊毛郡にも和名抄「美和郷」があり、美和は三輪のことで海を照らして出雲に寄り来た渡来神
「大物主神」を三輪山に祭つたとされる神様の名。郷名は出雲族の蟠居を示すものといえます。

また、この方面に随伴したのは玉作氏族で、防府市大崎に玉祖神社があり、禰宜玉作部五百背は
天平九年周防国正税帳にその名がみえます。
山口県西部が拠点的な侵攻になつたのは、出雲側についた氏族が多くなってきたからでしょう。
 佐賀 新氏の「出雲朝による日本征服」は地名考証の本ですが、分かり易い略図が載っています。
許可を得たので転載しましょう。

      

           
 西国における戦闘は出雲からの南下と横方向の移動ととらえることができます。
もちろんこうした南下が一挙に行われたのではなく段階的に行われたと想像されるでしよう。
ここでは西国での戦いの全体像を見ておいてください。

それでは出雲族の南下を個別にみてみましょう
吉備国への進撃
五世紀初頭、神功皇后・応神大王の半島からの御帰還に、半島倭国豪族が随伴し列島各地に
領地を賜り、ワケ(分家)を作りました。

吉備に領地を賜った上道臣・下道臣たちも倭国の構成国から帰来した王族あつたか、王が国を
王子に託して直接帰来してこられたとも思えます。(国籍が倭国の人達の渡海に「渡来」とするの
はおかしい事ですから、「帰来」という言葉を使っています。「渡来人」というのは国籍の違う人達の
渡海をいいます。)

巨大古墳のある吉備国を護る氏族は、倭国の重要な氏族として大王の信頼厚く、倭国滅亡の
危機に激しい抵抗をしたでしょう。

これに対して、出雲勢力は鳥取県・兵庫県・広島県の各方面から包囲侵攻していつたものと思
われます。県境南の賀茂町から加茂川沿いに南下し、上高倉・下高倉・高野・勝部と続く津山市
付近には、鳥取県日置川・勝部川周辺の氏族が南下したのか。
また鏡作・久米などの氏族名もみえる。

後に美作の国介となる高句麗氏族・高倉石麻呂(福信の子)もこの地になんらかの関係を有して
いたのでは?

鳥取県から犬狭峠を越えてきた軍は、湯原町付近を経由、北房町に根拠地を置く。
ここの上中津井・大谷1号墳には双竜環頭太刀が出土しています。

湯原町では式内社が七社もあり、山奥の町の大字社という所にこれだけ式内社が集中するのも珍しい。
佐波良神社は形部神社と相殿(祭神佐波良神)、境内には後期古墳の分布があるという。

壹粟神社2座(祭神神太市姫命)祭神は大山祇命の娘で素戔鳴尊の妃だから、2座というのは
素戔鳴尊が抜けたのかあるいは御子の大年神・宇迦之御魂神のいずれかが不明となつたもの。


同所に久止神社・兎上神社・長田神社(祭神亊代主神)祭神はご存知の通り大国主の子でした。
この地から南下した軍は、北房町付近に布陣する。
双竜環頭太刀の出土からみて、高句麗系氏族の分布を想定されます。

比売坂錘乳穴神社(新見市豊長赤馬・祭神大巳貴命)、
井戸錘乳穴神社(北房町上永井・祭神大名持命)この二社から加茂川町鴨神社(祭神別雷命)、
建部町・吉井町出雲四神社(鴨神社・布勢神社・石上布都之魂神社・宗形神社)を通る線は横へ
の移動ではなく、鳥取県から各道を南下した出雲勢力の攻撃布陣ラインであつたのだろう。

和気郡吉永町神根本には式内社・神根神社(祭神木花開那姫命)があります。
播磨風土記はこの方を大国主神の妃とする。紀記より播磨風土記の方が信用できるでしょう。
兵庫県側からの侵入を示している。

広島県側深安町素戔鳴神社から県境を超え、岡山県井原市に足次山神社(祭神・足名椎神、
手名椎神)を奉祀する。素戔鳴尊の義父母に当たる方でした。

さすがの倭国大豪族吉備氏も三方向からの攻撃には敵対できなかったと見えます。
つぎの段階には岡山県南部まで攻め込まれ、下道臣は滅亡し、上道臣田狭は脱出して半島で
再起を誓う。半島南部には田狭の領土があつたのです。

岡山県南部には出雲神を祭る式内社が多い。代表してあげておきましょう。
邑久郡長船町・美和神社(祭神・大物主命)古墳地帯にある神社で付近牛文茶臼山古墳には
獅噛文帯バツクルが出土するし、土師という地名もあります。

同じ土師の名がある岡山市四御神字土師の森に式内社・大神神社4座(祭神・大物主神、
大穴持神、三穂津姫神、少彦名命)。

尾針神社(岡山市京町、祭神天火明命)火明命を奉祀する氏族は、播磨国にいたという(播磨風土記)
ので、兵庫県側から侵入して来た集団がここまで到着したことを示すのでしょう。
尾張へ移動するのはこの後になります。

宗形神社(岡山市大窪・祭神・宗像三神、素戔鳴尊)は吉井町から南下した氏族か。
総社市には野俣神社(祭神・大年神配大物主命、少彦名命)があり、
玉野市では鴨神社(祭神・味すき高日子根命)があります。高賀茂系で宗形の多紀理毘売と
大国主命の子とされているのがこの方でした。

ここには金刀比羅山という山名があります。インド仏教の守護者クンピーラ大将の名をいつの
時代につけたのでしょうか。

さて、五世紀代吉備の地に巨大古墳を築いた吉備氏は脱出して半島に去りました。
脱出できなかった人々は捕虜となり、豪族に分配されて奴婢としての生活を送らなければなり
ませんでした。

ここで分かっていただきたいのは、五世紀の吉備氏の後に出雲勢力が進出したということです。
「大国主の平定」は倭国豪族を征服することで、五世紀より前の時代ではないのです。

つまり継体天王の時代に出雲勢力が吉備を征服するのでした。そういうことを「大国主の神話」
にしてしまつたり、仏教の渡来を隠したのは、渡来氏族によって列島が征服された事実を隠そう
としたのだと思われます。

四国への進撃
四国の内、進撃路がはつきりとしているのは徳島県北部の吉野川流域でしょう。
その他の香川県・愛媛県は対岸の各地から「わあーと来て」たちまちに征服されたという感じ、

高知県は高知市を中心とした拠点的攻撃で終了した感じがします。香川県には、いろんな氏族が
来ました。多度津周辺は空海・真雅兄弟の出身氏族佐伯氏、大伴の支族です。

丸亀付近は因支首(いなきのおびと)天台宗祖円珍の出身氏族、(母は多度津佐伯氏)。
日本を代表するような仏教指導者がこの小さな国から相次いで出ている。

いかに仏教の盛んな土地であったかが分かるのではないでしょうか。
倭国豪族の中で大伴関係氏族がまつさきに仏教に帰依したことを裏付けるものといえます。

讃岐公氏は香川県寒川郡の豪族、寒川町にある中尾古墳は県内最大級、後期古墳だから
この時代に香川県に来たのだろう。

式内社大蓑彦神社(寒川町石田、祭神・大蓑彦命)祭神は寒川比古、寒川比女の父という。
渡来伝説を持つという神奈川県寒川神社の祭神はここから来たのか。

小豆島は小豆首氏(姓氏録、未定雑姓「呉国人現養臣の後也」=高句麗だろう)、
高句麗日置氏の姿もみえる。讃岐国人・日置B登乙虫は神護元年・八、銭百万を献じ外大初下
から外従五位下を授けられた(続紀)とある。

すでに姓(かばね)を有しているから小豪族であり、富裕層でした。
高句麗氏族は来日直後から豪族として古墳を作ったり、領地を所有しているから難民として列島に
来たのではないのです。

讃岐国の日置氏の居住地は良く分からない。もしかしたら、出雲の大物主神を祭る金刀比羅宮
付近だろうか。
ここと観音寺市にかけての地域に式内社出雲神を奉祀する神社があります。

● 山田神社(観音寺市柞田町、祭神山田大娘神・大巳貴命・素戔鳴尊)
● 加麻良神社(観音寺市流岡町、祭神賀茂大明神)、同論社賀茂神社(観音寺市植田町、
   祭神賀茂御祖神、別雷神)

● 於神社(観音寺市粟井町、祭神誉田別命[継体の五世祖]配素戔鳴尊)
● 大水上神社(三豊郡高瀬町、祭神大山積命・保牟多別命・宗像大神)

高瀬町にある「東部山」という山名も気になる名前です。
出雲に上陸した高句麗氏族は出雲神を氏神としていますから、香川県西部にいた可能性が
高いように思われます。

ついでに出雲から随伴した天太玉命を祖とする忌部の氏族もこの付近に居住していました。
 愛媛県は拠点的に進駐したみたいで、松山市周辺には式内社・出雲崗神社、湯神社
(松山市道後温泉、祭神大巳貴命・少彦名命・合素戔鳴尊・稲田姫命)があります。

温泉地にはこのニ柱を祭る神社が多いのですが、松山市播磨塚古墳には獅噛環頭太刀が出土
しているのでした。

北条市には式内社国津比古命神社(北条市八反地、祭神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 
配、物部祖神)祭神は天火明命で、この方には物部が随伴している。

山を挟んで反対側、東予市には周敷神社(祭神火明命・配大山祇命、大巳貴命)がありました。
祭神火明命が出雲神であることは、配祀された方々を見ていただければ分かると思います。

あと一ケ所進駐したのは今治市周辺、大須伎神社(今治市高橋・祭神少彦名命)、
姫坂神社(今治市宮下町・市杵嶋比売命{宗像神})、
多伎神社(越智郡朝倉村・祭神多伎津比売命{宗像神}、須佐之男命、多伎津比古、大巳貴命)など。

国分寺を中心とした地域には和名抄「鴨部郷」があり、出雲族の進出が想定される場所です。
ところで、今治市八町字天皇には樟本神社(祭神・素戔鳴尊)があります。

スサノオを奉祀する神社が天王社であり、天王山や天王谷などの地名も牛頭天王の仏教用語
からきていました。天王が大王に代わる称号として、この国の王号に採用されたのは仏教伝来
の影響です。
表記が天王から天皇に変わったのは天智天皇の時代(出土木簡による)だといわれている。
そうすると、この地名の字(あざ)名が「天王」でなく「天皇」を使っているのは本質をついている
というべきなのかも知れません。

ただしスサノオが天皇位に就いたことはないでしょう。「この国を奪うことはしない」と誓約し約束を
守りました。
子の大国主が天皇位に就いたのです。その天皇名は「継体」なのでした。

 高知県において、出雲族は高知市を中心とする地域に進駐し、そこで戦闘は終了した感じです。
● 高知市一宮・土佐神社(祭神・味すき高彦根命)
● 高知市布師田・葛城男神社(祭神・高皇産霊命)倭国大豪族葛城氏は大和での戦いで滅亡し、

領地葛城には別の氏族が入りました。
五世紀の豪族葛城氏の領地は、分配されてその後葛城を名乗るのは大伴系の人達。
この神社はタカムスビ五世の孫剣根命の後裔、葛城忌寸の奉祀した神社という。
               
● 高知市鴨部・郡頭神社(祭神・大国主神)和名抄「鴨部郷、高坂郷」はこの付近か、
高須、高見、西部、鴨部高、小鴨部などの地名が見える。

出雲族は海から上陸侵入し、この地域を占領しました。
もうこの辺まで戦いが進むと倭国の豪族も、続々と出雲勢力に降伏を申し出たのでしょう。

蘇我氏がどの時点で継体天王側についたかは定かではありませんが、
和名抄「香美郡宗我郷・物部郷」、「長岡郡宗部(そがべ)郷」がみえます。

同様に小野氏も高知県南国市岡豊町、小野神社(祭神・天足彦国押人命{孝昭天皇御子})があり、
出雲勢力に随伴していました。

 四国での大きな戦いは徳島県北部で行われ、吉野川沿いの進撃路がはつきりと分かるようです。
途中では追撃になつたのか、徳島県西部の池田町まで出雲神を祭る式内社神社の分布が残され
ています。

ここでは天太玉命を祭祀する忌部の氏族が随伴しているようです。
 徳島県南部は那珂郡に拠点的な侵入となりましたが、阿南市長生町、八鉾神社(祭神・大巳貴命
、少彦名命)は、長の国国造の祖先神という。

対岸和歌山県にも、長我孫・長公という郡領級の大国主後裔氏族がいます。
五世紀の倭国大豪族「紀氏」を追い払い、その後に和歌山県に進駐した氏族でした。
出雲族がこの国を平定する時期がはつきりと分かる好例です。後述しましょう。

● 室姫神社(阿南市新野町・祭神木花開那姫命)、も播磨風土記によって大国主の妃とみたほう
が良さそうです。
同じく、亊代主神社(勝浦町沼江、生夷神社祭神・亊代主神)も国造の祖先神なのでしょう。

九州の宗教戦争。出雲軍の九州での活動
 九州における戦争は、継体天王と大伴氏との密約で大伴氏によつて行われました。
ただ出雲勢力が九州本土での大伴軍に協力するため、若干の軍隊を派遣していたことは、
壱岐における式内社・兵主神社や福岡県宗像郡の宗像神社の存在で知ることが出来ます。

● 兵主神社(長崎県壱岐郡芦辺町深江東・祭神素戔鳴尊、大巳貴神、亊代主神)
名神大の神社で、中国山東半島の「戦いの神」が本来の祭神です。北燕国から出雲国を経由して
九州の壱岐嶋に鎮座したことは、現在の祭神が出雲神となつていることを見ても明らかなことでしょう。

その他にも壱岐には、出雲系・大伴、物部系神社が多い。
大伴氏系の神社。
● 阿多弥神社(長崎県壱岐郡勝本町立石琴の坂・祭神大巳貴神、少彦名神)
● 国方主神社(長崎県壱岐郡芦辺町国分東触・祭神少彦名神)
● 高御祖神社(長崎県壱岐郡芦辺町諸吉仲触・祭神高皇産霊神他)

出雲系神社
● 角上神社(観上神社長崎県壱岐郡芦辺町本村・祭神素戔鳴尊、奇稲田姫命、大巳貴命)
● 大国玉神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町大原・祭神大巳貴神、大后神、亊代主神、菅原道真)
● 国津神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦渡良溝・祭神足名槌、手名槌、奇稲田姫命)
● 国津意加美神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町木村触・祭神素戔鳴尊、配大巳貴命、稲田姫命他)
● 津神社合祀牛神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町牛方触・祭神素戔鳴尊、大巳貴命)

物部氏神社
● 物部布都神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町物部田中触・合祀祭神・布都主命)

 壱岐史は天武天皇十ニ年(683)に連姓をたまわる渡来氏族で、姓氏録に「伊吉連。出自長安
人劉家楊雍也」−左京諸蕃−とみえる氏族。

壱岐国の地名にもとづく姓をもつが、中央官人にも数多く採用されて主として対外外交の実務に
従事している。

この氏族が壱岐に来た時期は、継体天王の平定時期であつたのだろうし、五世紀末に出雲勢力
の一員として壱岐国に侵攻してきたのだろう。

国造本紀には「壱岐嶋造が石井に味方した新羅の海辺の人を伐つ。」という文章が残されています。
石井が筑紫国造石井(いわい)であり、「新羅の人」は五世紀の豪族葛城氏配下の秦氏である
と思われます。
倭国豪族対出雲の継体軍との戦いがこの小さな嶋においても行われ、そして勝利した出雲側に
よって兵主神社が建てられたのでした。

宗像氏と三女神
 宗像氏が、 祖とするのは「大国主命六世孫阿田片隅命之後也」姓氏録河内神別という。
この氏族は七世紀に天皇家の閨閥にも関与し、天武天皇の妃に胸形君徳善の女尼子娘がいて、
高市皇子を生んでいる。

部民は列島の平定に従軍し各地に宗形部を形成し、宗像神社を奉祀しています。
祭祀する三女神は素戔鳴尊の誓約段にでてくる神々で、それぞれ御名を多紀理毘売命
(奥津島比売)、市寸島比売命、多岐都比売命という。

このうち、多紀理毘売命は大国主命と結婚されて阿遅すき高日子根神と下照比売命を生まれた。
神話では天若日子の妻となったのが、出雲の下照比売ですから、九州で祭られるまでは出雲に
いらつしゃつたのでしょう。

宗像氏が九州入りし、宗像郡の郡領家となり三女神を祭祀して宗像神社の神主を兼帯したのか
それとも、古来から九州の海族として、出雲勢力に荷担しその過程で閨閥になつたのかその点は
謎が残るところです。

 文武天皇ニ年(698)年三月に出雲国意宇郡司とともに宗形郡司も三等親以上の連任が認めら
れ特別待遇を得ている。出雲に関係する氏族にたいする厚遇がどういう意味をもつたものだろうか。

 宗像神社から南方6Kmの宮地嶽神社(祭神・息長足比売神他)の境内に発見された宮地嶽古墳は、
円墳ながら石室長約22m高さ3m、巨大石を使用した石室を持ち、付近から埋置された遺物も発見された。

 仏教色の強い遺物として蔵骨器・蓋付鋺・銅盤、渡来色の強い金銅製壷鐙・鞍金具等の馬具、
金銅製竜文透彫り冠、頭推大刀柄頭2、その他須恵器ガラス玉等が出土した。

 仏教帰依による火葬は、6世紀代に遡ることが明らかになってきている。
この古墳のような七世紀前葉の古墳から蔵骨器が出土しても不思議ではなかろうし
、深く仏教に帰依した人物が眠る古墳であるとして良いでしょう。
金銅製竜文透彫り冠は古墳の年代からみて、伝世品(受け継いだ品物)とみられる。
中国北燕国の竜城出身者の子孫とみるのはいかがでしょうか。

九州大伴王朝の誕生。
 継体天王は仏教国家を建設したいという希望がありましたが、領土を侵奪するという欲望は
薄かったようです。

宗教戦争になつたのも、弾圧に対抗する自然発生的な抵抗が豪族たちをを巻き込んで、
大きくなって行つたのでした。

大伴氏は仏教を受け入れて継体天王側に立ち、新しい国家建設に協力しましたが、この地の
「倭国人の血統」にも執着しました。

倭国人による新しい仏教国家を、倭国の原点である九州以西の土地に求めたのです。
古くから倭国の一大率として半島倭国を統括してきた大伴氏にとつて、半島南部と九州を領土

とすることにより、高句麗本国とも友好国になることができるとの読みがあつたに違いない。
継体天王と元倭国豪族大伴氏との間で、領土をどうするかの取り決めが行われ、倭国分割統治

の密約がなされたのは宗教戦争開始時期からだつたようです。
九州にも仏教に反対する倭国豪族がいましたから、これらの平定は大伴氏にゆだねられました。

 書紀は五世紀末ごろに九州で行われた戦争を隠し、その後九州に誕生した王朝のことをはつ
きりとは書いていませんが、それでも「九州王朝」のことを継体紀(倭国分割統治)・宣化紀(大伴

磐の九州治世)に書いていますから、九州に誕生した王朝を否定することは出来ません。
−【長門(山口県)から東は自分が統治しょう。筑紫(九州を示す)から西はお前が統治し、

思いのまま賞罰を行え。】−と。
この勅はその前段に「道臣の昔から室屋(金村の祖父)にいたるまで…」と大伴氏の系譜が
述べられているように大伴金村に与えられた勅であることは明らかです。

大伴氏は継体天王の宗教戦争に協力するとともに、半島南部を含む九州以西の旧倭国勢力地
を統括する約束を取り付けたのでした。

 継体紀に書かれている筑紫国造磐井の戦いは、「まやかしの」記事で、九州で行われた
五世紀末から六世紀前半の数度の戦いを合成し、磐井の戦いという一度の戦争に書き換えた
ものです。

この中には筑紫国造の戦いも、その後成立した九州王朝が崩壊する状況も一諸にされています。
書紀が隠したいことは、「倭国から日本国にどのように移行していったか」ということですから、

五世紀末の倭国豪族の滅亡原因や九州王朝のことは明確にするわけにはいかなかつたのです。
古事記では継体紀に【この(天王の)御世に筑紫君岩井、天皇の命に従わずして礼なきこと多か
りき。故、物部の荒甲(あらかい)大連・大伴の金村連二人を遣わして、石井を殺したまひき。】−と。
あります。
書紀はこの条文にある大伴金村の名前を削りました。

そして金村が住吉に引退したかのように書いていますがもちろんこれは「うそ」なのです。
大伴氏の主流は、畿内から九州に勢力を移し、岩井などの反仏教派の豪族を討ち、九州を統一

して半島の協力国百済とともに任那を懐柔するべく行動を起こしていたのでした。
磐井の戦争記事が数度の戦争の合成によるもので、その中には六世紀前半の九州大伴王朝

滅亡の記事が含まれている。このことについては後で述べることにしますが、ここでは五世紀末に、
大伴氏が九州を制圧したということを理解して頂きたいと思います。

−【磐井は、勢いの勝つましじきを知りて、ひとり、豊前の国上膳(かみつけ)の県に逃れて、
南の山の峻しき嶺の曲に終せき。 ここに、官軍、追ひ尋ねて跡を失ひき。 
士、怒りやまず、石人の手を撃ち折り、石馬のかしらを打ち墜しき。】−(筑後風土記)
 
風土記では磐井は豊前の国に逃れたと書いています。
戦争に敗れ、逃れる時は攻めてきた敵側の反対方向に退却するのが普通と考えると、

磐井を攻めたのは畿内からの派遣軍ではなくて、大伴氏の本拠地肥の国(佐賀県・長崎県・
熊本県)の軍勢であったのでしょう。

そして目的は磐井殲滅だけでなく、九州全土の制圧だつたのでした。
 書紀宣化紀には−【大伴狭手彦が半島に赴いて任那をしずめ、また百済を救い、大伴磐が
筑紫に留まってその国の政治を執った】−と書いている。

 半島の再統一はいまだ出来ていなかつたが、九州には大伴氏を王とする九州王朝が誕生して
いたことは、疑うことが出来ない事実でした。       (1)終わり。(2)に続く。