古代史掲示板での論議 2005.10
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目次 「1部、神武は出雲側の人間。」 「2部、 出雲から攻め上がったホアカリノ命」
1部、 神武は出雲側の人間
NO.1 神武は出雲側の人間
神武勢力のなかには大伴氏がいる。
この「大伴氏(タカムスビ)の娘」⇔婚姻・「大物主命」、「大物主命の娘」⇒婚姻・「神武天皇」。
大物主命を中心に大伴氏と神武は相互に結びついている。
何故3者が結びつく、このような関係にあるのか。
大物主命〓出雲とするならば次のような考えができるのではないだろう。
つまり、神武は出雲勢力の一員ではないか。
上記の婚姻関係の中で抜けているものを探すとそれは「大国主神」の名前である。
大国主が天皇位を示すものと解釈されるなら結果は歴然。
「神武こそ大国主」なのである。
紀記によると「倭国に上ろうとする大国主の乗馬姿」描かれているが、
出雲こそ原日本国であり、相手となったのは「倭国」であつた。
神武紀には「倭国の賊を討つ」、「日本は浦安の国」、「虚空(そら)みつ日本の国」
という言葉が書かれている。それなら神武が敵としたのは「倭国」である。
神武は出雲に出来た「日本国の王」、倭国を滅亡させた人物なのではないか。
倭人 Z
NO.2 神武は出雲側の人間
前日に壬申の乱時の高市県主許梅(たかいちあがたぬしこめ)の話が出ている。
曰く「事代主神が許梅に神がかり、神武天皇陵に馬と武器を奉れ」と言ったという。
この言葉になんの不審を持たないのは何故だ。
事代主神と神武天皇の関係について考えたらどうだ。
ひとつ、ひとつの言葉に意味があるのに素通りするのはだめじゃないか。
事代主神と神武は親子あるいは尊敬する祖先の代表と見ると良い。
つまり神武天皇は大国主神なのだ。
そのような目で見ると上の言葉が良く分かるのだ。
従って、この神武天皇陵というのは真実は「三輪神社」であろう。
古代史は表面だけでなく、紙背を通して読まなくてはならない。
以下神武が大国主である説明を順次していくこととする。
倭人 Z
NO.3 神武の子、神八井耳命後裔が出雲にいる。
>大国主神の時代に馬がいたのですか?
そう、そのように疑問をもつことが大切なのよ。
何故神話に馬が出てくるのか。紀記の時代設定が狂っているのだ。
六世紀初の話が神話になっている。・・・・・・・
だから神武天皇の行跡も表面だけの追求では限界になるわけだ。
日本国歴史は解剖して並べ替えなければ謎はとけないよ。
「大国主神は神武天皇なんだ。」
このように考えていけばすべての謎が解けていく。
例えば神武の息子・神八井耳(かみやいのみみ)命は「多臣(大臣)の
始祖」とある。(古事記)
このことから、山陰の出雲郡領に大臣の名があることは謎でなくなる。
(上の線をたどれば、当然⇒神武の息子は大国主の息子となり、その
子孫の大臣が出雲郡にいることは当然である。)
まぁすこしづっいきましょう。
「やたからす」が出雲のシンボルだという話をつぎにします。
倭人 Z
NO.4 神武の子が出雲系の神社に祭られるわけは。
神八井耳命の話がでたついでに、神社の話をする。
和歌山市園部の「伊達(いたち)神社」(式内社・名神大)の祭神は五十猛命と
神八井耳命のお二人だ。
伊達神社が兵庫の伊楯兵主神社さらに出雲の韓国いたて神社からきていると
思ってほしい。
もともとは中国山東省の土地神だが、この兵主系神社の分布についての話は
膨大な話の量になるのでパス。
ここでは何故、神武の息子が出雲系の神社に祭られているのか。
また、大国主の兄・五十猛命と一緒に祭られているのかについて想像を働かせて
もらいたい。
神武は大国主と言っているので想像はつくだろうが、神武の兄・五瀬命は⇒
五十猛命の別名だと考え付いてもらうと私が汗をかかなくて済む。
「大国主の兄・五十猛命がなぜ和歌山にいるか」
紀・記にはなんの説明もないが、当然五十猛命がここにいる「隠された理由」はある。
倭人 Z
NO.5 乗馬姿の大国主
大国主の時代が魏志倭人条の時代(魏志倭人条には「其地無牛馬」とある)でない
ことは「お馬」の件でわかるよね。
古事記には「出雲より倭国に上り座(ま)さむとして、束装(よそ)ひ立たすとき、
片御手は御馬の鞍にかけ片御足は其の御鐙(あぶみ)にふみいれて・・・」と書く。
鞍と鐙なんだよ。ははは(笑)。
紀・記の時代区分をまともにとつてはいけないのじゃないか。
大国主は出雲から大和に「お馬でぱかぱか」とでかけたのさ。
倭人 Z
NO.6 「やたカラス」の原点は出雲にあり。
五瀬命が大国主の兄・五十猛命(いたけるのみこと)の別名だとしたことに
納得できていない人は次の「やたカラス」の話でも聞いてみてくれ。
神武の倭国(やまと)征伐のハイライトは、やたカラスが軍勢を導いた場面
だろう。
昔の教科書には金色のカラス(金鵄)が燦然と輝き、賊が逃げ惑う姿が載っていた。
(この賊が私の先祖だつたのかもしれない。)
ところでこのカラス、出雲に原点がある。
スサノオ⇒熊野神社の神旗は三本足のやたカラスが描かれている。
⇒牛王宝印には三本足のカラスが印刷されている。
約束を破れば熊野のカラスが死ぬと伝える。
事代主神⇒美保の関神社の祭器には三本足のカラスが描かれている。
大国主神は神武に重なるが、紀・記以外にもカラスの話は伝承されている。
※ 有馬温泉の由来⇒昔、大国主神が三匹の傷ついたカラスが
水に浸かり、たちまち傷が癒えるのをみて温泉を発見された。
(三匹のカラスになつているがこれは三本足のカラス?)
※ 湯殿山神社の由来⇒この地方の開拓にあたつた人物が三本足
のカラスに導かれ、ここに大国主神を祭った。
神武天皇の軍にカラスに化身して軍を導いたとされる人物がいる。
下加茂神社の祭神、鴨建角身命(かもたてつみ・姓氏録)さんだが、
行って見てここは出雲の神社だと直ぐ分かつたね。
もちろん、上鴨神社は出雲神だよ。
なんだよ。・・・・・神武さんは出雲人じゃないか。(笑)
おまけを一つ、神武紀に出てくる高倉下命はのちに天香山命(あまのかぐ(ご)やま)
と名を変えて新潟の開拓に当たり、弥彦神社の祭神になつたというが、
この弥彦は大弥彦⇒大国主神の兄・五十猛命(いそたける)からきているのじゃ
ないかね。はははは・・・・。
倭人 Z
NO.7 出雲と太陽(日)
tomboさんへ。
三本足のカラスのキーワードが「復讐」だというのはあたつているかも
しれない。
大国主は大勢の神たちからいじめを受けていたから、その神々たちの
領地を取り上げて追放したのは「復讐」だつたのか。
もう一つのキーワードは「お日様」太陽だね。古来からカラスは太陽とともに
生活をするため、太陽と密接に結び付けられてきた。
神武紀の説話にカラスが登場するのもそのせいた゛。
よく、天神が「日」だなんて言う人がいるけれど馬鹿げている。
出雲が「日」なんだ。
出雲大社に行ってみると境内に大きな銅像がある。大国主と太陽だ。
芸術家というのは素晴らしい!!。
古代史を知らなくても、真理を感じ取る力がある。(感心するよ。本当に!)
もつとも、出雲の人々は「日」の大本は出雲だと昔から思っていたのではないか。
出雲大社は別名「日すみ宮(日が住む宮殿・場所)」と言うし、
この地方には「ヒ」の付くものが多い。
ヒの川、ヒの御崎、出雲郡大領はヒ置氏だ。
真実、日本の大本は出雲なんだ。日の大本だから大国主は「国つ神」になる。
たとえ、渡来神の子であつてもここが日本国の大本だから。
日本国が倭国を倒した。その情況は神武紀の中にある。
・・・・・・・・神武は大国主神・・・・・・・・・。
倭人 Z
NO.8 時代が逆転している日本「古代史」の作られ方。
tomboさんの投稿があるまで、別のことを話してくよ。
「日本国の歴史書(紀・記)がどのように作られているか」について
大雑ぱに言うと「倭国史」の前に「日本史」の前文を持ってきて「日本と
いう国から歴史が始まった」としたのだ。
「倭国の存在を隠すため、日本国の歴史から書き始めた」
つまり、出雲神話と神武紀は後世の日本史で、時代を無視して最初に
持ってきた歴史の話さ。
本来の倭国史は古来の神話もずたずたにされ、後世に移されているよ。
「神と戦う倭武命の説話」や九州征服説話などは倭国の歴史神話だろう。
崇神紀から始まる倭国史の中にも出雲関係の日本に関する話が混在している。
だがこんなことを書くと「新日本書紀」を作らなくてはならなくなるから止めよう。
丹後の海部直氏系図が話題になつているが、ここも神武朝紀なんだから
出雲を調べなくてはならない。
和歌山の海部直も出雲勢力として、神武についてきたのだと思うよ。
倭人 Z
NO.9 神武は倭国を倒した日本国の王。
神武は出雲の王で、倭国を倒した後世の人物である。
そのことを検証するには、倭国豪族が滅亡した後に出雲関係者が出現
するか、どうかを確かめてみると良い。
七世紀後半の「壬申の乱」にでてくる氏族名で追認・確認してくれ。
壬申の乱に登場する人たちに倭国豪族の名は消えていなくなつた。
そして出雲族の氏名が出てくる。
つまり、「倭国が滅亡して出雲関係者が大和に来ている」ということだ。
少しは元倭国の豪族がいるが、倭国豪族が分裂し出雲側に付いた者も
いるということだ。
追認できたらあなたの歴史観が変わってくるはずだ。
(倭国が滅亡するのは出雲との戦いに敗れたからだ。その時期は倭の五王
武王以後だよ。そんな歴史が歴史書では先頭に配置されている。分かる?。)
これが分かれば、あなたは真実の日本歴史を考えることが出来る。
門を開かなかったら(アクションをおこさなかつたら)それまでよ。
倭人 Z
NO.10 神武は出雲人。
日本の歴史書が倭国の歴史に重ねるように「後世の日本国史を時代を無視し
最初に持ってきた書き方である」ことが理解できていないと氏族研究は
無理だ。
出雲神話と神武朝紀は後世の出来事。
ここに出てくる氏族はずーと後世の方々なのだ。
大王で子孫を残すのは新しい氏族。神武もそう!!。
子孫を残さない大王家が古い方なのさ。
崇神から始まって五世紀の大王は子孫を残さない。
この系列が倭国の大王家で、神武はその後の日本国の王。
理解できるかな?。
頭が混乱して来た人もいるかも知れない。
少し、氏族の話でもしてみるか。すつきりなるよ。
倭人 Z
NO.11 神武は出雲人、 氏族研究1
出雲郡の大領が日置氏であることは以前お話したよ。
全国に展開する日置氏の本拠が出雲だと思ってくれ。
なぜかと言うと、ここには日置臣・日置部臣と位の高い姓(かばね)を持っている
氏族がいるからだ。
彼らは騎馬民族で、国引きによつて出雲に招かれたと私は解釈している。
神武は応援軍として騎馬民族を招き、その力を借りて倭国を倒したのだ。
古事記をよく読んでほしい。大物主神の実態は騎馬民族なのだ。
姓氏録には「長背王」の記述があるが、
「高句麗氏族で顔美しく身体大きいから、長背王と名を賜ったと」ある。
大物主の名の由来は身体が大きいことじゃないかね。
身体が大きければ「大氏」だと思う。古代氏族大氏については別機会に。
ここで言いたいのは、出雲が騎馬民族の助けを借りて倭国を滅亡させたと
いうこと。 そして出雲が騎馬民族の根拠地であること。
「倭国が後の日本である」なんて言っている人は全く分かつていないね。
倭人 Z
no.12 神武は出雲人、氏族研究2
日置氏が騎馬民族で、出雲を根拠地にしていたことをお話したよ。
次に話す氏族は青海首(あおみのおびと)だ。
青海首は姓氏録に「椎根津彦の後也」。
あの神武の船に案内役として乗り込んできた「珍彦(うずひこ)」だといえば
皆に分かりやすいだろう。
この氏族は神武と関係が深いことは勿論だが、出雲の日置氏と密接な関係
がある。
日本海沿岸において、日置という地名または日置神社の付近には
青海(青)の地名がともに存在する。
山口県から新潟県まで地図をみてくれ。青海(青)と地名があるところには
付近に日置の地名が必ずあるはずだ。
そしたらこれがなにを意味するのか考えてくれ。
青海首は恐らく出雲側についた海族で、騎馬民族の輸送に当たった
氏族だつたのではないか。
騎馬民族が自分たちで馬や軍勢を運んだのではない。
招いた側から輸送手段を提供し、海を渡し、河を遡上したのだろう。
その役を果たしたのが神武紀に出てくる珍彦だ。
珍彦が運んだのは出雲を根拠地とする軍勢だということなのだ。
神武は出雲人なんだ。そして騎馬民族を列島に招いて「倭国」を
滅ぼした人物なのだ。
倭人 Z
no.13 神武の海族 氏族研究3
tomboさんの>「珍彦(うずひこ)は、海人ですが土着です。
うん。土着の海人で良いかも知れない。
私はこの氏族を九州人だと思っている。大伴氏傘下の海族で、他にも
安曇氏や宗像氏などの九州海族が大伴氏の命令で出雲に協力した。
安曇氏は海上輸送だけでなく、陸上戦闘にも参加したことは信州安曇野の
地名からも推測できる。
日本海の新潟から信濃・甲斐へと出雲軍の進撃があつたこと。それに付随
して安曇氏は動いている。
諏訪神社がなぜ存在するのか。
数多くの積石塚古墳が信州に存在することを考えてほしい。これは騎馬民族の
お墓なんだ。
出雲勢力は騎馬民族の助けを借りて「倭国」を滅ぼした。
大伴氏は出雲人の神武と手を組んで、傘下の海族を派遣して協力させたんだよ。
宗像氏は大国主と婚姻関係を結んでいるからね。
これらの氏族は神武こと大国主の協力者なんだ。
日本歴史が神武紀を先頭にもつてきているのがあやしいこと。
神武紀は後世の話。倭国滅亡時期の六世紀初のことだろう。
倭人 Z
no.14 大伴氏が倭国と決別した情況、氏族研究4
tomboさん、いろいろおもしろい解釈ありがとう。楽しんで読んでいるよ。
若い方だと思うけど発想もあるし、なかなか勉強しているのでは・・・・・。
それに引き換え私の文章は通説をなぞっていて、自分ながら面白くない。
今日も通説でごめん。
安曇氏は志賀島の海神社を奉祭する北九州の海族だが、
戦闘集団の性質が強い。
土着の海神・綿積豊玉彦の子、穂高見命が祖だ。信州の山名はここから
ついたのか。
顔に入れ墨をすることを安曇目と言う。出身は倭人。
九州から畿内に移り、住吉(すみのえ・接頭語のアをつけて「あずみえ」
とも呼ぶ)を根拠地としていた。
tomboさんが話した忌部はタカムスビの子・天太玉命を祖とする大伴氏の
傍流だから安曇氏と主従関係はある。
以下の話は歴史の裏面史だが、大伴氏と安曇氏の関係を示す話として
聞いてくれ。
大伴氏は倭国の豪族であつたが、倭国と訣別する時期を迎える。
この場面は正史には「住吉に引退した」という簡単な記事になっているが、
大伴氏畿内撤退は大事件であつた。
撤退する大伴氏に対して、反対派の豪族連合軍は矢を射かけ追撃したに
違いない。
勿論、大伴氏側も反撃しつつ目指したのは「住吉」である。
そこには大伴氏の忠実な部下である安曇氏の根拠地で、港湾には其の時に
備えて軍船も用意されていたのだろう。
結果的には大伴氏は安曇海人たちに守られて、九州に移動するのであるが、
この戦闘で「住吉」は灰燼と帰した。港湾施設も使用不能となり、
その後機内の港は「難波」に移るのである。
安曇氏と大伴氏の関係を示す事件ともいえる。
また、大伴氏が倭国と決別した正確な時期は分からないが(日本の正史は
まつたく当てにならない)
この時以後、大伴氏は出雲と手を組み、倭国滅亡に関与していくことになる。
倭人 Z
no.15 神武関連の地名は良く見たらどう!
日本海沿岸における騎馬民族日置氏と九州海人・青海首(あおみのおびと)=
珍彦(うずひこ)の地名が同一地域に重なることを発見したのは私だ。
特許じゃないからどんどん使ってくれ。
このことからいろいろなことが解る。古代の謎がどんどん解けていく。
神武と珍彦の関係から、神武の軍に騎馬民族が招かれていることが解る。
神武の根拠地は騎馬民族が招かれた出雲だということも解る。
そして、神武は大国主ではないかと発展させてくれ。
珍彦を神武のもとに派遣したのは大伴氏じゃないかということも解る。
そして神武が滅ぼしたのは大伴氏が訣別した倭国だと考えてくれ。
大伴氏は安曇海人を戦闘に参加させて信州攻略に従事させた。
勿論、出雲軍の総司令官は大伴氏だよ。
冒頭に三者(大伴氏・大物主神・神武)の婚姻関係を示している。
ここでもう一度婚姻関係を考えてくれ。
地名を見ることは大事なことなんだ。それですべての謎が解けると
したら疎かにすべきじゃないよ。
神武の地名もよく見たらいかが。
神武決戦の地は奈良県東南地域の忍坂付近だろ。
その忍坂の東隣は「狛」という地名じゃないか!!。
この地から北に流れる川は「狛川」で、この川が初瀬川と合流する
地域は「出雲」という地名だ。
桜井市には「高麗神社」があるのだ。
地名に「狛」とあつたら不思議に思ったらどうだ。
奈良県東南のこの地域は大伴氏、騎馬民族、出雲関係氏族によつて
占拠されたのだ。
大和に出雲系神社が建てられたのは倭国が滅亡した後だと思うけど
反対意見があるなら発表してもらいたい。
倭人 Z
no.16 神武紀に書かれているモデルは複数の人物の合成
解りやすく神武は大国主と提示したけど、「日本書紀の神武紀は複数
の人物の行跡を寄せ集めて文章が成立している」ことに気付くべきだ。
一人の人物の伝記ではない。これが基本の考えだ。
九州から吉備を経由して東遷の人物。
宇佐を根拠地とした人物。
出雲から倭国を滅ぼすため和歌山経由攻めあがった人物。
それぞれに違う年代・違う人物の事跡を寄せ集めて作ったのが書紀の
神武紀ではないだろうか。
ところで、日本の歴史書には二人のハツシラス・スメラミコトがいる。
神武と崇神だが、この二人どちらが古い人物でどちらが新しい人物なのか。
子孫を有する氏族が新しく、子孫を有しない方が古い時代の方であろうと
私は思っている。
神武の子孫は多氏(神八井耳命の子孫)を始め多くの子孫を有している。
古事記を書いた大安麻呂は神武の子孫だ。
此れに対して崇神は子孫を残さない。つまり滅亡したのは崇神の子孫だ。
崇神は倭国のハツシラス大王。 神武が日本国のハツシラスミコトなのだ。
出雲神話とそれに続く神武朝は、倭国歴史の前に持つていつた日本国(六世紀
前後の)歴史の話だ。
だから、崇神は子孫を残さない。神武は後世の人物像で子孫を残すのだョ。
これが分かつていないと話にならない。
倭人 Z
no.17 最後に
tomboさん。 つぎの言葉にはしびれたね。
>出雲から倭国を滅ぼすため和歌山経由攻めあがった人物。
ホヒカリの古ヘブライ系ですね。
・・・・・漢の主軸は古ヘブライ系になつていただろう。
すごい!!。拍手・々々。
古ヘブライ系・シュメール系というのは私にはよく分からないけれど、
出雲から攻めあがった人物を「ホヒカリ」「漢系」ととらしてもらつた。
丹後の海部直系図に関して出雲を調べてご覧!と言っているのは
このことだよ。
もつとも、この掲示板の連中は意味が分からないだろうね。
一言だけ言っておくよ。
丹波の国に綾部市があるけれど、この綾部は本来の字は「漢部」なんだ。
なぜ出雲が漢系なのか?ホアカリノミコトなのか次に話をしょう。
倭人 Z
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