「半島の倭国構成国と卑弥呼」

第1話  始めに基本的なこと。

歴史書に出てくる倭人のうち「半島にいた倭人」の正体をはつきりさせた方はいません。
歴史の専門家もあいまいなままに過ごしてきたという感じがしています。
この問題をそのままにした状態で、いろいろな古代の史論が述べられてきたと思いました。

例えば1.「倭人半島南下説」です。これが正しければ倭人の国はもつと多く半島の北側に
存在しなくてはならないでしょう。現実にはそのような状勢にはないと思っています。

従って、私は基本人種・倭人の故郷を中国南部・江南の地として、
そこから船で移動して来て
半島南部と列島に上陸した人たち(半島北上説)だと思いますし、さらに北九州から弥生
土器をもつた
人々の半島へ再移動の波(北九州から半島への道)があつたことを指摘したい
と思います。


他にも2.「卑弥呼の邪馬台国所在地を巡る論争」がありました。
これなども、半島の倭人を抜きに出来ない話なのだと私は考えます。
半島の倭国軍が卑弥呼の応援に駆けつけたと思う節がありました。
半島の土器・列島の土器双方の流れからみて大勢の方たちが海を越えて来て列島の卑弥呼
の戦闘に参加、そして又戦闘終了後に半島に帰っていった様子が窺えます。

だから卑弥呼を考えるときに半島の倭人を検討する事で、その真像が分かると思うのでした。
真に申し訳ありませんが「邪馬台国畿内説」と半島の倭人たちとどのような繋がりがあるのか
説明する事が困難だと考えます。従ってこの点から私はこの説に与する事は出来ません。
古代史の議論から抜け落ちていた部分を検討しなければと思う理由がここにあるのです。

さて、半島の倭人の概略を一口に述べるならば次の言葉が適当でしょう。

【辰韓は馬韓の東にあり。その耆老(老人達)世に伝えて、自ら言う、古の亡人(亡命者)
秦の役を避けて来たりて韓国にゆき、馬韓其の東界の地を割きて之に与えると。】−
                             (三国志・魏書韓条)

この条文による「秦の労役(万里の長城、始皇帝の寿陵、大陸横断の行幸路など)」の
過酷な労働を避けたという言から、国籍のない時代の倭人たち(基本人種・倭人)
の行動時機が判明するでしょう。

基本人種・倭人が半島に上陸した時には、すでに半島には先住民の王国がありました。
この人達は華中から古代帝国・殷国滅亡に伴い、東の半島に逃れた農民たちで、
青銅器製作の技術を持つた夏人(華夏)と呼ばれる人種、五穀や米を持ち込んだものと
思われます。

この中国中部(華中)から遼東半島経由の移住者(夏人)と江南から移動して
来た「倭人(基本人種・倭人)とを混同しないようにしなくてはなりません。

以上の状況を考証しながら、半島の倭人と卑弥呼の繋がりを辿って、紀・記に書かれている
天皇系図の内、だれが卑弥呼なのかを指摘したいと思います。
いろいろな説を唱える方々もどうか一緒に「半島の倭人」を考えてみませんか。


1、 「基本人種倭人」と「倭人」(国籍倭国人)とは違う。

まず最初に「基本人種倭人」と「国籍倭人」とを区別することから話をはじめましょう。
倭人について話をする場合の元になると思われます。

倭人について話をする場合「基本人種・倭人」なのか。「倭国人」なのか。
「それとも別の国籍なのか」をはっきりさせて話をして欲しいのです。
とくに倭国人の場合「倭人」という言葉が同一なので、しつかり区別しなければなりません。

国が定まっていない時代に倭人の集団は、半島の南から北の方まで分布したと思われます。
(山海経や鮮卑条の「騎馬民族によつて倭人が拉致され魚を網捕する記事」による)

自由に移動していた時代の倭人を 「基本人種・倭人」という名前をつけておきましょう。

「基本人種・倭人」は百済国(隋書百済条百済の人種構成員としての倭人)や三韓国(魏書
韓条・刺青など倭人の特徴を有する人達)そして倭国などの構成人種として現れています。
これらは基本人種としての倭人です。
国が定まる以前の自由に移動していた時代の倭人ですね。
この人達は国が作られるとそれぞれが各国の構成員となりました。

国が定まつた後には、国籍を有し、「〇国人」に変わります。
もう「倭人」とは言われないで例えば「倭系百済人」などと言います。

これにたいして、国籍が定まった以後に歴史書に出てくる倭人は「倭国籍」だと思います。
そこでは、「倭」は「倭国」なのです。 このことは古代史を考える上で重要なことでした。
同じ名称を使っていますが、国籍倭国の「倭人」は正式名称は「倭国人」であろうと思います。

魏書韓条には
☆ 【弁辰のとくろ国は倭と界(さかい)を接する】 ・・・・・・
☆ 【(辰韓の人は)男女とも倭に近く、また文身(刺青)す。】 ・・・・・・
この文章にある「倭」は国が定まった後ですので、「倭国・倭国人」でなくてはなりません。
つまり、「弁辰のとくろ国は倭国と境を接していた」ですし、「辰韓の人々は倭国人と似ていた」
ということでしょう。

同じ「倭人」の名称で基本人種倭人と倭国人を語られると誤解を生じることになりますから
その違いは、はっきりしなければならない。

半島には他に「基本人種・扶余人」とその人たちが作った「扶余国」「高句麗国「穢国」
「沃阻国」など半島の北側にあつた国々がありました。さらに、

半島に移住していた中国系の夏人(華夏人)と呼ばれている人たちから始まって、
衛氏朝鮮の時代・楽浪郡時代の中国系移住民などが半島にいたと推定されます。

紀元前1000年から半島では青銅器時代という時代区分があり、前300年からの
初期鉄器時代に先行した無文土器文化が存在してした。
それらの文化は中国移住民たちによると考えられ、「遼東半島経由」半島に入ってきました。

【韓半島の先史文化における諸要素が遼東半島に近い】
【韓半島の先史遺跡の中に華南的要素は見られない】
                       −韓国考古学者・韓炳三氏

先住民たちです。農業を行うとともに青銅器の工人としての手人であつた。
この人達は遼東半島的な要素を持っていて、華南的要素を持つた倭人とは違っています。
半島の北から入り、中部から一部南部付近に国を作っていた。
そこへ華南的要素を持つた「倭人たち」(基本的人種・倭人)が亡命してきたと
考えるのでした。

(参考)朝鮮半島の時代区分

年代 朝鮮半島 ※(特徴)
BC5000~ 新石器時代 櫛目文土器文化
BC1000~ 青銅器時代 無文土器文化
BC300~ 初期鉄器時代 原三国時代
(三韓時代)


倭人の上陸時期は秦韓条に記されている「秦の圧政を逃れた」という記事から紀元前300年
ころと思いますが、すでに半島には先住民の王がいました。

半島に上陸した基本人種・倭人は先住民の王から、土地を別けてもらいながら南から北へ
半島を移動し、先住民と融合しながら国を作っていったのでしょう。

私たちが半島の「倭人」を話す場合、自由に移動している「基本人種」の倭人を語るのか、
それとも国籍が定まった後の「〇国人」の倭人を話すのか、
「倭国人」としての「倭」・「倭人」を話しているのか
時代を明らかにして、国籍を重点に考える事が大事なのです。

「倭人時代」の提唱
半島でも先住民が米作りを行っていたし、同様に列島でも最近米作りの時機が14c測定法を
活用する事で古い方向に移動していると言われています。

見方を変えれば「いままで古い時代と考えられていた縄文紀が、新しい弥生時代の方向に移動
しているととらえられるでしょう。 この場合の米作りの主役は縄文人なのです。

どこまでいくのか「縄文時代後期初の南溝手遺跡・籾痕土器」まで遡る可能性があるかもしれない。
弥生時代という範疇が古い時代に移動する事は「倭人の世紀」とかけ離れたものになる可能性
があります。

そこで歴史区分として「縄文時代」「弥生時代」「倭人時代」「古墳時代」と考えてみました。
今までの「弥生時代〓倭人時代」という考えは通用しないので、あらたに弥生時代の後に
「倭人時代」という時代区分を設けたらすつきりするのではないですか。
「倭人」が江南から列島や半島南部に上陸してきた以後の時代です。

そういうわけで、ここでは「倭人時代」を主として取り上げています。
倭人時代の特徴は初期鉄器時代で半島も列島も変わらないのではないでしょうか。




2、半島倭人の国籍と言語

半島倭国とは(国籍について)

 国が定まり、基本人種としての倭人がそれぞれの国に所属した後の時代に出現する
倭人は倭国人だと指摘しました。

半島に「倭人」がいたことや「倭」という国が弁辰とくろ国と境を接していたことは三国志・
魏書にも書かれていました。
これらの文章に出てくる言葉は国が定まった後の出来事ですから、「倭」は倭国、
倭人は倭国人でなくてはなりません。

同様に半島の歴史書「新羅本紀」にも、「倭・倭人」という言葉が出てきますが、この倭人
たちは半島南部に居た人達と推定されています。

−【倭人しばしば領内に侵入するので、国境地帯に二城を築く】−(新羅本紀)
という記事が出てきますが、この記事が半島から見て海の向こうの倭国をさしている訳では
ありません。
国境地帯という言葉に表されるように半島南部に倭国構成国が存在したのでした。
そこで「倭国とは九州と半島南部の国々が連合して作った国」だと考えています。

すでに半島南部に倭人が存在したということは、今日では常識化されています。
お隣の韓国では週刊誌に半島南部の倭が取り上げられる時代。

★ 少し古いが手元にある「週刊韓国」1763号(1999.3.25)では『倭ぬん 韓半島なんぶえ
いそつた!!』
(倭は韓半島南部にいたんだつて!!)という題で記事を書いています。
この場合の「倭」は倭国であり、倭国人の住む国が半島南部にあつたということです。

★ 韓国歴史学者・李鐘恒氏は半島南部の加那地方について次のように語つている。
【加那人は倭人である。】 【その範囲は「慶尚南道、慶尚北道の南部」及び
「全羅南道、全羅北道の南部」さらに「鶏林国は加那から独立して新羅になつた」
とも書いています。(著書「韓半島から来た倭国」より)

国が定まった以後の時代に半島にある倭・倭人は、倭国籍でなくてはならない。
その範囲は慶尚道と全羅道の半島南部に存在していた。
氏は全羅道について「特殊な政治」が行われていたと指摘されていますが、
これは倭国の屯倉が置かれていた事を言っているのでしょう。

そして倭国ならば倭国大王の治世下にあつたという認識が必要であると思います。
「一大卒」という職種が倭国政権にありましたが、倭国大王に代わって半島南部の統率
に当たった職種であり、中国史の記述から倭国の武将である大伴氏が担当したと考えて
います。

半島の倭人について語る人に、私はその倭人達の国籍を聞いてみる事にしています。
そうすると今までとうとうと話していた人が絶句するので、国籍のことを考えていないこと
がすぐ分かりますが、私は半島に倭国(構成国)があつたという考えで、
半島にあつた倭国を指す言葉として「半島倭国」、列島の倭国を「列島倭国
呼んでいます。

※注  韓国歴史学者・李鐘恒氏の論文中にあつた次の文章の注釈。
   鶏林国が襲名した「新羅国」は「南の新羅」です。
   新羅という国は一つの国ではありません。半島には時代を違えていくつかの
   「新羅国」がありました。
   加那から独立した鶏林国が襲名した新羅は「後新羅」で位置的に南の新羅です。

   これ以前にも「新羅」を名乗る国はありました。
   原新羅を含めると複数の国が時機を違えて「新羅」を名乗つています。
   そこでわれわれは古い時代(4世紀〜5世紀)に存在した新羅を「北の新羅」
   その後出来た国を「南の新羅」と呼んでいます。
   (北の新羅は江原道を中心とする「わい人の国」、この国(北の新羅)が高句麗に
   吸収されて国がなくなった後、503年に鶏林国が新羅を襲名する)

   鶏林国の始祖伝説は「倭国の東北一千里にある多婆那国の国王と王妃との間に
   卵として生まれ、海を流れて半島に流れ着いた」という話になつている。
   このような列島から半島南部へという人々の流れは、大臣の瓢公が瓢箪を腰につけ
   海を渡って半島にやつて来たという話からも窺える。
   鶏林国(南の新羅)は倭人の国であつたのです。

   ★ 新羅本紀330年条には「碧骨池を始めて作った」という記事がある。
   碧骨池は全北金堤郡扶梁面に現存している。東端の国が西の地方治世について
   語っているのです。
   これは倭国の屯倉経営に鶏林国が参加していた証拠として挙げられ、
   鶏林国が倭国構成国であつたものと思われるのです。

半島の言語について

列島と半島の言語が同一文法で、単語も似たような発音であることは昔から言われている。
漢字語が一諸なのは分かるが、それ以前の固有語と呼ばれている言葉が互いに共通して
いるものがある。

 この現象について安本美典氏は読売新聞(1993.2.19)紙上に「偶然以上の一致」と
題して論文を掲載しています。

「二つの言語間の距離を数字ではかり、二つの言語のあいだに、偶然といえない一致がみとめ
られるかどうかを計算する」

「数字ではかつてみると日本語と偶然といえない関係をもつ言語はいくつか存在する。
日本語、朝鮮語、アイヌ語の三つは相互に、確率論的に偶然といえない関係を示す」

その結果、「日本語祖語(日本語基語+江南から来たビルマ系言語)は、九州北部および
朝鮮半島南部で誕生したであろう。」    (産能大学教授言語学・心理学)

こうして誕生した言語を安本氏は「日本語祖語」としている。
私は専門用語ではないかも知れないが、分かりやすく「倭語」と呼びたい。
倭国と日本国とは別の国と考えているし、倭国時代に使われていた言語と考えるからです。

半島の言語についてみると、北からは扶余系人種の高句麗・東沃阻・穢・百済などが南下し
扶余系言語が使われていたのではないかと思われます。北方騎馬民族言語でしょう。

それが変化して倭語と共通の文法「われ行く、どこそこに」ではなく「われはどこそこに行く」を
用いるようになったのは、統一新羅が倭語を基本としたからだと思います。

加那から独立した南の新羅が半島全土を統一したからでした。
言語的には南から北への移動があつたと感じます。

半島の方言から

韓国考古学者 金元龍氏が「考古学より見た加那」と題した論文の中で、半島の方言に
ついて語っている。抜粋してみましょう。

「韓国の言語は北から平安道・咸鏡道(ハムギョンド)・中部・全羅道(チョルラド)そして
慶尚道(キョンサンド)という五つの方言に大別される。

それで慶尚道(の中)では南北東西といつた地域内での格差は当然有るものの、慶尚道
方言という一つの方言が話されており、

これを逆にいうと古新羅も加那もその住民は同じ慶尚道方言を喋っていたのである。

つまり新羅や加那というのは洛東江(ノクトンガン)による慶尚道の分区に外ならず、
文化の上では基本的に一体であつたのである。

それで歴史時代に先立つ青銅器や初期鉄器時代には、洛東江の東西で文化的には
殆ど差がなかったし、ひきつづく原三国時代にも同じ瓦質土器文化地域であつたのである。
             以下省略    (加那文化展図録より)

金元龍氏がいう「古新羅」というのは、慶州を都としていた鶏林国のことです。
鶏林国が加那から分離、独立し「新羅」を襲名するのは503年、「南の新羅」でした。

北の新羅は穢人の国、南の新羅は加那から独立した倭人の国であり、「二つの新羅」が
あつたことを指摘しています。そして南の新羅は加那とともに半島の倭国構成国であつた。

慶尚道が一つの方言で纏まっているとを考えてみると、日本の一部学者が言っているような
新羅と加那の対立というような話しがピントはずれであることが良く分かるのでしょう。



3. 帰来人と渡来人

外国籍の方が海を渡海して列島に来る。その場合「渡来人」と呼んでいますが、
内国人(同一国籍)の方が渡海して列島に来た場合にこれを渡来人と呼んでは
誤解を生じます。

倭国とは九州と半島南部の国々が連合して作った国という考えから、内国人が渡海
し、これを区別する必要があるときには「帰来人」と呼んだらどうだろうと考えました。

帰来という言葉は書紀に出てきます。
雄略紀には「弓月君が帰来(来帰)した」、「阿知使主がその子都加使主とともに帰来した」

とあります。一方で「王仁が来朝した」や「さちひこが帰還した」(神功紀)と書き分けています。
この違いから、官人は帰還、外国人は来朝、内国人は帰来ではないかと考えました。

半島の倭国豪族が渡海してきた「帰来人」を「渡来人」と勘違いして、何度も半島からの波が
あつたという人は間違っています。もつとも半島南部に倭国構成国が存在していたことや

「二つの新羅」の理解を欠いたまま、諸説を述べられていてはこのような間違いを書くでしょう。
だから、「帰来人」の考え方が重要になるのでしょう。

紀が「帰来」としたのが古代の感じ方だつたのは、九州から半島への波があつたからなのです。
九州から半島へ行ったのが、帰ってきたというのが古代感覚であつた。

次回は第2話 九州から半島への波(考古資料にみる「半島の九州土器・倭製品」について)


       第2話に行く。