2、紀・記基本構想の解明<基本構想はどのようなものか>

「基本構想がどのようなものであつたか」についてはこれまでにかなり出てきていると思いますが、
改めて「紀・記が日本紀の先頭部分(出雲神話と神武朝)」を倭国史の前に置いて

「倭国の存在を否定し日本国が有史以前から連綿と続く」としたことや、倭国と日本国(出雲)神話同士の接合・
歴史の接合の実態を具体的に探っていきたいと思います。

ここからは各条検討の形になり、前後に飛びますが実態解明のためです。最後にまとめたいと思っていますが
結果に付いてはどうなりますやら・・・・
ちょうど、吉備の話題が出たところなのでここから始めています。

From 倭人 Z                                        No.2−1

吉備から見た紀・記基本構想の実態。

四国東部の古墳起源説がギャラリーの方に周知されたと思うので、吉備に取り掛かって
みたいと思います。

吉備は東西の通り道であった関係で、話のボリュームは膨大かつ拡散しているし、ほとんど
倭国の通史を語るものになるでしょう。それを小さなスペースにまとめるためには
主要な部分を切り取る以外方法がない。 乱暴な話になるのはご容赦。

昔の吉備の地は、広島県から兵庫県まで広がっていました。ここに倭国の勢力が進出した
時期ははつきり分からないが、卑弥呼の時代には四国を含めて吉備は勢力下に入っていた
ものと推測されます。

「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、皆倭の種なり」
海を隔ててとありますから、これは四国から見たものと解釈しておきます。

で、この時代に吉備に入った倭国の将軍は?というと倭武尊だったのではないでしょうか。
そして吉備を統治したのが尊に随伴した吉備臣らの祖である御すき友耳建日子命なの
でしょう。もつとも情報量の少ない方が古い方です。

えつと驚く様が見えるようですが、紀・記の基本構想では日本紀の「出雲神話と神武朝」を
入れるために、倭国史の崇神紀以前の話をカツトして、後世に分散して押しこんだと
思われるからです。

崇神紀の出雲振根の話や景行紀の各地征服の話は実はもつと古い時代の話だつたのでは
ありませんか。九州の熊襲征伐は倭国が北九州に居た時の勢力拡張の話です。出雲振根の
話は卑弥呼時代かな。

東西の勢力が対立して、戦闘開始直前のことだつた。
戦いが始まると吉備の将軍達は中国山地を超えて出雲に出撃し、出雲を解放して大和に
向かって行つたのでしょう。

吉備を祖形とする都月型の埴輪文様は出雲を経由して大和の布留遺跡に出現してくるし、
布留式土器は瀬戸内海の影響によつて作られたことは確実視されている。

その後五世紀初、吉備の地を賜ったのは御友別の一族。この方たちは半島南部の倭国籍の
豪族で王クラスの方が吉備の護りにつきました。

五世紀末に倭国が崩壊し、日本国が誕生するときに吉備の豪族たちは滅び行く倭国のために
戦い、あるものは戦死し、あるものは半島の故国に逃れたのでした。
上道臣田狭の話はもつともつと深い話になりますが、べつの機会での話にしましょう。

最終的に吉備に入った方は記の考霊紀の彦五十狭芹命なのですね。一番情報量が多い
ので新しい方と推察されます。記はもちろん播磨風土記も書いている。

ここでは紀・記の書き方の順序が逆転していることを指摘しています。それは日本紀の先頭部分を
古い時代に持つていくことで歴史の最初からこの国を日本国にするためだつたのでは。

これが紀・記の基本構想に沿った書き方なのでしょう。
吉備において判明される基本構想の実態を今しばらく解明していきたいと思います。

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From 倭人 Z                                           No.2−2

紀・記基本構想  倭武尊と吉備の関係。

倭武尊の歴史的位置が紀・記では後世にずれ込んでいることを指摘しました。
ほんとは熊襲征伐は卑弥呼以前の時代ですし、卑弥呼時代の将軍の話が倭武尊の
業績といつて良いでしょう。

当然倭武尊は吉備を経由して大和に攻めあがった将軍の一人でした。
紀・記にもそのことはさりげなく触れています。

九州から船で移動された倭武は、「吉備に到着されて穴海を渡られた。そこに荒ふる神
がいたので殺す」さらに「難波に到着されたときに柏渡りの荒ぶる神を殺した」(紀景行紀)

穴海とは広島県芦田川河口の入海をいうのだそうですが、記にも同様の記事がある。
つまり九州から東上する際に戦闘を行ないながら大和に来たのでした。

当然倭武と吉備の関係は深いものが存在するのでしょうから少し揚げてみたいと思います。
記には倭武尊に随行した御すき友耳建日子を吉備臣の祖とすることは前回お知らせしました。

紀ではこの方を吉備武彦とする。名前が「吉備津彦」と良く似ているけれど別人。
吉備武彦の娘・吉備穴戸武媛が倭武と結婚して武卵王(たけかいごのみこ)と十城別王(
とおきわけのみこ)を生む。  讃岐綾君と伊予別君の始祖です。
どうですか。吉備と四国なんですよ。ここが卑弥呼の時代に倭国の勢力圏だというわけでした。

次ぎはすこし問題がある。倭武と弟橘姫の産んだ子は稚武彦王で、この名前は考霊の皇子で
吉備の祖となつた方と同一。どうなんでしょうね。これはわけがわかりません。

私は倭国の発祥を北九州としていますから、出雲振根を倭国に心を寄せる出雲の豪族
だと思います。
振根が筑紫に連絡に行った留守中に、出雲の神宝を取られてしまった。
兄弟同士の内紛はエスカレートして振根の死を招いてします。

紀はこれを崇神紀に入れ、敵対する側として振根をとらえている。 これはおかしい。
倭人末裔の私としては納得いかないではないか!

記は敵対するものを「出雲 武」として、振根の名前は出さない。景行紀に入れて倭武尊が
制圧する話になつています。
振根の内紛が東西の対立情況を示すものだつた。

振根の神宝を奪い、出雲地方を占領していた出雲武を討ち取り、振根のあだ討ちをしたのが
卑弥呼の将軍・倭武尊だと思うのですが・・・・・。

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From 倭人 Z                                        No.2−3

倭武尊の倭国史における位置。

武尊が九州から東上する時の戦闘文面と神武紀の文面を単純に比較するとどちらが
古いかが簡単に分かるようです。

お気付きになつたギャラリーの方も多かったのではないかと思いますが一応アフターケァ
させて下さい。

紀「海路をとつて大和に向かわれ、吉備に到着して穴海を渡られた。そこに荒ぶる神が
居たので殺し、また難波に到着されたときに柏わたりの荒ぶる神を殺した」とあります。

敵となるのが「荒ぶる神」なのでした。相手となるのが「神」という位置は歴史時代ではない
でしょう。

古事記の場合も同様です。 記では「還り上ります時、山の神、河の神、また穴戸の神を
皆言向け和して参上された」と書いています。
「相手としたのが神」であれば当然に倭武尊も神様でなくてはならない。

神武紀の相手は神ではありません。したがつて倭武尊物語の方が古い文面であることは
簡単に知ることができました。

この物語は倭国史の中では、神話かまたは神話に続く位置での物語ということが出来そうです。
ハツクニシラス大王の前にあつたものなのでした。
この前の記事に一緒に書くべきだつたのですが、この項目だけ抜かしてしまいました。

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From 倭人 Z                                       No.2−4

吉備津彦は六世紀の人物か。

倭武尊が倭国史における神話時代の人物で卑弥呼治世下の将軍とすると実年代は、
古墳時代の幕明け年代になります。

3世紀後半から4世紀にかけては、吉備の長は倭武尊に随伴し吉備臣の祖となつた
御すき友耳こと吉備武彦でした。
倭国の武将であることは大伴氏とともに東方制圧に赴いたことでも分かるでしょう。

5世紀の吉備を治めた方は御友別一族、この方は半島豪族で倭国籍であるとしました。
これについて異論が出なかったことに「ホッ」と胸を撫で下ろしています。

前に古代史会で「素朴な質問ですが・・・」という欄がありました。これに簡単に答えられ
ないのは、本一冊分ぐらいの返事になるからでないでしょうか。短い質問に対して
本一冊分の答えというのは割が合わない。

同様に吉備の半島豪族の話は、膨大な量になりそうなのでパスです。
倭国の基本的なというか、最初ころの国家構成を半島南部の諸国と北九州の国々の
連合国であつたというのが、私の倭国観なのでそのことだけお伝えしておきましょう。

前置きが長くなりましたが、考霊の皇子たちの吉備征服は五世紀末の出来事ではないか
と思います。
理由はいろいろあるのですが、簡単に分かりやすいものとして考霊皇子の中、日子さめ間命
をとりあげてみましょう。

この方は記に「播磨の牛鹿臣の祖なり」とある。牛鹿は姫路市・市の郷付近とされ、
氏族名は他に「宇自可」(うじか)とも書き姓氏録右京皇別下に「彦狭島命之後也」と
日子さめ間命の別名の後裔であることが書かれている。
この氏族、後に「笠朝臣」の氏姓を賜るというから吉備津彦たちと吉備制圧に従事したのだろう。

ところで、ここで指摘したいのは「播磨の牛鹿」が安閑紀に屯倉として記載されている
ことである。つまり時期的に六世紀はじめの屯倉成立でないか、
その成立に関与したのが考霊の皇子たちの実年代ではないかということ。

他に安閑紀に記載されている吉備の屯倉は九つ、それに欽明紀に出てくる白猪屯倉・
児島屯倉など・・吉備が六世紀初頭に大きく変動したことが分かるでしょう。

そうすると彼らが播磨の氷河の前(さき)で、戦勝祈念をしたというその氷河こそ出雲の
斐川から執られた名前でしょうね。
六世紀初頭に出現してくる継体は出雲出身というのが私の持論ですから・・・
つまり考霊紀に出てくる吉備津彦たちは継体関係者というわけです。
関東では氷川といえば出雲ですからね。(氷川神社は出雲の神社)

紀・記の書き方が六世紀の日本紀を「倭国史」の先頭に持ってきた書き方であるという例を
吉備の地で証明したかつたのですが、こんな(簡単な)ところで(済ませて)すみません。

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From 倭人 Z                                 No.2−5

吉備の伝承で検証。

吉備の伝承は、「温羅(うら)一族と吉備津彦の戦闘」でしょう。
吉備津彦神社にはこの伝承が伝わり、温羅の霊が奉祀されています。

ある人は「この神社は吉備津彦の名前を隠れ蓑にしたもので、本当は温羅一族を祭る
為の神社ではないか」ともいいますが真実はどうでしょうね。
私はこの神社の随神門に大きな茅の輪が置いている写真を見付けて「ニンマリ」したことが
ありました。出雲の神様が祭られている! と祭神を調べましたらやっぱり出雲神がいました。
温羅と出雲神の呉越同舟の神社といえます。

温羅一族を倒したのは、出雲勢力なのですね。吉備津神社の神主は賀陽氏(加夜・かや=
伽那・半島南部の地名)で上道臣の族を名乗りますが、ご近所には西(かわち)漢人たちが
住んでいる。火明命の後裔ですから出雲関係者。

ここの伝承は征服者の伝承ですから歴史に合致していると思います。あるいは紀・記に書いて
いない事柄が分かるので面白い。

ご存知の方が多いようなので、概要だけにしますが「温羅一族は異国から空を飛んでやつて
来た。
これを退治するために五十狭芹彦命が派遣され、吉備津の地で決戦になるが、どうしても
射た矢が温羅側の矢で防がれてしまう。
そこで命は一度に二本の矢を放つ。一本の矢は防がれてしまつたがもう一本の矢が温羅に
あたる。 そして勝利する。」

温羅を百済の王子とするのはどうかと思う。(そんな訳はないではないか!)
この地は「カヤ」という地名だし、土地の枕詞は「新羅の・・・・」なんだよね。
続日本紀の聖武紀天平十五年条には備前国の言上に
「邑久郡(おおくのこおり)、新羅の邑久浦に大魚五十二匹が打ち上げられました・・・・」
と書いてある。
上道臣田狭が新羅に帰属した関係で、この付近は新羅のなになにという枕詞になつたのだ
と思う。 それなのに百済を持ち出すは土地の人に「はばかった言い方」だつたのかも
しれません。

以上で大体どのようなことを検証するのか分かったのでしょうが、まず応神に随って列島に
移住してこられた半島倭国の王がこの地を賜ったこと。五世紀初頭に列島第四位の規模を
誇る古墳を作れるのは並の豪族ではない。(したがつて王クラスの方)

この方は伽那の王であった。(地名の加夜から推定)。
伝承の温羅一族とはこの半島豪族のことだろう。
下道臣前津屋ら一族七十人が殺された五世紀末の事件が温羅一族の滅亡記事であろう。
上道臣田狭は戦乱を逃れて半島に帰り、日本を防ごうと新羅に帰属する。
この新羅は倭人国の鶏林新羅です。

一連の事柄によつて、これは倭国滅亡時の戦いの一環であると考えられるでしょう。
相手は継体の出雲勢力で(原日本国)だつたのだ。
五十狭芹彦は出雲軍の将軍の一人だつた。

この時の戦いによって、敗れた吉備の人々は奴婢となって苦難の道を歩むことになる。
人民を苦しめたのは、温羅ではない。吉備津彦のほうだったのでは・・・・。

時代は移り、倭の血筋の復活になつた。持統王朝の誕生である。鶏林新羅とは友好
関係が持たれてくる。

そうなると、「ヤバイかな!」という気持ちが吉備の長の心に芽生えてくる。
持統3年の下毛野朝臣子麻呂が奴婢六百口を解放したのに続き、文武大宝3年
「安芸国奴婢二百余人の解放」が歴史に記録されている。
以上、吉備の伝承からの歴史検証でした。

From 倭人 Z                                    No.2−6       

紀・記基本構想解明のまとめ。

「倭武尊」を解釈することによつて、倭国史の骨格が見えてきたでしょう。
九州での勢力拡大の動き、吉備や四国それから出雲での倭武尊の活動は倭国の歴史でした。

同時に倭武尊の東方征伐も、きわめて具体的な地名や説話が出てくる。それは国家形成段階の
倭国の歴史だった。

そんな倭国史をそのまま容認することが出来なかったのは倭国が崩壊して政権が変わり、
「国名が日本国に変更になった経緯」を隠す必要に迫られたからといえます。

日本紀を神話にして先頭にもつていつた。これが紀・記の基本構想でした。

いままで吉備の氏族を取り上げて、新旧が逆転していることを指摘しましたが、これは
どこも同じです。

紀の国では、五世紀の豪族「紀氏」の後に「大国主後裔」氏族の長我孫(ながあびこ)氏が
いました。ここも逆転している。古い氏族が住んでいたのではないのです。
歴史書が逆転したことを書いているだけで、大国主のほうが新しい氏族なのです。
そのように考えることが出来れば歴史の謎が解けるでしょう。

大王の子孫についても、原則として倭国の大王家の子孫は残っていないのでしょう。
古い時代の大王の子孫というのは新しい時代の氏族なのではないですか。

大和では古墳が古くから信仰の対象でした。これが古いのです。大和に多くある出雲の
神社は新しい。
出雲の神々は新しく作り出された偶像で、倭国史の中にはなかつたものでした。

現在、継体陵ともくされる今城塚古墳の調査が行われ、天王家最初の横穴式古墳である
ことが確実視されてきています。
古墳の宗教観の違いが鮮明になりつつあるのでした。

「古墳が黄泉の国になつた」 古墳時代の終焉は継体から始まったのです。
氏族の氏神が古墳から神社に変わっていった。
それはまた倭国の大きな変貌でした。そんなことも隠したいことの一つだったのかもね。
後世(五世紀後半)の出来事を神話にして出雲神を作り、歴史書の最初に配置したのでした。

私はこの古墳から「切子のガラス碗やガラス皿」がきっと出てくると宣言していますがはたして
公約は守れるのでしょうか。もし出てきたなら継体の出自がはつきりするのでしょう。

それはさておき、昨年から基本構想の解明にかなりのスペースを遣わして頂きましたが、
大意は述べたと思いますので一応基本構想の解明を終わりたいと思います。
次回からは各条の改鼠の実態について、考えてみたいのですが・・・・・

                                          倭人 Z