このページは日本古代史会での討論発言集の中で「紀・記」に関する発言を公開しています。
2003.11月、古代史会のk.matsu50さんからの御誘いがありました。
「紀・記改鼠の手口を推定しようではないか」という大きなテーマです。
以下はそれに答えて発言した文集です。
この討論にはさまざまな方が発言され、私も刺激を受けながら考察したという経緯がありますが、
著作権の関係で全発言を記録することはできません。
ご覧になりたい方は日本古代史会の「神武は倭国を攻めている」というトピックスを見てください。
1、紀・記基本構想< だれが紀・記基本構想を作ったのか? >
2、紀・記基本構想< 基本構想はどのようなものか? > 別ページに行く
From 倭人Z No.1
皆さんの活躍を横目で見ながら、大国主の進撃路の地図を作っていました。
別に難しいことでなくて、式内社の出雲神の神社を線で結ぶだけの話です。
今日はこんな話でなく、k.matsuさんが最近取り上げている三国史記について、指摘
されていることをもつともだと思いますよ。
半島の歴史は衛満の時代、漢の時代、魏・晋の時代にかけて、それぞれ統治の歴史が
あり、また三韓や倭、東海岸の沃沮・穢などの諸国の歴史が実在しなくてはならなかつた。
そんな歴史はどこに消えたのでしょう。そんな歴史が本当の歴史だったのではありませんか。
百済の建国は4世紀に入ってだと思うのですが、それまで紀元前から延々と書いてある
百済本紀は作文だろうか。
それともどこからか持ってきたのだろうか。 だれか教えてください。
新羅本紀は二国以上の歴史が混じり入つている。
大きいところは、元山の付近を都とした北の国(穢人の国)と慶州を都とした南の国(倭人
の国)との歴史混在がある。
要するにそんな事情を知った上で歴史を解明するというのが基本的な姿勢でしょうね。
残念ながら統一新羅以前の三国史記に関しては信用できないものがあります。
三国史記も日本書紀も構造から解明しなければならないというのが私の立場です。
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From 倭人Z No.2
「紀・記の改鼠手口を推定するという大きなテーマを掲げられたK.matsuさんにたじたじと
して、三国史記を取り上げてお茶をにごしました。
書紀同様に問題のあることは誰の目にも明らかだったからです。
どんな問題があるかというと、
1、過去の歴史をすべて抹殺。(中国の統治、三韓、倭、穢など)
2、祖先を遡上する。(百済本紀)
3、並列の歴史を連続の歴史とする。(新羅本紀)など。
新羅という名は好まれたようで、違う国が「新羅」を名乗りました。本当は前新羅、後新羅
と別けなければならなかったのです。
前新羅は魏の時代に建国し、後に高句麗に吸収されました。倭国に人質を出していた北の
方にあつた国です。
後新羅は503年に任那から独立した元の鶏林国で倭人の王の系譜を持ち、倭国の中心的
役割を果たした南の国でした。天日矛命や葛城氏に所属した秦の民はこちらの出身。
新羅本紀は二つの新羅を一つの歴史書の中に取り込み、あたかも一つの国の出来事の
ように書いていました。
後世に書かれた紀・記も「新羅」と言うだけで区別していませんから読む人がこれはどちらの
国だと判断する必要があるのです。
私はこのような状態を表す言葉として「二つの新羅」という新語を作りましたが、どうでしょう。
まあそういう訳で、倉西さんの(1)は三国史記は根本的に問題がある。何十年古く見せると
いうだけにとどまらない。
(2)中国史書における倭の五王と紀の対応は、したい人にやらせておけばよいと思っています。
絶対に合致しません。
で、話は紀の改鼠手口に戻ってきてしまうのですが、これが一筋縄でいきそうにない。
おそらく、この問題だけで本が出来そうな感じがしてきましたが、それはなぜかというと
一つのグループだけの編集じゃないのではないか。
三四郎さんのいう「単列構造ではない」のでしょう。
だれか指揮者がいて、全編に目を通したかというとそんな形跡は認められない。
唖然とするのは、何行も隔てていない所に書かれている記述が異なっていること。
これが分からない。
だから私は、「いかなる編者でも触れては成らない部分が権威ある人物によつて作られ
ていた」のではと思っています。
これが天武のとき、「筆によつて書かれた」部分だつたなんて・・・・・。
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註:倉西さん=倉西祐子氏「日本書紀の真実」(講談社)。
★ 「二つの新羅」に対しては、K.matsuさんから原始新羅を考慮した「複数の新羅」という
異議がありました。なかなか古代史会はきびしいですね。(笑)。
From 倭人Z No.3
紀・記の基本構想は誰が作ったのか?
たしかに、条文ごとの比較が必要でしょう。歴史を書き上げるには長い年月がかかり、
携わる人物も多かったに違いない。その点で太安麻呂が四ヶ月で古事記を書き上げた
ということが信じられないのです。
基本構想に基づいた、それも数多くの人達によつて作られた原稿があつたに違いない。
そこで我々が一番先に問題にしなければならないのは、基本構想の部分ですね。
三国史記・新羅本紀670年条には次ぎのように書いてある。
「倭国は国号を日本と改めた。自ら日の出る所に近いといって国名とした」と。
別に670年という年月の出来事ではないようですので、この年にこだわる必要はないの
ですが、倭国から日本に改名したことは大いにこだわりましょう。
なぜかというと、日本の歴史書に倭国という国号がないからです。
葦原中国なんですよ。この国は!
敵対する勢力に倭国が存在する。
日本紀から歴史が始まっていると主張する由縁です。
といつても、倭国の歴史全部を抹殺したわけではありません。
冒頭に日本紀の先頭部分である「出雲神話とそれに続く神武紀」をもつてきました。
それに倭国史を接続したのです。
だれがそのように構想したのか。通説では天武の意向を受けた僧侶たちが仏教の
極楽思想から天空(高天原)を取りいれ、万世一系の天皇を生み出したという。
ほんとうかな。(かなり疑問に感じているのです。)
倭国の王号は五世紀末まで大王でした。それが継体のときに天王と変わり、さらに
天皇と変化しました。木簡出土によつて天智天皇の代といわれています。
天王(てんのう)は仏教用語です。(天王は仏教守護者をあらわす語)
紀・記は王号の変化について、なにも記すことはなかつた。
王号変化によつて万世一系が崩れるからです。
だから、天王から天皇へと変化した時代こそ、紀記基本構想が始まったものでなくては
なりません。と思っています。
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From 倭人Z No.4
三四郎さんが書きこみをするとなぜかほのぼのとするのはなぜなのでしょう。
私が書きこみをすると、殺気があたり一面にみなぎるのでしょうか。あまり人が寄って
こないのです。でもね、本当の鋭さは柔らかさの中に存在するのかもね。
前に「欽明紀が国譲りの時期だ」といいました。出雲神話の終わりには国譲りが書いて
居ましたが話はそこで完結しているのでしょう。神武の話には繋がらないのでした。
ある人がいいました。
「国譲りによつて、帰順する者には褒美を与え、抵抗する者は打ち払ったという。
それなのに神武が大和に攻めこむのはおかしいではないか」。
「神武の時代は平定された時代ではなかつたのだ」と。
神武紀は国譲りとは関係のない話なのではないかというのが結論でした。
現実には欽明紀に国譲りが行われています。
出雲風土記に記載されている舎人郷は「欽明の御世にこの郷の日置臣志毘という
人が宮中の舎人となったので郷名になつたという」
別に諏訪神社大祝の金刺舎人もいる。金刺は欽明の宮号ですから、欽明紀に
出雲が降伏し服従したのでしょう。 そして出雲人が官職を得た。
本当は欽明の時代に、クーデターで継体朝を倒した。そして国譲りを実行したのだつた
と書かなくてはならなかつた。
それが書けなかったから、宗教記事もすべて嘘を書いている。
欽明は仏教を守護すると約束して、出雲族を説得したのだろう。
寺を作り、仏教布教に理解を示した。
それが証拠には、欽明十五年「百済からの僧曇慧ら九人を僧道深ら七人の代わり
とした」という記事がある。
欽明十三年に「仏像を堀江に捨て、寺を焼いた」という記事はなんだよといいたい。
ず〜と僧が寺に住み、仏法が行われていたのだよね。
それでなくては出雲族が服従するわけがない。
それ以後の蘇我氏の崇仏の話も眉唾なんですよ。紀の編者も「よいしょ」することも
あるのですね。
「蘇我氏は天皇だつた」という本がある。別に推薦するわけではない。私が書くなら
別のことを書くだろうという気がしたけれど、表題だけは合っているのだと思っている。
欽明以後七世紀前半にかけての書紀は暗黒の世界だから推理するのには面白い
かも知れませんよ。
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From 倭人Z No.5
紀・記基本構想は誰が作ったか?
列島の王様の名称は天皇号の前に「天王」号があつたのだろう。この号名は中国
から伝来して来たと私は考えています。
中国最後の天王号は北燕国の王で、その後中国では使われず、海を越えた日本
列島に出現して来た。
倭国の王号は「大王」でしたから「大王」⇒「天王」に変わった時期は列島に大きな
変革の起きた時代でした。
具体的に言えば、仏教伝来(正確には仏教公許の時)だ。
天王号は仏教守護者を意味する用語で、それを使ったとすれば仏教に深く帰依した
人物が王位についたことになる。
紀において、天王という言葉が出てくるのは雄略紀で「日本」という国号の現れるのも
同じ場所である。 五世紀中ころを想定してよいだろうか。
そのころ列島では、倭国の政治の中に変わった動きが生じてきたのだつた。
これを仏教の伝来ととらえている。
もうかなりの人が仏教伝来時期に関する紀の記載に疑問を投げかけているのです。
そして「天王号」が出現した。
紀基本構想についてみると、この「天王」(の後、さらに)⇒「天皇」に表記を変化した
時期というのが重大な意味を持つようになります。
なぜなら、万世一系の皇統には「大王号」も「天王号」もあつてはならないし、
「倭国」という国号もあつてはならなかつたのでしょう。
「天王号」を廃止した人物は、中国の王号が日本列島に存在しては、日本国の歴史・
皇統に支障があると考えたのでした。
紀の基本構想はこの方が作られたと思う。
神武から天皇で、日本・大日本を冠した「いみな」をお持ちの天皇がおいでです。
「大王」は使わなかったのでした。
使えば、「天王」も使わなくてはならない。もしそうなれば王朝の交代が分かってしまう。
天王⇒天皇に表記を変えたのはそうしたことを考慮したのかもしれません。
今、日本地図を眺めてみると、天王という地名は多いし、八王子という地名もある。
また仏教にかかわる山名も多いのです。これが意味するものについても、
問題提起していきたいと。と思っています。 |
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From 倭人Z No.6
紀・記の基本構想はだれが作ったか?
日本という国号は、前に書いたとおり雄略紀に初見された。(移動されている条項を
除外し、倭国史の中でということ)
天王号とともに出現していることは、この時期に日本国の胎動があつたものと見えます。
そして、六世紀初頭に新王朝が誕生しました。 継体朝です。
「日本小国、倭国を併せり」(旧唐書)といわれました。
この政権は永く続かずに、クーデターによつて倭の国号が復活します。
欽明紀に国譲りが行われたと指摘していますが、歴史書では神話の中に入っている
ことはご存知のとおりでしょう。
基本構想を解明して行くと、各条のあるべき位置がだんだんに頭の中に描けるのですね。
(そして)最終的に倭国から日本国に転換した時期は天智天皇の御世だと思うのですよ。
(中国の歴史書によれば)
唐の太宗貞観二十二年(648年)は考徳紀で「倭王」。
唐高宗(659年)壱岐連博徳の書に「倭の客人」。
次ぎの670年(天智紀九年)には「日本」に変わっていました。
648年(659年を信じても良いか)⇒670年の間に国号の変化があつた。
宮崎市定氏によれば、「愚管抄には天地天王まで「天王号」が書かれていた。」と
いう。
だから、この方が国号も天皇号も改新されたのだろう。
さて、国号は倭国⇒日本⇒倭国⇒日本へと変化。
王号は大王⇒天王⇒天皇へと変化したのでした。
なぜ一新したのでしょうか?
六世紀の日本が(出雲に上陸した)渡来人集団によつて建国されたように、
この方には倭国の名称にこだわりを持たなかったことが考えられるだろう。
倭の血筋は入っていたが、薄かったのではないかと想像される。
倭国よりも日本国に自分の血筋の正当性を求めたのではないだろうか。 |
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From 倭人Z No.7
紀・記の基本構想はだれが作ったか。
このトピは「紀・記の改鼠手口の推定」というテーマで討論を実施しています。
戦後、紀・記の解明手順がいろいろな手段による、紀のグループ別けを行うと
いつた方法が多用されました。
漢文の用法の違いだとか、あるいは暦であるとかまたはその他によつて、
ある人は二グループといい、ある人は四グループに分かれるといいます。
しかしその方法で歴史の謎が解けるのでしょうか? 疑問に思えます。
そこで古代史の会で(私は)、紀・記の基本構想が多くの一書といわれる原稿の
中で権威を持つて確立していることに着目して、この線から上のテーマに迫って
みたいと考えています。
日本で初めての試みではないですか。はたしてどうなるのでしょうね(笑い)。
会員の中には、すでに「神武は(倭国の王ではなく)日本だ」という声が上がっています。
これは凄いことになつてきました。
ただ周辺の理論構成だけはしつかりとやつていきましょう。
三四郎さんから貴重な指摘を頂きました。藤原氏の関与です。
基本構想についていえば、天智と鎌足が作った可能性が高いのではないかと
考えられます。
七世紀は殺りくの時代。この二人が計画し殺害した人物は倭の正しい血筋を継ぐ
人達でした。
天智はこれらの人達の対局側にいたのです。
(そして)不具者を装った皇子さえも殺しました。
倭の血筋を抹殺することが目的だったのでしょう。
鎌足の手は、倭の皇子の血によって染まりました。
そうした天智が天皇になつて自分の正当性を倭国に求めることはできなかったのです。
国号を日本に変更しました。
天武は持統の夫として、そんな無理なことをする必要はなかつたでしょう。
だから歴史の最初から「日本国を構想した人物は」天智であつたと指摘できると
思うのですよ。鎌足の進言を得て決定したのではないでしょうか。 |
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From 倭人Z No.8
封印された天皇紀。
書紀が欽明紀から書き始めたと三四郎さんが指摘していることについて、同意したい
と思います。
紀・記の基本構想について、天智の関与を明かにしてきました。そして彼がもつとも
関心を持ったのは欽明紀であつただろうと考えます。
この紀に天智のルーツがあつたのではないか。
国譲りを実行した欽明は、政略結婚の出雲勢力の娘・(や)百済王家の娘を後宮に入れ、
それぞれの皇子を作りました。
それに倭の血筋をひく皇子の三つ巴の争いが六世紀から七世紀にかけて王位を巡る争い
になつたというのが一般的(に考えられる)考え方でしょう。
だからその争いを制した天智が真っ先に手をつけたのは、この天皇紀であつただろう。
メツタメタに改変しました。
万世一系になるように欽明を継体の子にし、歴史を作り変えたのでした。
はるか遠い時代から一系の皇統を装うのは、自分が純粋な倭の血筋でなかつたから
です。自分のルーツを消し去ったのでした。
各条の改鼠を検討する段階でその改変手口は明らかになつていくだろうと思いますが、
この紀は百済紀引用を除いてほとんどすべてが嘘と思って良い。
「新羅は悪逆非道」と書かれているのは後世の作で、この欽明紀が天智の時代に作られた
証拠としてあげられる。
おそらく国をほろぼされた後の百済人が書いたのではないか。あるいは百済の血が濃い
人物が書かせたのであろう。
天武が即位したときは、新羅は倭の血筋の復活を歓迎して大祝賀使節団を送り、輝くばかり
の友好関係を築きました。
だから天武以後の時代に(新羅は悪逆非道と書く欽明紀を)構想したのではないのです。
日本が倭の血筋の王である時代とそうでない時代、新羅の態度は変わるのです。
この新羅は倭人の王の系譜をもつ南の鶏林新羅ですよ。
この欽明紀は、未完成のままの状態です。 一度も校正されなかつたのではないかという
点が不思議なところです。
書紀の編者でも、「触れることの許されない」天皇紀だつたのではないか。
もしかして天智の御真筆?。封印された天皇紀だつたのではないでしょうか。
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この後討論の方向がずれて、一たん小休止(コーヒー・ブレイク)でした。
休憩中は軽い発言をしています。
From 倭人Z No.9
喫茶店の片隅から。
「紀・記はヒントで読め。」なんて人に言われたことがありました。そして自分でそのヒント
を見つけることが出来たときは一人で「ニンマリと」することがあります。
例えば皇極二年条の高向臣国押です。このとき彼はこのように言う。「私は天皇の宮を
御守りしているので、外に出て行くことはいたしません」と。
場面変わって同四年蘇我滅亡の時、紀は蘇我の陣営に国押の姿を登場させている。
「逃げようではないか」と(同僚を誘い、剣を放り出して逃げ出した。)
天皇の宮というのは、蘇我の宮だつたのですね。
つまり、紀の編者が隠したヒントは、「蘇我は天皇だつたよ」ということなのでしょう。
天智は考徳の子供たちを執拗に狙っている。考徳はまた子供達の安全について憂慮し、
有馬皇子に有力者阿部氏をつけ、定慧(定恵)は唐に送り、(仏法に入信させて)仏の
加護を求めさせました。
そんな配慮も空しく、阿部氏を蝦夷制圧に送り出した後に有馬皇子は殺されたし、
天智四年日本に帰ってきた定慧も毒殺されました。殺されることを知っていて「なぜ
帰ってきたのか」。 僧となつていた定慧を殺したのはだれだ?
上のことから、天智と考徳の血縁関係を疑いたくなるのは当然でしょうね。
それと仏僧を殺されたことで、仏教界と天智の関係がどのようになつたのか。
紀は慎重にすべてを消し去ったのではないか。想像しています。
豪腕の天智は仏教界の弾圧を実施して、教主王従から仏教を国家鎮護の宗教に
変えたのではないかと。
天王⇒天皇の王号変化は、仏教守護者から仏教を統制する王者への変化でした。
法隆寺炎上をからませて、小説にでも書けば面白そうですが、そんな才能ないしね。
天智に対しては、紀は「連日連夜火災が起きた」と書きました。
なんのヒントでしょうか。この辺の事情は面白そうですが、私にはむずかしい。
コーヒー片手にそんなこと思っています。 倭人Z
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討論再開です。
From 倭人Z No.10
「ゆかり発言」と古代史。
2000年12月、天皇陛下の「皇室は半島とゆかりがある」との発言がありました。
これは大英断であつたと思います。我々古代史に関心があるものにとつては、こんな
有り難い発言を頂いたことに感謝申し上げたいと思っています。
時代は確実に変わりました。(そんな思いでこの発言を感じています。)
江戸時代まで存在していた百済王(くだらのこにしき)家の系譜は、明治時代を通過後に
われわれの目に触れることはなくなりました。
余(あぐり・百済王家の姓)という姓をもつた人達がいるのだから、あるいは(系譜を)隠し
持っていることが想像されますが世にでることはないでしょう。
そんな想いを持っていたとき、ある古書店で「訳注大日本史・列伝上下」を見つけました。
その中には百済王家の姫君たちが多数記載されていました。
日本皇室の大奥に入ったひとたちです。
私の熱心に見入る姿に店主は、ぽっと言いました。
「1000円でいいよ。」もちろん頭を何度もさげて感謝して買いましたよ。
平安時代の大奥は、百済の姫君がいつぱい。この言葉は正確ではない。そのころには
百済王家は日本に帰化していただろうから。
それで遡ることにしたら、桓武⇒光仁⇒志貴皇子⇒天智⇒舒明となります。
百済の宮や百済大寺を建て、百済の大もがり(葬式行事)をされた方(舒明)もいられます。
これらの方は百済閨閥系の皇子(天皇)だつたのでしょう。
私は(継体朝の後の)欽明紀に百済閨閥や出雲閨閥ができたのではないかと説明しました。
だから、倭の閨閥と三つ巴の争いになったとの説に立ちます。
(百済閨閥は上に紹介しましたが)出雲閨閥は上宮家だと感じています。
斑鳩に拠点があつた。(この地一帯は出雲関係者の居住が指摘できる場所です)
藤ノ木古墳の主と厩戸皇子は何らかの関係があつたのではないか。
壬申の乱のとき、出雲勢力は近江軍(天智側)に対して総力をあげて戦う。
上宮家滅亡の復讐戦だとすると古代史の訂正が必要になってくるのでしょうね。
今日は古代の閨閥の話でした。あまり参考にはならなかつたでしょうか。
倭人Z
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From 倭人Z No.11
K.matsuさんへ。 メツセージの返事です。
年明けに返事を差し上げようとおもつていたのでが、K.matsuさんのメツセージの中に
「紀・記基本構想は誰によって作られたか」を解明するkey ポイントが含まれていることに
今気付きました。
反論したい人に充分な時間を与えなければアンフェアでしょうし、正月休みにでも
考えてくださいとの思いです。
>「すなわち天照を誰が持ち上げたか。・・・これにより位置付けを明確に出来ると思います。
まさに意外な点でした。高天原思想の中核にあるのが天照という考えなのでしょう。
私は高天原の位置ばかり考えていたので、このことに気付くのが遅すぎました。
でも指摘を頂ければ後は簡単。コンピュターが壬申の乱の項目をはじき出しています。
次ぎのようなことでした。
「天武元年、吉野山を脱出した大海人皇子は、三重県朝明川のほとりで天照大神を
御遥拝になつた」
天照大神を解説欄では、伊勢神宮のことであるとしていた。
つまり、伊勢神宮は天武以降に作られたものではなかった。これは高天原思想が
天智によつて作られたことを示唆しているのではないでしょうか。
天智以前に列島の歴史書は作られていました。そのうち、国記は蘇我滅亡の時に
船史恵尺(えさか)によつて中大兄に差し出されていた。
中大兄は後の天智ですから、彼が倭国の歴史書を持っていたのは事実でしょう。
そして国記に書かれていたことを改ざんしたいと思う動機を持っていた。
倭の血筋が薄かったからです。 百済閨閥のことは先に述べておきました。
それと蘇我氏が天皇だったことも、高向臣国押のことを出して説明しています。
で、天智の父上舒明は、追贈による天皇号でなかつたのか。
この辺も、紀の改造の匂いが大です。(もし蘇我氏が天皇だったら舒明の皇位はない)
百済大寺は建造後、直ぐ焼失したという。天智の再建というが、父の供養の為に
建てた寺だつたのではないか。
それを天武は即位すると直ちに解体し、場所を変え大官大寺と名前も変えて
建てなおす。ここら付近の謎は面白いですし、天智の歴史関与を感じてしまいます。
三四郎さんが高天原の呼び名を言語虫さんに尋ねています。
「タカ・アマ・ハラ」と。
あ。なるほどね。「アマのタカハラ」ではないですか。こんなことが年明け後の論争の
中心となりそうな雰囲気を感じてきましたが、
K.matsuさん・そして皆さん良いお年をお迎えください。ポンマニパドウセヨ。
倭人 Z |
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新年の討論は正月らしく「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」(宇佐 公康氏著)の内容をめぐる
話題から入りました。検討の要ありとする方もいたのですが、私は否定的な意見をだしています。
From 倭人 Z No.12
宇佐家の伝承
紀・記は隠しているけれど九州における仏教は早い段階で普及した。宇佐神宮も仏教から
きている。
豊国宇佐八幡大菩薩が出雲族の大神氏によつて、設立されたのは欽明紀であるといわれ
ている。つまり宇佐の土地は大神らによつて占拠され、仏教の拠点が出来たということです。
欽明の国譲り平定の軍勢として出雲の渡来氏族たちが使われました。
その一環として九州全体に大神ら(のような)出雲族が来ているのです。
これより以前、継体の勅(継体と大伴氏との密約)によつて九州以西を統治していた大伴
王朝(九州王朝)を、欽明が倒しにかかったのは532〜533年のことです。
この戦いは紀の中で「磐井の乱」の一部として描かれているが、もちろん五世紀後半の
筑紫国造の戦いと合併されて紀の中に書かれているのはいうまでもない。
(紀と記を見比べて読むとそれが良く分かります。)
欽明はこの戦争に勝つために、大伴の勢力下にあつた百済に働きかけ、密使を送り
さまざまな条件を提示して傘下に取り込みました。
伽那を百済に分譲すると約束したのは欽明だった。
百済は大伴氏を裏切り、欽明に寝返ります。百済閨閥の発生はこのときから。
半島に派遣していた軍勢を失った大伴王朝は、ついに力尽き滅亡するのでした。
大伴氏本拠地の熊本は高句麗氏族の日置氏によつて占拠されました。
ハングル名の古墳が存在するのです。(出雲族はこの他にも九州全域に存在
しています。彩色壁画古墳が九州全域にありますが北方文化の壁画古墳との類似が
指摘されるのでした。)
大伴一族の宇佐氏が勢力を失い、大神氏のもとで暮らすようになるのはこんな
事情があつたのです。
大和政権の官製の紀・記に対して、宇佐国造の末裔が違う伝承を伝えたのも
分かる気がする。
「自分たちが倭人の仏教国家を九州に作っていた」ということを伝えたいと思ったの
かも知れないが、伝えられた伝承は何の裏づけもない形になりました。
なにかもつと他のことがあるのではと考えるのですが・・・・
倭人 Z
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From 倭人Z No.13
伝承と歴史。
関東にも伝承がありますが、歴史と合致していることが多い。
例えば大和武尊の東方征伐伝承である。
東京湾にある走水神社は、流れ着いた弟橘姫命の櫛をご神体としているし、走水の
部落には武尊を船で対岸の木更津に御運びしたという氏族が住んでいる。
明治政府の要人と一緒に撮ったという写真も残っているほどである。(これはどうかな)
北陸や新潟などの神社に残る伝承は「大国主神がこの地を平定された」ということや
「火明命に随伴する物部」の姿を示して歴史のひとこまを教えてくれるようです。
また、そうした伝承は遺跡や遺物に合致しているように思います。
(関東に付いて言えば)大和武尊に従った人々は伊勢・尾張それに近江の軍勢でした。
在地の弥生土器に取って代わり、伊勢を起源とする土器の進出がいわれている。
このことから考えて、征服者の伝承は歴史に合うのだろう。
被征服者の伝承がもしあるとすれば、それは歴史とかけ離れたものになるのでは
ないかなという気がしてきました。
関東や北陸、信州は被征服者ではなかつたといえる。
国譲りに協力して諏訪神社では四本柱に囲まれる治外法権の地を獲得したし、
大祝に就任するときは即位式を行うというから一国としての体面を許されたものである。
その点、九州は違っていた。ここは欽明によつつて征服されたのだつた。
ほかの地域とは事情が違っている。
(九州王朝の王の)大伴 磐や(半島にいた)大伴狭手彦は殺された。
奥方の大伴狛夫人と狭手彦の女は尼となつて亡くなった人々の供養をした。
紀は後世に移しているけれど尼となった時期は欽明紀であるのは明かかな
ことでしょう。
宇佐氏が歴史と異なった伝承を残したのは、祭祀権を出雲族に奪われたという
事情があつたのではないか。
不遇時代の宇佐氏の伝承である。
そんな伝承が残り、世に出たのは大神氏のミスに乗じて祭祀権を奪い返したこと
にある。普通被征服者のの伝承というのは残らないものであろう。
たとえ残っていてもそれが歴史と合っているかというと合わないことが多い。
別のストリーを考えるからである。
宇佐家伝承についての雑感でした。
倭人 Z
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紀・記基本構想を作ったのは天武以降だという人達にたいして古事記序文偽書説を出しました。
From 倭人 Z No.14
古事記序文は偽書なのか?
古事記には太安麻呂の上表文(いわゆる序文)が付けられていました。
この序は唐の学者が書いた「進・五経正義」という文章を手本として書かれた
漢文といわれている。
問題はこの序が後世に付会された偽書ではないかという指摘がされている
ことです。
最初に言い出したのは、江戸時代の国学者加茂真淵さんらしいですが
今日の学者に至るまで議論が続けられている。
私の結論としては、かなりというか片足は完全に偽書説に踏み入れています。
もう一方の足を入れないのは誰が何の為に書き加えたかという点が解明されない
からである。だから片足を残しているのです。
書かれている文章を見ると疑問に思う点が多々ある。
1、天武十年の史編纂開始には筆を執って記録したとあるのに、ここでは舎人稗田
阿礼に暗誦させたと書かれているのはなぜか?
2、元明が和銅四年九月に安麻呂に勅し「録して献上せよ。」といわれ、和銅五年
正月に献上している。 僅か四ヶ月で史書が出来あがるはずがない。
しかも、続日本紀に献上の記事がない。(書紀はある)
歴史書編纂に付いては複数の編者を指定するのに、古事記に関しては安麻呂
一人である。 あやしい。
3、古事記序文に天武天皇の関与を謳っているけれど本当なのか?
後世から紀を見て、天武十年の紀編纂に適合させたのではないか。
稗田阿礼に暗誦させたのは天智ではないのか?
高天原思想がすでに古事記には書かれている。天武以前にその思想が
出来ていたことを思えば、この序は後世の付会であろうと思います。
古事記は稗田阿礼の暗誦を記録したものかもしれない。
そのような史実があつたのだろう。だから序には書いたがそれが天武紀の
出来事であつたのか? 私は違うように思いますよ。
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続けて「高天原思想」に入ります。
From 倭人 Z No.15
紀・記基本構想・高天原思想について。
紀に出てくる個別の条文中の高天原・天照と基本構想の高天原思想とは違うものに
感じています。
条文の中では個別の場面々々によつて、高天原・天照は異なった場所・人物を示して
いました。
例えばスサノオが追放される高天原です。この場所は海を隔てた海外の場所に
あつた。
スサノオが「この国を奪うようなことはしない」と天照に誓いを立てた場所は倭国の都
があつた大和であり、この人物天照は倭国の大王であつた可能性が高い。
なんとなれば、出雲で大蛇を退治して得た宝剣は「私すべきでない」と大神(天照大神)
に献上したという。
その宝剣が大王家の3種の神器になつていることを思うとき、この場合の高天原の
位置は列島だとする。
天岩屋物語の天照は、神功皇后の産屋を想定しているが、この場所は半島南部で
あろう。
この挿話に続くのが天神本紀の記述で、そこには五部の伴造が二十五部の物部たち
を引き連れて、兵杖を掲げて「天駆ける神兵」となつて海を渡ってきたと書いている。
神功皇后・応神大王のご帰還であり、半島(在住の倭国籍)豪族も率いてこられた。
基本構想の高天原はこれらの個別の条項とは異なり、紀に流れる底流のようなもの
すなわち「思想」と呼んではつきりと別けておきたい。
【高天原はすべてが日の光をうけ、整然として清らかである。
中っ国(列島)を見下ろせば、騒然としている様はたとえようがない。
「蝿のようにこうるさい邪神のいる」「草も木も霊をもち、人を脅かす場所】
というのである。したがって討ち従えるべき国といつている。
(ここには祖先代々倭国に生まれ育った人々の「吾が山河」という発想がない。
かの地からこの地に降りて、日本という国を設立する人の思想が入っている。)
それではここに出てくる「思想の高天原」はどこにあるのだろうか?
新井白石は天原(アマノハラ)に付会された「高」に着目して「多珂」であろうといい、
その後の方も高句麗を指摘する人は多い。
私は少し違うな!という感じでそんなに差異はないかもしれないが、「扶余」を揚げたい
と思います。
続日本紀 延暦九年桓武の母・和{やまと}新笠(百済武寧王系の末}死去に伴い、
帝は皇太后の尊称を追贈した。
「百済の遠祖の都慕王(朱蒙)は河伯の娘が太陽の精に感応して生んだ。
皇太后はその末裔である。それで天高知日之子姫尊とおくりなを奉つた。」
(宇治谷孟現代語訳より。)
ここに出てくる「天高」が「高天」に相当するのだろう。
知は治めるという意味である。つまり天高を治める人物は日の御子であり、それは
扶余国の朱蒙であつた。
百済の遠祖の国でも有る。
いままで、天智の紀基本構想を強く主張してきたのは、百済の血を受け継いだ
天智の思想が百済思想であったということを印象つけたいと思ったからです。
「こうるさい邪神のいる」「連日連夜火災の起きた」大和から大津に遷都されたとき
はつきりと倭国と決別したのだった。
日本という国を作り、歴史の先頭に掲げ(倭国史を改変したのは)百済の血を引く
百済閨閥系の天智だったのではないですか。
高天原思想は百済の先、扶余思想だつたと思うのです。
倭人 Z
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From 倭人 Z No.16
天照は倭国女王。
天照は高天原を治めると紀には書いていますが、海原との対象なのでしょう。
海原すなわち海外と考えると、この場面の高天原は国内すなわち列島なのです。
スサノオが海外の場所から追放されるときには、天照は出てきません。
弟が追放されるという重要な場面になぜ立ち会わないのですか。海外にいなかつた
からなのです。
天照がいたのは列島であつて、倭国の大王または女神だつたのではないですか。
スサノオと兄弟というのも、倭国史と日本紀とを一緒にするための接続部分だと考えると
分かりが早い。こんな接続部分は紀には多いと思います。
倭国史を否定し「日本」を歴史の先頭に置いた人物は、五世紀後半から始まる
「原日本国」に複帰しました。
原日本国は出雲に発生した国だつた。だから大国主神は国ッ神になつたのです。
大国主が渡来人の子であつても国ッ神になるのは、七世紀の日本がその地に復活した
からではありませんか。
天照は卑弥呼であるという人も居ます。面白い説だと思います。
ハツクニシラス大王の崇神紀以前の倭国史にはきつといろいろな物語が存在したに
違い有りません。それを日本紀にするために取り払い、出雲神話と神武朝八代を
入れました。
取り払われた物語は崇神紀や景行紀の征服話としてばらばらに後世に移されました。
天照の話もきつとあつたに違い有りません。それは倭国史の中にあつたのでした。
倭人 Z
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